第11話 牡丹さんとニットの貴公子④

「すみません、お忙しいのに車まで出していただいて」

「大丈夫ですよ」

 牡丹ぼたんは助手席でひたすら恐縮しまくっている。

 会場から直帰するという牡丹を、それなら車で最寄りの駅まで送って行くと申し出た。

 もちろん最初は丁重にお断りされた。

 だが、最後にもう一度、葵のところに顔を出したと時に

「あら、宿木やどりぎさん、車じゃないの? じゃ、その大荷物を担いで電車で帰る気? 大変じゃないの! 秋鳴あきなり、車出して。宿木さん、お送りしてあげてちょうだい」と、強引に秋鳴を送り出した。

 正直、あおいに言われなかったら、牡丹はそのまま電車で帰っていっただろう。

 母親の助け舟というのは情けないが、またただの取引先の人として、印象の薄いままよりはましだ。

 自宅の最寄りの駅まで送ると言ったが、それはあまりにも申し訳ないという牡丹と話し合い、それなら乗り換えの駅までと、妥協案を出してやっと頷いてもらえた。

 警戒されているというより、ともかく仕事の相手先に迷惑を賭けてはいけないとかたくなに思っているようだ。

 そこまで真面目に考えなくてもいいのに。

 相手の親切を当たり前のように享受する女性も多い中、牡丹はとても特別に見えた。

 まあ、惚れた欲目かもしれないけど。

 途中で軽く食事をし、再び駅を目指す車中で牡丹は改めて礼を口にした。

「本当に今日はお世話なりました」

 柔らかく微笑むと

「会場内を案内していただいたので、本当にスムーズで。私、実は地図を読むのが苦手なので、ああいう大きな会場とか、本当は少し緊張してたんです。ありがとうございました」と、少し恥ずかしそうにお礼を言う。

 大通りをぬけると、目的の駅前に出る。

 もう、何分もなく彼女は車を降りていく。

「あの、宿木さん」

「はい?」

「さっきお渡しした連絡先ですけど」

 最初、何を言われているのわからないという顔をした牡丹が、

「あ、名刺ですね!」と、明るい声を出す。

「本当に、あの……いつでも連絡待っていますので」

「? ……はい」

 あからさまに『わかっていません』という顔をされて、秋鳴は小さくため息をつく。

 いや、遠回しな言い方をする自分が悪いのだ。

「宿木さん!」

「ぇ、は、はい!」

 自分ではそんなに大きな声を出したつもりはなかったが、つい、気持ちが先走ったのか牡丹が驚いたように助手席で小さく身じろぎする。

「僕はあなたのことが好きなので……、えっと、仕事以外のことでも、貴方と会って話せたらいいなと」

「は……」

「迷惑ですか?」

 ハンドルを握る手が、汗でぬるっとした。

 ひどく喉が渇いている。

「迷惑なんてそんな……、とんでもないです。秋鳴先生みたいな素敵な方に、そんな風に言っていただけるなんて」

 言葉の内容とは裏腹に、声のトーンはどんどん沈んでいく。

 隣を見ると明らかに沈んだ表情で俯いていた。

 やっぱり、ダメか。

 牡丹のような女性が、恋人の一人もいないということの方が不自然だ。それに以前見た幼馴染の顔も脳裏をよぎる。

 でもあの子はまだ、高校生みたいだったし、こちらが割り込む隙もあるかと思ったのだが。

 車は大通りを抜けて、駅前のロータリーに入る。

 車寄せの近くにあるコインパーキングに止めると、車内に重い沈黙が流れる。

「もし僕のこういう感情がご迷惑だったとしたら、今後、二度と言いません。仕事に支障をきたすこともないようにするので、心配しないでください」

 大した時間じゃなかったのかもしれないが、随分と長く黙り込んでいるように感じられた。

 もしかして取引先の人間だから、どう角を立てずに断ろうかと悩んでいるのか。

 自虐的な考えしか浮かばずに、横目で牡丹を見ると、牡丹はうつ向いたまま指を組み合わせて何かを考え込んでいるようだった。

「あの……」

 牡丹が口を開く。

「秋鳴先生は、私のこと、いつから好きだったんですか?」

 予想外の質問に、秋鳴が一瞬、固まる。

「えっと……、確か、事務所のスタッフが一人辞めて、そこから彼女の業務を引き継いで。その時、牡丹さんとお会いして一目ぼれしたので、1年……もう、ちょっと前くらいからでしょうか」

