第六話 黒く染まり逝く我が心、停まらぬ怨望と遠謀
1・二〇〇一年、あの夏の真実
私と貴斗少年が同じ飛行機で日本に戻ってきてからの数カ月、彼のそれまで重ねてきた記憶は封印されたままだった。彼の日本での精神鑑定の担当は個人の診療所まで設けて始めた、あの八神皇女氏。だが、流石の彼女も彼の記憶喪失がアダムの技術でなったとは気付くまい。
彼が藤原家の者である事すら忘れ、血の繋がりすら否定する。記憶喪失は彼の周囲の者達へ大きな重みになったが消して悪い事ばかりではない。
藤宮詩織嬢との幼少からの縁りも系譜の掟も記憶にない彼。その事が起因になり、詩織は持ち続けた自身の気持ちを彼へ伝え、二人は恋仲となった。
私が日本に帰国したのが三月末でそれから、済世会病院での勤務を再開しました。
ちょうど四月に入った頃、イタリアの医師会の知人から日本に新種の合成麻薬を広げようと考えている者達がいると知らせてくれました。敢えて、会話の中に『マフィア』と口にしなかったのは彼なりの事情でしょう。
私がいる三戸特別区は内陸にあり、東京との距離が近いと云えども海上からの出入りは不可能だし、貨物便と限定された三つの空港から離着陸を許可されている羽田空港や国際線の出入りがある成田空港から近いとはいえない。大規模的にこの三戸の街にその新麻薬が簡単に入り込んでくるとは誰も思わないだろう。
だから、私も友人の言葉を気にとどめるだけにしようと思ったが、私が日本を発つ前に比べると都心から離れた郊外なのに最近、三戸の街には外人の数が目に付くほど増えている。
深く考えた末、警査庁(けいさちょう)の友人に相談した。警査庁とは三戸が特別区である事から東京の警察組織を特別に警視庁と呼ぶように警察庁の直接管轄下ではない警察機関である。その警査庁の警視階級の友人は『信憑性のない話だ』と一瞥するが、近隣の外国船の入る港湾と空港の監視を強化するように各地域の警察機構に打診してくれると言ってくれました。
彼ら彼女らの両親へ精神的苦痛を感じさせる事が出来る様な状況を模索し、八月に入った頃でした。変わった場所に位置する三戸。その警察機構の警査庁は周囲の県との関係が強く結ばれており、協力願いを無視する事なないだろうと言う。
規模的な取り締まりは本職の方に任せるとして、身近での対処の為に一人、それを任せられそうな人物に声を掛けました。
大人とは違う情報網を持つ者。今年、中学三年に上がった霧生洋介。両親が失踪してしまっていて、私が保護者代わりになっている子だ。隼久氏の研究の成果が具現化した子供であり、呪いの様に死が憑きまわるその少年。
「わかりました。そのような話が友達からあがったら、星名さんにほうこくすればいいんですね?断ってお薬もらえなくなったら僕の死活問題ですから」
「断ったくらいで、そのような冷遇などしませんよ。今年は高校受験で忙しいかも知れませんが、能動的に新薬がらみの情報収集もしてもらえると助かります」
「受験する高校は友人と一緒の処にします。今の僕ならそれほど勉強に時間を割かなくても問題ないでしょう」
「そうか、やってくれるか・・・、しかし、君の身動きが人より優れていても危険が伴うかもしれない事ですから」
私はそう言って、一丁の拳銃が収まった丁重な造りの箱とその弾丸が弾倉に収まった状態の物が三つ入った袋を渡した。彼に渡した銃はドイツのヘッケラー&コッホ社製のH&K‐P46。私は特別な出生上、重火器を扱う事を許可されていた。霧生洋介少年ならそれを犯罪ではなく私が望む事通りに使用してくれると確信し渡す。
「たしかにあずかります。でも、これを使うような事態には巻き込まれたくないですよ、僕も」
「ああ、私もそう願っていますとも・・・。もし、銃の練習をしたければ、この許可書を持って、警査庁へ向かいなさい。場所を貸して頂けるでしょうから」
私は彼から立ち去る前に、周期的に彼を襲うAPPLE症状を抑える薬を三回分渡してから別れた。EVEは大量生産できる訳でも、長期保存出来る訳もなく定期的に洋介少年に渡している薬だった。
それを受け取る少年の顔に死から逃れるための安心感が滲みでていた。若い裡は誰もそう簡単に死にたいとは思はないのが当たり前なのだろう。
洋介少年に麻薬がらみの事をお願いして、私は本業に精を出す傍ら、この街のアダム・アームに関係する者達の動向を追っても居ました。
その中のいくつかの情報を操作すれば思いがけない事が起こりそうな要素がありました。その要素と洋介少年の調べてくれていた未知の合成麻薬が私の中の僕の悪意を呼び覚ましてしまう。更に幾つもの事象の波紋がお互いに干渉し、共鳴を起こす時、それは新たに大きな災禍を膿み堕とす。
人はなぜ、己の心を偽ってまで、他人に大事な物を譲ろうとするのだろうか?その所為で、その者の心は安住なく、彷徨う事になると言うのに。
アダム技術を最初に受けた隼瀬香澄嬢がそうだ。彼女もまた、藤宮詩織嬢と同じように藤原家の男子に恋心を持ってしまった。だが、その男子が彼女の傍を離れて、遠くの地にわたってしまった時にその思いを断ち切ろうと努力までした。
しかし、本当は吹っ切れてはいなかった。再び、その男子が彼女の前に姿を現した時、彼女は親友の彼への思いの強さを誰よりも知っていたが故に親友であり、幼馴染みでもある、詩織嬢の幸せを一番に願っていた彼女にとってつらい決断を己に科した。そのように香澄嬢が他の誰かへ思い人を譲ったのはお名馴染みだけではなく、涼崎春香という中学からの顔見知りで親友にもなったその娘にもだった。
更に特出すべきはその春香嬢もアダム計画に縁りのあるものだったという事。それだけではない、春香嬢が恋した男子が柏木宏之。アームプロジェクトの鬼才、柏木司とアダムプロジェクトの巨頭の一角である柏木美奈。不慮の事件で亡くなられてしまった藤原美鈴の実妹。その二人の子息だった。
隼瀬香澄嬢、彼女は彼女自身の心を偽り、彼女を好きと言ってくれる男子と情緒が混迷している状況で付き合っていた。そのような彼女が突き放されるようにその男子から別れを告げられたら一体どのような結果が生まれるのだろうか?そして、私にはその男子を想う状況へと導ける鍵を持っていました。
一つ断っておくが、彼女、香澄嬢と記憶喪失状態の貴斗少年が遭遇した彼女の暴行未遂事件は私の関与は一切ない。がしかし、その事件が起きた理由は把握していた。彼女を一方的に水泳選手としてライバル視している者が企てた事だった・・・。
