第10話 牡丹さんとニットの貴公子③
この間、松の内と思っていたのに、もう1月も後半。
「それじゃ、お父さん。あと、よろしくね」
バタバタとコートを羽織ってリビングに顔を出すと、新聞を広げてお茶をすすっていた
眼鏡の蔓に手をやって、
「ぁあ、ご苦労さん。気をつけてな」と、新聞をめくる。
「お昼は冷蔵庫に昨日のカレーもあるし、冷凍食品もカップ麺も買ってあるから。お夕飯には間に合うと思うけど、遅くなりそうなら連絡する。あと、洗濯物2階に干しているから、犀にとり込むように言っておいて!」
「わかってる、わかってる。いいから、もう行きなさい」
「じゃ、行ってきます!」
小走りに玄関に行き、慌ただしく出ていく気配。ドアが閉じる音を聞きながら、新聞に再び視線を落とす。
テレビの音を聞きながら、新聞を広げていると二階から
「おはよ」
「おはよう」
眠そうな長男を一瞥する。
犀はまだスウェットのままで、ぼさぼさの髪に手をやってあくびをしている。
「姉ちゃんは?」
「牡丹は仕事。洗濯物とりこんでおけと言っていたぞ」
「えー……」
犀は声を漏らしたが、そういえば昨日のうちに頼まれていた。
「今日は出張か。姉ちゃん、夕飯までに帰ってくるかな」
「お前も大学生になったんだから、いい加減、牡丹に頼るんじゃないよ」
新聞を折り畳んで泰輔がため息をつく。
「こういう時くらい、夕飯作って待っていてやろうとか思わんのか」
「姉ちゃんの作る飯の方がうまいじゃん」
犀はぼさぼさの頭を掻きながら、冷蔵庫から牛乳を取り出している。
「俺ができるのなんて、せいぜい洗濯もの取り込んでおくくらいだし。冷蔵庫荒らさないほうが姉ちゃんも助かるって」
その後姿を見ながら、泰輔は少し考える。
「まあ、確かにな」
「自分の部屋に掃除機かけてゴミ集めといた方がよっぽど喜んでもらえるよ。父さんも自分の部屋のゴミ集めとけよ。明日、燃えるごみの日だぞ」
「ぁあ」
泰輔はそう言いながら、テレビのチャンネルを変えた。
***
ニットフェス初日。
関係者に限定されているだけあって、会場は歩けないほどの人ということはなかった。
首から関係者パスを下げた
ブースの主役である
「秋鳴先生、無料配布のグッズ。本日分、終了しそうです」
「ぁあー、ちょっと早いね。まあ、しょうがないか。終わっちゃったら終了で。明日、明後日の分はちゃんと取っておいて」
「秋鳴先生、須藤様がお越しです」
「はい。あ、どうも、お世話になってます!」
「秋鳴先生、明日のワークショップの確認でスタッフの方から連絡が」
「葵先生が直接、事務局に伺うってお返事しておいて」
次から次への連絡は入ってくるが、秋鳴が落ち着かないのは、その為だけではなかった。
11時には伺いますって言っていたけど、……そろそろかな。
何度も無意識に時計を確認してしまう。
「先生、何か待っています?」
スタッフに言われて弾かれたように顔をあげる。
「いや、うん。来客があるから。そうだ、事前に言っておいたけど」
「午後から夕方くらいまで抜けられるんですよね。大丈夫ですよ」
てきぱきと言われて、少しほっとする。葵の弟子のようなスタッフが何人かいるのだが、みなよく気が付いて働いてくれる方助かる。
「よろしく」
ほっとして言った途端、他のスタッフから声をかけられる。
「先生、受付から連絡です。まいやま手芸さんがいらしたと……」
「すぐに行くから、待っていてもらってください!」
我ながら落ち着きがないと思うほどの食い気味の返事に、周囲にいたスタッフが目を丸くして秋鳴を見る。
「えっと……、じゃ、行ってきます」
「はーい、いってらっしゃい」
「何かあったらスマホに連絡して」
「了解です」
スタッフの物珍しそうな視線に見送られながら、イベント会場を足早に抜ける。
受付に行くと、華奢な女性が受付から少し離れた場所に立っている。
ハイネックのグレーのニットに深緑のタックスフレアのスカート。黒のコートを羽織って、いつもは履かないような少しかかとの高いパンプスを履いていた。そのせいかいつもよりすらりとして見える。
