第七話 取り戻したかった日常?


 翠達は目を覚ましてくれた。俺が頑張った事でこの結果が得られたのなら本望。でも、本当の処は俺も誰も判らない。ボクシングを続けていたのは二人の為だ。確かに俺を応援してくれた人たちに期待にこたえる様にもしてきた。でも、翠、弥生が目覚めた今、俺がそれを続ける理由は、その世界に俺がとどまっていなきゃならない吸引力、ファンが望むだけでは詰まり掛けの掃除機ほどに弱い。だから、あっさりと引退することにした。そう決めたのは覚醒を待ち望んでいた二人と顔をちゃんと合わせて、それが本当であると実感できた一週間後だった。

 今まで応援してくれた誰もが俺のボクシング引退を反対した。俺が勝ち続ける目標を知っていた後輩の琴坂みのりやエレクトラが特に強く俺が退く事を拒んだ。彼女達が何を思ってそう願うのか知らないけど、俺がボクシングをやめればその二人等との関係が疎く、もしくは切れるのではと心配したからだったんだろう。薄情だって言われようが翠達が目覚めた今、そんな事は俺には関係ない。優先すべきは・・・。

 色々な反対の中、琴坂慧オーナーだけが、何も言わずに納得してくれた。ただし、勝敗関係なくもう一試合だけファンの為にリングに上がってほしいとお願いされた。

 四月の中ごろに最後の試合、世界ウェルター級王座返納試合を行った。対戦相手はあの曲山治起。俺の後に世界王座に最も近い実力だった伊佐木基樹を下し、上って来た高校の時からのライバル。試合結果は・・・、さてね、どうだったんだろうか・・・。

 で、晴れて、俺はボクシング界から足を洗い、翠達と一緒に過ごそうと思ったんだけど・・・?六年という時間を埋めるには何をしていいのか判らず悩みながら、もう後一週間も過ぎれば五月に入ってしまうそんな頃。

 毎日、翠に会いに行って彼女の様子を伺った。どうも、シャキッとしていない。何が翠や弥生をこんなにも暗くさせているのか全く俺にはできなかったし、どうすれば、元気になってくれるかも思いつかなかった。


 2011年4月22日、金曜日

 俺は幾ら目標がなくなったからって、一日の始まりが変わった訳じゃなくだらだら寝ていないで、六時には起床していた。それから、十時を回るかくらいで、電話が鳴って受話器を取った親父が少しばかり話をした後に、

「藤原翔子さんからです。将臣に何か話がある様だ」

 親父は翔子先生を丸で知人か何かの様によどみなく先生の名前を俺に言っていた。そんなことを敏感に悟れなかった俺はそのまま、受話器を渡してもらい、電話向こうの先生に話しかけていた。

 ああ、ちなみに、弥生の奴はあんだけ眠っていたくせに朝の目覚めが良くないのは変わっていない様だ。

「こんちわっす、どうしたんですか?しょうこせ・・・、翔子さん、俺になんか用事っすか?」

 俺がまた翔子先生の事を先生って云い掛けてしまったけど、先生はそのまま要件、どうして電話を入れてきたのか話してくれた。

 声は冷静だけど、電話向こうの先生の表情が怖い・・・。

「以前、将臣君にお願いされました柏木家と涼崎家の墓石移動の件ですが・・・、先方皆様のご親戚筋の了承が全て取れ、既に移動も滞りなく終わりましたわ。ただ、先祖代々のお墓でしたから、皆様の了解を得られますのが非常に大変でしたのよ・・・」

「大変なことだったってちゃんと判ってますよ、俺なりに。でも翔子さん、そういうことは言わない方が翔子さんの株が上がるってのに」

「お言葉でお伝えしたいほど、大変でしたの。本当に将臣君は真面目なのか不真面目な子なのか判り兼ねます・・・。そのような訳で、両名のお墓は私の家と縁のある方々が一緒に眠っております、龍鳳寺と言いますお寺にございますわ。後に電子文で将臣君の処へ送っておきます」

