第 二 章 消えぬ想いがある故に

第五話 堕ちるは瞬く間の如く

 昇る朝日、障子の隙間から差し込む光が僕の目覚めを促す。死を覚悟したあの少年との戦いから僕の知り合いの医師に救われ何日目にこの目を覆う瞼を開こうとしたのかも判らないし、そもそも、その少年との死闘の記憶すら目を覚まそうとしている僕には存在していなかった。

 八神皇女さんと峰野主任、志波さん達にこの命を救われたとは、今僕の胸中で鼓動を立てている心臓が詩乃さんの物であるなどとどうして知り得ようか。もしも、僕がその事を知っていれば、これから進む道を踏み外す事はなかった筈なのに、彼女が分け与えてくれた命と一緒に彼女の望んだ高みを目指せたかもしれないのに何故、誰もその真実を教えてくれなかったのだろう。妹の華月でさえも・・・。


 隙間から射す陽光の刺激が強かったから僕は左腕を顔の乗せ射す光を軽減させました。

 小さな呻き声を出してから、腕を退かし、瞼をはっきりと開け、天井を見ようとしました。しかし、僕の視覚が認識したのは天井の板ではなく、妹、華月の僕を覗きこむ様な表情。そして、僕が目を覚ました事に何故かにっこりする華月でした。

「おはようにございます。お兄様」

 僕が何日も目覚めない事を心配して下さった事を、今日まで看病してくれた事を少しも感じさせない声と仕草。

「ここは男の寝室ですよ、仮令に華月と僕が兄弟でも淑女が妄りに敷居を跨いてよい場所ではないです」

「お兄様、そのような言葉よりも、まずは私、華月は挨拶をしたのですから、それにこたえますのが礼儀というものではなくて?」

「うっ、おっ、おはよう華月・・・」

 僕が挨拶を戻すと、妹は淑やかに微笑む。

「わたくし、朝食のご用意をいたしますので、お兄様もお着替えになられましたら食乃間(しょくのま)へお越しください」

 家に居る時は洋服よりも和服を好んで着る華月はその和服の左の袖底を右手で掴み、襖の引き手に左手を添え、横にずらして、僕に向き直ると一礼してそれを閉じました。

 家に居る時くらい僕も和服にしようと思いそれを箪笥から取り出した。でも、下着は洋式のまま。

 洗面所で顔と歯を磨き、あまり伸びない髭を剃り、それが終わると食の間へ移動しました。食の間と言うよりも食堂と言い換えた方が良いのかもしれません。食卓は足の長い椅子を遣わなければならないものでしたから。

 その食卓の上には殆どの料理が出揃っていました・・・、ただ、せっかく和服にしてきたのに、食饌(しょくせん)はどれもが洋風の物ばかり、最後に出来た物をお盆に載せ、振り替える華月は僕の表情を見て、

「どのような理由で、そのようなお顔をするのでしょう、お兄様?せっかく、華月がおつくりしてさし上げましたものですのに、お酷いですわ」

「僕は作ってくださいとお願いした覚えはありませんが」

「お兄様は本当に意地悪なお方なのですから・・・、さあ、冷めないうちお召し上がりください」

 華月は座って、手を合わせた後、僕よりも先に箸を付け始めました。僕も手を合わせ、妹の方を見て、

「頂かせてもらいます」と言うと口に箸を付けたまま、にっこりとほほ笑んでいました。

 僕はバター・ナイフを手に取り、マーガリンを出来たての食パンへ塗り、それを角から食べ始めました。ブロック・ベーコンの長細切りと玉葱とピーマン炒め、蓮切りの蕃茄と胡瓜の千切り、綺麗な琥珀色のコンソメ・スープには油で揚げたパンとパセリのみじん切りが浮いていました。

 華月はパンをかじり始めた頃から、その動きが止まり、僕の方を見ていました。それに気がついた僕は、

「どうかしましたか、華月?」

「だって、お兄様、何も言ってくださらないのですもの」

「どうして、僕が妹の華月に、華月が言って欲しい言葉を口にしなければならないのでしょうか?そのような言葉が聴きたいのであれば、華月の事を好いてくれるであろう男に言わせればいいでしょう。僕が妹を褒めないといけない理由はないですよ」

「期待したわたくしが、おばかでしたようですね」と言い小さく拗ねた顔をする妹を無視して、僕は食事を続け、妹よりも早く食べ終えると、食器を重ね台所へ運びました。僕がどんなに嫌味を言っても妹は後片付けもしてくれるだろうと思い流しに浸けるだけで、手に着いた水気を払うと自室へ戻りました。

 僕は敷いたままの布団の上に寝転がり、天井を眺め、何故、目を覚ました時にここに居たのか、何時僕が倒れたのかを記憶から呼び覚まそうとしました。そして、僕が思い出せるのは九十九体目の化生を討ち終わった後、松の木の下で休もうとした処まで、でした。

「ふぅ、何も思い出せないな・・・。さて、だらけていてもしょうがない。人外魔性退治へ出かけましょう。あれらは僕が行動する事など待ってくれませんしね」

 僕はそう呟き身を起こすと外気を部屋に入れようと硝子戸をあけました。とその時、数回遠くから、鈴の音が聞こえ、地面をけって僕の部屋に入って来る影がありました。

「なぁ~」

「音夢でしたか?」

 手で僕の方へ来るように招くと音夢は駈け出し、僕へ飛びつき、顔をなめられました。

 シンガポールへ戻る事が出来ないと判ってから、彼女をこっちに送っていただいたのです。

「どうした、そんなに、僕に頬擦りして・・・」

 音夢も僕が眠ったままで心配してくれたのだろうけど、その事実を知らない僕はただ、何時もより多くじゃれてくれているのだと思っていました。

 化生の退治に行こうとするのを忘れ、暫らく音夢と戯れてしまい、妹が僕の部屋に訪れた時にそれを思い出す。

「お兄様、入らせて頂きます」と言って、僕が了解を出す前に妹は部屋に上がってきました。襖を閉め、その前の畳へ正座する華月。

「お兄様にお話があります」

「どのような事でしょう?」

「太陽お兄様に破魔師のお仕事はお似合いしません。その勤め、華月が受け継ぎとう御座います」

「はっ、何を言うかと思えば・・・。華月、母上から聞かなかったのでしょうか?華月には継承できないものだと」

 僕の言いに妹は顔を横へ振り、

「それは違います。お兄様こそ、ちゃんとお聞きになったのでしょうか?お母様から、ではなく、同性からは継承できないという事です。今、その破魔の力を智鶴お母様から受け継ぎましたのは私にとって異性になります太陽お兄様です。なら、破魔の力をお兄様からお譲りしる事は可能なのです。それに、わたくしは太陽お兄様と違いまして、破魔師としての修練を積み、お母様の補佐を続けてきたのです。お兄様よりもずっと、ずっとうまくやっていけます」

「饒舌ですね華月。ですが、僕はあのような事、人外魔性の討伐など今はたった一人の肉親の華月にさせたいなどと思う訳ないですよ」

 華月は膝の辺りの生地を握ると、

「わたくしとて、太陽お兄様に危険な事などさせたくありませんっ!」

「一体どうしたというのです、華月?」

「おっ、お兄様は知らなくてよい事です。ですが、破魔のお力、華月にお譲りください」

「出来ません。我儘を言わないでください」

「我が儘をお言いになっていますのはお兄様も一緒です。音夢ちゃんからもお兄様に何か言ってあげてください」

 華月の言葉にこたえる様に音夢が数回啼く。

「判りました。なら一度だけ、華月に力を譲りましょう。ただし、華月が大きな怪我でもするような事態が発生したのなら返していただきます」

 僕はそう言って、妹へ手を差し出した。僕の手のひらを両手で握る妹のしなやかなそれへ意識を集中させました。

「えっ、えいっ、やぁっ・・・???」

 僕が必死な顔になって妹へ力を送ろうとしているのにもかかわらず、華月は可笑しそうに笑っていました。

「なぜ、笑うのです、華月っ!」

「だって、太陽お兄様ったらおかしいのですもの・・・。お母様から確り継承の仕方をお聞きになりました?」

 華月の言いに失態を感じた僕は妹と握っていない手で顔を押さえてしまっていました。

「出来ない事を知っていていったのですか、華月」

「出来ない事はありませんわ、本来、お母様が行った方法こそ本道ではないのですから。あれは親が子へ継承させるときのみ出来る事なのです。男女間の場合では・・・、はっ、肌を重ねる事です」

「そっ、そんなこと、妹の華月とでぇええっ、出来る訳がありません。倫理に反します」

「それは今時に適った理ではなくて?古き時代には兄妹、姉弟での破魔の継承があったと聞いております。わっ、わたくしは太陽お兄様と、こっ、媾合する事をはっ、はじてはおりません。むっ・・・、・・・、むしろ・・・」

 何故、そのような事を華月は言うのでしょう?僕には妹の心の内を見通す事は出来ません。華月には高校時からお付き合いしていた方がいたはず。その方と今もそうしていると思うのですが、華月はその男性に対して不義な事をしようとしているのです。

 表層ではどなたとも社交的ですが、何時からか、華月は僕以外の男性を疎ましく思い、男性が華月に掛ける言葉を信用しなくなっていたという事を知らないのです。なぜそうなってしまったのかの理由を。