話しを戻して、香澄嬢を好いている男子の姉に関係する事。その姉はイタリアの知人が憂慮しておりました新種の合成麻薬の日本への浸透。麻薬の名前はSERPENTE、サーペントと言うらしく、合成麻薬の頭文字で出来た略式語。常駐性が以上に強く、数回もすれば、離れられなくなり、禁断症状は致死に限りなく近い苦痛を受ける。その男子の姉は被害者だったのです。私が独自に研究を発展させていました進化型HIV廃絶抗体、EVE。現在の処、それだけが麻薬の禁断症状から救済する唯一の方法だった。
私の願いと男子の姉の治療を交換条件に交渉をしました。
異性として見ているのではなく、単純に姉に対して強い姉弟愛を持つその男子は、何故私が隼瀬香澄嬢と別れる事を条件に出したのかその理由を聞く事をしないで姉を助ける事を優先させた。ただ一人の肉親の姉を助ける為に、香澄嬢を捨てた。
二〇〇一年八月二十五日、土曜日。私は現隼瀬香澄嬢の彼氏と、その彼の姉の病状について話す為に、そして、別件も含めて会っていた。
「本当に、君はそれでいいのかい?随分以前から好きだった相手なのだろう?」
「隼瀬さんは確かに僕の告白に応えてくれた。それから、僕と付き合って呉れる様になった。でも・・・、でも、僕の気持ちに応えてくれた筈なのに隼瀬さんは一緒に居る時、遊びに言っている時、楽しんでくれているようで彼女の気持ちが何となく僕に向いていない時が度々あるんだ・・・、それが辛い。彼女の事が好きだから、それが余計に辛いんだ。だから、大河内先生の申し出はいい機会なのかもしれないんです。僕が、彼女と別れる事で姉さんが助かるんなら、難しい事じゃないです。・・・、僕の決断が遅れて姉さんが姉さんでなくなってしまうなんていやだ。僕にとってたった一人の肉親。助けたいと思うのは可笑しい事じゃない」
少年は何かを自分へ言い聞かせる様にその様に私に貌を向ける事もなしに語っていた。そして、一呼吸置いて、
「本当に助かるんですか?」
「ええ、助けて見せましょう。君が私の望む答えを出すなら」
少年は私のその答えに満足したようで、大きく頷くと、別れのあいさつを私へ向けて立ち去って行く。
私は直ぐに香澄嬢と別れろと迫った訳ではないが、姉の治療が遅れて死なれたくはないと思った男子は私と最後にあった翌日、二〇〇一年の八月二十六日に彼女へ別れを申し出たそうだ。
その日、彼女がその男子から交際の終わりを告げられた後、どのような行動をしたのかは私の予期するものではなかった。彼女のその行動と、もう一つの因果が多くのアダム関係者の心を蝕んでゆく。
同日、合成麻薬サーペントの大きな取引がある事を掴んでいた霧生洋介。輸送経路や運搬車まで特定しており、計算高い彼はそれを白昼の下に曝そうと、警査庁がもっとその麻薬捜査に力を入れられるようにと三戸中央駅のロータリーが見える高層建築物屋上で待ち構えていた。
誰も入ってこられない様にし、H&K‐P46の銃把を握り、精神統一をしながら、目的の車両が駅前大通りへ差し掛かるのを待った。ちょうど、彼の視線上には駅外の時計の文字盤が見えていた。時刻が迫る。洋介は銃を構え、視線だけを左右に振り、射程の通過地点に来る前に目的の車を探った。彼の空間把握能力の範囲は広く、情報通りの車両を捕えたのだ。
洋介の引き金を握る指に力がこもり始める。そして、彼のその行動が、彼の親友の恋心を向ける少女の姉の望む未来を引き裂いた。無論この時、その様な結果が生まれてしまう事を洋介がそれを知る筈もない。
霧生洋介の撃ち出した弾丸が藤原貴斗、藤宮詩織、柏木宏之、涼崎春香、八神慎治、隼瀬香澄の人生を崩壊させる凶弾へと変貌し、源太陽にとっては彼が脚本する次の怨出舞台の切っ掛けにもなった。更に洋介には重い十字架を背負わせてしまう。
人を好きになると云う事は、愛とは一体どのような事なのだろうか?私は少年、元隼瀬香澄嬢の彼氏の行動に深く考えさせられてしまう。
私は今でも詩乃さんの事が好きで、それが愛に代わっているのを判っていて、詩乃さんの事が忘れられず、ずっとその気持ちを持ち続けていると云うのに、詩乃さんを大切に思うあまりに起こしてしまった事件もあると云うのに・・・。
隼瀬香澄嬢だってそうです。何故、どうして、己の気持ちを偽ってまで他人へ自身の思い人を譲ってしまうのか、理解できなかった。
だが、霧生洋介少年が起こしてしまった事件はそんな香澄嬢の奥底に閉じ込めていた恋慕を抉じ開けてしまう結果になってしまうとは私よりも周囲の者等の方が詳しかろう。
2・涼崎春香が眠り続けた理由とは
偶然が重なればそれは必然。私の処にアダム研究より生まれた新薬、DRAMと命名された物が届いていた。
人体を強制的に睡眠状態にしてしまうらしい薬。これがどのような理由で開発されたか、薬と一緒に添付されていた書面にいくつか記載されており、その中の身体を強制休眠させる事により、副作用で怪我の治癒力を促進させるという部分に私は注目しました。
「入院するほどの怪我でも、これを使えば短期間で治癒できるのであれば病院内での床を早く空ける事が出来、次を受け入れられるか・・・」
医局に救急患者の報せが入り、それに私が対応しようと思いましたが、私より先に動いたのは調川愁という医者でした。
「大河内先生、私が参ります。私でも手が余るようでしたら、御助力を」
私が彼の言葉へ頷くと愁は急ぎ足で医局を立ち去った。調川愁、若手でありながら有望な総合外科医。執刀手術での彼の腕の極みは素晴らしいと誰もが口ぐちにする。無論私も彼を評価している。しかし、私も彼も、過去に互いに殺し合った相手であると気がつく事はない。
愁が医局を出て戻るまで大凡二時間。戻って来た彼に急患の容態と身元など判る事を確認しました。
私は心の中で笑ってしまう。何と運ばれてきたのは涼崎春香と言う娘で、アダム研究に関係する子供でした。
アダム研究の過程で最初にその技術が使われ生を受けた娘。
愁の話しでは春香嬢の怪我の回復は全治、一月半。なら、彼女に入手したばかりのDRAMを投与すればどのくらいの期間で傷がいやされるか臨床実験をしてみようと思った。極秘裏の研究が故に臨床試験を望むほど多く出来ない環境らしい。なら、試すにはいい機会だろう。そのような思いで、誰にも気がつかれない様に私はその新薬を春香嬢へ投与した。解説書には現段階での新薬の睡眠持続は八時間程度。大量に投与したからと言って効果が伸びるかどうかはまだ臨床されていないらしい。私が試してもよいのだが、新薬の数が少なく、十分な結果は得られないだろう。それが理由で必要量を点滴に混ぜ定期的に与える事にした。
