第12話 牡丹さんの昔のこと

 宿木やどりぎ牡丹ぼたんという少女は、いたって普通のどこにでもいる女の子だった。

 両親に愛され、弟と仲良く暮らす日々。

 それが崩れたのが、彼女が小学6年生の時。

 母親が急逝したのだ。

 朝、いつもの通りに「いってきます」と言って別れたのが最後になった。

 家に帰ると誰もいなくて、家の鍵が開かずにしばらく犀と家の前で呆然と待っていたのを覚えている。

「お母さん、いないの?」

「きっと買い物か何かじゃないかな。すぐに戻ってくるよ」

 弟の小さな手をつないで、空が赤く染まっていくのを眺めていた。

 その頃、お父さんは病院にいたらしかった。

「牡丹ちゃん、せいちゃん!」

 近所のおばさんが家の前で待っている牡丹たちを見つけて、病院まで連れてきてくれた。

 病院に送ってくれる車の中で、真っ赤な空が少しずつ藍色になっていくのを眺めていた。

 きれいだなあと、ぼんやり思いながら。

 それまでは母が倒れたとっても、本当に倒れたという意味でしか分かっていなかった。

 まさか、死んでしまうなんて思っていなかった。


***


 通夜や葬式のことは覚えていない。

 牡丹がよく覚えているのは、初七日も終わって北海道にいる叔父叔母が帰ってしまってからだ。

 たくさんの人が出入りしていた家が、一気にがらんとなった。

 犀はずっと泣いているか、ぼんやりしている。

 父さんはそんなに長く会社を休んでいるわけにはいかず、牡丹たちも同様に学校にいかなくちゃいけなくなった。

 北海道にいた叔母がいる間は、それでもまだよかった。

 しかしずっとこちらで牡丹たちの面倒を見ているわけにはいかず、帰る前にはいろいろと準備をして帰っていった。

 冷蔵庫に食べ物を買い足したり、洗濯機の使い方を教えていってくれたりした。いろいろとメモを残してくれてもいたが、その時の牡丹の頭には入ってこなかった。

 母親が一人抜けただけだったというのに、宿木家の空気はまったく違ってしまった。

 暗くてどこか寒々しく、どんよりとしていた。

 いつも片付いていた家が誰も掃除をしなくなり、少しずつ荒れていたせいなのだと思うが、その時は気づけなかった。

 父さんは仕事と、これまで母さんがやってきたことを一手に引き受けなくてはいけなくて、いつも疲れていたように思う。

 食事は冷凍食品とインスタントとデリバリーのローテーションになり、犀は学校に行かなくなった。

 家の中はいつも暗くて、なんだか怖くて自分の部屋に閉じこもっていた。

「犀は、今日も学校に行かなかったのか」

 食事にもたまにしか顔を出さなくなった犀のことを聞かれて、私も頷くばかりだった。

 犀に話しかけても返事が返ってこない。

 もともと甘えたがりで母親にべったりだった犀。

「私も学校に行きたくない」

「いやなことあるのか?」

「……別に、ないけど」

 ただ、今まで通りの同級生が教室はなんだか居心地が悪く、母親のいなくなった自宅はもっといたたまれなかった。

 我儘を言ったつもりはなかったが、この言葉をとても父は気にしていたらしい。

 それから一か月後、父は過労で倒れた。

 1週間の入院ということで、その時は学校の先生が病院に連れてきてくれた。

 この時、ICUの前を素通りしたのにほっとした。

 6人部屋の隅っこに点滴を受けて横たわっている父を見ても、涙は出なかった。

 青い顔をして寝ている父は、なんだか一生起きないような気がした。

 大きな影みたいな何かがずっと自分の後ろにいて、のしかかってこようとしている。そんな錯覚が病院にいる間ずっとしていた。

 近所のおばさんが来ていて、明日には北海道からまた叔母が来てくれることになったと教えてくれた。

「おばさん、今日は牡丹ちゃんの家に泊まろうか?」

 牡丹はうつ向いたまま首を横に振った。

 何かあったらすぐに連絡をしてねと言って、おばさんは帰っていった。

 途端に静まり返る家の中の沈黙。

 誰もいない。いや、犀が部屋にいるはずだが、いつもの通り出てこない。

 自分の部屋に戻ると、ベッドの中に入り丸くなった。

 お父さんはただの過労だって言っていたから、死なないって。

 北海道のおばさんは明日来てくれる。

 学校は、どうしよう。

 行った方がいいんだろうか。

 ……北海道からおばさんが来るなら、学校休んでも怒られないかな。どうしよう。

 宿題って出てたっけ?