「異議ありっ!です。今の華月の言葉の何処に恥じらいがないというのでしょう。近親相姦などもってのほかっ!僕は認めませんよっ!バカバカしいです。華月、僕は化生狩りに出かけます。そこをどいてください」

 いつの間にか放していた手。華月は立ち上がり、僕の方へ倒れ込んで来る。僕はそれを撥ね退ける事は出来ませんでした。

 倒れないように抱きとめてしまったのでした。そして、そのまま、僕は華月に抑えつけられるような態勢になってしまいます。

「いっ、いい加減にしてください、華月っ!・・・??」

 流石にこれ以上、妹に構っている訳にはいかないと思いまして、華月を除け様と腕に力を入れたのですが・・・、・・・、・・・、何度そうしても腕も、足も動きませんでした。

「かっ、華月、貴女、先ほどの朝食に何かっ!」

「あら、今頃お気づきになられたのですか、お兄様、お兄様も危機管理がなっておりませんわ、クス。それは破魔師をお継ぎになるなど、非常に不釣り合いにございます。フフッ、古き血の系譜。ご先祖様たちはわたくし達に多くの術と知識をお残しになられました。秘薬学もその一つにございます。今、太陽お兄様に効いておりますお薬はお兄様の体の緊張を解し、体調の回復を早めまして、傷を癒します自然回復力を高める事が出来るものです。消して、お兄様のお体に害をなすものではありませんわ。それに・・・」

 華月の恍惚とした目が僕を見降ろし、その距離が狭まってきます。妹の柔らかい呼吸が僕の鼻を撫でるところまで妹の顔は近づいていました。

 華月は僕の顔に垂れます彼女の長い髪を左手で掻き揚げるのと同じ頃に僕の唇と妹のそれが重なってしまいました。妹の舌の侵攻を停められず、僕は瞳を強く閉じ、

『詩乃さん、ごめんなさい』と妹の行いに逆らえない自分を自嘲しつつ、遠く離れてもまだ僕の心の中に居続けるその人へ謝ってしまいました。

 太陽にはなく、華月にはある兄の心の内を読む力は太陽の中に彼女以外の女がいる事を知られてしまう。華月はその事が癪に障ったようで兄を少しだけ嗜虐してしまいたい気持ちに駆られてしまうが、それを押しとどめ、努めて淑やかに兄に触れていた。

「くすっ、太陽お兄様、お兄様は華月と肌を重ねたくないと申しますのに、ここは正直にございますね・・・」

 妹は酔いしれた表情で僕の局部を軽く握り、舌を伸ばしていました。心から僕は妹と番う事を拒むのに本能はそれを受け入れてはくれず、自身の存在を誇る様に膨張し、聳え立ってしまっていました。それから先、僕は妹に逆らう事も出来ずに一つにつながってしまう。華月の僕を犯す動きは止まらずに僕は暴発寸前、

「かっ、かづき、こっ、これ以上は駄目です。僕達は兄妹なのですよ・・・、だっ、だから、これいじょうは」

 快楽に恍惚した表情ではありますが妹の意識は確りとしているようで、

「大丈夫です、お兄様。華月の中に、華月の中にいっぱい出してくださってもなにも問題ありませんのよ。避妊のお薬はちゃんと飲んでおりますから」

 すがるように僕の体に手を回す妹。華月の腰の動きは更に加速し、僕の我慢の限界が訪れてしまう。意識しても、止められない僕の白濁流。僕のそれを受け入れた妹は体を数回、痙攣させたのち激痛で身もだえし始めました。

 僕が母から力を継承した時も我慢しがたい痛みが続きましたが、妹の今受けている苦しみはそれ以上に見えます。頭を掻きむしり苦悶の表情を浮かべる妹を何時の間にか体の自由が利くようになっていた僕は僕の意を無視して行った事。その罰で受ける苦しみだと判っていても、華月の頭を僕の胸の方へ抱き寄せ痛みが引く様な言術を囁き続けてしまっていました。

 何時しか、妹の震えは止まり、表情も穏やかになる。そして、僕は完全に破魔の力を奪われ、ごく一般人に戻ってしまいました。

「太陽お兄様、有難うございます。もう大丈夫にございます。そのように華月に優しいお兄様、好きですわ」

「くっ、こんな事をしなければ力を受け継ぐ事が出来ないなんて・・・、もう僕は華月から破魔の力を返してもらえないではないですか・・・」

「わたくしはまたお兄様と出来るなら何時でもお返ししてもよろしくてよ」

「うぅうぅっ、僕がそうしない事を判っていて謀ったくせに・・・」

「そのような事ありませんのに、クスッ」

「いいから、もう服を着なさい・・・」

 事を終え、目のやり場に困った僕は手で顔を隠し、下半身を今まで二人が寝ていた布団のわきに転がる掛布で覆い隠した。僕のそんな姿を笑いながら立ち上がる妹。その時、彼女の陰唇から内股を伝って垂れる白い物を見て、

「あら、もったいないお兄様の大事なお命」と妹は言うと二本指でそれを拭い、舌を出して艶容な笑みで嘗めていた。その光景を指の隙間から見た時に覆っていた手の中指と親指で強く両方の蟀谷を押さえつけ自虐しました。

 華月は打ち掛ける様に和服を羽織ると僕の部屋から陽気に出て行く。それから暫らくして、丈の短めのスカートとその対のブレザー姿、長く流していた髪をポニー・テールにし、僕の処へ戻って来たのです。

 もう、済んでしまった事を後悔しても仕方がないと、無理やり自身へ言い聞かせ、

「武具はどうします、華月?」と冷静ではいられるはずもないですが、妹に押し切られた自分が情けなくて何かを言葉に出さずには居られませんでした。

「お兄様のお拵えになりました大太刀は私には長すぎまして、扱いにくいと思います。ですから、お母様のお使いになられていました薄翡翠(かわせみ)を遣わせて頂こうと思っています」

「むっ、無理はしないでください」

「はいっ、先ほどもわたくしが申した通り、お兄様のご期待に添えますよう、お兄様よりも上手く立ち回って見せますわ」

「はぁ、華月にそう言わせてしまう僕は情けない男ですね・・・」

「わたくしの大好きな太陽お兄様ですもの、そのような事は御座いません・・・。では、行ってまいります。お兄様はまた、医学の道をお続けになってくださいませ。私が怪我を負ってしまった時の為に」

 華月は頬笑み、母屋から出て行きました。その後ろ姿を色事の間、姿を隠していました音夢が見送る様に啼きました。

 妹華月が、僕に代わって破魔の執行者になり、数か月。僕は出張医という肩書で、妹の破魔を執行する土地へ共について回っていました。

 それは本当に偶然でした。僕はアダム技術を受けた一人の少女に出会う。その娘の名は隼瀬香澄。水泳教室で腕を怪我してしまったとのことで僕が短期で勤務する事になった町の小さな個人病院へ訪れたのがその隼瀬香澄でした。

 当初、僕は彼女がアダム手術の第壱号被献体である事に気が付きませんでした。その少女が通院している間、彼女の担当でした僕はある時、気がついたのです、アダム手術を受けた者が持つ特徴の一部がその少女に表れている事をです。

 頭の中で少女の名と以前、志波さんが口にしていた被献体、第壱号の名前とその素性を・・・。第壱号被献体、隼瀬香澄。出生時より、両眼角膜裂傷の為、視覚障害を運命づけられた女児。しかし、隼瀬という名の家柄はアダム・アームの研究を取り仕切る藤原美鈴さん・・・、美鈴さん、ではなく藤原家と強い繋がりを持っている家系でした。美鈴さんの研究に掛ける情熱と詩乃さんの優しさがその少女へ世界を見る目を与えたのでした。

 僕の診断を受けている時の彼女。その眼に不自由はない。彼女は治療を受けている際も生き生きとした笑顔で僕の仕事を見ていました。

 自由に広がる世界を見る事の出来る少女。その少女は詩乃さんのお陰で今このように生きる事が出来ると言うのに、彼女はその事実を知らないし、詩乃さんの事も知らない。

 方や詩乃さんは狭い棺の中に押し込められ、その自由を奪われ、研究者達の好きなようにいじられ、誰にも感謝されていないのだろう事を想像してしまうと僕の心の中は急にどす黒い重油が満ちて行く様な悪寒を感じてしまう。でも、それを僕は顔に出さないように我慢し、

「隼瀬さん、今日で治療も終わりました。よく頑張りましたね・・・」と小さく笑い口にしました。

「先生、有難うございました。よぉ~~~、しっ、また今日から水泳頑張れるぞっ!しおりんになんかまけるもんか」

 その少女は笑顔と意気込みを示した顔を作り、僕へ向けていました。その純粋で俗世間の垢にまみれていない澄んだ笑顔が余計に僕に苛立ちを覚えさせてしまうのはなぜでしょう・・・。

 それから、また数カ月。華月とまた別の土地へ訪問している際に一つの情報が僕の元へ届いたのです。それは詩乃さんが無期限であの培養槽の中に閉じ込められるという事をしりました。僕の中の詩乃さんを想う気持ちが疼く。その疼きは快楽ではなく不快な物でした。僕の中に渦巻く邪を払いたくて、今いる土地の通りがけで見つけました神社に足を運んでいました。そして、僕はその場所で思いがけない言葉をそこの巫女から言われてしまう。それは僕を闇に堕ちる切っ掛けを生む言葉だったのです。

