第4話 宗冴くんと犀の彼女

 二瀬蘇芳ふたせすおうは強い日差しが照り付ける中、呆然と立ち尽くしていた。

 9月も下旬。

 気温もだいぶ過ごしやすいものになってきたとはいえ、直射日光に照りつけられればやはりまだ暑い。

 じりじりと太陽に照り付けられながら、スマホを片手に立ち尽くす。

 ……迷った。

 本当に、信じられないくらい完璧に道に迷ってしまった。

 うそでしょ。

 住所を送ってもらい、駅の降り口まで教わり、その上でスマホの案内アプリまで起動させていたというのに、ここがどこか自分でもまったくわからない場所に立っているなんて。

 本当に信じられない。これだけの準備をしておきながら、それでも迷うもの?

『アプリに目的地も登録したし楽勝だよ!』

 能天気な顔をしてそんなことを言っていた自分を殴りたい。

 いや、自分だけが悪いのか?

 そもそもこの地図アプリ、ちょっと曲がり角を間違ったくらいで戻る前にルートを再検索し、何度もリルートを繰り返している間にエラーを連発した。

 仕舞いには同じところをぐるぐる回るような案内し始めて、まったく役目を果たさなくなっている。

 もしかしたら立ち上げ直せばいいのかもしれないと思ってアプリを再起動したが、目的地の設定の仕方がわからない。

 初めてのアプリで目的地の設定を自分でやらなかったので、そこから手詰まりになった。

 万事休す。

 諦めてヘルプの電話を入れようかとスマホの画面をじっと見る。

 せいのことだから、きっと笑って迎えに来てくれると思う。けど、できればそれは避けたい。

 ただでさえ駅まで迎えに行くと言っていた犀の申し出を断って、自分で行くといってしまったのだ。

 せめて駅まで引き返して、いつもの地図アプリで自分が歩いている方向を確認しながら歩けばたどり着けるんじゃないのかな。

 でも、それなら駅まで戻らなくちゃ。

 スマホを手に前後左右をぐるりと見回す。

「……どっちから来たっけ」

 思わず声に出した言葉に、自分で絶望する。

 え、迷子じゃん。本当に、本物の迷子だよ、コレ。

 小学生以下か。

 いや。今時、小学生の方がもっとしっかりしている。

 頭の中で自虐を繰り返していると、

「先生、さよーなら!」

「ありがとうございました!」と、まさに小学生らしき元気な声が聞こえてきた。

 なんだろ?

 声の方にふらふらと歩いていくと、公園の奥からだ。

 向こうから、大きなバックと細長い布で巻いた何かを背負った子供たちが走ってくる。

 あれ、竹刀? 剣道かな?

 公園の中から走ってくる小学生に道を譲りながら、公園の奥に目をやる。どうやら公園は通り抜けができるようで、反対側に抜ける入口の向こうに大通りがある。

 ……んん? いま、何か見えた。

 公園の中に入ってくと、道の向こうには警察署があった。その警察署からさっきすれ違ったような剣道の道具らしきものを持った子供たちが次々に出てくる。

「警察署」と、我知らず呟く。

 ちょうど信号が青だったこともあり、ふらふらと歩道を渡り警察署の前に立った。

 本当だったら警察署なんて仰々しいものじゃなくて、交番くらいが理想だ。

 でも、背に腹は代えられない。

 このままずっと迷い続けているより、道に迷ったくらいで警察署に来てしまった大人の方がまだいい。

 だって犀、絶対に心配してるし。

 壊滅的な方向音痴なことを知っている彼氏は、何度も自宅までの道を確認し、困ったときは素直に連絡するように言っていた。

 いつもなら即刻、泣きを入れていたと思うが、今回に限りそれははばかられた。

 なにせ自宅で待っている彼は、蘇芳の無理な頼みを聞いてパソコンに向かっているはずだから。

 できるだけ手を煩わせたくない。

 スマホを片手に自棄になって警察署の中に突入しようとして、何かにぶつかった。

「っ……、すみません!」

 スマホに目をやった一瞬、中から出てきた人にぶつかってしまった。

「いえ」

 低い声が頭上から降りてきた。

 視線をあげると、そこには蘇芳よりも頭一つ大きい影が自分を見下ろしていた。

「大丈夫ですか」

 身長が高いこともさることながら、低い声に圧倒された。

 あと、ものすごい顔がイイ。目つきが鋭いし、表情がないから怖い印象だが、それでもすごく良い。

「……はい」

 自分がその人の片腕で支えられていることに気づいて飛びのく。

「す、すみません! よそ見していました」

 言い訳がましい言葉を口にしながら、ぶつかってしまった彼を改めて見上げる。視線の位置が高い。首が痛くなりそうだと思いながら視線落とす。……なに、この人。足長っ!