「電子文ってなんすか?ちゃんとEメールって言ってくださいよ、判ってるけど」

「翠ちゃんと弥生ちゃんが落ち着きましたら、お二人をそちらへお連れしてくださいね」

「ういっす、本当にお手間を掛けさせて申し訳ないっす。それとマジで有難うございました。俺の尊敬する翔子大恩師」

「もう、本当に将臣君タラ、恩師も先生に同じ意と知っていまして、そのような事をくちにしまして・・・、その借りは非常に大きいですよ。忘れないようにしっかりと記帳してくださいましね。いつか必ずお返ししていただきますので、では」

 先生は最後、とんでもない事を俺に言うと嬉しそうな声で電話を切っていた。・・・、余計な事を口にすべきではなかった事を今、ここで直ぐに後悔した。

 先生との電話越しの会話の後、パジャマ姿の弥生がまだ眠そうな表情、目元を手で擦りながら、リヴィングまで降りてきた。

「お父さん、お兄ちゃん、おはよう誤差い・・・、ございます・・・。ちょうしょくはたべましたか・・・、ふわぁああ~~~」

 何とも可愛気があるのか、情けないのか風な表情の弥生は俺達へそう云って来た。

「うん?俺と親父が朝飯なんか作れる訳ないだろうが、買い置きのカップめん」

 親父は無言だった。いままで、ずっと俺達をほったらかしにして仕事一筋だった将嗣父さんは異性である年頃の娘とどのように接触してよいのか、判らない風な態度を示していた。

「何親父、黙ってんだって。こんなだらしない、妹に気を使う必要ねぇって」

「お兄ちゃん・・・、お昼ぬくです・・・。お父さん、何か食べたいものありますか?これでも弥生、お料理得意なんですよ。えんにょしらいで、いってくだはい・・・、ふえぇ・・・」

「おい、弥生、いい加減にその寝ぼけ眼と顔、髪の毛整えて来い」

 俺は妹に近づき、軽く凸ピン。

「おにいちゃんの、いじめっ子ぉ~、ばかぁ」

 悪態付いて寝ぼけた泣き顔で洗面所へ行く、俺の可愛妹だった。

「大丈夫だって、親父。あいつ、あれでもしっかりしてんだから、なんも考えないで普通に接しろよ、俺たち親子だろう?」

「そっ、そうだな・・・神奈の娘なのだから。しっかりしていて当然なのだろう・・・。しかし・・・」

「何がしかしなだよ・・・・。なあ、親父、俺、あんまり母さんの顔覚えちゃいないんだけど・・・、写真とかねぇしって、なんで?」

「私が持っている物以外処分したからだ・・・」

「なんでだよっ!」

「理由は後で説明しよう。お前も理由を知れば、私の弥生とどうしたらいいか、悩む訳を知るだろう・・・」

 親父はそう言ってリヴィングのソファーに腰掛けると、TVの電源を入れて、画面の中に移る映像を眺め始めていた。ちゃんとした血縁なのに親父の言動や行動、俺とは似ていない。俺の性格とかは母さんになのかな?それとも成長期に親父がいなかったから、になかったのかな?まあ、実際似ているとか、似ていないとかどうでもいいことなんだけどよ。

 俺も親父の隣に座って同じものを眺め始めていた。

 それから、大体三十分くらいで、身嗜みを整えた妹が姿を見せた。

 目覚めたばっかりの退院後、色々と現状を把握して生活に慣れるまで大変かと思ったけど、弥生はシッカリした性格で環境適応が速かったから一月過ぎないうちに、一切の支障なくその日を過ごしていた。表面上平静、明るく装っていた。でも、一つだけ、気がかりな事がある。それは妹の心。どうしてなのか俺は弥生の考えや心の中を漠然と理解できてしまう事がある。それは妹にも言える事らしいけど・・・。

 弥生は悩んでいる。え?何をか、って?それはうぅ~~~ん、ええぇっと・・・。判らん・・・っていうのか俺にはどうしても解決してやれなさそうなそんな悩み。出来るのは翠か、妹の心を理解してやる事の出来る彼氏ができたら、だろうな・・・。

 テレビを見つつ悶々と弥生の事を考えていると、妹の奴は親父に話しかけていてお昼何を食べたいのかを聞き終えていた。

「んじゃぁ、俺も同じので」

「お兄ちゃんの分はありませんっ!べぇ~」と赤眼を俺に見せて、キッチンへいってしまった。まあ、俺にそんな言葉を吐いても、チャンと俺の分も作ってくれる事は判っていた・・・?