 僕が詩乃さんの無事と妹が無茶しない事を祈り、境内の階段を降りかけた時です。境内を掃除していたのでしょうか、箒をもったこの神社の巫女が僕の方へ歩み寄り、数歩離れた処で立ち止ると僕の顔を見上げました。そして、何故かその人の視線でまっすぐな方向に視線を戻すと目を閉じ、

「貴方の奥底に潜む禍心。それは貴方を不幸にします。その思いを断ち切りなさい。貴方は今を生きる人、もう戻らない者の事を何時までも貴方の中に住まわせる事は貴方の為になりません」と僕へ語りかけていました。

 その巫女はそれだけを僕に告げると、ここには彼女以外誰も居ないかのような態度で行ってしまいました。

 その巫女の言う『戻らない者』とは詩乃さんの事ですか?詩乃さんは死んでしまった方でも過去の方でもない。今も生きているのです。その彼女を忘れろと?詩乃さんを好きでいる事を忘れろと言うのですか?出来る訳がありません。

 なら、何故、彼女があのような棺に閉じ込められなければならないのです?その方がおかしいではありませんか。胸の内に狂おしさが込みあがってきてしまう。

 地方での華月の破魔師としての仕事も終り、僕が拠点としていました街の出張医の仕事も終り、妹一緒に駿河の自宅へ帰省しました。

 本家といっても今では僕と華月しかいません。父は祖父の九男で、僕の伯父に当たる方々は皆、先の大戦で命を落としてしまわれ、僕が生まれる前に二人の双子兄がいましたが、難病の為、僕が生まれる数日前に他界してしまわれました。

「しかし、僕等二人には大きすぎる家ですね・・・」

「それではここをお引き払いいたしましょうか、太陽お兄様?」

「そうですね、僕等の家は昔から同じ場所にずっと在り続ける事はなかったのですから、ここに留まらなければならない理由はありませんね。華月は何処へ、移りたいのでしょうか?」

「東京にございます。あの地はどうしてでしょうか、他の地よりも、人が多く住まう都。その生に惹かれあやかしが集まりやすいようで・・・。わたくし達と同じお仕事を生業とします方々も多いので何かと利便もよいでしょうから・・・」

 僕は妹に同意して、上京の準備、住まいの手配と引っ越しの依頼を業者へ連絡させていただきました。

 移動が終わるまで、駿河の個人病院のお手伝いをする傍ら、以前お会いした神社の巫女について調べていたのですが・・・、藤原洸大殿の次女の藤原麟さんだったのです。現在は先の神社の家柄、瀬能家へ嫁いでいますので瀬能麟さんのようです。直接の面識はありません。それなのに何故、あのような事を僕に告げたのでしょうか?僕が詩乃さんを好きなままでいる事の何が悪いのでしょう。そう思うと麟さんの言葉に腹立ちを強く覚えてしまう。そんな事を言葉にしたその人を許せなくて・・・。

 瀬能麟さんは神託の巫女として有名な方の様で、各地方の自称偉人に呼ばれては卜占・託宣を行っていたようです。僕はそこへ目を付け、ある事を画策してしまいました。それは・・・、


計画の発端・藤原麟の言葉


 1990年4月1日、月曜日、一〇時一〇分発福岡行きの旅客機が飛び立つ約一時間前の機体の点検中。

「整備長、お電話です。内線・・・、です」

 整備中の旅客機の周りは空圧式の工具の回転音やその他の雑音でごった返しだった。整備長はタービンの最後のネジを閉めようとした時に誰かにそう呼ばれたので、残りを終わらせてから電話に出ればよかったのだろうが、途中まで閉めた状態で彼は道具を置き、電話の処まで来ると受話器を取り、内線番号を押す。しかし、彼の耳に聞こえたのは雑音ばかりだった。訝しげな表情を作りながら、受話器を置くと、

「おっし、お前ら、持ち場は終わったな?撤収っ!」と言ってしまい彼が最後までやらなければならない事も終わった事にして、解散してしまった。そのたった一本のネジの緩みが後の大事故につながるとも知らずに・・・。

 源太陽は大学時からずっと行動心理学を専攻の一つとしていた。外科としての腕前も然る事乍ら、催眠治療も得意としていた。彼はその知識を利用して旅客機の整備士の誰かが電話に出た時に、その相手が行っていた電話に対応するまでの作業を完了した事にする様な雑音暗示を施したのだ。まずは最初に出た整備士がそれにかかり、次にどうしてか整備長を呼んでしまった為に、二人もその暗示にかかってしまう。

 人は暗示によって、他人を殺す事は出来ない。それは証明された事実。だが、暗示する行為そのものが人を殺すものでないならいくらでも示唆できる。暗示でなくとも日常の例を上げるならば、乗車中、進行方向に人がいるのに誰かが誰も居ないんだからもっと速度上げろと言われても運転手はそんな事をしない。なぜなら、運転手にも人が道を横切ろうとしているのに速度を上げれば轢いてしまうと認識するからだ。だが、運転手に歩行者は見えず、他の席に座っていた者には見えて、その歩行者が殺してしまいたいと思う相手で、同じ様に誰もいなんだから速度を上げろと言われたら、それに応える人もいるだろう。結果、飛び出してきた歩行者を撥ねて怪我を負わせてしまうか運が悪ければ死んでしまうだろう。言い方は妙であるがそのような認識の違いで人は人を殺せてしまう。そのような心理作用を巧みに操れば人を自殺に追い込むことも可能。

 その心理作用を利用した結果、その未完整備の旅客機に登場する事になった瀬能夫妻は運悪く命を落としてしまう事になった。その時、太陽はその夫婦以外巻き込まれない様、その日の搭乗者がそれに乗らぬよう図ってもいた。だが、搭乗者全員を未載にはできず、半数くらいは乗ってしまった。だが、死者はその二人だけだった。

 彼は言う・・・、

「ふっ、瀬能夫妻はよくよく運の悪い方ですね・・・、それが今までの行いによる物なら、仕方がないのでしょね。そもそも、あのような事を僕に言うこと自身間違いなのです」と報道番組に航空機事故が流れた時に呟いた。


 言い逃れではありません、僕は瀬能夫妻を殺すつもりはなかった。僕は瀬能麟さんへしっかり警告しました。命が惜しければ福岡に行かない事ですと。でも、彼女は僕の言葉を無視して、他の交通手段を使えば回避できたものを予定通りの空路で九州へ向かおうとしたからそのような結果になったのですよ・・・。

 僕は自分の手を染めた訳じゃない。だから、罪の意識が薄すぎるのでしょう。罪悪感が僕の心を満たす事はありませんでした。

 それから一月、夫妻には四人の御子さんがいらしたようで、藤原洸大殿がその四人を親族として養いたいと瀬能老夫婦に言って来たそうだ。瀬能家も神社の跡取りが必要なようで、孫達の親権を譲るつもりがありませんでした。民事による親権争い。相手は強い権力をもつ者、瀬能老夫婦には分が悪すぎます。で、僕は裏から手を回し、洸大殿へ親権が渡らない様に計らいました。洸大殿に恨みは全くありません。逆に感謝しなくてはならない人ですが・・・、それでもあの研究所が稼働し続けるのは洸大殿が支援しているからこそで・・・。

 瀬能夫妻が僕の策略でこの世を去った事に良心の呵責が芽生えなかった事は僕の次の強行を促してしまう。ただ、詩乃さんを檻に閉じ込めておく方々に罰を与えているだけです・・・。僕は僕の手で直接生殺を実行している訳ではありません。生きるも、死ぬも、その個人の運次第。

 僕は大切なものを、大事なものたちを同時に奪われた。だから、僕には見向きもしてくださらない神に代わって罰を与えるのです、あの計画に連なる者達へ。海洋の様に深い蒼に染まったあの棺の中に彼女が存在するまでは、僕のこの命が尽きるまでは、果て無き怨恨のワルツを彼の者達に踊っていただきましょう。だがしかし、これは本当に僕の本意なのだろうか?


アダムに連なる者へ1・産技研事件の真相


 1990年7月22日、日曜日、東京の個人病院で短期契約の精神科医をしていた時の患者を僕は利用して藤原美鈴さん達、アダム・アーム関係者が多数在籍する産業技術研究所、略して産技研の三戸支部。詩乃さんの事に対する無言の警告としてその研究所の機能麻痺を実行しました。

 僕が受け持った患者は暗示を掛け易い方でしたので事を進めるのに滞りは起きませんでした。

 内容は簡単です。僕の診療を受けていた方は産技研の研究で取り扱う液化気体を卸す業者へ勤めている方でした。僕が精神疾患の治療をして三カ月後に入社した会社が新日本液化気体株式会社という処でそこへ入社後も度々、僕の処へ訪れ、近状報告をしてくれていました。そして、美鈴さん達が働いている研究所へ出入りしているようだと知ったのです。

 僕は決行日に彼に暗示を掛け、何時も通りの仕事をしてもらいました。その際、超低温内の液化窒素内でも熱反応する電子機械を知り合いに作製してもらいそれを液化窒素保存槽内へ入れてもらう事でした。その装置はポケット・ベルの指定の番号の受信電波に反応してもらう様に作ってもらった物。それは患者のポケット・ベルに反応して動作します。

 あらかじめ、産技研・三戸支部に勤めていますアダム・アームとは関係ない方々へ『緊急避難訓練、正門守衛所へ待避せよ』とポケット・ベルの表示部にそう出る様に電話機の数字を操作します。