 スタイルの良さにビビりながら、改めてぶつかった人をまじまじと見てしまう。

 蘇芳を支えた手と反対の方に、さっきの子供たちと同じような剣道の道具らしい大きな荷物を持っている。

 この人、こんなに重そうなものを抱えて、さらに突っ込んできた私を支えたのか。すごいな。

 若く見えるけど、警察の人かな。

 彼は少しだけ頭を下げて、蘇芳の脇を通り抜けていこうとした。

「あ、待って。待ってください! 警察の方ですか?」

 思わず振り返って呼び止める。

「あの、すごく申し訳ないんですが、道に迷ってしまって……、助けてくださいっ」

 彼は少しだけ目を見開いて、蘇芳を見た。

 一呼吸の沈黙。

 彼は少し眉根を寄せて、何かを言いかけた。

 その時、

「何やってんだ、宗冴しゅうご

 背後から声が聞こえて二人でそちらを見ると、道着姿の今度は壮年の男性が立っていた。

「玄関先でどうした? この人は」

「道に迷っているそうです。助けてほしいと」

「ほう」

 そう言ってから、男性はおおらかに笑った。

「最近では珍しいな。スマホが普及してから、そういう若い人はとんとお目にかからなくなったが」

「すみません」

 恥ずかしくなって小さい声で言うと、

「いやいや、それでどこに行きたいの?」と、道着姿の男性は柔らかな声音で聞いてくれた。

「この住所なんですけど……、案内アプリで途中まで来たんです。でも、一度、道を間違えたらなんか変なことになっちゃって」

 スマホのメモ帳に残しておいた住所を見せる。

「なるほど、それで迷子に。これが目的地?」

「……そうです」

 迷子という言葉にショックを受けながら返事をすると、蘇芳のスマホをのぞき込んでいた男性が、宗冴と呼ばれた青年に声をかけた。

「おい、この住所、お前んちの近所じゃないか?」

 言われて青年もスマホを見る。

 それから

「そうですね。うちの隣です」と、そっけなく答えた。

「え?」

 蘇芳が声を漏らす。

「運がよかったね、お嬢さん」

 男性はまた人懐こい笑みを浮かべた。


***


 気まずい。

 筒路つつじ宗冴しゅうごと名乗る青年と並んで歩きながら、蘇芳はずっと視線を落としたままだった。

 確かに道着の男性が言う通り、ありがたいことだった。蘇芳の目的地の隣に住んでいるという、この青年に案内してもらえるのはラッキーだ。

 ただ、この筒路さん。

 まったく全然、これっぽっちも、愛想がない。

 いまも黙々と歩き続けている。

 最初に名乗った時に

「ふたせ?」と聞き返されて

「あ、はい。漢数字の2に瀬戸内の瀬で二瀬です」と、やたらと丁寧に答えてしまった。

 それを聞いて、宗冴は少し何かを考えるような表情をしたが、やがて

「それじゃ、二瀬さん、行きましょう」と、呟いたきりコメントなし。

 まあ、いいんだけど。……それよりも怒ってないよね?

 心の中で呟いてしまうほど、宗冴は無表情のままだった。

 ちょっと迷惑くらいは思っているのかな。

 でも、しょうがないじゃない。行先がほぼ一緒なのだから。

「あの」

 沈黙に耐えかねて、口を開く。

「ここから、どれくらい歩きますか?」

「10……、15分くらいだと思う」

 宗冴が端的に呟く。

 腕時計に視線を落とすと、約束の時間ギリギリくらいだった。やはり万が一のことを考えて、早めに出てきてよかった。

「駅の方に出て踏切渡るから。もう少しかかるかもしれないけど」

「踏切渡るってことは。もしかしてこちらは西口側ですか」

「そう。こっちは西口。駅から来たなら、反対方向」

 え、スタートから間違ってるの? どういうことなの、案内アプリ?