 それからお昼ちょうどの頃、

「や・よ・い?これ、なに?」

「将臣おにいちゃんの考えなんてお見通しです。弥生に何言っても大丈夫なんて思っていたんでしょう・・・、お父さん、冷めないうちに食べてくださいね」

 親父の方には色取り取り、中華系の料理が並べられていた。俺の方には余りで作った半盛りくらいのチャーハンだけ。

 親父は妹のその態度に何も言ってくれず、箸を付け始めた。それを食べておいしいって弥生に言うとニッコリする妹。それから、妹も箸を持って食べだす。俺の方には炒飯を食べるための蓮華しかなくて、それで酢豚に手を伸ばすと、妹はにこやかな顔でそれが乗る皿から蓮華の侵入を阻むように箸で払いのけられた。

「弥生、将臣、いい大人が、みっともない真似をしてはいかんぞ。せっかく上手にできたんだから、弥生もそんなことしないで・・・」

「お父さんが、そういうなら・・・、将臣お兄ちゃん・・・」

「ああ、わかってるよ。感謝して頂かせてもらうさ」

 食事中、弥生は俺や親父に六年の時間の流れを埋めるためにそれまでの妹の知りたい事を質問された。

「洗いものは俺がやっておくから、親父とゆっくりしていろ」

 キッチンのシンクに立つ前に、携帯オーディオを小型スピーカーのドッグへ納めて、小さな音量で掛け始めた。藤原響が出している2nd アルバムが流れる中、洗いものを済ませる。

 食器の水切りが終わって、食器乾燥機にそれらを並べ始めた頃、弥生が台所へ来ていた。

「あっそうだ、弥生」

「うん?なに、おにいちゃん」

「明日さ、お前と翠を連れていきたいところがあるんだけど、俺が誘っても翠、答えてくれそうにないから、頼むよ」

「えぇぇ、そんなのお兄ちゃんが、すればいいじゃない。みぃ~ちゃんの彼氏なんだし」

「本当にそうだといいんだけどな・・・」

「大丈夫、お兄ちゃんが思っているほどみぃ~~~ちゃん、お兄ちゃんの事、嫌いじゃないよ。うん、でも、弥生もみぃ~ちゃんとお話したいから、電話するね」

 妹は直ぐに電話が置いてある廊下へと向かった。ああ、そういえば最近、全く洋介の奴と連絡とれないんだよな。せっかく弥生が目を覚ましたってぇのに・・・。そう思って、携帯電話で親友の処へつなげるけど、十回目の呼び出し音の後に何時も通り、留守録の方へ転送されていた。