 次に僕の担当した患者が爆風に巻き込まれるのを防ぐ事と装置起動の為に彼の勤める会社から転送でそのポケベルに掛る様に暗示で彼に仕掛けてもらいました。

 その電話へ連絡を入れ、ポケット・ベルに表示される言葉は『至急、研究所の外から会社へ連絡されたし』です。

 遅延型起爆装置はアダムに連なる者達以外と患者を退避させた状態で熱を発します。その熱が気化の比較的緩慢な液化窒素を急激に膨張させてゆきます。気化した時の液体窒素の体積は約六五〇倍。たった一〇〇リッター容器の液化窒素が一瞬で爆発膨張を起こせば密閉されました家一軒を軽く倒壊させます。更にそこには引火性の液化酸素もあり、熱反応と爆風が大きな被害を建物へ生むだろう事は容易に予測できました。

 結果、アダムに関わっていました巫神奈さん・・・、確か、結城将嗣さんと婚姻なさったはずでしたので苗字は替わっていたと思いますがその方が亡くなり、僕の予期せぬ事も含まれていたようです。それは詩乃さんの姉、詩音さんのご息女が一人亡くなったようです。ただ、詩音さんに関してはいい気味だと思います。詩乃さんがあの地に幽閉されているのにも拘らず、何の心配もせずに二人の子供まで儲けてのうのうと悠々と生きているのですから。

 それと美鈴さんの妹でアームの研究に携わっていました美奈さんの二人の子供が瀕死の状態に陥ったとのことでした。だだ、これが原因でまた詩乃さんを母体としたアダム技術が使用されたと知るのは数年後の事です。


アダムに連なる者へ2・平穏を崩す悪夢の種・詩織


 僕は二度、詩乃さんが知ったら悲しむ様な事件を起こしてしまいました。詩乃さんを愛するが故に、その深さが彼女を虐げる者達への憎悪と転換してしまう事で起こしてしまった産技研での惨劇。二度目の事件で僕も流石に心の呵責を感じずには居られませんでした。僕に対して過敏な華月に僕のした事を知られ、妹は相当に嘆いては僕を責め詰る。妹に返す言葉は見つかりません。妹に謝罪したところで僕の犯した事が帳消しになる訳ではないのですから。

 以降、華月の僕への監視の目が強くなり、居心地の悪さを感じた僕は妹に知られない様、妹との距離を取る為に、妹の前からひっそり姿を消しました。

 名前も性格も替え、顔も整形ではなく特殊化粧で以前の僕と判らない様にしました。更に各地をまわったことで気がついた医者としての本文から、医師委託業務及び医療関連で起業する事にした。資本は華月の知らない私の口座があり、それを利用する。僕を変えた名義、源太陽から大河内星名(おおこうち・せいめい)。大河内は何代か前のご先祖が使用していた家名。そして、一人称を僕から私へと移す・・・。

 私が移った場所は新潟県新潟市近郊。

 街々で知り合った現代の医療に不満を持つ方々を集め、初めに行った事業は総合診療所でした。一つの建物内に各診療科を揃え、高額医療機器を共同で使用すると言う形態で運営する。これなら腕があってもそれに見合う医療機器を購入できず思う様に患者を診る事が出来なかった医者も存分に仕事ができる。この形態は事業を始める前に各位に同意を求め、異議なしで話が進んだので誰の心にもシコリは残らなかった。まあ、私はそういう意味でも人柄を見て集めてきた医者なので皆直ぐに打ち解け仲がいい。

 私が医者として勤める立場はここ日本で軽視されがちな精神科医。現代社会において人々は様々な抑圧から見えない心的外傷に苛まされている。それは時として人生を大きく変えてしまうほどの影響力を持ってしまう。それがどのような意味を指しているのか私がここで口にする事はありません。それと外科手術が必要な時の執刀助手や依頼があれば執刀医も行っていた。そして、この総合診療所は特に小児科に力を注いだ。

 一九九〇年のあの事件以来、私はアダム・アーム計画の情報から遠ざかり、それらの関係者に精神苦痛を合わせようなどとの策謀悪に囚われる様な事がなく総合診療所の経営に力を注いでいました。

 しかし、何時も私の心の中には詩乃さんがいる様な気がするのはなぜでしょう・・・。

 それは七年後の一九九七年のある日の事です。藤原美鈴の次男の名前を耳にし、彼女の夫が海外、アメリカで新動力関係の研究をする為に渡米すると言う話を聞きました。私はどうでもいいことだと思いつつも、藤原美鈴や彼女と親しい方々の現状を知っておこうと考え、総合診療所を運営するなかで出会った諜報員の方にお願いして、情報収集をしました。そして、私は何故か嫌な笑顔、唇を釣り上げる様に笑っていた。しかし、自身では気が付きません。私の頭の中で密計の論理が組みあがってゆく。

・・・、・・・、・・・、一体、私は何をやろうと言うのだろう。そのような事をしても詩乃さんが喜ぶはずもないのに・・・、だが、私は僕を停められない・・・。

 一九九七年九月の終わり、藤原夫妻が長男、次男を連れ立ってアメリカにわたり一月後の事。この頃、藤宮詩音には長女彩織の片割れ、双子の次女、詩織と長男の響がいた。その次女は事もあろうに藤原の男子に恋心を持ってしまった。藤原、藤宮、隼瀬、特に上位に当たる藤原家に対して他の二家が、もしくは上家の藤原家の誰かが下家の藤宮、隼瀬家の誰かを見初める事は許されない。それは古より続く許されなき掟。

 だが、藤宮詩織はその掟を破ろうとした。親が子にそれを伝えていないのか、それともその娘はそれを知りつつも好きになるという感情を抑えられなかったのか・・・、まあ、その事はどうでもよいのだが。

 その意中の男子が突然、彼女の前からいなくなり、腑抜けになっているという情報と、まったく藤原家との接点のない田舎成金の自称令嬢、その娘も藤宮家の娘と同じ、藤原の同年代男子に恋心を抱き、常に藤原貴斗のそばに居た藤宮詩織に壮絶な嫉妬を覚え、怨嗟をため込んでいたという情報。この二つの情報と嫉妬する者の激しい思い込みのある性格を心理操作で結べばどのような結果になるのでしょう。

『藤原貴斗は藤宮詩織の所為で日本を出なければならなかった』とたったそれだけの言葉で人はどう変わるのであろうか・・・。私はそれを直接見たくて三戸特別区まで訪れていました・・・、何時から私の心はこれほど賤しくなってしまったのでしょう。

 藤宮詩織に嫉妬する少女をAとする。Aが藤宮詩織に何時行動を起こすのか判りませんでした。だから、私は期限付きでAに『何時何時までに藤宮詩織に罰を与えれば、藤原貴斗が戻って来る』と断定でAが持つPHSへ報せを入れた。公衆電話から掛けたが故、何かの際に発信元を特定されても私が掛けた事までは判らないだろう。

 そして、それは一九九七年十月二十五日の土曜日に起こった。しかし、少女Aは罰の意味を履き違え、私の予想と外れた事をしてしまう。それは行き過ぎた行いだった。

 私はAと藤宮詩織を朝からその動向を伺っていた。藤宮の方は九時半過ぎくらいに友人が訪れ、塞ぎこみがちな彼女を連れ立ち学校へと出かけた。

 部活動、管弦楽クラブらしい。一方は既に三戸駅のロータリーで人を待っていた。十数分後、今では使われなくなった死語チーマー風の男が三人現れ、移動し始める。私がAへ今、何処に藤宮が居るのか伝える事はない。この先、Aと藤宮が今日中に遭遇して、何か起こるかどうかは天から見下ろす者のみぞ知る。

 その双方が対面する連絡を待つ間、ここ、三戸へ訪れた本来の目的を済ませておこうと思った。その用事とはここ一体で一番大きな医療施設、国立済世会病院へ赴き、派遣医の説明に向かう為だった。

 そこの院長は私の知っている者。向こうは名も替え、顔も替えた私が源太陽である事を知らないし、私は九〇年に故人と旧知の間ではそう広まっていた。だが、私の命を救った一人である院長の峰野義之は例外。しかし、それすら知らない私は彼と他人同然、初めて会ったかに契約を進めてゆく。

 峰野義之が望んだ人材は小児科四名と産婦人科二名だった。

「大河内さん、本当にこの額面上の金額で六名も貸していただけるのかね?」

「ええ、問題ありません。低賃金での出向だからと言って手際の悪い医師を送ることもありません。この金額で提示できるのは医療機器連結会社での大きな利益を派遣医師に循環させているからなのですよ。ただ、こちらから送らせて頂く、医師らの正当な評価をしていただきたいので必ず一年はここで勤めさせてください。以降、どのようにされるかは峰野先生のご裁量という事で」

「うむ、ならそれで頼みます・・・、出来れば来月からと言わず小児科の医師を一人でも構わないから誰かよこしてはくれまいかな?本当に人手不足なのだよ、小児科は」

「判りました。出向予定でした者の中から都合のよい医師を早ければ明日後日こちらへ向かわせます」

「処で、看護婦の方の派遣はないのかね?」

「今のところ考えておりません。確かに看護婦も激務ではありますが絶対数では医師よりも多いし新卒を雇う方が人件費は抑えられると思いますが」

「派遣医師を発案した大河内さんの言葉とは思えんよ。わっはっはっははぁ」

「ふぅ、そうゆうことですか・・・、現場に慣れした方が欲しいという事ですね?将来の事を踏まえ考えておきましょう」

 峰野と商談が終わった頃、藤宮とAが接触したとの連絡が入り、

「峰野先生、急な用が入りましたので、失礼かと思いますが、これでご遠慮させて頂きます。では・・・」

 私は連絡があった場所の近くまでタクシーを急がせました。携帯電話で連絡を取り監視をお願いした者と接触し、詳細を聞くと入れ替わる様に現場へと足を運んだ。これは私が現場を見る少し前の彼女、藤宮側の会話である。