「そのアプリ、もう使わないほうがいいかもしれない」

「……そうですね」

 心を読んだようなコメントに首を垂れる。

 さっきから少しも感情が読めない宗冴を横目で見る。

「筒路さんは、警察の方ですか」

 聞くと、またじっと顔を見られてしまった。

 え、なんで?

 私、変なこと言った?

「違います」

「それじゃ、どうして警察署から……」

「今日はたまたま、あの警察署で子供たちに剣道を教えていただけです。教える人間が足りなくて」

「それじゃ、あの道着の人も先生ですか?」

「そう。俺も先生の門下生。普段は人に教えたりしません」

「へえ」と、ため息のように呟く。

 ……悪い人ではないのだ。

 身長も高いしイケメンだし、質問にも答えてくれる。だが、ともかく無愛想で淡々としていて取り付く島もない。

 剣道の道具を持っているせいか。あと、寡黙な感じといい、侍さんみたいな人だ。

 そうじゃなかったら真っ黒い犬。つやつやの毛が短い鋭い牙の猟犬。

 そんなことを考えながら歩いていると、少しずつ通りに人が増えて駅が見えてきた。ちょうど踏切のバーが開いていて、そこを通り過ぎる。

 駅の反対側に出ると商店街があって、だいたいの人がそちらに流れていく。

「そういえば、犀も商店街のある方に出ろって言っていたっけ」

 独り言のつもりだったが、その言葉にじっと見下ろされる。

「あの……、なにか?」

「いや」

 宗冴は何かを思い出そうとするかのように目を細めた。

「二瀬さんは、もしかして犀を毎朝起こしてくれる『二瀬』さん?」

「え!? ぁ、は……はい?」

 突然、言われて声が上擦ってしまった。

「筒路さん、犀のこと知ってるんですか?」

 聞いてから間抜けな質問だと気づく。

 そりゃそうだ。お隣さんだって言っていたし。

「幼馴染です」

 そう答える宗冴の雰囲気が変わった気がした。

 なんか、少しだけ柔らかくなったかも。

「そうなんだ」

 蘇芳も少しだけ肩の力が抜けた。

「あ、でも毎朝じゃないですよ。犀が特に朝が早い時とか、私が勝手に電話しているだけで」

「どおりで牡丹ぼたんに頼らなくなった訳だ」

 牡丹という名前に聞き覚えがあった。確か、犀のお姉さんだ。

 会ったことはないが写真だけは見せてもらった。優しそうなかわいい感じの人で、犀に結構似ていたと思う。お母さんが死んでから、お姉さんが犀の面倒を見てくれたんだって言っていた。

 その顔が少し照れくさそうだったけど、優しい顔をしていたから、きっと仲がいいんだろうなとは思っていた。

「牡丹は、犀の姉」

 フォローのつもりなのか短く説明された。

 ……もしかして、気を使ってくれているつもりなのだろうか。

 だとしたら大分、いい人なのかもしれない。

 商店街を抜けて徐々に住宅街に入っていく。戸建ての住宅ばかりで、蘇芳にとっては何も目印がないに等しい。その区画の間を歩くのは迷路を歩いているような気持だったが、不安はなかった。

 隣を歩く長身の青年を横目に見る。

 この人についていけば大丈夫。

 少ししか話していないが、そんな信頼が生まれていた。

 それからも特に言葉を交わすこともなかったが、最初に気まずさはなかった。


***


 少し約束の時間より遅れて、宿木家の前に着いた。

「本当にありがとう」

 宗冴に頭を下げて、いざ玄関前のインターフォンを押そうとする蘇芳を後目に、宗冴は門扉を開けて家に入っていく。

「……ぇ?」

 まだ門扉の前に立ち尽くしている蘇芳を振り返ると、「どうぞ」と短く声をかけられる。

 入っていいの?