 羞恥もあったが正直に答えると、牡丹はひどくショックを受けたような顔をした。

「そんなに、前から、ですか」

 なにかすごくひどいことを言ったような顔をされたが、意味が分からない。

 なんだろう、そんなの前から何もせずに見ていたのか気持ち悪いとか、そういうことだろうか。

 それとも一目ぼれという言い方が重かったのか。

「私、……すごく鈍いんですね」

「いえ、そんなこと……、ぇ!?」

 ぎょっとする、どこか遠くを見ている牡丹の目から、涙が一筋こぼれた。

「や、宿木さん!?」

「え、あれ……」

 秋鳴がひどく動揺したことで、牡丹も気が付いたようで、慌てて自分の目元を押える。

「え、そんなに? そんなに嫌でした!?」


「いえ、違……、違うんです! これは、その……っ、私、最近情緒不安定というか……っ、すみません!」

 言いながら、牡丹がハンカチで自分の目を押える。

「秋鳴先生は何も悪くないんです」

 震える声でそう言うと、「すみません」と、もう一度行って、そのままハンカチを当てて小さく背中を丸めた。


***


「すみません」

 もう何度目かの謝罪の言葉を口にして、牡丹は顔を上げた。

「落ち着きました?」

「はい、ホントに……すみません」

「謝らなくていいですよ」

 秋鳴は言うと、「ちょっと待ってて」と、車から降りて、コインパーキングのそばにあるベンダーで、コーヒーと紅茶を買う。

「どっちがいいですか?」

 車に戻って差し出すと、牡丹は戸惑った表情をしたが、

「出した分だけ、補給してください」というと、

「じゃあ、コーヒーを」

 無糖のコーヒーを手に取った。

「ご迷惑をおかけして」

「とりあえず、僕の告白とはまったく別のことで泣かれたと思っていいですか」

 秋鳴が言うと、牡丹は恥ずかしそうに俯いたのは肯定の証だろう。

 ため息をつく。

 最初こそ、驚いたが震えて泣いている牡丹を見ているうちに、どう考えてもおかしいという気持ちになった。

 秋鳴への嫌悪感なり、困惑なりであれば、少なくとも泣いたりしないだろう。

「ちょっと、自分で自分にがっかりというか、ショックというか」

 牡丹はぽつりぽつりと言葉を探しながら話しているようだった。

「失望というか、……人の気持ちが、本当に分からない人間なんだなと……思ったら、ショックで」

「泣くほどショックを受けますか、それ」

 揶揄するつもりはなかったが、そんな風に聞こえたかもしれない。

 だが、本当のことだ。相手の気持ちを百パーセント理解するのは誰にもできない。

「人の気持ちに気づいてあげないことは、そんなに悪いことだとは思えないんですけど。失礼な言い方ですが、宿木さんより人の気持ちに鈍感な人はごまんといますよ」

「でも、その『ごまん』に自分が含まれているということが、ショックだったんです」

 どこか上の空のような声音で、牡丹が言う。

「……少し前に、好きだと言ってくれた子がいたんです」

 牡丹の言葉に、店で見かけた『弟』の顔が浮かんだ。

「その子は、随分昔から一緒にいた子で、家族みたいに思っていたんです。その子も同じように思っていると信じていて。ただ、そう思っていたのは、わたしだけだったんです」

「それって」

「兄妹も友達もみんなその子の気持ちに気づいていたし、知っていたんです。まるで当たり前のことみたいに。私だけが全然わかっていなかったんです」

 牡丹はコーヒーを手の中に包んだ。

「それ以来、なんだか訳がわからなくなってしまって。相手の顔色を見るって、悪い意味に使われますけど、私、そんなに悪いことじゃないと思っているんです。相手の立場に立って考えることって、大事じゃないですか」

「まあ、それは確かに」

「今まで誰に対してもそうしてきたつもりだったし、それでうまくっていると思ってたんです。けど……、独りよがりだったんだなと思ったら急に、何を信じたらいいのかわからなくなって」

 それから、思わずというように言葉がこぼれた。

「だいたい、どうして私なんて好きになってくれたのか」

「随分、自分を卑下しますね」

 多少おどけて言うと、牡丹はかすかにほほ笑んだ。

「いい子なんですよ。頭もいいし、スタイルもいい。優しいし、とてもモテる。もっと若い、同じくらいの年の綺麗な子がお似合いだと思うんです」

「宿木さんだって美人で優しくて、かわいい人です。仕事もできるし」

 さっきまでは少し褒めるのさえ緊張していたのに、不思議とすらすらと言葉が出てきた。

「秋鳴先生も優しくてかっこよくて素敵ですね」言うと、小さく笑った。

「大事な人の気持ちがわからないのって、怖いですね」

 牡丹がぽつりと言うのに、秋鳴は髪をかき上げた。

「それは誰もが持っている不安だと思いますよ」

 紅茶のプルトップを開けて一口飲む。

「あと先ほどの宿木さんのお話ですけど、僕もおおむね賛成です。人の顔色をみるということは悪いことじゃないと思います。人間関係を円滑にしようと思うなら、大なり小なり誰しもやっていることだし。でも、貴方のそれは少し重きを置きすぎているように見えます」