「しぃ~~~ちゃん?少しは元気出た?何時までもウツウツしてそんな顔してると、何時も能天気で明るすぎる藤原君が戻って来た時にがっかりしちゃうよ。それに今日のしぃ~~~ちゃんの演奏ったらもぉ~~~、ほぅんとうに酷過ぎ・・・」

「うん、それはわかっています・・・、それに、・・・貴ち・・・ゃん、貴斗君、わたしのことなんて唯の幼馴染としてしか思ってくれていないから・・・」

「そんな事ないと思うよ、私。あの能天気さはしぃ~~~ちゃんに対する気持ちを知られたくなくてそうしているんじゃないのかな?」

「また、そうやっていい加減な事をいうんですから、穹ちゃんは・・・」

 子延穹(ねのび・そら)、親友で幼馴染の隼瀬香澄の次に仲の良い友人は詩織のその言葉に、小さく舌を出して、苦笑いを作る。

「でもこんな時に、カスミんったら、しぃ~~~ちゃんの事ほったらかしなんて薄情だなぁ、ほんと」

「香澄ちゃんは私と違って習い事が多いんだもん、仕方がないよ・・・、それとお家のお手伝いもあるしね・・・」

 そうは言うものの詩織の表情は『仕方がない』とは別の感情を浮かべていた。幼馴染であり、親友であり、同じ人を思慕する恋敵。その思い人を忘れられない詩織とそれを忘れようと必死な香澄。その二人の思いをただ唯一理解するのは子延穹だけだった。

「あっ、そうだ、デル・ソレイユにいこっ。こんな時は甘い物でも食べて嫌なこと忘れちゃえばいいの。今日は何段のアイスにしよっかなぁ?あっ、もちろんしぃ~~~ちゃんのおゴリね」

「いやです、どうして私が」

「もっ、しぃ~~~ちゃん、お金持ちのお嬢さんなんだから少しくらいいじゃない」

「お財布の紐をきつく閉じないと先祖代々からの財を守る事は出来ないの。でも、今、それを守っているのは私じゃないから、たまには、私の事を心配してくれて、気を使ってくれている穹ちゃんですもの、今日くらいは」

「やったぁ、しぃ~~~ちゃんのお財布の紐を初めてといたぞっ、穹すごい!今日は土曜日で学校休みの部活帰りだけど、制服着たままお店に行くのって勇気いるよね」

「穹ちゃんがそんな事をとても気にしている風には見せませんけど。休みの日の部活の後、制服のまま飲食店にはいってはいけませんって校則はないのだから、気にする必要ないよ」

「あれれぇ、優等生のシィ~~~ちゃんの言葉とは思えないな」

「私は優等生なんてしているつもりありません」

「しぃ~~~ちゃん自身がそう思っていなくても周りはみんなそう思っているよ」

 悪戯に笑う親友から顔を背ける詩織だった。

 それから、また暫らく歩き交差点で子延は大きな笑顔で詩織に抱きついた時だった。一台のワンボックスが二人の前に停車するとその車の後部座席のスライド・ドアが開き、中から延びた二本の腕に彼女等二人が捕えられ、強引に中に引きずり込まれ、ドアが閉まる。そして、元からその交差点にはだれも居なかったかのようにその車は悠然と走り去った。

 詩織と穹は何処かの廃工場へ連れてこられ、手だけを縛られた姿でその建物内に連れて行かれた。そして、最後に助手席から降りるA。

「法山さん?」

「ときちゃん??」

「ごきげんよう、藤宮さん、それと子延さん」

「ときちゃん、これってどういうこと?」

 法山時子(のりやま・ときこ)は始め優雅に姿を見せ、丁寧な口調で縛られた二人へ挨拶を交わしていたが、穹の言葉の後、形相が変わり、見下すような視線、怨み辛みが募った表情で詩織の方を向き、

「ふじみやさんっ!貴女が、いつも、いつも藤原貴斗君のそばにいたせいで、貴斗君は日本に居られなくなってしまったのよっ!どう責任取ってくれるおつもりっ!!」

「タカちゃんの、貴斗君の名前を軽々しく口にしないでください・・・。貴斗君を名前で呼んでいいのは私と香澄ちゃんだけに許されている事なんです・・・」

 状況をよく理解していない藤宮詩織は俯いた表情で暗い声でそう時子に言うと彼女は更に激昂し、

「貴女、何さまの積り?貴女こそ、貴斗君の名前を呼ぶ資格などあって?あの忌まわしい、隼瀬さん同様、下賤の分際で」

 詩織は自分の事をどのように言われようと気にする性格ではなかった。しかし、誰よりもよく知る幼馴染の香澄が罵られた事を黙って聴き逃すような彼女ではなかったが、それよりも早く言葉を発したのは穹の方だった。子延穹は理解した法山時子の嫉妬を。それに親友の二人を汚した言葉が彼女に怒りを露わにし、器用に立ちあがって、時子を睨んだ。

「なにいってんの?成金風情のトキちゃんが?トキちゃん、どれだけカスミんとしぃ~~~ちゃんの事を知っているのよ?それにタッ君の事も。まあ、タッ君の処がどんなところなのかトキちゃんも知っているとは思うけど、しぃ~~~ちゃんの処も、カスミんの処もずっとずっと昔から親しい家柄だし、二人の家なんかはトキちゃんが想像もできないほどの名家なんだからっ!それにっ、しぃ~~~ちゃん処のお父さんとお母さん?どんな人だか知ってるの?すっごくすこぉ~~~く有名な両親なのよ、世界的にねっ!トキちゃんの処のお父さんなんか、ここ地元の人しか知らないじゃないっ!どっちが、下賤よっ!ばぁ~~~かっ!」

 機関銃のように言葉を撃ちまくる穹の言葉の弾が尽き口の回転が止まった。しかし、穹は強く、時子を睨み続けていた。穹の言葉を耳にし、そんな事は嘘だと、まやかしだと、否定するように唇を強く噛み締め、それを解放すると、

「そんなのうそよっ!そんなのはうそっ!でも、そのような事、どうでもよろしいのです。藤宮さん。貴女が堕ちて汚れてしまえば、貴斗君が戻って来るのですもの。子延さん、貴女も不幸な方、このような人と一緒に居るからいけないのです。三人方、お待たせして申し訳ございませんわね。もう好きにして構いませんよ。やっておしまいなさい」

「さっ、触らないでくださいっ!わっ、私に触れていいのは貴ちゃんだけんだから、タカちゃんだけ」

 詩織が貴斗の名を口にすると時子は怒り心頭、青筋を立てて、彼女に近づき、蹴りを入れた。

「おだまりっ!貴斗君の名前を気安く、貴ちゃんとか申さないで、汚らわしい。貴方方、早くこの人を黙らせなさいっ!」

「ひぃっ、酷いよときちゃん、女の子の顔をけるなんて、人でなしっ!」

「子延さん、貴女、今の自分の立場おわかり?まあ、謝った処でもう手遅れですが」

 厭らしい笑みを浮かべた時子は数歩さがり、これから始まる事を見物する姿勢に入った。

 男達は力任せに二人の少女を押し倒し、詩織に二、穹に一で男達が肢体に手を伸ばした。相手の頭を無理やり掴みキスを迫る男達、厭がり顔を背ける二人。だが、首が回らない様にがっちりと頭を掴まれ固定される。詩織も穹も唇より先に舌の侵入を拒むように歯を食いしばるも、男は片手で両頬を掴むと無理やり口をこじ開けその中に舌をねじ込んだ。嫌がる声を出すにも口の動きを拘束されてはまともな声も出せるはずがない。

 詩織に着くもう一人が制服姿の彼女の上から胸郭や臀部を揉み撫で彼女の身体の引き締まった中に程良くある柔らかさを堪能した。男の手が臀部から前の方に移動してゆく。その時、詩織は男が何をしようとしているのか理解できなかった。何故なら、仮令思い人の貴斗が居ても、彼を胸の内に抱き自慰をした事がないからだ。

 子がどのようにして生まれるかの知識はあっても、自慰その物の意味も行為も知らない。そんな彼女の作る表情はされそうになる羞恥心ではなく、何が行われようとしているのか判らない絶対的な恐怖だった。キスから解放され何をされるか判らない詩織は恐怖心の表情を作っていた。男達は詩織がどんな表情をするかなどお構いなしに、己の行動欲だけを満足させるために手を動かす。

「なっ、なにを・・・」

「なんだよ、お前中坊だろう?自慰の一つもやったことねぇのかよ。こうすんだよっ!」

「いやっ、いたい、いたいっ、やめてよっ!」

「ほらみよろ、こいつ、上物だぜ」

 男はスカートの中の下着を剥ぐと掌と指で割れ目を捏ね回した。痛がる声を上げる詩織。隣の穹も抵抗を続けていたが、詩織同様に恥部を弄られ始めた。男が詩織の女陰へ顔を近づけそうになった時に一層増して、彼女の表情が恐怖と驚愕に染められた。どうして、男がそのような事をするのか理解できない彼女にとって恐れで失神寸前だった。だが、