 確かに犀とは幼馴染って言っていたけど、この人、そんなに仲がいいんだ。

 戸惑いながらも宗冴の後についていくと、

「ただいま」と、家の中に声をかける。

『ただいま』って、……。

「犀、せーいー!」

 怒鳴ってもいないのに宗冴の声はよく通り、二階からと思しき怒鳴り声が返っていた。

「なんだよ、宗冴。いま、忙しいから! 勝手にあがって、好きにしてろよ。あ、姉ちゃんいないからな!」

 面倒くさそうな声に

「お客さんだぞ。女の人」と、宗冴が答える。

 一瞬、間があってからバタバタと二階から降りてくる音が聞こえた。

「蘇芳!?」

「こんにちは、ちょっと遅れちゃった。ごめんね」

「いや、こっちこそ、宗冴だけかと思って」

 照れ隠しに笑いながら言うと、犀は宗冴に視線を移した。

「どうしてお前と一緒に来るんだよ?」

 犀に聞かれて、横目で見られたような気がした。

「……途中で声かけられた。道がわからないって」

 微妙に名誉を守ってくれたありがとう、筒路さん。

 アプリがうまく使えてなかったことはさておき、駅の反対側に行ったことや、警察署につっこみそうになったことを伏せてくれたことに心から感謝した。

 蘇芳の心の中の声はともかく。

「だから迎えに行くって言ったのに」

「だって作業してもらっているのに悪いよ。まだ終わってないよね?」

 言うと、犀は申し訳なさそうに髪をかき上げる。

「あー……ごめん、あとちょっとなんだけど。終わり次第、渡すからさ。ちょっと上がって待ってて」

「ううん、こっちこそごめん。頼みごとの上に、締め切り前倒しとか」

 二人で話していると、

「それじゃ、確かに送ったから」と、宗冴が玄関から出ていこうとする。

「あ、ありがとうございました」

 蘇芳が慌ててお礼を言うと、宗冴も軽く頭を下げた。

「宗冴。帰るの?」

 犀が聞くと

「邪魔しちゃ悪いから」と、ドアに手をかける。

 犀が一瞬、渋い顔をした。

「なんだよ、邪魔って。どうせ飯はこっちだろ?」

「……しばらくこっちに来るの控えようかと思っていたんだけど」

「その荷物。今日、剣道の日だったんだろ。どうせ一日つぶれているんだから、こっちで少し息抜きしろよ」

 犀がそういうと、宗冴は少し口元を緩めた。

「一遍、うちに戻って、シャワー浴びてからまた来る」

「おー」

 犀がひらひらと手を振って玄関先で見送る。玄関から出ていく長身を見送ってしみじみと感心した。

 あの子、笑うんだな。

 アレを笑っていると言っていいのなら、だけど。

「蘇芳?」

「ん」

「どうしたの、上がってよ」

「あ、……うん。お邪魔します」

 改めてそう言うと、蘇芳は家に上がった。


***


「高校生!?」

「そう、見えないだろ」

 パソコンに向かって動画の編集作業をしながら、犀が答える。

 蘇芳はフローリングにラグが引かれている部分に、クッションをかりて座っていた。

「え、待って、何年生? いくつ?」

「高3。受験生」

「じゅけん……」

 がっくりと肩を落とす。

 年下とか。ありえなくない……?