担当医が愁だから、私が彼女の処に何回も顔を見せるのは怪しまれるだろう。一回目の投与以降は私の会社から派遣した看護婦が彼女の担当になる様に上手く取り計らう事で三週間は続けられそうだ。それ以降も続けられるように私自身でなんとかDRAMを作らなければ・・・。
藤原医研のDRAM研究者と連絡を取り合いその薬の改善をする手伝いを私は行う。だが、その研究者、私が知っている人物のだれかである事を私は気付かない。そして、その人物が私へ協力してしまう事は後の結果、その人物自身の心に大きな傷を負わせてしまう。二度目の大切な者を喪うと言う事で。
涼崎春香嬢が入院して三週間。彼女は手術後、一度も目を覚ます事はなかったがDRAMの効果が発揮されているのであろう怪我の回復は担当医が疑うほど早かった。しかし、彼女が目覚めない事で彼女を見舞いに来られる人物の一人が精神的憔悴を見せているようでした。
それが柏木宏之。藤原美鈴氏の妹君である旧姓、篠葉美奈と柏木司のご子息。そして、アダム技術により心臓転換移植を行われし者。私は運命を嘲笑う。
三週間目のDRAM投与で残りが尽きてしまい、備蓄を造り出すのが間に合わず、そこでその新薬の臨床が終わってしまうかに思えました。翌日には彼女、春香嬢は目を覚ますはずでした。しかし、彼女は覚醒を果たさない。
理由は判らないが、考えられる事があるとすれば連続投与の副作用、または彼女出生がアダムによる物だから、DRAMを体内に取りこんだ事で思わぬ効果が発揮されたのかもしれません。しかし、私が彼女に近づく事は出来ません。周囲に勘の鋭い医師が多数存在するので私が出来る事は経過観察のみ。
それから、一年経ち、漸く私の手でDARMを精製するに至ったが、それでも涼崎春香嬢は目を覚ます事はなかった。彼女は既に怪我はなく植物人間扱いで入院を許されている状態だ。
そのような彼女に再びDRAMを使う事に意味はない。逆に、彼女の目を覚ます物を開発しなければならないのではと、自分の過ぎた臨床を省みてその研究をDRAM発案者と連絡を取りながら開始したのだ、私が何故その研究をしたいかという目的を伏せて。
DRAMに関しては一般患者にでも安眠剤として渡し、臨床としよう。それからまた二年、何度も抗DRAMなる薬を研究しながら、春香嬢に投与し続けるが未だ、彼女は目覚めず。それでも私は諦めないで試行錯誤を繰り返し続けた。
春香嬢との接触以降、周囲の情報は大凡、その妹、涼崎翠嬢から入手した。済世会の医者として、時には通常とは違うまた別の特殊化粧で、姿と名前を変え老紳士の三多久留須、スポーツ記者の唱野甲斐、最後に大河内星名とは別の医者、反町駆として、彼女に接触をしていました。更に彼女の近くには霧生洋介が同級生としていたので、彼の日常会話からも、保護者としてそれなりの情報を得ていた。
3・藤原貴斗の交通事故と記憶の覚醒
遂に二〇〇四年八月に彼女が目覚めました。共同研究者は私が抗DRAMと呼んでいた物をRDRAMと命名した。何故、そのように先方が名付けたのか興味がないから詮索する事見しないで流す。
確かに春香嬢は目を覚ますに到ったが、覚醒するまでの時間が経ち過ぎたのか、RDRAに問題があったのか、彼女は目覚めてから少しの間、意識障害に見舞われてしまった。それが原因で回りの者達を混乱させ、一つの事件を起こさせてしまう彼女。
それは夕立が到来し、雨脚が激しくなり始めた頃、病院内を歩いていた私は窓の外で知った少年・・・、少年と呼ぶには聊か無理があるか、青年の背中を見た。
私が何時も見かける時のその青年の歩き姿は威風堂々で規律正しく見えた。しかし、今は彷徨う亡霊の如く揺らめく様な感じで目的地を定める節もなくふら付く様に前進していたのだ。
何事かと思い雨の中、勤務中だと言う事を忘れ私は濡れる事など厭わず彼を追った。
外に出た時には彼の姿を見失う代わりに一台の車が通り過ぎようとしていた。私は手を上げ、呼びとめる。
運転席側の窓が開き三十代前後の凛として、礼儀正しく見える者が、
「お慌ての様ですが、どうかなさいましたか?」
「ここに来る途中、結構背の高い青年を見かけませんでしたか?」
運転手は顔を横に振り、見ていない事を教えてくれる。そこで別れてしまえばいい物を私の中の僕という悪魔が降らぬ姦計を講じてしまう。また、一つ業が増すだけだと云うのに何故、私は僕を停められないのだろうか・・・。私は精神科医で在りながら、その様な思いに駆られる自分の心が理解できていなかった。
運転手へ電話がかかってきたら、運転手は藤原貴斗という存在を認識させないという暗示を施す。それが効力を発揮するかどうかは私の興味がある所ではない。唯の余興にすぎないのだから。
私は過ぎ去る車の車両番号を頭に入れ、雨の中立ちっぱなしで知り合いへ電話を入れその所有者を直ぐに調べ上げた。
「なるほど、そういう事ですか・・・、三友氏の令嬢が乗る車でしたか・・・、フッ、なら、事は簡単でしょう・・・」
私は嘲笑し、過ぎ去ってもう視界から消えている車と別れ病院へ戻る。
それから、数時間後・・・。彼、藤原貴斗青年は本当に車に撥ねられ済世会へ運ばれてきたのだ、かなりの重傷で。私は僕のしでかした事にまた、自身の心へ罪を負わせてしまった。私はいったい何をやっているのだろう?何故、事が済んでから受けるこの苦しみ、後悔の念を知りつつも止められないんでしょうか・・・。
アダム関係者の多くの執刀医をする調川愁。彼の話しでは彼の容態は峠だそうだ。助かる見込みはないと彼の顔色が告げる。
藤宮詩織嬢が彼の下で泣き続けるその姿が私の心を刺し続けた。詩乃さんは私が彼の様な状況になったら、彼女の様に泣いてくれるだろうか・・・、だが、本当に涙したいのは・・・の方なのかもしれない。
心のかなで自身に悪態をつき思い出す。彼が未だ記憶喪失であると。
私の手元には以前彼に投与したMACの効果を無効化するWINと言う新薬があった。DRAMを使えば峠も乗り越えられるかもしれないと思い担当看護婦に栄養剤だと偽ってその二つの薬を投与させた。