「宿木さん」
声をかけると、振り返り柔らかそうな茶色の髪が揺れた。
「秋鳴先生、本日はチケットありがとうございます」
軽く頭を下げると、牡丹は柔らかく微笑んだ。
そのおっとりと上品な仕草や優しい微笑みに、一瞬、見惚れる。
やっぱり綺麗な人だな。
「それにわざわざ窓口まで来ていただいて。こちらからブースにご挨拶に伺いましたのに」
「いえ、こちらがお招きしたようなものなので」
見惚れていたことを悟られないように、しどろもどろに応える。
「それじゃ、行きましょうか」
「はい」
答えてから、一瞬、何か牡丹が言いよどんだ。
「何か?」
「いえ、……秋鳴先生、もしかすると本当にご案内してくださるんですか?」
「そのつもりですが」
そう答えると、牡丹は少し戸惑ったようだったが
「お気遣いはとてもありがたいのですが、葵先生のブースもお忙しいでしょうし……。私、ちゃんとパンフレットも事前に確認しましたし、一人で回れるように準備してきましたから」と、手に持っていたパンフレットを示す。
「あまりお手数をかけるのも心苦しいですし、秋鳴先生はもう戻られた方が」
どうやらひどく恐縮しているようだったが、本気で鬱陶しがられている可能性も否定できない。いつもの秋鳴だったら、『じゃあ、ここで』と引き下がっただろう。
だが、ここでひるんでは、せっかくチケットを渡した意味もなくなる。
「心配しないでください。大丈夫ですよ、うちのスタッフは優秀ですから、任せておけば僕なんていなくても平気なんです」
「でも」
「それとも僕が一緒だと、かえってご迷惑ですか?」
「迷惑なんて、そんな!」
とんでもないという風に慌てて牡丹が言う。その様子がどこか少し幼く見えて可愛かった。
「会場は広いですから、パンフレットをチェックしていても迷うこともあるかもしれませんよ。僕は昨日の設営からいますから、スムーズにご案内できると思います。ぜひご一緒させてください」
そこまでいうと、牡丹は少し困っている様子だったが、
「では、よろしくお願いします」と、はにかむように笑った。
かわいい。
ニヤケそうになるのを必死でこらえる。
「それじゃあ、まずはどこから行きますか?」
「まず、葵先生のご挨拶させてください」
パンフレットを見ながらいう牡丹を横目に、秋鳴は浮かれた態度が表に出ないようにと、何度も心の中で自分に言い聞かせた。
***
会場内の企業や作家のブースをいくつも回る牡丹を案内しながら、秋鳴は改めて感心する。
そもそも営業職ではない牡丹だが、その如才のなさは営業といっても問題ないほどしっかりしていた。
いつもは口数が少なく、どちらかというと聞き役に回ることが多いだろうと思われる牡丹だったが、きちんと仕事に関して会話ができている。控えめな態度はいつも通りだが、妙に出しゃばった態度よりずっといい。
すごいな、ちゃんと舞山社長の名代になっている。
2時間ほどかけて会場内を一回りしたころには、大きな紙袋いっぱいに取引先のブースでもらったパンフレットや見本カタログ、それに限定のグッズでいっぱいになった。
「連れまわしてしまって、すみません」
休憩スペースで一休みしていると、牡丹が申し訳なさそうに頭を下げた。
「いいんですよ。そのつもりでしたし。それにしても宿木さん、名刺お持ちだったんですね」
「今日の為に急遽用意したんですよ」
牡丹が苦笑する。
「いまは少しの数でも名刺を用意できるサービスがあって便利ですね」
「ああ、ネットで頼むやつですか」
「はい。この後は多分、使うことはないと思うんですけど」
もらった名刺と別に、自分の名刺入れの中を確認している牡丹の手元を見る。あと数枚は残っているようだった。
「僕にも1枚ください」
「え?」
「記念に。だってレアでしょう」
そう言うと、少し驚いた顔をしていたものの、「それじゃあ」と言って一枚、渡してくれた。
「で、僕のもお返しに」
そう言って、わざと名刺を改まって差し出すと、慌てて居住まい正し
「頂戴します」
きりっと表情を引き締めて両手で受け取ると、牡丹は少し照れたような顔で笑った。