「将臣だ、連絡くらいよこせよ」と簡潔な言葉で登録すると電話を切って溜息を吐いてしまっていた。


 翌日の4月23日、土曜日。八時半を過ぎても、妹が起きてこなかったので、弥生を起こしに遠慮なく、妹の部屋へ押し入った。

「おらぁっ、起きろよ、この寝BOSSけがっ!」

「ふにゅぅ~~~、・・・、・・・・、・・・・・、・・・・・・、おにぃ~ちゃん、弥生の部屋に勝手に入っちゃ、やだって何時もいってるのにぃ、うぅ~~~」

「文句なら、後で幾らでも聞いてやるから、っさっさと準備しろよ、下で待ってるから」

 俺は眠気顔で文句を垂れる妹の頭を大きく開いた掌で軽くたたいてやると弥生の部屋を出て行った。

 それから、三十分も過ぎた頃に支度が終わった弥生が降りてきた。

「んじゃ、親父、涼崎さん処へ行ってくるわ」

「秋人君達に粗相のない様にな」

「おにいちゃん、朝ご飯は?」

「うんなもん、食ってる暇ねぇだろうよ。俺だって食ってねぇんだから我慢しろよ」

「弥生、食べたいのにぃ~~~」

「だったら、寝坊せずに起きりゃいいだろう。いくつだよ、お前?」

「将臣お兄ちゃんと同じ」

「なら、もう少し大人らしくしっかりしろよな」

 そう言いながら、妹の背中を押して玄関に向かった。

 実は俺ん所の結城家と涼崎家へ斜(はす)向かい。中学までは朝、普通に家の前から一緒に学校へ行っていたけど、高校に入ってから、電車通になって聖稜へ通学するようになってからはどうしてか、弥生と翠の奴らは駅前で待ち合わせという、訳の判らないルールを作っていた。未だにその理由が判らない俺である。聞いても教えてくれなかったしな・・・。

 弥生と違って寝坊なんてありえないはずの翠・・・、が?

「おはよっす、葵小母さん」

「葵小母さまおはようございます」

「おはようございます、将臣君、弥生ちゃん、どうぞ・・・」

 小母さんは俺達を家の中に通してくれながら澄んだ通った声で吹き抜けになって見える二階に居るはずの翠に声を投げていた。

「上にあがっていいっすか?」

「はい、ご遠慮なくどうぞ・・・」

 その答えに弥生が言っている事を無視してずけずけ、二階に上がっていく俺。ドアは開けっぱなしだった。俺の視線の向こうにはパジャマを脱ごうとしている翠の姿が見える。俺が彼女の姿をマジ見しようとすると弥生が俺を脇へ強引に押しのけ、俺の視線の方向を変えさせられた。

「みぃ~ちゃん、まだ起きてなかったの。お兄ちゃんはまだ入ってはだめです」って言いながら、素早く翠の部屋に入る同時にドアを閉めていた。さらに『カチャッ』って音がした。鍵まで掛けやがったよ。

「なにするんだよ、弥生。別にいいじゃないか、翠は俺の彼女なんだから、恥ずかしがることないじゃなえぇか」と躊躇いなし、本音を隠さず口にしていた。

「そういう、デリカシーの無いのはいけないんですからねぇ。妹としても恥ずかしいし、貴斗さんを理想としているのでしたら、女の子への配慮も身につけてくださいねぇ」

「馬鹿、言え。何でもかんでも貴斗さんの真似したら、俺の持ち味なくなっちまうだろうが」

 貴斗さんは貴斗さん、俺は俺。見習うべきところは見習うけど俺である事を意味なくしてしまうようなことまでは真似してもしょうがない。そう、気づかせてくれたのは何よりも今、扉向こうで着替えているだろう翠だった。彼女には云わないけど、それはすごく感謝している事だ。

 しょうがないから、翠が着替えるのを手持ち無沙汰で待っているのもなんだな・・・。さっきの翠の姿を思い出す・・・、水泳やってたからスタイルいいんだけどな・・・、もう少しほしかった、男のロマンをくすぐるあの山が・・・。ああ、しかし、珍しいな、翠の奴が寝坊だなんてよ。結構記憶力には自信がある俺だけど彼女が寝坊したのって高校受験の当日くらいだぜ。しかも、受験票を忘れてしまう勢いの寝坊っプリ。

 俺は葵小母さんが出してくれた緑茶を啜りながら淑やかに微笑んでいる小母さんに見とれていた。いつか、翠もこんな風におしとやかになるんだろうか?子は親に似る、って風説があるけど・・・、彼奴に限ってはなさそうだ。

「将臣君、お茶のお代わりはいかがでしょうか?」

「えっ、あっ、はい、遠慮なくもらうっす」と言い返したところで翠達が一階まで下りてきたようだ。

「馬鹿マサっ、なに内のママ見てデレデレしてんのよっ」

 翠はちょっと不満そうにそう口にした。もし、彼女のその態度が嫉妬から来るものならうれしかった。嫉妬してくれるって事は少なくても、翠が俺の事を意識してくれているんだって事実を知る事が出来るからだ。だけど、俺は彼女の言葉を訂正する。