結果、一度彼は死を迎えたように思えたがDRAMの方は効果が出て、彼は峠を乗り越えた。
だがしかし、WINの方は遅延でそれが、彼を苦しめ、彼が大事に思う者達、彼を想う者達を不幸に追いやってしまう事になるとは思いもしなかった。
4・罪はなく、穢れ堕ちる事なかった藤宮詩織の手
藤原貴斗青年の記憶の覚醒が、藤宮詩織嬢との仲を引き裂いてしまった事を私は知る。理由は私も見て驚くほど明らかに彼の心を理解する。あのシフォニー・レオパルディ嬢と酷似する詩織嬢の容姿。
貴斗青年の記憶にフラッシュバックするシフォニー嬢の最後。彼女が傍に居れば絶えず、彼には心の痛みが付きまとうだろう。他にも理由があるのかもしれないが、彼は彼女と別れ、何故か彼の涼崎春香嬢と交際を始めた。
その二人に対して嫉妬心を隠し、過ごす哀れな詩織嬢。
私は彼女のその心を利用し、涼崎春香嬢を殺害させたと思い込ませる計画を練り始めた。
詩乃さんの姉君の詩音氏。ご息女が殺人を犯したとなればどのように苦しむのだろう。滑稽な事を想像し、私の中の僕が胸中で嘲笑していた。
藤宮詩織嬢の行動を操る様に彼女に掛けていた後催眠を電話越しで発動させ、彼女の行動を補佐させるための相手、三津ノ杜諒と言う同大学の男子を近づけた。彼には
鞍馬昇斗、と言う偽名と別の顔で接し、彼の家の厄介事を全て解決させると云う約束で僕の願いを通させた。
詩織嬢には諒なる物から指定の物を譲り受ける様に仕向け、それを春香嬢へ使えば貴斗青年を取り戻せると云い聞かせる様な暗示を掛ける。
血中の酸素濃度が低下すると人は失神し、場合によっては仮死状態を人為的に起こす事が可能だ。一酸化炭素などを血中に直接投与すれば簡単に中毒殺も可能だろう。しかし、今回はあくまでも彼女、詩織嬢に疑似的に殺人を犯した罪を被ってもらう事が目的、彼女が本当に春香嬢を殺害させる事が結末ではない。
一酸化炭素を用いて仮死状態を作れば、下手をすると脳障害を起こしかねないが、ヘリウムなら、後遺症の残る可能性は少ない。更に改良の進んだDRAMも投与させる。そして、詩織嬢は私の思惑通り実践し、春香嬢は私が夜勤を務める二〇〇四年十二月二十四日に藤原貴斗青年によって担ぎ込まれたのだ。
5・涼崎春香、絶命は何時か?
私が直接担当出来れば見す見す彼女を死なせる事はなかった。
貴斗青年は同じく夜勤だった調川愁を指名し、聖夜祭前夜に浮かれた者達が起こす事故などで担ぎ込まれた急患の対応をしなければならなかった所為で、私は何もできずに彼女は死亡扱いされてしまう。
今日に限って私がここへ派遣していた子飼い看護婦は休暇で春香嬢を覚醒させるためのRDRAMの投与が出来なかった。
私は愁の動向を伺い春香嬢の処へ伺える隙を待った。彼が何かの用事で科学捜査研究所へ向かった時、彼女と相まみえる機会を得た。
私は彼女の眠る寝台の前に立つ。
私と彼女以外誰も居ない部屋。
私の目的は彼女を覚醒させることのはずだった。だが・・・、何故か私の思いが反転してしまう。私は初めて、僕の手で・・・。
私の中の僕が現れ、彼女を見ては、せせら笑いを浮かべていた。
「くくくっ、この子が詩乃さんの女性として大事な部分を切り取り、移植の果てに産み落とされた忌み子。初めてのアダム研究計画の子・・・。詩乃さんを牢獄に閉じ込め、研究者達の好き勝手されて、本来人が生きて行く一生を奪われていると云うのに・・・、この娘はそれを知らない。それは罪深き事・・・、死を持って贖うべき事。涼崎春香、もう、目を覚ます事、叶わぬ貴女に永遠の眠りを授けましょう・・・、永久へ」
私が研究し続けたEVEの先に見出した物。それは風邪の特効薬、その名はEDN(エデン)(Eliminate-virus-of-the-cause-of-Disease-Neuron)、病原神経除外病原体。毒を持って毒を制す考えで作り上げた薬だった。
多くの風邪、特に感冒の原因である濾過性病原体(ヴィールス)をヴィールスで持って駆逐する発想。各種伝染性疾患の病原微生物から精製した抗原のヴァクシンとは似て異なる物。
だが、今は研究段階で現状の物は生物内のあらゆるヴィールスを駆逐してしまう未完の新薬EDN。
生物が生きるために共棲しているヴィールスまでも駆逐してしまうのだ。更に抗体までも食いつぶす。これを血流のある生物に与えるとどうなるか、過度遅延の為、生体内の全ての濾過性病原体や抗体を排除するのにどれくらい時間が掛かるのか臨床は出来ていない。何故なら、他の原因で臨床体が死んでしまうからだ。
その理由は初めに起こる現象が赤血球低下による酸欠、過程が進行し赤血球の全体量が少なくなれば、脳に必要な酸素供給量が低下し、軈て脳死に至る。
そうなるまでに投与後大凡一時間もあれば事は済む。彼女はDRAMで意識がない故、苦しまずに逝けるだろう。
私の中の僕がまた彼女を冷笑して、厭な顔を作っていた。
白衣のポケットの中にあるRDRAMとEDNを握る。
同じ大きさ、同じ色の小さなエッペンドルフ・マイクロチューブ。ポケットの中の為どちらにどちらの薬が入っているか判らない。そのうち、一つを取り出す。医療器具ワゴンの上にある使い捨ての注射針と注射器を合わせ、チューブの刺し口に針を押しこみ中の液体を出した。
僕は罪悪のかけらも起こさずにそれを彼女の腕に突き立て、喞子(ピストン)へ力を込める。そして、再び笑い注射器と針を分別して、決まった屑籠へ投げ捨てた。
RDRAM、EDNのどちらにせよ精製後、大気、正確には酸素に触れると取り込んだ上、死滅する。生体内では攻撃対象が無数にあるが最初に赤血球を攻撃するのは酸素に惹かれるからであった。EDNが遅延な理由がそこにある。赤血球内酸素を喰らう裡に同類が死ぬ事を学習し、攻撃しなくなるからだった。このような特性を投与前から制御できれば、何時の日か目的の病原だけを亡くす事が出来よう。
私が彼女へ打ったのがどちらだかわからない。しかし、もう一方の試薬もチューブの蓋を開けティッシュに浸すと流し台の中に置き、マッチで火を起こし燃やした。燃やした試薬の入っていた筒の蓋の上にはRと印字されていた。これが意味する事は一つ・・・。
彼女は旅立ったのだ、現世とは違う世界へ・・・。
6・貴斗と詩織、高層転落の原因
私の中の悪魔が初めて、一人の少女を殺した頃、藤原貴斗青年は彼の本当に愛する人を追って首都へ出ていた。