「もっといやがれよ、おもしろくねえぇだろうがっ!」と男の一人が頭を掴み揺らし、気絶を許さない。詩織は何とか足をばたつかせ男の顔を近づかせようとするが男二人掛りではどんなに反発しても無力。

 もう何が何だか分からず、泣き叫ぶ詩織に対して、穹は自分がレイプされている事を理解して泣いていた。

「もういいんじゃなぇ、濡れてなくたってどうだっていいからさ入れちまえよ、俺達が気持ち良ければいいだからよっ!」

 野卑な笑みを浮かべる男は、もう一人を促す。それに応える様に男はジーンズのベルトを緩め、ジッパーを降ろして、強固に隆起した己の長竿を取りだした。この時だけ、詩織も何をされるか理解したようで、今まで以上に体を暴れさせ、男を近づけさせなかった。男が詩織の抵抗を楽しむために腕の拘束を外していた為、両手両足で抵抗する。

「おい、おい、なんだよこいつ、この細い腕と足の何処にこんな力あんだよっ!おいっ、腕しっかり押さえろ。おらぁっあしひらけやっ!こんちくしょっ!ちっ、おらっ、いい加減にしやがれ」

 詩織の競泳で鍛えた足と腕の力は想像以上。しかし、男も持てる力全開にして、体重を掛け詩織の足を開脚させた。

「いやっ、やだ、やだやだっ、やめてよ、おねがいです。やめてください」

「やめろって、いわれて、やめるかよばぁ~~~かっ!」

 男は楽しむ様に近づきつつある自分の竿と詩織のくぼみをこすり合わせ、位置を定めると、

「まじで、これはいんのかよ」

「いいから、むりやりやっちまえよっ!痛がってるところを無理やるのがたのしぃ~~~んじゃねぇかよ」

「いたいっ、いたいよ。いたい、やめて、いたいよ、なんでこんなことをするの?いたい、いたいっ、壊れちゃう、そんなことされたら壊れちゃうよ。いたいっ、いたい、いやぁああぁぁぁぁっぁあぁあっぁあぁあぁあっ」

「うっせんだよっ!今から穴あける為に突っ込むんだから、壊れるに決まってんだろがよっ」と男は何のためらいもなく、詩織が痛がる顔を悦に眺めながら一気に彼女の窪みの奥まで物を突き刺した。結合部から流れ出す、色の濃い血。絶叫する詩織を無視して、激しく腰を振る男。

「なんだよっ、俺も処女とやりたかったのによっ!こっちみろよ、コイツ男知ってるぜ。よがってやがるよ」

 既に穹に剛刀を刺し、下品で粗野な笑いを作る男は彼女の中の締まりを楽しむ様に腰を振る。しかし、その男が口にする様な表情を詩織の親友は作ってはいなかった。

「おらよっ、喚いてないで、気持いいって言えよ」

 無理やり犯しておきながら、不慣れな詩織にそれを言う男の下品な顔の醜さは既に人ではなく獣同等だった。しかし、痛がり、叫び続ける詩織に頭が来たらしく、男は黙らせようと渾身の力で彼女の耳の辺りを往復で引っ叩いていた。はたく威力と密閉された耳。彼女の鼓膜が破れ、彼女は下部とは違う痛みにまた叫ぶ。

 聴覚を失ってしまった詩織、以降、男達が何を言っても聞こえるはずもない。更に彼女の三半規管にまで障害が出ていた。

 男三人が二人の少女へ凌辱するのを優越感と威丈高に眺める法山時子。彼女には少しも、憐憫も感じていなかった。人の思い込みはここまで人の心を狂わせてしまうものだろうか?・・・、そもそも、その様な事を私が私自身へ問う事などできはしまい。既に私が似たような境地に堕ちてしまったのだから。

 彼女以外にこの現場を目撃している者。こうなる事を仕掛けた者、大河内星名はというと・・・、ここまでひどい事になるとは思いもしなかったらしく、心に痛みと負い目を感じ始め、見かねて、現場へ飛び出した。だが、私の現場に姿を見せると云う判断それは遅すぎた。男達は遠慮なく、躊躇いもしないで二人の内部を己の白濁した欲で満たしきっていた。詩織の内股から白濁した液と赤い鮮血が混ざり落ちる。

「なんだよっ、これからってときによ。全く大人って奴は」

 まだ、詩織とつながったままの男は獲物を狩る獣の様な鋭い視線を闖入してきた星名へ向けるが、星名の動きは速かった。男達が次の声を上げる前に三人とも埃まみれの地面に顔を埋め、気を失わされていた。

 取り巻きが一瞬にして失神させられた事に驚き、後退(あとず)り、逃げようとする時子。だが、星名は彼女の行動を無視し、詩織と穹の介抱に当たった。焦点の合わない二人。特に詩織は呼びかけても返事を戻してこない。詩織に何を言っても聞こえない事を知らない星名は言葉に反応しないならと思い、衣服の袖珍からライターを取り出すと火を灯す。彼女がそれに反応するかどうか確かめ火影暗示で意識の混濁具合を確かめた。かなりの心的外傷を受けてしまった事を知る星名はなぜ、自分はこのような事をまたやってしまったのかと心内で苦悩し始めた。

 星名は最近購入したばかりの携帯電話を使用し、自分の名前を伏せ、直接、先ほどまでいた済世会病院へ取り次いだ。

 見るも無残に破かれた彼女達の制服。穹の方はまだブラウスのボタンを閉めれば胸部肌を隠せたが詩織の方は無理そうだった。意識を失っている二人のショーツを穿かせ、穹の方の胸元を閉じ、詩織の方には自分の背広を脱いで掛けようとしたが、それには名前の刺繍が入っており、自分の持ち物である事が知られる事を恐れ、車の中に置いてあるバスタオルを取りに行った。戻って来るとそれを詩織に巻き、救急車の来るのを待った。遠くからサイレンの近づく音が星名の耳に届くと二人の少女の前から立ち去り、暫らく身を顰めた。また、救急車が遠ざかる音を聞き、車が置いてある処まで歩く彼。だが、彼は知らない、この事件がまたアダムと言う技術を使わせてしまう事を。更にこの事件で傷を負った彼女の三半規管が将来の彼女の命を奪う事になるなど予測できるはずもなかった。

 その後、法山と詩織達に暴行を加えた男達はというと、法山に関しては藤宮の上家である藤原の怒りに触れ、藤原洸大の巧妙な操作で一家そろって路頭に迷う事になり、三人の男に関しては警察機構に勤める隼瀬家の者が動き拿捕。彼等の行いは集団強姦罪に当たり四年以上の有期懲役だが、それを死刑に出来なくともどうにかして無期懲役へと判決が下る様に手をまわした。この事件が起きた張本人に何の裁きもなく事が完結したのだ。


アダムに連なる者へ3・利き腕を失いし者・宏之


 これは私が知人から報告を受けた話である。藤宮詩織の一件から大凡一年半後の事だった。峰野義之は私が送った人材に満足し、契約更新で三年間を約束してくれた。その上、一人欠員が出たのでそれを埋めるための医師を追加して欲しいと乞われた。

 私もよく知る八神皇女女史本人が診療所を開く為に抜けるとのことだ。

 彼女に代わる精神科医を望んでいる。しかし、私が立ちあげた医師委託派遣は主に不足がちな産婦人と小児科医を集め、育てていたがため、精神科は誰も居ません、私を於いては。私も総合診療所の一室を任される身で且つ、その経営者の代表でもあった。誰を私が居ない間、代理をしてもらうか悩んだ末に耳鼻科を担当する櫃間肇(ひつま・はじめ)にそれを頼み、新潟近郊にあるその医療施設から三戸特別区へ向かう。

「まさか、大河内さん、君本人が来てくれるとは思わなんだ」

「精神科医を直ぐに用立て出来なかったので、仕方がなく、です。私の方の契約は残念ながら二年間。その間に精神科医も今後の為に模索します」

「時に大河内さんは精神科医以外もおやりになられるのかな?」

「外科の真似ごとなら少々特に心肺関係でしょうか」

「ではそのような手術がある際は執刀助手としてお願いもする事もあろう」

「ほどほどにお願いします。勤務は明日からという事で」

 私がまさか、この街、アダム・アーム関係者が多く集う処で仕事をするとは思わなかった。しかも、東京と近い。華月に居場所を悟られないようにしなければ・・・。

 済世会病院で働き始めてから二週間後の十二月の終わり頃、その事件は全く私の関与しない所で起きた。

 藤宮詩織嬢があの暴行事件から八神皇女氏の精神治療により、心を持ち直し、親友達と高校へあがる為の受験勉強を必死に頑張っている時期、街の郊外で受刑者達が野外奉仕を行っていた。

 その受刑者の中に詩織と穹の心を壊した三人がいた。その内二人が脱走したのだ。逃走理由はただ一つ。彼等の婦女暴行が罪に問われ鑑別所送りになったその発端。しかし、その矛先は法山時子ではない。更生する気もない歪んだ欲望、藤宮達への報復。

 二人の逃走は外部の者の手引きがあった故に成功したものだった。二人が五人になり、男の醜い執念が街中で藤宮達と遭遇させてしまう。

 藤宮、隼瀬、それに子延。隼瀬は元から囚人の顔など知らない。藤宮、子延に至っては八神皇女の暗示とある特殊な技術によりその男達の記憶を閉じてしまっていた。

 街中で男達が少女三人に力で物を言わせようとしているのにも拘らず、通行人達は我関せず、見向きもしないで通り過ぎる。

 人々の心はなぜにそうまでして変わってしまったのだろう。戦前も戦後間もない高度成長期の間でも人と人の手には互いを思いやる心、人類史の中で最も古くから続く集団社会として成り立っていた物が崩れてしまったのは?