「そんなにしまりのない顔してっねぇだろうって・・・、まあ、葵おばさんが綺麗なのは事実だけどさ」

「まあ、将臣君タラ冗談をいって私をからかわないでください、フフフフ」

「冗談じゃないですってぇ。翠も葵おばさん見たいなしとやかさ見に付けろよな」

「それはあんたの態度次第よ」

 俺の言葉が不味かったのか翠の奴、少し不機嫌な顔。まずったな・・・。でも、大丈夫だろう?翠はなんたってさっぱりした奴だから、直ぐに元通りになってくれるよ。希望的観測を思いつつ、葵小母さんに出かける挨拶をして先に外へ出ていた。

 空を見上げ、小さく薄く浮かぶ、春の雲を眺めて見た。いい天気だ、墓参り日和・・・、ってそん言葉は聞いたことない。

 二人が出てきた事を声で知ると、振り返らず、何も言わずに目的地へ歩き始めた。

 どうして、二人と並んで歩かない。すこし、二人に後ろめたい思いがあったからだ。俺は今まで六年間、ボクシングを通じていろんな出会いがあった。辛かったことも多いけど、それ以上に楽しかった事、嬉しかったことも多かった。なのに、俺はそんなにも充実していたのに、翠も弥生も、俺のその思い出の中にはいなかった。その事を考えると、心が痛いし、それを悟られたくなかった。だから、二人の前を歩いていたんだ。だけど・・・。

「ねぇ、将臣は・・・、私と手をつないで歩いてくれないの?弥生はそうしてくれているのに」

 翠は柄にもなく、っていっちゃ失礼だけど、そんなうれしい事を言ってくれるでもよ・・・。

「はぁん?そうして欲しいのか?」

『お前の事が一番好きだってはっきり言えるけど、今の俺のこの手はお前以外の女の事何度も・・・、・・・、・・・、それでもいいのか?』

「えっ、うん、そうじゃないけど。だって、昔の将臣だったら」

『昔の俺だったらか・・・、あの頃はお前の手を握るだけでも嬉しかったからな・・・』

「まあ、心境の変化って奴だよ。大人だからな、お前らよりも六年分・・・」

『その六年分の中で、翠に云えない隠し事だってあるんだぜ、俺・・・』

 なんか、心が萎えそう・・・。それ以上言葉が出なかった。行動派の翠はためらい気味な俺の手を握ってくれた。妹もそれを真似する様に空いている反対側の手を握ってくれる。あいつ等とは違う手の温もり、俺が取り戻したかった温かさ。それが今両隣にある・・・。両手に華か。二人のその行動が俺の胸を軽くしてくれる。その思いがつい表情に出てしまった事を俺は知らない。無論、どうして、急に翠が手をつなごうって言ってきたその心境すらも判ってあげられなかった。

 人通りの多くなり始めた交差点に辿り着き、信号待ちの為に立ち止った時に俺の方から手を放していた。高校の時までは彼女の手とか自分から恥ずかしさも感じずに繋ぎたいって思っていたけど、今ではそうでもない、人が多い処でそれをするにはめっちゃ、恥ずかしく感じてしまう。

 俺がその手を外してしまったせいか、翠がすっげぇ、せつない顔で、

『手を離しちゃいやだ』、みたいな事を言ってくれるけど、それには答えてやれないからしっかり言葉にしていた。マジで、ごめんよ、翠。ああ、でもこんな風な翠を見ているとなんか六年頑張って待ち続けてきた甲斐があるって実感できてうれしいのは彼女に教えない。

 それから、弥生が俺の半分本当の過去を暴露したが嘘だと云い切り、先にまた歩き始めた。それから駅に来た俺達は電車に乗って『三鷹ノ杜』駅って処へ向かう。その駅で降りると駅を出てすぐの処にある花屋さんで、翠達に判らない様に墓参り用の花束五人分を購入した。未だに俺が向かっている場所が何処か教えていない二人。でも、今買った物で理解した様だな。

 二人とも持ってくれるって言ったけど、寺に着くまではと言って断った。

 三鷹ノ杜から歩いて二十分。緩やかな坂を登りきると進行方向に佇む古さを感じつつもその存在感と威厳に満ちたお寺が見えてきた。歩いてきた方角の景色はベッド・タウンとしての静かさに満ちていた。