 あの落ち着いた様子と話し方とか、どうしたって未成年には見えないし。

「めちゃくちゃ大人っぽくない? 私、同級生か年上だと思って、ずっと敬語で話してたんだけど」

「ウケる」

 犀は言いながらマウスを動かしている。

 カチカチと操作する音を聞きながら、犀の背中を眺める。

「あいつ老け顔だしな」

「老け顔っていうか、大人っぽいよ。かっこいい」

「かっこいいけど年齢相応に見られたことないんだよ、あいつ。身体鍛えているし身長高いから、だいたい中学生の頃から成人済みに見られてさ」

「中学生の頃から、あのルックスで完成されていたんだ」

 羨ましい。下手するとたまに中学生に間違われる自分とは大違いだ。

「それなら警察官と間違ってもしょうがないよね」

「警察官?」

 犀が怪訝そうな顔で振り返る。

「なにそれ?」

 しまったと思っても、もう遅い。

 せっかく宗冴がさりげなく迷子を隠してくれたのに、語るに落ちてしまった。

「ええっと、警察署から出てくる筒路くんと出くわして」

「警察署? なんで、え? 警察署って駅の反対側だろ。……蘇芳、お前、どこから来たんだよ?」

「一度、道を曲がり間違ったらアプリが……」

 しどろもどろの説明をすると、犀が微苦笑を浮かべる。

「だから迎えに行くって言ったのに。まあ、いいや。このあたりの住宅街で迷って宗冴とエンカウントしたのかと思っていたけど、蘇芳の方向音痴を甘く見てたな」

「方向音痴だけど、あれはアプリにも問題があると思うなぁ!」

 負け惜しみに近い言葉を口にすると、肩越しに振り返ってモニタを確認した犀が

「あ、エンコード完了」と呟いて、またパソコンの方を向いた。

「ほら、データ」

 USBを外して渡してくれるのを両手で受け取る。

「ありがとうー、助かる」

「クラウドサービスで受け渡しの方が楽なのに」

「私、それよくわかってないし。大きいデータのやり取りするのにネット回線細いとダメなんでしょ?」

 一人暮らしの蘇芳の家には電話を引いておらず通信機器はスマホだけだ。学校の課題でパソコンをネットにつなぎたい時はテザリングか、大学のWi-Fiを利用するしかない。

「データ受け取るために学校に行くのも、犀の家に取りに来るのも、だいたい距離は一緒だし」

「そしたら蘇芳のウチまで届けに行ったけど」 

「さすがにそれは悪いよ」

 USBをカバンの中にしまう。

 よし、これで一安心。迷子になってまで犀の自宅に押し掛けた甲斐があった。

「それじゃ、ありがと。とりあえず動画を同じサークルの子たちと確認したら連絡するね」

「もう、帰んの?」

「うん。動画、みんな待っているし」

「……ちぇー」

 犀は椅子の背もたれに背中を預けて、少し拗ねた顔をした。

 ……かわいい。後ろ髪を引かれる表情だ。

 蘇芳はこういう甘いアイドル顔にめっぽう弱かった。基本的にかわいいものが好きで、末っ子気質な性格も蘇芳の母性本能をくすぐった。

 こういう動画作ったりとか、PCに強かったりするところは頼りになるし、やっぱり男の子だなあと思う瞬間も多々あるのだが。

「いまはバタバタしているけど、このお礼は必ずするから」

 フォローするように言うと、拗ねた顔をやめて体を起こした。

「幼稚園でやるイベントっていつ?」

「10月の半ば」

「プロジェクションマッピングを背景にお芝居って、どんなことやんの?」

「んー、動画がそのまま背景になるから、普通の大道具を用意するより豪華に見えるし、動きもあるから楽しいと思う。……っていうか、お芝居ってほど、お芝居するわけじゃないんだけどね」と、苦笑して見せる。

 蘇芳は保育ボランティアのサークルに所属していて、時々近くの幼稚園のイベントに協力している。今回はハロウィンのイベントでプロジェクションマッピングを背景に、短い劇を披露しながら、みんなにお菓子を配るという企画だった。