追われる者の名は藤宮詩織嬢。彼女は雨の中の逃走で風邪を引き、その姿で旧知の壮年紳士と出会う。しかし、その再会は彼女を不幸にするものだった。壮年紳士は彼女の風邪を診てもらうために医者を呼んだのだ。
呼ばれた医者とは誰か・・・、それは私だった。呼ばれた私は春香嬢にした事など忘れ直ぐに三戸から移動し、東京へ出ていた。妹の華月に悟られぬように。
一度手を罪に染めれば、人一人殺すも、二人になるも、その数が増えようとももう同じ。
アダム・アーム関係者らへ精神的苦痛を与えるという目的が、いつの間にかに死の怖れを感じさせ、最後には下すと言う目的へ挿げ替わっていた。
壮年紳士へ呼び出された私は風邪の治療と言って詩織嬢へ栄養剤を注射した。確かに普通の診療でも使う栄養剤だが、それにEVEを混ぜていた。これが、彼女の中で反応すれば彼女に施されたアダムによる移植技術が効力を失うだろう。そして、それが意味する処は数日も経てば判るだろう。
数日後、新しい年を迎えた時に彼女は建物の屋上から転落死した。愛する者と一緒に。二人が堕ちるその情景を私は一部始終、眺めていた。
初めに屋上に居たのは彼女一人でヴァイオリンを奏でていました。音楽に関して疎い私でも、詩織嬢の演奏の素晴らしさにただ立ち尽くし、聴き酔わされていました。彼女の演奏が終わった頃に姿を見せたのは八神慎治青年。
彼がどうして彼女の前に現れたのかはその内容を聞けばわかる事でした。詩織嬢を再び、貴斗青年の処へ引き合わせる事が目的。声の通りがよい慎治青年。冬の夜空の下乾いた空気が一層彼の声を遠くまで飛ばし、私の耳にも彼が何を彼女へ話しているのかはっきりと聞き取れました。何かの間合いを取る様に区切り区切り詩織嬢へ語りかける慎治青年。会話の山場のように思える処で、姿を見せた者がいた。藤原貴斗青年だった。
慎治青年は貴斗青年が表われると代わる様に屋上から姿を消す。
藤原貴斗青年が藤宮詩織嬢へ自分のもとへ戻ってきて欲しいと説得する。しかし、それに頑なにお応じない彼女。説得の言葉を掛けながら近づく貴斗青年。後退する詩織嬢。初めに彼女の中で変調をきたしたのは三半規管だろう。彼女は躓く物がない処で倒れ込む。それが腰よりも低く背後下には地面が見える手摺。
落ちそうになる寸前で体格の良い貴斗青年が彼女の腕を掴んだ。この時に私が飛び出せば、まだ、二人を救えたのかもしれなかった。だが、私の中の僕が私の踏み出す事を許さなかった。
その後、貴斗青年にも変化が訪れる。必死に彼女を上げようとする中、苦しそうに心臓を押さえていた。
WINとDRAMを併用する事でEVEと似たような副作用が起こっているなどと私は思いもしなかった。
彼の移植された心臓が激しく、彼の中に居る事を拒絶する。何時しか、彼女の聴覚も機能しなくなり、彼の言葉も届かなくなった。そして、力尽きた彼はそのまま、彼女と一緒に落ちそうになる。これが二人を助ける最後の機会だ!
物陰から踏み出そうとした時に誰かが走って来る足音と大声で叫ぶ声が聞こえた。反射的に身を隠し、通り過ぎる人物を眺める。それは八神皇女氏のご子息、八神慎治だった。彼は二人の危機を感知して、駆けつけたのだろうか?もしそうなら、彼の察知力は素晴らしい一言に尽きる。しかし、判って行動に移しても、手を伸ばしても、彼の強い願いは届かない。
私はずっと三人の会話を聞いていた。その内容、それを耳にしている間、私は私自身の罪を問われている様な心理状態に陥っていました。その間、妙に胸の辺りに痛みを感じ続けていました。私は基督教信者ではなかったので懺悔する事はなかったが私の罪に対する贖罪を出来る瞬間があったのにも結局、私は救えたはずの二人を見殺しにし、一人の心に大きな爪痕を残させてしまう。
私が体裁を考えず行動できなかった事。その結果は恩義のある洸大氏への不敬であり、背信でもあった。更に慎治青年の心を深い傷を負わせてしまう事は私の知らない事実の私を救ってくれた皇女氏にも、洸大氏と同等の事が言えるだろう。
7・朋友の居場所を目指した隼瀬香澄と死んでいたはずの僕
元旦を迎えた朝、私は三戸へ直ぐに帰らず、彷徨っていた。気がつけば見知った海岸の岬へ、私は辿り着く。
記憶の中で失った先の判らぬ場所。逢瀬岬。
岬の方へ向かうとその先端に座る女性の人影があった。ビールの空き缶が数本転がっている。
「君、そのような処へ坐っていては落ちてしまいますよ」
彼女は振り返り、虚ろな瞳、涙した後の顔。
振り向く女性の顔が私の記憶にある、隼瀬香澄嬢と一致した。私は泣いていた理由を不躾にも聞いてしまっていた。その内容の原因が目の前にあるとは彼女も知るまい・・・。
「つらかったのであろう?私はこう見えても医者です。そんな君にいい薬を上げよう。これを飲みなさい。嫌な事は全て忘れられる、君の想いも叶うだろう」
私はそう言って彼女へ差し出したのは人為的に記憶喪失にさせるWINの筈だった。だが、それはEVE。香澄嬢はそのカプセルに収めた薬を缶に残っている最後のビールと一に飲み込んだ。
一瞬私に背を向け、直ぐに向き直すと急に彼女は私へ近づき、酒気が少し薫る口で私の口をふさいでいた。突然の事で戸惑うが、私が冷静さを取り戻す前に彼女の唇は離れていた。
「???あれ、なんだか、判らないけど視界が霞んできちゃった・・・、貴方の顔が良く見えない」
口付の後すぐに身を引いた香澄嬢、私とは二、三歩しか離れていない距離なのに彼女はそう言葉にした。私を捜す様に周囲を見回す彼女。そして、歩き出す。
彼女を呼び止め、私の方へ引き寄せれば、彼女は宙へ飛び出す事はなかったはず。だが、
「あっ、みんなそこにいるんだねっ!あたしを置いてどこへ行くつもりっ!」
それが香澄嬢の最後の言葉だった。
彼女は手を広げ、大空へ向かって大きく跳躍する。人が重力から逃れる事が出来ない事を忘れたかのように。
私は今見た事をなかったかのように岬へ背を向け松林の方を向いた。また、私は助けられる筈の相手の手を掴まずに、振り払ってしまっていた。
それが私の望み?僕の願い?自分自身が判らなくなってくる、心の混濁が始まったその瞬間頭の中の霧がかかっていた部分の靄が晴れて行き、
「うわあぁあぁっぁぁぁぁっぁぁぁぁぁあぁっぁぁぁあっぁぁぁ」
私は叫び声をあげていた。
心が痛い。僕は何をやっているんだろう。
何故、僕は生きている?