「秋鳴先生の名刺の方がレアじゃないですか」
「レアですよ」
秋鳴も牡丹の名刺を手にしながら呟く。
「特にその名刺は、プライベートのスマホの番号も載せてますから」
「え?」
「その番号にかかってきた場合、よっぽどのことがない限り出ます。何か困ったことがあってもなくても、いつでも連絡ください」
秋鳴が言うのに、牡丹がじっと名刺を見た。
その表情からは喜んでいるのか、面倒だと思っているのか。
判断が付きにくい反応だな。
「わかりました。なくすと大変なので大事にしまっておきます」と、ひどくまじめな表情で言われた。
「もし、こんな場所で落として秋鳴先生のファンに拾われたら大変ですから」
「なんですか、僕のファンって?」
「さっき、女の子たちに囲まれていたじゃないですか」
牡丹が言うのに、思い返してみる。
思い当たるのは編み物学院のブースで、生徒が群がってきたことくらいだ。
「あれは葵先生の生徒です」
「でも、秋鳴先生、モテてましたね」
ふふふと、牡丹が思い出し笑いをする。
比較的押しの強い女子生徒たちに囲まれ、腕を引っ張られて展示ブースに引きずり込まれそうになったのが、面白かったのだろう。
「あの年頃の子は、はしゃぎたいんですよ。ああやって」
「秋鳴先生、女子高に赴任してきた若い先生みたいでした」
「からかわないでください」
なんとなく気恥ずかしくなって、この話題は終わりとばかりに腕時計を見る。
「お昼には随分遅い時間になりましたけど、食事に行きませんか。会場内はイートインスペースがないので、どこか近くの店にでも」
「いえ、私はこれで失礼します」
牡丹は早口に言うと、荷物をまとめた。
「この後、何か予定でも? あ、お店に一度戻られますか?」
「いえ、直行直帰でいいと社長にもいってもらっているので。ただ、……」
ふっと、窓辺に視線を向けて、どこか遠くを見るような表情をした。
かすかに唇が動いたが、小さな声で聞き取れなかった。
「え、なんですか?」
聞き返すと我に返ったような表情で、「いえ、なんでもないんです」と、微笑む。
『もしかしたら、ご飯食べに来るかもしれないし』
そんな風に聞こえたが、そもそも聞き違いかもしれない。
秋鳴はそれ以上、聞くのをやめた。
***
昼前に玄関ベルを鳴らして入ってきた宗冴に、犀が目を丸くする。
「なに、チャイムなんて鳴らして。いつもみたいに入ってくればいいだろ」
こんにちわーとか、ただいまーとか入ってくるくせに。
「なんとなく」
喉に絡むような低い声。もしかしたら風邪かと思うくらい、かすれた声。
「姉ちゃん、いねえよ」
「知ってる。……だからきたんだよ」
大分、不機嫌が顔に出ている。
目の下にクマを作って実に受験生らしい面構えをしている幼馴染に、相当追い詰められているなと心の中で呟く。
「まあ、ともかくあがれば?」
言われると、宗冴は無言で靴を脱いだ。
リビングで新聞を読んでいた泰輔が、宗冴の姿を見ると
「ああ、いらっしゃい」と眼鏡をずらす。
「こんにちは」
「宗冴、なんか飲む?」
「いや、いらない」
牡丹がいないので何を入れるにしてもインスタントかペットボトルしかない。
「予備校帰り?」
「うん」
牡丹から聞くところによると、宗冴はしばらくうちには来ないと言っていたらしい。
それが牡丹のいないところを見計らってきたということは、犀に話したいことでもあるのか。
「お前、飯食った? 俺たち、これから昼飯なんだけどさ。お前も食っていく?」
犀が聞くと、宗冴は言いよどむ。
時間からしたら、もう食べていてもおかしくない時間だ。それでも、ちょっと前なら即答で食べていくと言っただろう。細身に見えるが、宗冴は健啖家で食べようと思えば2、3人分くらいは余裕で食べる。
「食べていきなさい」
新聞をたたみながら泰輔が言う。
「まあ、牡丹が作り置きしておいたカレーくらいしかないが」
そう言ってよっこらっしょと立ち上がる。
「米が足りないから炊くか。犀、お前も手伝いなさい」
「へーい」
キッチンに立つ泰輔に、犀が返事をする。