 その背景の動画を撮影したまではよかったのだが編集に行き詰まり、PCに強い犀ならなんとかなるかと相談したら、二つ返事でOKしてくれた。

「それにしても動画の編集とか久しぶりだから、うまくできてないところもあるかも。確認は一応してあるけど」

「大丈夫だって」

「もし修正あったら連絡して」

「了解」

 そう言って立ち上がると、犀も椅子から立ちあがった。

「途中までのヤツ見てから、みんな楽しみにしてたからさ。早く見せてあげたい」

 部屋を出ようとドアノブに手をかけると、腕を引かれた。

 振り返って見上げると、思ったよりもずっと近くで犀が自分をのぞき込んでいた。

「やっぱり、何もなくても連絡して」

 ねだるように囁く声が少し低い。

 あとほんの少しで唇が触れるかと目を閉じた瞬間

「ただいまぁ」と、階下から声が響いた。

 女性の声だ。明るく涼やかでどこか甘い感じ。

「……えっと」

「姉ちゃんだ」

 犀は苦々しい表情で深くため息をつくと、蘇芳の前に出てドアを開いた。

 そのまま二人で階段を下りていく。右がダイニングキッチンで左がリビングのようだった。

 ダイニングキッチンの方に、すらりとした女性の姿があった。肩甲骨くらいまでの栗色の髪が緩く波打っている。大きな目。美人とか綺麗というよりかわいらしい感じの人。

 だからと言って幼い感じはしない。

 このヒトが牡丹さん。

 写真で見せてもらった時より、全然イイな。

「姉ちゃん、お帰り」

「お邪魔してます」

 犀の数歩下がったところから頭を下げると、お姉さんは大きな目を丸くして蘇芳を見た。

「二瀬蘇芳さん。彼女のサークルの手伝いでデータ作ってた」

「そう」

 犀に言うと、視線を蘇芳に向けて微笑んだ。

「犀の姉の牡丹です。弟がいつもお世話になっています」

 うわあ……、と、心の中で声を漏らす。

 芸能人のようなキラキラした微笑みではない。でも自然で優しくてかわいくて、笑顔を向けられるとふわふわした気分になる。

 それに加えて柔らかな物腰と落ち着いた穏やかな声。

 蘇芳は一人っ子で兄弟は長年あこがれで、特に兄とか姉がいたらいいなと思うことがあったが、牡丹はまさに理想に描く『優しくてかわいくて頼りになるお姉ちゃん』のイメージそのままだった。

「ぃい、え、この度はこちらこそ、おさ、お世話になっていて……っ」

「何、噛んでんだよ」

「うるさいなっ」

 脇から犀に突っ込まれたが、それどころではなかった。

 牡丹さん、ヤバい。

 犀と姉弟だけあって、基本的に好みの顔立ちでかわいいし、何よりあふれ出る包容力めいた何かがすごい。お姉ちゃんみが溢れている。やだ、初対面なのに、めっちゃ甘えたい。

「お茶、お出しした?」

「してない」

 牡丹の問いに犀が答えると、「もう」と少し眉根を寄せた。

「二瀬さん、ごめんね。いま、お茶入れるからゆっくりしていて」

「あ、いえ。もう帰るので」

 慌てて言うと、「え」と、お姉さんは首を傾げた。

「もう、帰っちゃうの?」

「はい、今日は作ってもらったデータをもらいにきただけなので」

「そんなこと言わずに、ご飯食べていけばいいのに」

 本当に残念そうに眉尻を下げて言われて、思わず「うっ」と声に出そうになる。

 犀を上回るかわいいの破壊力。

 犀は男の子だから『かっこいい』のパラメータにも数値が割り振られているけど、牡丹さん『かわいい』に100パーセントふられている。

 宿木姉弟、私の好み過ぎるだろ!

「あの……、本当に今日は、忙しいので帰ります」

 苦汁を舐めるように言うと、犀がひどく奇異なものを見る目をして自分を見ているのを感じた。

「そう、それじゃ今度はゆっくり遊びに来てね」

「はい、ぜひ」

 本当にぜひ来たい。自分の好みの顔に囲まれることができるとか、ここは天国か。

「俺、二瀬さんのこと送ってくる」

「うん。もう暗くなってきたし、その方がいいね」

 正直、一人で駅まで戻れる自信がなかったので、犀の申し出はありがたかった。

「おうちは遠いの?」

「いえ、3つ隣の駅ですけど、サークルの子と打ち合わせがあるので」

 そんな風に3人で話していると、「ただいま」玄関の方から聞き覚えのある声が響いた。

「おかえり」

 牡丹が玄関口に出て行った。さきほど一度自宅に戻るといっていた宗冴が、再び訪問してきたのだろう。

 何の気なしに廊下を覗く。

「え?」

 思わず声に出ていた。

 声の主は確かに宗冴だったのだが、玄関先で抱き合う二人の姿にぎょっとした。

 距離、近! 近すぎない!?

「4日ぶりだね。ちゃんとご飯食べてた?」

「うん、だいたいデリバリーかテイクアウトだけど」

「そっか。今日はウチでご飯食べる?」

「食べる」

「よしよし、今日はお魚だからね。サバの竜田揚げ」

 身長差のせいで完全に牡丹を胸に抱き込むような形になっているが、牡丹は子供にするよう背中をあやすように叩いている。

 そうされている宗冴の表情を見て、息を飲んだ。

「笑っ……!?」

 声に出そうになって、自分の口を押える。

 あの鉄面皮が、無表情の権化みたいな宗冴が微笑んでいる。

 噓だろ、筒路くん。

 君の表情筋は笑顔を作れたのか。

 聞き耳を立てるまでもなく聞こえてくる二人の声に集中してしまう。

「今日はもしかして稽古に行った?」

「うん、俺の稽古じゃないけど、子供剣道教室の手伝い。なんで?」

 その問いに、牡丹は宗冴の胸元に顔を寄せた。

 え、え? なに!?