痛む心臓の辺りの胸を抑え、地面へ跪き激しく嘔吐した。
私の記憶がよみがえる。僕はここで死んだはず。なのにどうして、僕は生きているいのだろう?いや、生かされているのだろうか。
己に問うても答えなど返ってこなかった。何故失ったはずの記憶が・・・、まさかとは思うが、先ほどの香澄嬢との口合わせで私の体内に少しでもEVEが侵入してきたせいであろうか?・・・、EVEの効能?・・・、それが示す意味は、私にも何らかしらのアダム・アーム研究の成果が施されていると云う事です。
ここずっと妹の華月に会う事を避けていたが、十五年前、自宅で眼を覚ます以前、私がどのような状況だったのかを確かめるすべは妹しかあるまい。痛む心臓により噴き出す額の脂汗。私は掌でその汗を拭い苦しみに耐え、立ち上がった。大きく深呼吸した処で痛みがなくなる訳ではないが冷静さを取り戻すためにそうしていた。
痛みが続く中、岬の松林を抜ける際、私は一人の青年とすれ違う。
「あっ、あの、すみません、このあたりで女の人を見ませんでした?」
「いいえ、誰とも」
「そうですか、呼びとめてすんません」
そう言って、岬の方へ向かう者・・・、それは八神慎治青年。
私は冷静に答えていた。特殊化粧の下の顔は相当蒼いだろうが、化生によって薄皮一枚被っているゆえに相手に私が苦しでいる事など判る筈もないだろう。それに相手も慌てている様子だ。なおさら気付くまい。
私の予想通りに慎治青年は軽く挨拶をすると岬の方へ走り出していた。
私の背中の向こうには彼の三度目の絶望が待っている。だが、私は振り返らず、来た道を戻っていた。今の状態で彼の前に立ち続けていたら、私の中の僕が企てた全ての悪行をさらけ出してしまいそうだから。
妹の華月を避ける様になってもう十年以上も経つ。
同種を生業とする男性と婚姻し、二児の母になっていたが・・・、今も妹は常人が知ること叶わずの人外魔性と戦い続けていた。
血筋の中の適性が高い者が継承する所業故に双子と言え、長男である私が必ず継がねばならないと云う事はない。
妹は彼女の家族と一緒に東京都三鷹市に住んでいる。まだ、妹が結婚する前は同じ東京でも僻地、檜原村に住まいを置いていたようだ。
私は二輪や四輪自動車の免許は持っているが自身で運転する事は多く無く、公共機関を利用する事の方が多い。今も、都電とタクシーを用いて三鷹市と調布市の境に近い場所まで来ていた。意識してか天然か、国際基督教大学の近くに二百坪を超える敷地の土地に純日本風家屋の平屋を構えていた。妹も色々考えるところがあって、そのような物を作ったのだろうとは思うが。
もう日暮れも近い頃、何も連絡せずに、妹の処へ来た。
元旦くらいは自宅に居るだろうと思うが実際、彼女がいるかどうか判らないが、閉じられた通用門の処にある呼鈴を押した。
暫らく経てども、目の前の拡声器から何の音も返ってこなかった。
大門の隣にある、通用口様の小さな扉が開き、そこから、箒を持った十歳くらいの男児が現れ、
「あっ、えぇえっと・・・、新年明けましておめでとうございます・・・。どちらさまでしょうか」
見知らぬ者があらわれ、少しばかり警戒した顔を作るが年初めの挨拶、頭を下げ丁寧に呉れると私が誰であるか尋ねてきた。私の顔を不思議そうに眺める少年。ここで私の名前を偽っても意味はなかろう。
「あけましておめでとうございます・・・。私は源太陽、ここの家主の源華月の兄です」
「母上の?そうですか・・・、中へお入りください」
促され私は通用口を潜りました。
前を歩く少年。再び私の方へ振り返る前に、自身の顔を覆っている特殊化粧を剥ぎ、本来の顔をさらけ出していた。
「母上は朝からずっと来客の対応をしておりましたのでお疲れしています。お気を使いください」と言い、私の方へ振り返ると、目を丸くする。
「驚いたかね、少年・・・、私と華月は双子なのだよ。少しくらい似ていてもおかしくはあるまい」
「でっ、でも先ほどは」
少年の疑問へ、私は顔に張り付けていた薄皮の仮面を差し出した。
「訳有って、普段はこの顔を見せないのだ。華月には内緒にしてくれると助かる」
「はっ、はい」
玄関門から大分歩かされて、塀で囲まれた大きな敷地の角に家宅が見えた。その玄関前には少し怒った顔を作る目の前の少年より、年上に見える少女が、
「こらっ、陸斗(りくと)、お掃除おさぼりして何処へ行っていたのですかっ!」
私の事が見えていないのだろうか?少女は剣幕な姿勢で少年を訴えるが陸斗と言われ少年は
「天雫(あまな)姉上、目の前の方が見えないのですか?」と言われて私の方を見るなり、剣幕な表情が驚きに代わり、
「しっ、失礼しました・・・。あっ、あのお母様に似ていらっしゃいますが・・・」
「姉上、華月母上の双子の兄上だそうです」
「そっ、そうでしたか、今お母様とお父様をお呼びします。それまで、客間でお待ちください。陸斗、伯父さまをそこまでお通しください」
少女も持っていた箒を玄関脇へ片付けるといそいそと中に入り行ってしまいました。
「姉上にはもう少し落ち着いて貰いたいものです・・・、では太陽伯父上おあがりください」
年頃の少年とは思えない落ち着き様に促され、靴を脱いで甥の指示する部屋へと向かう。
廊下に足を置いた時に遠くから、三つの鈴の音が近づいてきた。三つ迫る影の内、一つだけの勢いが増し、私へ飛び込んできた。
「なああぁあ~~~」
「音夢・・・」
足元には私の体によじ登りたそうな二匹の仔猫が後ろ足、二本立ちで私の両足にぶら下がっていた。
「こらっ、音夢、良夢(らむ)、明夢(あむ)、おきゃくさまにしつれいでしょう」
甥はそう言って、私の足元でじゃれる二匹の仔猫を抱き上げた。
「なんだ、音夢、君も華月と一緒で二人もこさえたのか?どこぞの馬の骨とも知らぬ、男ではないだろうな」と音夢の頭を撫でながら、そう呟いた。
先に姿を見せてくれたのは姪の天雫の方でした。姪は紫鳶色の盆にお茶と茶請けを乗せ私の前に来るとそれを丁寧に置いてくれ、
「たいした物でございませんが、お召し上がりください・・・」
「お気づかい痛み入ります。では」
私がそのように謝意を口にすると姪は盆で顔下半分を隠し、顔を少し赤らめていた。その表情を見る甥は呆れる様に肩を竦めていた。
勧められたお茶、湯呑に私の手が伸びようとした頃、妹が現れる。隣には初めて顔を合わせる華月の旦那が伴っていた。妹の私を見る目が冷たく痛い・・・。湯呑に伸びていた私の手を戻し、彼女よりも先に、