 寺の門の前まで来ると俺は二人に振りかえり、

「もう、わかっただろう?俺がここに来た理由」

 そう、後ろについてきた二人に告げた。でも、まだ、ここに翠の姉さんと柏木さんが映って来た事は教えてやらない。いってから、また寺の方を向き門を潜って水汲み場へと歩き始めた。

 水の入った桶を持つには花束が多すぎる。だから、二束分を一つに見える様に弥生と翠に渡し、水一杯に張った桶を二つとちょっと小振りになった花束をかついで貴斗さん、っていうのか貴斗さん達の先祖代々のお墓がある場所へ移動し始めた。

「もぉ、将臣、もうちょっとゆっくり歩いてよ。私達、女の子なんだよ」

「そうですよぉ、将臣お兄ちゃん」

 別に速く歩いてるつもりなんてさらさらないし、ちゃんと二人が詩織さんや隼瀬さんの墓の場所を覚えているなら俺が先に行ったって迷わないだろう?それに、あと数歩進んで、角を曲がって、十秒も歩かないうちに到着する。だから、

「運動馬鹿の二人が何を言っているんだか?まぁ、しゃぁないなぁ。もうすこし・・・、早く歩いてやる」と言って角を曲がりきると同時に走り出したふりそして。んで、目的地に着くと、慌てて着いてくる二人の気配を感じつつ急に停まってやるのさ。

「何走ってんだ、ここだぜ、俺達の先輩が眠っている墓が並んでいるところは」

 俺にぶつかりそうになって急制動を掛けた二人はすごい文句の在りそうな顔を作ってから先輩達の墓の方を向いた。で、その後に翠達が見せてくれた表情が余りのもおかしかったんで、

「ふっ、なんだよ、その何か違うって顔・・・、よおぉ~くみろよ。その隣に掘っている墓の名字」と口にしてやった。

「これって、春香おねえちゃんのお墓ですよね、将臣お兄ちゃん、それに柏木さんって方の・・・」

「ああそうだ。俺が頼んだんだよ。柏木さんも春香姉さんもぜってぇ、貴斗さん達と同じ場所に眠りたいんじゃないかって。寺の敷地や契約、その他色々な関係ですぐにはいかなくてよ。去年になってやっと移せたってわけさ」

 実際は昨日になってから漸く、翔子先生が知らせてくれた事なんだけど、二人には何時移って来たかなんてどうでもいい事。だから、時期なんて嘘でも構わない。

「将臣のくせに・・・、こんな・・・、・・・、こんな・・・、嬉しい事してくれちゃうなんて、生意気なんだから・・・」

 翠が口にしている事と表情の差が、違いが余りにも可愛く俺には映っていた。そんな彼女を抱き締めたかったけど、衝動に任せてそうしてしまうと、嫌われそうな気がして、平静を装って、軽く鼻で笑って見せていた。しばらく、可愛らしい顔を続けていて、ここに来た目的を忘れちまっているっぽい翠へ、

「ほれ、さっさと飾ってやろうぜ」

 俺の声を来た翠は早速、誰かの墓前の前に桶と雑巾を持って歩みだした。それに続く、弥生。それからしばらく俺は佇み、二人の会話や行動を眺めていた。一生懸命丁寧に一つ一つ、順番に墓石の掃除を行う翠と一番初めにやりたい人のを後回しにされ、それでも翠と同じくらい真面目に彼女が手を掛けた処を妹も一緒にやっていた。

 春香さんのお墓の掃除が終わった処で翠の表情が急に翳り始め、それに最初に気がついたのは俺じゃなくて妹の方だった。

「みぃ~ちゃん、まだ辛いんですね。春香お姉ちゃんの事を思い出すと・・・、いいですよ。泣いたって私達の前では・・・。将臣お兄ちゃん、お兄ちゃんが自分の事を繊細だなんて思っているのなら、こういう時はみぃ~~ちゃんの気持ちを察してあげて胸を貸してあげる事が恋人として大事だと思うんですけどぉ~、弥生は」