 蘇芳は思わず身を乗り出した。

 身体を預けるようにして寄り添って見えた牡丹が、顔を上げて優しく微笑む。

「いい匂いがするから。シャワー浴びてきたのかなと思って」

「……すごい汗かいて、気持ち悪かったし」

「道着は? 洗濯した? まだならウチでしようか」

「洗濯機に放り込んできたから、大丈夫」

「宗冴くんのおうちは乾燥機つきだもんね。でも、この前みたいにずっと放っておくと皺になるからなるべく早めに出してね」

「わかった」

 ……おい、おい!

 筒路くん! 君さぁ、さっきと全然違くない!?

 なんだ、その照れくさそうな顔と声!

 今と比べると、さっきまでは死んだ魚のような目をしていたよ。虚ろっていうか。生気がないというか。

 それが今はどうよ?

 話す声も抑揚が少ないままだけど、明らかに柔らかくなっている。

 甘いっていうか、甘えてるっていうか。

 ともかく自分では意識してないかもしれないけど、なんかもう間違いなくめっちゃイイ声になってるよ。

 ヤバい。印象暗くて残念なイケメンが、ただのイケメンになっている。

 堂々といちゃつく二人を見ていると、付き合っているとか通り越して、新婚さんみたいに見えてきた。

「はぁぁあ……」

 いろんな感情がごっちゃになって、二人の様子を隠れるようにしてダイニングキッチンの入口からのぞき込んでいると

「すごいだろ、あの二人アレで付き合ってないんだぜ……?」

 呆れたようなうんざりしたような顔をして犀が呟く。

 そんなテンプレートなセリフが出てくるなんてと思わないでもなかったが、あんなにイチャイチャしているのに付き合っていないという事実の衝撃の方が強くて、「マジか」という言葉しか出てこなかった。

 語彙力の喪失。


***


「宗冴の方は見ての通り、ともかく牡丹のことが好きなんだよな。好きで好きでどうしようもないの。ホントどっかネジがぶっ飛んでるんじゃないかってくらい」

 帰り道。

 駅まで送ってくれるという犀と歩きながら話す。

「牡丹さんは?」

「姉ちゃんは、……わかんね」

 その声は少し途方に暮れているようにも聞こえた。

「ともかく宗冴のことをかわいがっている。俺も姉ちゃんには面倒見てもらったけど、それ以上の気にかけ方していて、っつーか宗冴の家は複雑で……、いや、複雑でもないか。ともかく極端な放任主義で子供の頃はそれでいろいろあって、姉ちゃんは宗冴のことすごく心配しているんだよ」

「ふぅん」

 思い返してみると、確かに違和感はあった。

 最初は驚いたけど、あれだけいちゃついているのに牡丹からはいやらしい感じがしなかった。すごく自然なのだ。

 仕草や触れ方が小さい子供に対するそれに思えた。

 宗冴は牡丹にとって弟で、だからあんな風に距離も近くて、子供をかわいがるように触れる。

 実の姉の様に。実の姉以上に?

「でも、結局それって好きってことじゃないの?」

「好きだとは思うけど、男として好きかっていうとちょっと疑問」

 犀はそういうとため息をついた。

「あんなにべたべた触らせるし可愛がるし、小学生くらいまでは添い寝もしてたし、今でも膝枕とかしてやっている時もあるし」

「え、なにそれ」

「膝枕の時は時々、耳掃除してやっているし。下手なカップルよりべたついてんだよ」

 二人の様子を目の当たりにしているから大げさとも思わなかった。

「宗冴の家はともかく両親が仕事で忙しいから、ハウスキーピングが週に3回くらい入るんだよ。けど、それで間に合わない洗濯とか牡丹がしてた。さすがに宗冴が中学生になる頃に、嫌がって自分の洗濯物触らせなくなったけど」