 明日来ていく服、どうしよう。洗濯したままな気がする。

 朝ごはんどうしよう。犀はまだ部屋に閉じこもってるつもりかな。

 あ、お父さんが倒れたこと言ってない。でも、犀に話して、また泣いたりしたら面倒くさい。だいたい、犀は母さんが死んでから、何かとすぐに泣きだして話にならない。

 父さんも、そんな犀を怒らないし、私ばっかりが……。

 考えているうちに、だんだん泣きたくなってきた。

「お母さん」

 死んでから、初めて言葉にした。

 そのことに気が付いた時、一気に涙があふれてきた。

「お母さん、助けて……、おかあさん、おかあさ……っ、助けて、もうやだ。やだぁ……」

 わあわあと大声を出して泣いて、初めて自分がこれまで通夜でも葬式でも泣いていないことに気が付いた。

 そう思うと、どんどん溢れてきて、いくらでも泣けた。

「おかあさ……おかあさぁあん」

 来年は中学生になるというのに赤ちゃんに戻ったみたいだった。

 それくらい泣いた。

 宿木家はたった4人家族で、母親が欠けてしまった。

 欠けてしまったのはたった一人だ。残っている人数の方が多いのに、宿木家はいまばらばらでみんな一人ぼっちみたいだ。

 悲しい、寂しい、怖い、つらい。

 頭が痛くなるほどさんざん泣きわめいて、どれくらい時間が経っただろうか。

 外も部屋の中も真っ暗で、少し肌寒かった。

「寒い……、お腹すいた」

 頭が痛くなり、呆然とするほど泣いてわかったことは、泣いても喚いても何も起こらないいということだ。

 お母さんがいた時にみたいに部屋は温まらないし、食事も出てこない。

 のろのろと部屋を出て、1階に降りる。

 エアコンをつけて、キッチンに行き何か食べるものを探す。

 インスタントも冷凍食品も食べたくなかった。

 母親がいなくなって初めて感じたことだが、母は料理が好きな人だったので、あまりそういうものを食卓に出していなかったのだ。

 だから普段食べつけない味に、牡丹はいつも途中で食べたくなくなっていた。

 自分で作れるものと言ったら、お味噌汁と目玉焼きくらい。

 キッチンに立つ母親の手伝いをするのは嫌いじゃなかったし、学校の調理実習で習ったことも覚えていた。簡単なものなら自分で作ることも可能だ。

 がたがたと鍋を出したり材料を冷蔵庫から出していると、廊下のきしむ音がした。

「犀」

 振り返ると、キッチンをのぞきこんでいる弟の姿があった。

 そういえばここしばらく顔を見ていなかったように思う。

「何してるの?」

「お腹すいたからご飯食べようと思って。犀は?」

 聞くと、こくりと頷いた。

 それから豆腐とわかめのお味噌汁と目玉焼きを作り、炊飯器のご飯をレンジであっためた。

 ダイニングキッチンの上に雑然と放置されたものを寄せ、簡素な食事を乗せると、二人で「いただきます」と言って食べ始めた。

「おいしい」

 一口、二口とゆっくりと食べていた犀が小さく呟く。

 犀の口から、おいしいという言葉を聞いたのは久しぶりな気がした。

 しばらく二人で黙ってご飯を食べていたが、

「お父さんは?」と、犀に聞かれて初めてこの子に父親のことを知らせるのを忘れていた子に気づいた。

「お父さん、病院」

「どうしたの?」

 犀の表情が明らかに曇ったのを見て、牡丹はなるべく何でもないことのように言った。

「過労だって。1週間くらい入院だけど、元気になるって。北海道のおばさんは明日来てくれるし」

「そっか」

 食事を終えると、自分たちが使った食器と流しにたまったままになっていた食器と鍋を全部綺麗に洗った。