「華月、新年あけましたおめでとうございます」
「太陽お兄様、今さらどの顔を持ちまして、わたくしの処へいらしてくださったのでしょうか?」
口調は丁寧でも声質は冷めている事が判る低い声。隣の旦那が頭を抱え、
「華月さん、それはあんまりかと・・・、新年明けましておめでとうございます。それとはじめまして、直義(なおよし)と申します。旧姓は河越です。聞いた家名かとは思いますが源家とは遠縁にあたり、源家の存在を知る少ない家系でもあります。華月さん、せっかく遠方より、義兄が来てくださったのですから」
旦那が妹へそう云うも彼女はそれに従わない。
「用件が済んだら直ぐ帰ります。だから、華月自身の子供達の前で、そのような顔をするのはやめなさい・・・。十五年前、草薙家の刺客と相討ちになり死んだはずですが、何故私は生きているのです?」
私の問いに対する返答に一瞬の間があり、
「何をおバカなことを申しているのでしょうお兄様?そのような事実はありません。今もこうして、今までわたくしの事など心配もしてくれませんで、このようにして生きているではありませんか・・・」
華月はいつも冷静で動揺する事は少ない。今も、冷静に返答してくれますが、声を出すまでの間を置いた事は私に肯定と判断するのに十分すぎました。
「そうですか・・・、何故、同業者の草彅の者が私を狙ったのかは自身で調べましょう・・・、忙しい処、お邪魔してすまなかった。失礼させてもらいます」
一気に飲みほしても大丈夫なくらい冷めたであろうお茶を頂くために湯呑を取って飲むとそれを戻し立ち上がるが、
「お兄様っ!駄目です、絶対草彅の事を調べないでください」
「何故です?理由を知らなければ、それに答え様もありませんが」
「理由はお話しできません」
「なら、論外ですね。私が華月の言葉に従わなければならない所以は見つかりません」
「駄目な物は駄目なのです」
「話にならぬ・・・」
私が立ち去ろうとした時に袖を引く力が二つあった。
「太陽伯父上っ!」
「伯父様、華月お母様、あのような態度を取っていますが、先ほど太陽伯父さまが起こしになった事をお教えした時大変喜んでおりました。お母様のお気持ちをお察しください。ですから、もうしばらく居てくださると天雫も嬉しいです」
「すまなかった・・・、ならもうしばらくゆっくりさせてもらうとしましょう。直義さん、いいのですね」
「ええ、華月さんが喜びますから」と義理の弟がそういうと余計な事を口にするなと言わんばかりに華月は素早く、彼の後頭部を軽くたたく。
「夕食の支度をしてまいります。お兄様は今しばらくここでお待ちください」
先ほどの会話がまるでなかったような笑みで華月が笑うと、子供達二人は安堵の顔を浮かべた。
「天雫、陸斗、わたくしの手伝いはいいですから、お兄様の相手をしてあげてください」
「はい、お母様」
華月はそう言って出て行こうとした時に私は思い出したように
「ああ、そう、今日はお正月でしたね。私の可愛い姪と甥にお年玉を上げないといけないでしょう」との言葉に嬉しそうな表情を作る子供達。いやはや、素直でいい。
「お兄様のご職業は知っておりますが、必要以上、子供達へお渡ししないでください」との声に不満そうな顔を作る姪と甥だった。
「わかった、わかりました。だから、サッサと行ってください。しかし、華月、貴女、一体どのような教育を姪と甥にしているのです?何時時(いつじ)の言葉の使い方をさせているいのですか?」
「これはわたくしと直義さんの方針です」
直義は妹に気付かれない様に下で手を振って彼女の言葉を否定した。私はそれを見て華月を小さく嘲笑する。
疑いの眼差しを向けたまま、華月は旦那を伴って出て行く。
自身に子供がいないために年頃の小遣い事情などは知らない。だから、適当に。何故か都合よく持っていた子供用の熨斗袋。二人へ見えない様に財布の中身のお札全部を均等に分け、三つ折りにし、袋の中へ納めた。厚さに膨らむその袋を甥と姪に渡す。
「伯父様、有難うございます・・・」
「太陽伯父上、ありがたく頂かせてもらいます・・・」
二人は直ぐに中身を見て言葉を詰めた。
「どうかしたかね?少なかったですか?」
二人とも同時に貌を横へ振った。
「たっ、太陽伯父様?一体どのようなご職業なのですか?」
「なんです?華月から私の事を何も聞いていないのですか?」
「今日まで母上に兄上が居るなどと教えてもらった事はありません」
「そっ、そうですか・・・。本業は医者をしておりまして、それに関係する幾つかの事業へも手を広げています」
「お医者様なのに何かの会社を経営されているのですか?伯父様」
「ええ、そういう事ですね」
「伯父上すごいです。何故、母上は太陽伯父上の様な立派な方が兄上で在らせられるのに僕達へお話してくださらなかったのでしょう?」
「二人とも華月と君たちのお父さんがどのような仕事をしているのか、聞かされているかい?」
二人は迷わず、頭を縦に振った。
「そういった仕事でのしがらみですよ。華月にも色々と考えての事。責めないで上げてください」
そう口にするが、本当に責められるべき者はこの子供達の目の前に居る。私みたいなものがこのような純粋な子供達の前に出るべきではない事も判っている。
私の陰の部分を知らず普通に接してくれる華月の子供達。とても温かかった。他の者の家族の命を奪った私に人の温もりを受ける資格ありはしない。それに、私の本当の願い、幸せは二十年前に潰えている。
帰り際に、
「夜分まで厄介になりすまなかったですね・・・・・。華月、音夢の面倒を見てくださってありがとうございます。今はお前と同じように二人の仔も居る様で大変でしょうけど」
「おっ、お兄様の為に世話をしていたのではありません。音夢は私の家族ですから」
「そうですか・・・、では」
私が妹に小さく頭を下げて、背中を見せた時に・・・、
「太陽お兄様、また遊びにいらしてくださいね。天雫も、陸斗も、直義さんも喜んで迎えてくれるでしょうから・・・、・・・・、・・・・・、・・・・・、無論、わたくしもです」
甥姪と旦那の名前は聴こえたが、妹自身の声は小さく、遠ざかる私の耳には届かなかった。
8・宏之、狙われた心臓
八神慎治青年の一度目の絶望とは彼の親友の一人、柏木宏之の死。彼はある間違ったアーム計画の情報から殺害され、その心臓を奪われた者。
その心臓を移植させれば超人的な身体能力が手に入るという誤報が彼への死の道の到来を加速させた。