 牡丹は神妙な顔で秋鳴の言葉を聞いていた。

「それに貴方が泣くほどショックを受けたのは、もっと別の理由な気がしますが」

「……秋鳴先生って、本当に先生って感じですね」

「どういう意味ですか?」

「いろんな話を聞いてくれて、面倒見がいいし」

 缶コーヒーをバックに入れて、牡丹がぺこりと頭を下げる。

「いろいろとありがとうございました。変な話にまで付き合ってもらって」

「いいですよ、そんなの」

「人前で泣いたのなんて、中学生の時以来です」

「それはまた」

 随分と我慢強いと思ったが、声に出さなかった。

 助手席から車を降りると、後部座席から大きな紙袋を手に取る。

「あ、そうだ」

 牡丹は言うと、後部座席に乗せていた秋鳴のバックのサイドポケットに千円札を差し込んだ。

「駐車場代。入れときますね」

「あ、いいですよ! そんなの……っ、気にしないでいいのに」

「お礼みたいなものなので。お昼も出してもらってしまったし」

 そう言うと後部座席の扉を閉める。

「それでは、失礼します」

 頭を下げると、ロータリーを駅の改札に向かって歩いていく。

「宿木さん!」

 車から降りて声をかけたが、牡丹は一瞬足を止めて軽く頭を下げたが、そのまま小走りに行ってしまった。

「はあ」

 ため息をついて、渋々運転席に戻る。

 もう一度、深く息を吐き出してから

「まあ、俺の告白はうやむやにされてしまったわけだけど」と、うそぶく。

 だが実際、無理だろう。

 あれほど心を乱される相手がいるのでは、きっと横から攫うことは難しい。

「ホンットに、一目惚れだったんだけどな」

 ハンドルに頭をついて、秋鳴は泣き言を吐き出した。


***


 家に帰ると、泰輔たいすけがキッチンに立っていた。

「ただいま」

「お帰り。ごはんもうすぐできてるぞ」

「ありがとう……っていうか、また揚げ物?」

 唐揚げをあげているのをのぞき込みながら言うと、

「昼間にとんかつ揚げてな。油をしまうのが面倒になって、唐揚げでいいかって」

「昨日の残り揚げたの?」

 意外に思って聞くと

「昼間、カツカレーにして食べた」と、ぼそりと答える。

「お父さんとせいで? お父さん、胃もたれしない? 大丈夫?」

「うん。宗冴しゅうごくんが寄ってくれたから、犀と宗冴くんで食べてもらった」

 着替えてきて手伝おうとして、キッチンから離れようとした足が止まった。

「宗冴くん、来てたんだ」

「ああ」

「明日、試験でしょ。元気そうだった?」

「んー、まあ。ちょっと寝てないみたいな顔してたな。眼の下にクマ作ってた」

「そっか」

 呟いて、のろのろと二階にあがる。

 自室に入ってコートを脱ぐと、着替える気力もそがれてベッドに腰掛けた。

「来てたんだ」

 そう呟いてから、腫れぼったい目を押える。

 人前で泣くのは母親の葬式以来で、一人で泣くのは……いつ以来だろう。

 化粧落とさなきゃ。

 着替えて、お父さんのこと手伝おう。

 何もする気が起きなかったが、このまま寝てしまうわけにもいかない。さっさと着替えると部屋を出る。ちょうど自室から出てきた犀とかち合った。

「姉ちゃんおかえり」

「ただいま」

「今日、宗冴来たよ」

「父さんから聞いた。寝不足っぽかったって?」

 できるだけそっけなく聞いたが、犀は何か言いたげな顔で牡丹を見た。

 それを無視して階段を下りる。

「宗冴、明日試験だぞ」

「知ってる」

「なんか言ってやらないの?」

 犀が後ろからついてきて言うのに、黙り込む。

「いつもなら鬱陶しいくらいに絡むじゃん。忘れ物ないようにねーとか、前日はちゃんと睡眠とってーとか」

はなさんが傍にいるんだから大丈夫」

「それでも、これまでは世話焼いていただろ」

 だんだん犀がイラついてくるのが声音で分かったが、何か言おうとすると泣きそうだった。

 一度、堰を切ってしまったせいか、涙腺が緩くなっている。

「別に返事とかは先延ばしにしてもいいから、頑張れぐらい言ってやれば?」

 捨て台詞のように言うと、犀は牡丹の脇をすり抜けてキッチンに入った。

 本当は犀の言う通り、声をかけたい。

 でも今の牡丹の言葉は、どこか上滑りで、わざとらしいものにならないだろうか。

 以前のようにできないかもしれない。

 それが怖くて牡丹の舌は凍り付き、言葉が喉につかえるのだ。


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