 時計を見ると十時を回っていた。

「もう寝よう」

 そう言ってふと犀を見ると、なんだか薄汚れているような気がした。

「ちょっと犀、こっち」

 そう言って匂いを嗅ぐと、かすかに臭う。

 父さんもしばらく忙しくて、犀にかまっている暇がなかったせいだろう。

「寝る前にお風呂かな。自分では入れるよね」

「面倒くさい」

「だめ、臭うよ」

 風呂を沸かして嫌がる犀を入れると、自分もそのあとに入った。

 こざっぱりとした犀を見て満足し、自分も髪を乾かす。

 なんだかすごくすっきりしていた。

 数時間前にぎゃあぎゃあと泣いていたのが嘘みたいだった。

「それじゃ、寝ようか」

 こくりと頷く犀と一緒に二階に上がる。

 自分の部屋の前に来ても、犀は牡丹の手を離さなかった。

「……一緒に寝る?」

 黙ってうなずくのを見て、牡丹はそのまま犀を自分の部屋に連れて行った。

 ふたりでベッドにもぐりこんで電気を消す。

 犀はもぞもぞと動いていたが、やがて落ち着くポジションを見つけたのか大人しくなった。

「姉ちゃん」

「何?」

「ご飯、おいしかった」

「そう? なんにもなかったけど」

「ずっと、変な味の弁当とか、そんなにばっかりだったから」

 後から聞いた話だが、犀はこの時、ともかく母親が手を加えたもの以外を口にすると、薬の味や濃い味付けがして気持ち悪くなり、こっそり吐いていたそうだ。

 だから、稚拙とはいえ母親の作った味に近い、あるいは素材そのままの味のものが食べられたのが、最高においしかったらしい。

 牡丹はそこまででもなかったが、確かに外食にはうんざりしていた。だから犀も食べつけなかったんだなと思ったくらいだった。

「普通にご飯食べれたの、久しぶりだった」

 犀はそういうと、目を閉じた。

「父さん、大丈夫かな」

「大丈夫だよ。明日、一緒に病院行こう」

「うん」

 ぼそぼそと話しているうちに犀は寝息を立て始めた。

 その寝顔を眺めながら、犀の身体を抱きしめる。

 母親が死んでから3か月の間に、犀はすごく痩せてしまっていた。

 犀はどちらかというと、太ってはいないが、骨が浮いてがりがりというほどの体つきじゃなかった。

 牡丹は、ほんの数時間前まで犀のことをずるいと思っていた。

 母親が死んでしまった事実から目を背けて、ずっと学校にも行かず、部屋に閉じこもっている弟は卑怯だと。

「ごめんね、犀」

 こんなにつらい思いをしていたなんて、知らなかった。

 小さな弟に申し訳なくて、牡丹は眠ってしまった弟を抱きしめた。


***


 過労で倒れた父親は順調に回復していった。

「すまないなあ、苦労かけて」

 病室に誰が行っても、父はそう言って申し訳なさそうに笑った。

 北海道から再び手伝いに来てくれた叔母は、かいがいしく牡丹たち兄弟の面倒を見てくれ、家も綺麗になった。

 一か月の滞在ののち、叔母はまた帰っていったが、その際に父親と相談したのか、週に2回ほどヘルパーさんに来てもらうように決めた。

「どう考えても泰輔さんだけじゃ、無理。子育ても家のことも、お勤めしながらやるなんて土台無理なのよ」

 呆れたように言われて、泰輔も渋々受けいれた。

 思うに、泰輔は母が死んだ家に、他の人を入れるのが嫌だったのじゃないかと思う。

 これもまた大人になってから、そうではないかなと、あくまで牡丹の想像だが。

 そして半年ほどヘルパーさんに面倒見てもらって、犀は少しずつこれまでの生活を取り戻し、泰輔も仕事をしていて倒れるようなことはなかった。

 牡丹はというと、ヘルパーさんの来ている時はヘルパーさんに、そうでない時は自分で家の仕事を覚えるようにした。