「あの、俺も手伝います」
「いいよ。宗冴くんは座っていなさい」
泰輔が冷蔵庫を開ける。
犀が米を研ぎ始めると、泰輔がコンロの前に立つ。
「何、父さん」
「んー?」
揚げ物をするための鍋に、油を出しているのをのぞき込む。泰輔の手元には上げていない状態のとんかつが2枚、鉄のバットに載っていた。
「お前、昨日、遅く帰ってきて飯食わなかっただろ。余っているんだよ。ちょうどよかった」
そう言って油を温めながら、とんかつにかけてあったラップをはがす。
「もしかして、カツカレー食わそうとしてる?」
「俺にはちょっと重いけど、お前たちにはちょうどいいだろ」
「食えるけどさぁ」
言いながら、背後の宗冴を見る。宗冴は、泰輔の手元をじっとみていた。
「あの、昨日は泰輔さんも遅かったんですか?」
「いや、私は普通通り。ちゃんと家に帰ってきて食べたよ」
泰輔は答えると、宗冴の視線に気が付いて少し笑った。
「牡丹がね、いつもどおり一人分多く用意していたから。ほら、ここしばらく君は受験で華さんが家にいるのはわかっているみたいだけど、習慣なんだな。きっと」
油の様子を見ながら、泰輔が穏やかに応える。
「牡丹は本当に、君のことが可愛くてしょうがないんだよ。犀は、ほら。最近冷たいから」
「普通だよ。これまでが過保護だっただけで」
「はは、過保護にしてもらっていたの、ちゃんとわかっていたのか」
苦々しい気持ちで泰輔を横目に、研ぎ終わった米を早炊きで炊飯器をセットする。
「宗冴」
声をかけると、我に返ったように犀を見上げた。
「大丈夫か?」
思わず、そう声をかけてから、改めてあれだけふてぶてしく思っていた幼馴染が、妙に弱って見えていたことに気が付いた。
***
「あー、食いすぎた」
食事が終わって宗冴と二人で犀の部屋に戻ると、犀は自分のゲーミングチェアに身体を投げ出すように座った。
ほかに椅子などない部屋で、宗冴はベッドに腰掛ける。
「んで?」
犀が言うと、宗冴は小さくため息をついた。
「キツイ」
「……それは受験的な意味ではないよな、どうせ」
「こんなの予定になかった」
うなるように呟くのに、犀は片方の眉を軽く上げて宗冴を見た。
「もっと、あんな勢いじゃなくて、ちゃんと……っ、牡丹が俺しか選べないような状況作って、完全に外堀埋めてから言うつもりだったのに」
「友人、知人、両家の家族どころか、近所の人まで。堀のほとんどは埋まっているけど、お前、これ以上、どこ埋める気だったわけ?」
呆れて言うが、宗冴はうつ向いたまま真剣な表情を崩さない。
「牡丹に拒絶されたら死ぬ」
「死ぬとか簡単に言うな」
言ってから手を伸ばして、宗冴の頭を乱暴にかき回す。
「どうせ断らないよ、姉ちゃん。お前にベタ甘じゃん」
「そんなのわかんないだろ」
珍しくされるがままになっている、宗冴の頭を少し気の毒になってぐしゃぐしゃにした髪を直してやってから、真面目に撫でる。
「だいたい断る気がないなら、なんで何も言ってこないんだよ。あれから2週間以上経ってる」
「それは、お前の受験があるからだろ。気ぃつかってんじゃねえの」
犀が苦笑すると、宗冴は疲れたようにベッドに寝転がった。
「受験とかどうでもいい」
「どうでもよくねーわ。お前、両親の前で絶対言うなよ、それ」
「言わない」
くぐもった声が響く。
「犀にしか言えないだろ。こんなこと」
難儀な奴。
「まあ、しょーがねーな。俺は愚痴聞くくらいしかできねえし」
「ごめん」
「いーよ、とりあえず明日のセンター頑張れ」
「……うん」
こんなに素直な宗冴は随分と久しぶりだった。
本気でへこんでるんだな。
そう思うと、今日は珍しく慌ただしく出て行った姉のことを思いだした。
いつも天然で、宗冴のすることなら何でも許す姉は、あっさり受け入れるものだと思っていた。
何考えて引き延ばしてんだろ、姉ちゃん。
宗冴の前ではおくびにも出さないが、少し不安にならないこともなかった。
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