 誰も、藤宮達を助けようとはしなかった。柏木宏之とその数人の仲間達が部活の最後の大会から帰宅する途中、彼女達を目撃するまでは。

 後先考えない思考とまだ若気の至り少年である宏之とその連れは自分こそヒーローであると夢見がちな時期で藤宮達に暴行するような連中は完全な悪だった。

 宏之は竹刀袋から木刀を取り出し、藤宮達の助けに入りその仲間たちも防具の入ったその重い袋で殴りかかる。喧嘩慣れしている相手にもひるまない宏之たち。だが、相手は殺傷性のある武器、数人が刃物を取りだした。宏之は当たり前のように正面から空を切って奔るナイフを見切り躱していた。だが、彼が対応できるのは視覚が届く範囲だけだ。裏に回り込んだ男が宏之の背中に向かって刃を突き付けようとした。音と気配で裏に回りこまれた事に気がついた宏之。体をずらして避けようと動く。しかし、気がついたのが遅れてしまい右肩を貫かれた。痛みに耐え、裏の男へ振り向かず木刀の柄の方で胸中を一突き。呼吸困難に陥った裏の男はそのまま地面へと崩れさる。

 宏之が痛みに顔を顰めながら、肩に刺さったナイフを抜いた時に集団争いを聞きつけた警察官達が大挙して押し寄せてくるのが見えた。やばいと感じた宏之はナイフを投げ捨て、仲間達へ逃げる様に顔で合図し、蜘蛛の子を散らす様に遁走したのだった。

 この事件が原因で治療の遅れた事と、運悪くそこに通う運動神経に傷が入り柏木宏之の右肩は水平よりも上に大きく挙げる事が出来なくなった。

 とそのような事件が起きていたのを警察関係者の知人から報せを受けたのだ。何の因果か知らないが子延以外の藤宮、隼瀬、柏木の三人はいずれもアダム・アーム関係者だったという事か・・・。


アダムに連なる者へ4・手駒


 それは私の済世会病院での任期を終える半年前、一九九九年六月の事だった。夜勤当番の日、医局で門外不出の藤原医学研究所のアダム・アーム研究進行過程報告書。その研究所で今も務めている最も親しい研究員が定期的に送ってくれるそれを読んでいた。内容のどれもが興味深く、たった一人の献体詩乃さんで多くの素晴らしい研究が完成しつつあった。だが、矢張り有効性の物ばかりではなかった。中には多くの弊害も確りと記述されている。報告書の中で私が一番気がかりにしたのは出生前に適用するアーム技術。どんな両親でも願うなら健康な子供が生まれて欲しいと願うのは致し方がない事だ。アダム・アーム技術、特にアームの方を胎内児に適用すれば健康且つ、非常に身体能力に優れた能力または知能発達が確認されているとの記述。それによって生まれた子供が既に私の両手の指では収まらない数が存在しているという事実。まだ、まだ技術の発展途上で使用されたもの故に弊害が何件か出ているようだ。生まれた子供には右、又は左の肋骨が欠けており、それがない事で起こる極度の幻肢痛の様な痛みをAPPLE(アップル)

(Amplified-Physical-Pain-Life-Efface)というらしく、律義に日本語で『生体消失過剰痛覚』と当てていた。

 現段階ではその痛みを抑えるのにEVE(イヴ)(Evolutional-HIV-Extinction-antibody)進化型HIV廃絶抗体を投与する必要があるとのこと。このEVEという抗体はADAM研究の一環で本来はエイズを治療するための抗体であると書面に記されていた。後に私はこのEVEと言う抗体が他にも違う特色を示す事を知る。そして・・・。

 書いてある事、大事な部分だけを記憶内に収め、書面を燃やすために病院内の焼却炉へ向かい、完全にその紙が燃え尽きるのをこの目で確かめてから、医局へと戻った。午後二時過ぎ椅子に座り、仮眠を取ろうとした時、急患が入ると消防隊員から連絡を受け、その容態を確認すると手術の必要ありと判断し、夜勤で残っている他、職員を集めた。

 意識混濁状態で車に撥ねられたらしい。身元を証明できるものがなく誰であるかは判らないが見た目は小学生高学年から中学生前半の少年。

 目撃証言からダンプ・カーに撥ね飛ばされた言う事だが、想像以上に外傷が少なかった。左腕骨折程度で全治一月程度。手術は直ぐに終わり、少年を救急患者向けの病室へ寝かしつけた。意識のない状態の少年の顔は何かの痛みに耐える様に苦渋を示していた。他の場所にも外傷があるのだろうか?先ほど撮影した全身レントゲンで骨が折れている場所は左腕だけ、他には何処にもひび一つない。だが、少年は苦しんでいるのは事実だ。再度、レントゲンを確認する。何か普通の人間と違うようだが、直ぐに認識できなかった・・・、それは左の肋骨がない事。

 まさか、そのような偶然がと思いつつ、少年の左肋骨の辺りをさする。判りにくいが一番下の方、第十二肋骨がない。レントゲンにも映っていない。少年が苦しんでいるのはアップルの為か?だが、私の手元にはEVEはない。投与して、確かめる事も出来ない。藤原医学研究所の有るシンガポールとの時差はたった一時間、今流石に友人も寝ている頃だろう。だが、若し本当にこの少年がアップルに侵されているのなら、助けたかった。友人に申し訳ないと思いつつ電話を入れると、彼はまだ、研究所内で彼の担当する研究をしていた。私は運がいい。彼にEVEの試料を大至急貰いたいとお願いした。研究所から簡単に出す訳にはいかない民間の郵送を使えば、足がつくからと言って態々日本まで彼が届けてくれると云ってくれた。一番早い便で来てくれると言って電話を切る友人。今日の昼過ぎには来てくれるか・・・、間に合うだろうか?

 何とか鎮静剤などを投与して、痛みを取り払う努力はするが、どれもが無駄に終わり、薄弱性の全身麻酔と睡眠剤を投与し、深い眠りに就かせた。

 それから、身元が判らないと言う少年のそれを調べるべく、陽が昇ってから警察の知人に電話を入れ調査をしてもらった。その電話が切れた頃、私は疲れで、友人が来る一時間前まで寝入ってしまっていた。

 目が覚めた時に新東京国際空港まで行くには時間が足りず、東京駅で会おうと連絡を取り合い、午後二時少し前に友人と七年ぶりの再会を果たした。急ぎ友人を共だって三戸の済世会へ戻り、EVEを少年に投与した。直ぐに効果は現れず最初は私の思い違いかと考えたが、一時間を過ぎた頃で、少年の表情が和らいで行くのを目にし、安心と同時に彼がアダム計画によって産み落とされたものだと言う事を知ってしまう。では、一体だれの子供だろうか?

 それから暫らく、友人と文面では理解できなかった研究を聞き、午後六時を回った頃、少年の身元が判ったのだ。少年の名前は霧生洋介、十三歳。二年前、両親の失踪により、両親が残したマンションで一人暮らしをする中学生だった。両親の名は隼久(はやひさ)と鷹美(たかみ)・・・、・・・、・・・?まっ、まさか・・・、アーム計画の第一人者、霧生隼久?私は友人に隼久の事を尋ねると渋い顔をした。失踪は事実のようだ。二年前に日本へ一時帰国して以来、行方が知れない。では夫妻がアーム研究過程を自身の子に行ったのかと尋ねるとはっきり知らないと口にした。表情から読み取る限り嘘ではないようだ。秘密裏に行ったという事だろうか?何にせよ、この少年が霧生氏のご子息である事、アップルに侵されている事、EVEが必要な事が判っただけよしとしよう。

 私は少年の為に友人にEVEの手配を今後もお願いしたが、きっぱりと断られてしまう。しかし、彼は何も言わず、小指よりも小さな瓶に黒く薄い数枚の物体が詰まった物を渡して呉れた。それから友人はせっかく日本を訪れた事だし、数日旅行してからシンガポールへ戻ると言って一人旅立った。


アダムに連なる者へ5・海外での不遇と貴斗の記憶喪失の理由


 二〇〇〇年に入ってすぐ私は西欧へ飛んでいた。目的は海外医療の技術や使用機器の調査と医療福祉の勉強の為でした。イタリア、フランス、ドイツで医療技術と使用機器について研究し、北欧のスウェーデン、ノルウェー、フィンランドで医療社会福祉について学んだ。大凡、一ツ月から二ツ月の短期間で国境を越えていた為に学びたかった多くを出来なかったがそれでも収穫は大きかった。

 同じ年の十月半ばにはまた、大陸を超えアメリカ東海岸に近い州メリー・ランドにあるジョンズ・ホプキンス大学(Johns-Hopkins)を訪れていた。イタリアの医師学会で仲の良くなった医師が研修の為の紹介状を書いてくれた大学。研修内容は現代における臓器移植看護婦の育成と治療医学。