 料理はもちろん、掃除の仕方。衣類の洗濯や管理の仕方。

 そして中学生になったのを機会に、牡丹は泰輔に提案した。

「お父さん、犀もだいぶ元気になったし、私もおうちのことは手伝うから、そろそろヘルパーさん頼まなくていいじゃないかな」

 話したときは、不安そうにしていたが、牡丹が「大丈夫、大丈夫」と能天気に言って、強引に契約を終了してもらった。

 それから3か月ほど、学業と家事の両立に多少試行錯誤したにしろ、生活は安定した。

 中学2年生になった牡丹は、すっかり宿木家の『主婦』となっていた。

「牡丹にはすっかり世話になっているなあ」

 ある日、牡丹がキッチンに立っていると、泰輔がぽつりとつぶやいた。

「お前がしっかりした子だから、うちは困らずにやっていけるんだよな。申し訳ないと思うけど、助かるよ」

 しみじみという泰輔が、穏やかにほほ笑んだ。

「ありがとうな、牡丹」

 母が死んでから、初めて父が穏やかに笑ったのを見た気がした。


***


「姉ちゃん、何見てんの?」

「んー」

 リビングで古い日記帳を広げていた牡丹の手元を、犀がのぞき込む。

「母さんの日記」

「え、なにそれ。そんなのあるの知らなかったんだけど」

 ますます首を伸ばしてのぞき込むのに、牡丹が少し顔をしかめて身体を引く。

「日記って言っても、ご飯のレシピとかおうちの手入れの方法とか覚書が書いてあるだけで、そんなに面白事は書いてないから」

「へー」

 まじまじと見ていた犀に

「もー、バイト行くんでしょ?早く行きなよ」と、背中を叩く。

 叩かれた犀も時計に目をやって

「やば、いってきます」と、踵を返す。

「今日は夕飯どうするの?」

「あとでLINEする!」

 玄関から怒鳴る声がする。

 バタバタと扉が閉じる音を聞いてため息をつくと、日記に視線を落とした。

 2月になると、母は庭の沈丁花を父に切ってもらって家の中に飾るのを楽しみにしていたようだ。

 そういえば今頃って、家の中にいい匂いがしていた気がする。

 それとも単なる思い出補正かな。

 そんなことを考えながら、ページをめくる。

 もしあの時、もっと早く犀がご飯を食べられないことに気づいてあげていたら、犀は栄養失調直前のような状態にはならず、すぐに元気を取り戻していたんじゃないだろうか。学校にもちゃんと行っていたかもしれない。

 母がいなくなった家の暗さに耐えられずに部屋に閉じこもるのではなくて、食事の後片付けをするとか、新聞紙を片付けるだけでもいい。父は過労で倒れなくて済んだんじゃないだろうか。

 ほんの少し牡丹が周りの人に目を向けていれば、みんなが苦しまなくて済んだ。

 父が穏やかに笑って「ありがとう」と言った時、犀が「普通にご飯食べれたの、久しぶりだった」と安らかな顔をした時、心が軽くなった。

 泣いても喚いても何も解決しなかった。

 それよりもほんの少し、みんなの様子を見て自分が動けば、驚くほどに事態は好転していった。あっけないほどに。

 相手の気持ちがわかる人になれば、自然と自分も楽になれる。

 ずっと、そう思っていた。

 だからいつも家族のことを考えていたし、宗冴のこともずっと見ていたつもりだったのに。

 ぱたりと、牡丹は日記の上に上半身を倒した。

「母さーん……、みんなが私を鈍いっていうのよ。ひどいと思わない?」

 ため息交じりに呟くが、誰も返事はしてくれなかった。


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