「宗冴少年、反応が生々しい」

「だよな。まあ、当たり前だけど。それはともかく姉ちゃんが宗冴を家族として好きなのか、男として見ているのか。ちょっと混乱する」

「うーん」

 唸ってしまった。

「時々、思うんだよな。もし姉ちゃんにその気がなくて他の男を選んだら、宗冴どうするんだろうな、とか」

「心配?」

「うん」

 犀にとっては大事な幼馴染だろうし、牡丹は大切な家族だろう。いまは楽しそうにしているが、それが壊れるのは結構なダメージなのは想像できる。

「いままではそういうのなかったの? 牡丹さんモテそうだし」

「母さんが死んでから家のことばっかりしていたから、そういうのはなかったな」

「犀が知らないだけじゃなく?」

「うん。姉ちゃんのこと好きになるヤツはいたけど、そういうのに対して徹底的に鈍いから気づかないんだよな。そのまま消えていくか、そうじゃなくても宗冴が追い払ってたからな」

 なるほど。……ん?

「え、ちょっと待って。牡丹さんが高校生の時って宗冴くんって小学生くらいじゃない?」

「小学校高学年とか、中学生だな」

「そんな小さな子がどうやって?」

「ともかく手段を選んでなかったな」

 犀が虚無の瞳で笑いながら言う『手段』とやらには大変興味があったが、いま犀が話したいのはそこじゃないだろう。

「もし牡丹さんにそういう気持ちがなくて宗冴くんと気まずくなったとしても、外野ができることはない気がするなぁ」

 正直な感想を言うと、犀は微苦笑を浮かべた。

「だよな」

 犀が安心するような言葉を言って上げられればいいが、いい加減を言っていい話じゃない。

「考えてみたら、姉ちゃんが誰かに恋をしているところを見たことがないから、宗冴のことどう見ているかとか判断つかないんだよな」

 ため息交じりの声に、少し切なくなる。

「難しいね」

「姉ちゃん自体は、単純なつくりしているんだけどな。能天気で所帯臭くてのほほんと生きてる」

 牡丹さんを語る犀の目が優しい。

「わかっていたけど、犀ってシスコンだ」

「悪かったな」

「ううん、気持ちわかるし」

 ぽつりと本音を漏らす。

「牡丹さんって年上のなのにかわいいし、かわいいのに懐きたくなるというか、……めっちゃ甘やかされたい気持ちになる」と、続けると犀が少し驚いたように目を丸くしてから噴き出した。

「蘇芳まで宗冴みたいなこと言い出すなよ」

「けっこうな確率で、人は牡丹さんを見てそういう気持ちになると思うよ」

「そうかあ?」

「どうせ犀だって、誰も見てないところでは牡丹さんに甘やかされてるでしょ」

 鼻先に指を突き付けると、犀は少し背中をそらせた。それから蘇芳を見て子供のように笑う。

「子供の頃は確かに甘やかしてもらったけど、いまは蘇芳がいるから。姉ちゃんはお役御免」

 少しだけきゅんとしたが、わざと顔をしかめて見せる。

「なにそれ、傲慢。牡丹さんに対して失礼だよ」

「だって蘇芳の方がいいもん」

「『もん』とか言わない!」

 軽口を叩きあっていると、いつの間にか少しずつ街灯が増え、商店街の明るさの中を通り抜けて駅につく。

 犀と別れてから、SNSでサークルの先輩に連絡を入れる。

 とりあえずこれで一安心。

 ホームで電車が来るのを待ちながら、ぼんやりと犀と話していたことを考える。

 それから宗冴の腕の中にいた牡丹のことを思い出していた。

 広い背中に回る白い手。

 優しくて慈しむような声で話しかけていた。

 見上げる表情は、愛おしさにあふれて触れる手には労わりを感じた。

 驚きはしたけど、二人に生々しいイヤラシさを感じなかったのも事実だ。

 でも、私だったら、どんなに愛している家族でもあんな風にはできないな。

 自分と比べてというのはこの場合無意味だとわかっていても、そう思ってしまう。

 筒路くんには助けてもらったから、贔屓したいだけかもしれない。

 あるいは犀の心配を取り除いてあげたいという願望かも。

 考えても答えの出ない問題にあまり囚われてはいけないとわかっているのだけど。

 牡丹さんが、もし今の時点で宗冴くんのことを好きじゃなくても、これから好きになったらいいのに。

 ファン……と、電車の警笛が鳴り響いて、我に返る。

 通り過ぎていく急行の巻き起こす風に煽られる。

 彼らのことをよく知りもしないくせに、そんなことを考えてしまった。

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