 メリー・ランド州で生活していた頃、思いもよらない情報が私の処へ舞い降りてきたのだ。ジョージ・レオパルディ氏の娘と藤原龍貴氏の次男が付き合っているという。

 私がいるのは東海岸、龍貴氏等が居るのは西海岸、同じ大陸にはいるが端と端。遠く離れた距離が私に思わしくない事を企てさせてしまう。

 龍貴氏の長男と違い、彼の次男とジョージ氏の長女がどのような人物なのか知らなかった。故、日本の私立探偵とは法的権限が全く異なるここアメリカ、母国人は会話でステーツという国のプライヴェート・ディテクティヴにその二人の身辺環境調査を依頼した。

 その結果が私の処に届いたのは十二月半ばになってからだった。そして、調査の中から情報操作して、アダム・アーム関係者に精神的な苦痛を与えられそうな状況を幾つか探し出した。

 驚いた事に添えられていた写真のジョージ氏の娘、シフォニー。この時点では特に注意を払って見ていなかったために、私の過剰な策謀で必要以上に疵付けてしまった彼の藤宮詩織嬢に少し似ているなとしか思わなかった。しかし、私が日本に戻った時に再び、詩織嬢を目にした時に錯覚することは間違いない未来は決定された。

 シフォニー嬢の大学内での人気が非常に高く、博愛で運動の成績も勉学の成績も優秀な方だった。容姿はとても魅力的で、仕草振る舞い、性格どれをとっても同世代の男性の心を惹かせるなど自然な事だった。

 そのような彼女には彼女を崇拝する熱狂的信者(エンスージア・ファン)達がいた。その信者の中にキリスト教に敬虔で酷く偏った白人至上主義で執着心が強く、妄信的、且つ、シフォニー嬢が貴斗少年と恋仲である事を苛烈に嫉んでいる人物がいた。

 取り憑かれる様に何かを信じて疑わない者の心を操るのはそれ程、難しい事ではない。更に一番許せない事にその男の両親、どこでアダム・アーム計画の情報を入手したのか、それを己の欲望の為に手に入れようとしていた。シフォニー嬢と貴斗少年に危害が加われば、龍貴氏もジョージ氏も黙ってはいまい。私の手を汚すことなく、その者等を葬る事が出来よう。

 私の情報操作によって、その関係者がどうなったのかを知ったのは西海岸にあるキャリホルニアの大学、UCLAへの紹介状をもらって現地に着いてから数週間後の事でした。

 愕然とさせられる顛末。私は瀬能夫妻に続く三人目の命を奪ってしまう原因を膿み堕としてしまった。藤宮詩織嬢よりも、酷い暴行が藤原貴斗少年を前にして曝され、最後には死を強要される事で幕引きとなった。

 私はアダム・アーム関係者に、詩乃さんがあのアクア・プリズンの中に閉じ込められている限り苦痛を与え続ける事が目的で、事が済んでしまえばもう何もできない死を迎えさせる事を目的としていなかった。

 シフォニー嬢の死の結果は私自身の心に諸刃となって突き刺さる。だが、私の強行は停まる事はいだろう、これからも・・・。

 心の中での己に対する苛立ちを押さえながら、アメリカ西海岸の最新医療技術を可能な限り吸収していった。

 私が、このアメリカ合衆国から日本へ帰国する一月前、こちらで親しくなった諜報員から奇妙な情報が届いた。それは現合衆国大統領を失脚させるためにある不祥事を作為的に起こし、その責任を現大統領へ転嫁させると云うものだった。

 その作りだそうと言う既成事実とは藤原龍貴氏が管理する研究所を襲撃し、その研究を盗む様に命じたのが大統領であると言う偽装工作を遂行するらしい話しでした。

 私は藤原龍貴氏には何の怨みもないし、特に義理立てする必要もないが、まあ、洸大氏の息子と言う事で、研究所が狙われているという事を示唆する電話を入れた。ただ、それは英語でも、日本語でもなく、イタリア語で。死んだはずの私の存在を仄めかす様にすれば、多少は何かを感じるだろう。

 大統領失脚の謀略が藤原貴斗少年と私を引き合わせるとは夢にも思わなかった。しかも、その日はアダム計画で出来た新薬試料が手元に届いた時で日本へ帰国する時間でした。

 今、空港の乗り合いの連絡通路で起きている事件など知らず、旅客機の飛び立つのを待っていた。もうそろそろ飛び立つ時間になった頃、艦内放送で二名乗り遅れた客がいるらしく、十五分待つ事となるというのが流れた。

 旅客機の運航は様々な状況で飛び立つのが遅れることを承知している私は憤慨もせず、もらった日系の新聞を読みながら時間を潰す。

 先ほどの放送の時間から少しも経たなくして、最後の二名が乗り込むと搭乗橋との間の隔壁が閉じられ、緩やかに飛行機が動き出したのを体感した。

 窓側に座っていた訳ではない私は動き出す風景をそこから望めるはずもなく、ただ、腰掛けに深く座り瞳を瞼で覆い、機体が安定領域に昇るまで大人しくする事にした。

 添乗員が飲み物を配りに来た事に気が付き目を覚ました。座る席はビジネスだが出される飲み物の中で紅茶、コーヒーなどの質はエコノミーと大して変わらない。そのような理由で銘柄のペットボトル水を頂いた。

 それを飲み終え、まだ読んでないJAMA

(Journal-of-the-American-Medical-Association=米国医師会医学誌)を読み始めた頃、同じビジネスクラス内の乗客が立ち上がり、英語と日本語で

「Excuse me! Who is medical doctor in here?

すみませぇぇ~~~んこの中にお医者さんいますかぁ~~~?」とその声につい反応してしまい、挙手して、

「はい、ワタシ、一応医者ですが」

 声を上げた女性が私の方へ歩み寄って来ると、

「私の連れが苦しがっているの。起こしても起きないしどうしたらいいか。もし、診断できるのなら診ていただけないかな?」

「判りました・・・。私の専門分野がいでしたらどうしようもないですが、診るだけ診ましょう」

 私は彼女に着いて行き、その見るべき方の処へ歩み寄ると大柄な少年?何処かで見た事がある。私は脳裏に写った写真の少年の名を心の中で告げました、『藤原貴斗少年』と。私は驚きましたが表情に出ないように努め、その少年の様子を伺った。

「状況を把握したいのでここへ来る前、何があったのか差し支えなければ教えていただけないでしょうか?」

 そう女性に話しかけると困惑した顔を浮かべ、

「いえ、特には・・・」

「そうですか、精神的なものかと思いまして・・・、安眠剤がありますのでそれを出しましょう」

 安眠剤、そのような物を私は持っていない。しかし、アダム新薬の試料。その効能なら少年へ安らぎを与えるかとも可能だろう。

 ここに来る前に貴斗少年・・・、少年と言う割にはかなり体格の良い彼がどのような事をここへ来る前に体験したのかは知りません。しかし、数ヶ月前に私の繰り事で恋人を惨劇な状況で失ってしまった事は知っている。なら、そのような記憶を持っている事は辛いでしょう。閉じてしまった方が少年のこれからの生活には良い事なのかもしれません。

 だから、仮令貰った物の正確な効能が判っていないアダム新薬、記憶情報遮断体、その名をMAC(Memory-information- isolAte-Carrier)を投与する事にしました。彼には新薬の被献体になってもらう事にした。

 薬を取り出し、添乗員から水を貰うとMACを貴斗少年へ飲ませました。即効性ではないらしいので彼が落ち着くまで十数分かかり、その間ずっと、隣の女性が心配げな顔で彼を覗いていた。徐々に和らいでゆく少年の顔と同じように女性の顔からも安心感が滲みでていた。

「有難うございます」

「いえ、私は彼に薬を飲ませただけですから、処で彼のお姉さんですか?」

「うぅ~~~ん、いずれそうなれたらいいなぁあ、って、この子のお兄さんの彼女みたいなもの・・・あっ、いけない、自己紹介してなかったわね。私、神宮寺麻里奈といいます。日本警察庁で刑事をしています」

「警察の方でしたか・・・、私はこういう者です」といって、医者としての名刺と、医療派遣・医療機器会社の代表としての別の顔の名刺二枚を彼女へ渡していた。

 私は彼女が嘘を言っている事を知っていつつも、平静に挨拶を交わして、私の席へ戻っていた。

 彼女、神宮寺麻里奈と名乗っていた。その名前は確かだろう。更に藤原貴斗少年の兄といえば、藤原龍一に間違いないだろうし、その兄の職業が警察機構よりもさらに上の特務機関に従属しており、彼の相棒の名前が神宮寺麻里奈。なら、先ほどの女性とその情報での者が同一人物なら、彼女もまた特務機関の調査員に間違いないでしょう。そのような彼女を利用できないかと思案するが、相当、頭の切れそうな雰囲気でしたから下手な謀計は私の足元を掬いかねないので、辞めておきましょうか・・・・。


 日本に帰国してからの事でしたが、藤原貴斗少年に投与したMACの記憶を抑えるという効能は確かでした。しかし、一回の投与でその記憶を閉じる記憶構築年齢範囲と持続期間の異常な長さは後にも、先にも彼だけで、更に性格の変容が著しかった事も然り。

 記憶が回復した際に、その結果が彼自身とその周りを不幸にしてしまうとは思っても居ないだろうし、そうなる様な手引きをしてしまうのがこの大河内星名という偽りの名で居続ける源太陽である私自身であると予想できる者はいまい。私としても預かり知り得ぬ事なのだから、今は・・・。

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