 弥生が俺に話しかけている間、翠は何度も、何度も、目尻をこすり涙を止めようとするけど無理っぽい。弥生に指摘された事が少しばかり勘に触れたせいで、今は俺が知っていた高校の時よりもずっと言動とかに過敏な翠に、

「ばぁ~~~ろっ、此奴がそんな珠かよ。本当に翠がそうしたいなら、何も言わずに行動してるってぇの」って言ってしまった。今の俺の口にしたそれはマジで失態だ。結果は、彼女の表情が不満そうに俺を睨み、

「弥生の言う通りよ、私だって女の子なんだから、そんな処に突っ立ってないで・・・」と最後は語尾がはっきりしない何かを口にしてやめる。

「なんだよ、何だよ。翠らしからぬこと抜かしやがって。はぁ、六年眠っていた裡に、少しばかり、しおらしくなったか?」とまたいらぬ事を俺は言いつつ、彼女の方へ近づいていた。弥生公認なら、妹が見ている前でも後ろめたい気持ちもなく、翠を抱きしめてやれる。

 それから、結構な時間が立った。その間、妹の弥生は俺達の姿を嬉しそうに眺めていたのはなぜだろうか?俺達が一緒になる事を一番反対していたのは妹なのにな。ずっと同じ姿勢をしていたから、足に疲れがたまっていたけど、俺の方を見上げていた翠へ

「落ち着いたようだな、翠。それじゃ、最後も済ましてしまおうぜ」と伝え、貴斗さんのお墓を自分の顎を動かし、指していた。

『やっ、やべぇ、失礼なことしてしまった・・・、すっ、すんません、貴斗さん』と心の中で謝った事は秘密だぜ。

 翠が弥生から渡されたハンカチで涙をぬぐった後に茶目っけを見せてくれた。

 見た目は判らないけど、雰囲気で先の誰よりも丁寧にやっている様な気がするのは気のせいなのだろうか?弥生はもう表情に全面的に押しだして、嬉々している。兄貴の俺が妹を褒めるのはアホらしいけど、それなりに可愛いし、頭だって、性格だって、日常生活で出来ない事の方が少ない。でも、やっぱ、貴斗さんには詩織さんじゃなきゃありえない。どんなに貴斗さんの事を想っていても妹の出る幕なんて、全くなしさ。

 うんなことを考えていると、何故か、刺すような視線が妹から俺へ向けられていた。知らんぷりして、明後日の方向を見て適当な口笛を吹いてごまかす俺。

 先輩方の掃除が終わって、花を確り活けて、線香を焚いて、全てが整うと、三人並んで全員の冥福を祈った。

 帰りがけに、出かける前に親父に聞いた事を翠にも伝えていた。来月、家と翠ン家と更に八神さんの処とで家族旅行に出かけようってことになっていた。大きな理由は八神先生が二人のカウンセリングの為だとか。でも、どうして、親父が八神先生の事を知っているのか不思議でしょうがない・・・。長い間、一緒に過ごしていなかった親父には何か秘密がありすぎる様な気がしてならない。まあ、それもこれからはずっと日本に居てくれて、一緒に暮らしてくれるから、聞き出す機会は十分にある。

 でも、何よりも、ボクシングをやめちまった、今後の俺の身の振り方を翠や弥生達の次に考えなきゃならない。さて、どうしたもんだろうかな、何せ、翠達の奴は目覚まして、まだそんなに立たないのにチャンと目標を立てたみたいだったからな。



 翠と弥生を貴斗さん達の墓参りにつれてってやってから、二人の雰囲気や表情が目覚めた手の頃の斜め向きな雰囲気から、大分、昔の様に戻って来た。一緒に居る立場の俺としてはそんな変化は懐かしさと安心感を覚える。

 今の二人の一日の過ごし方といえば、図書館に行って勉強をする事だった。何の勉強?二人とも大学に行きたいんだとよ。今のままじゃ、目標が何にも見つからないから大学に行って一般教養を身につけている間、その後の身の振り方を探したんだそうだ。大学か・・・。