本来の持ち主、貴斗青年の心臓を得た処で超常的な力など手に入るはずもないと云うのに・・・。
しかし、私にとってアダム・アームの研究を悪用しようなどと言う者共は総べからず敵。故、私の持てる人脈を借りて、その誤報で動く組織の殲滅を図りました。その組織の壊滅に私も参加しました。罪まみれの相手を殺める事に如何様なためらいもない。
元々は人外魔性を葬る為に鍛えた刀、龍門(りゅうもん)‐千手院不破(せんじゅいんふわ)だが、物理的な刃である以上、人を切るのは可能。
斬撃、人の血糊と骨を喰らわば二、三度で切れ味が悪くなるし、刃毀れもする。しかし、最上大業物同等の不和の出来は格別で、私の剣の扱いが刃の鋭さを保ち続けた。
敵も味方も銃火器を使う中、私だけが刀で応戦していました。拳銃を切られ驚愕する敵。愕然とした顔で命乞いをする敵。しかし、私は容赦しなかった。冷徹に切り伏せ相手を絶命させる。
「腕が鈍ったか・・・」
少し、刀のふくら辺りに血糊が付いてしまった。その血を拭おうとした時、その血に漂う幽かな気配と覚えのある香りが立ち上り揺らめいていた。
「草影香(そうえいこう)・・・、・・・、・・・、・・・・、くさなぎ?まさか・・・」
草彅への疑念を抱きつつ特殊諜報員らと麻薬密売が絡むその組織を退けた後、私は各部屋を探索し、柏木宏之青年から奪われた心臓の在りかを求めた。
探索に半日。隠し部屋を見つけ、そこに丁重に冷凍保存された幾つもの臓器が発見される。麻薬だけでなく臓器も密売していたようでした。
更に半日が過ぎ、一番重要に扱われていた臓器が貴斗青年の元心臓を捜しだした。
ここ日本でも心臓移植を待つ患者は多い。しかし、このように非合法で手に入った物を易々と一般患者へ使う訳にもゆくまい。
私は持ち手に余るそれをシンガポールの藤原医研へと送っていた。そして、その心臓が貴斗青年の兄へ一回目に移植された心臓から再移植されたと知る事はない。
9・眠り落とされた翠と弥生
それは年が明けて二週間目が過ぎた二〇〇五年一月十一日、火曜日の事です。
不運は私の与り知らぬところでも連鎖する。
周囲が正月気分の熱から冷めた頃、救急患者もそれに合わせて少なくなっていた。
救急対応科の専門医とは別に交代で入っていた他の科の医師達が『やっと暇をもらえる』と愚痴をこぼしていた。私もその番が回って来る度にその仕事の多忙さに目を回しそうになっていた故にその愚痴をこぼす医師らの気持ちが十分わかる。
「明日は非番、今日はもう仕事も片付けてしまったし、仮眠でも取りましょう」と医局で独り言のように呟くと、
『医局にどなたかおりましたら、至急、救急救命棟へ来てください』
「調川先生ですね。私、大河内が今そちらへ参ります」
今週の救急対応科補助担当は私達が所属する第三外科。
救急対応科へ私の代わりに今、居たのは調川愁。彼から冷静ではあるが急いできて欲しいと云う意思は読み取れました。疲れてはいますが、もう少し持つでしょう・・・。
私は救棟へ辿り着くと、そこには救応の医師三名、私たち、第三外科の医局へ連絡を入れた調川愁。
「患者の数、その容態はどのようなものでしょう?」
「患者は二名です。いずれも意識不明全身打撲骨折。折れた骨が各種内器官へ損害を出している様です。生死に関しては術後でなければ」
「なら、私たちの出来る事は一つ、全力でその命を戻してあげる事でしょう?調川先生で、誰が第一?助手は、準備は」
「一人は私が執刀させて頂く事になりました。大河内先生はもう一人を担当する、八月朔日(ほづみ)先生の助手をお願いします」
それから、六時間強の大手術が続いた。確かに手術は無事に終わった。しかし、はっきりしている事は運ばれてきた患者二人、今のままでは峠を越えられない。
調川愁はその患者、二人の顔を知っていた。無論、私もだが・・・。片方は先日、私が手を掛けてしまった娘の妹、涼崎翠嬢。
もう一方は現在の藤原医研の施設副長、結城将嗣氏のご息女の弥生嬢。霧生洋介少年の親友、結城将臣少年の妹でもある。
調川愁は理解してしまった二人の患者の容体に苦渋の顔を造る。
どちらも、アダム・アームの関係者だった。私以外にアダム・アーム研究を停めようとする者がいるとでも言うのでしょうか?このままでは助かる見込みはなくともDRAMを投与すればと思い私は迷いなく、それを誰にも気がつかれない様に投与した。
これでまたしばらく、改良されたDRAMの臨床が出来、好都合かもしれません。自然治癒が高まれば、顔の大きな傷も目立ちにくくなるはず。後は形成外科の技術の見せどころ頼み。
このまま、私が済世会に居て、私の中の僕が、良からぬ企てを計り彼女達に危害を加えないとは断言できない。
私は色々な理由を付けて、三月末を持って私自身のここでの契約を終わりにする事にしました。無論、峰野院長が二つ返事を出して呉れない事は予想済み。そこを踏まえて、契約更新の話しを進めました。
「困るよ、大河内君、今君に出て行かれては。考え直してくれまいか?」
「確かに私は医者ですが、医者以外にもやらなければ多いのです。峰野院長が私の事を交ってくれるは嬉しいのですが。私よりもずっと優秀な者よこしますから、調川先生とまでと言いませんが、そのくらいの名医を・・・、それに今年の研修医、非常に優れた方が来られるとか?」
「ああ、確かに八神君の処の佐京ちゃんが来る事になっているのだが、全てが全て母親譲りとは行かんのだよ。性格に少しなん有りでな・・・、はっはっはぁぁ~・・・」
嬉しそうな表情を作ったかと思うと消沈してゆく峰野院長。皇女氏のご息女もまた医者の道を選んだか・・・、昔から医道に通ずる家系。皇女氏の次の代も絶えず継がれる事は素晴らしい話だ。
「今回、私が抜けさせてもらう大きな理由は今後の医療発展。特に情報通信で病院-病院間での患者の情報を円滑に開示できる機構を作る為です。上手くゆけば、救急車であちらこちらをたらいまわしにされた挙げ句、その患者を見す見す死なせる事も少なくなるはず」
「君に残ってくれと言うのは私の我儘であるから、大河内君がそこまで先の事を考えているのであれば、仕方があるまい・・・。そのシステムとやらが出来たらぜひ、私の処で試させてもらうよ。その時はちゃんと君も戻ってきてくれると非常に助かるのだがね」
「考えておきます。私はあと一カ月のお世話になりますが、今後とも私の処の派遣医をよろしくお願いします」
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