 目標が決まってからの弥生は朝寝坊がぴったりと止まって、親父たちと三人で朝食を摂ると、日中俺達が居ない間の親父の昼食を作ってから翠達と図書館へ向かう様になった。三戸駅出てから歩いて三十分くらいにある国立中央図書館。そこの二階の大小何部屋かあるディスカッション・ルームで閉館まで二人は熱心に勉強していた。雑談はほとんどない。二人の会話はあれや、是也の問題がどうのこうの解答合わせや、弥生が翠へおしえたり、おしえたり、おしえたり、でたまに、俺も。

 俺は勉強するつもりがないから聞かれたら教える位で、図書館内にある小説や雑誌を読み漁っていた。UMPCで興味のある情報を眺めたりもする。

 似たような毎日、俺はそれでも退屈しなかった。それから、五月に入った二日目の図書館から帰って来た翠の自宅前で、

「明日だな」

「そうだね、楽しみだね」

「貴斗達さんのお墓参りにいってからずっと勉強しっぱなしだもんね。息抜きです。みぃ~~~ちゃん、ねぼうしちゃだめですからね」

「寝ボスの弥生になんか言われたくないですよぉ~~~」

 翠は弥生にあんな事を云うけど、今、妹がその寝坊をしない事を知らないようだ。

「俺達が、迎えに行った時、まだ、翠、お前が寝てたら、勝手に入って、ぬふふふふぅ」

「何バカマサっ、変態なこと考えてんのよっ!」

「おにいちゃん、みぃ~ちゃんにそんなことしたら酷いんだからね」

 適当に行った事に向きに返してくる二人を鼻で笑って、自分ちへ逃げた。

「親父、ただいまぁ~~、もどってきたぜぇ」

「おとうさん、今帰りました」

「二人ともお疲れ様。料理はできないが、風呂くらいは沸かしておいた。どうする?」

「うんじゃぁ、親父、一緒に入っか?なんだ、弥生?羨ましいか?」

 将嗣父さんと肩を並べて風呂へ行こうとすると、どうしてか、弥生が物ほしそうな顔を作っていた。

「残なんだけどなぁ、心はガキでも、体つきは大人なお前と親父が一緒に入れる訳ねよ。諦めな。行こうぜっ、親父。」

 俺の言葉は図星だった。親父に甘えたいのだろうけど羞恥心がしっかり働いてくれて、望む事を望めない様だった。

「あっ、弥生、疲れてるところわりぃけどよ、夕食の準備よろしく」

「たっ、頼んだぞ弥生・・・」

 申し訳なさそうに親父が追従して言うと、不満げな表情でキッチンへ歩み始める妹だった。

 風呂場で、湯船に浸かる親父と、頭を洗っている俺。

「なあ、親父、この前、話してくれるって言った母さんの事を聞かせてくれよ」

「そっ、そうだったな・・・。何から話そうか・・・、何を聞きたい将臣」

「そうだな、母さんって、神奈母さんってどんな人だった?」

 俺の尋ねに親父は両手ですくった湯を顔に付けて暫らくその状態だった。零れ落ちる湯がその中からなくなった頃、親父は顔を挙げて、

「覚えているかい?神奈がどんな仕事をしていたのか?」

 俺に俺は首を横に振ってこたえると、

「今ほど、遺伝子治療が盛んでなかった当時、三十年も前になるか・・・、彼女はその今後の発展、先見を見据えた上でその道に進んだ。職場での彼女の評価は研究計画主任の次にとまで言われていた人でね、頑張りやな性格が彼女の評価を更にあげていたようだ。神奈の性格とかを覚えているか、将臣?」

「優しかったけど、悪い事をしたら、チャンと叱ってくれる事だけは覚えてるけど笑顔で怒るから、余計に怖かったような・・・あっ、でも、母さん、なんでもやれちゃう様に見えて、電気関連は駄目っぽかった気がする・・・」

 俺の言葉に将嗣父さんは小さく横に顔を振り、俺の言った事を否定した。

「あれは何でもできた。お前たち子供等に父親の立場を奪わないために私への配慮だったのだ。あれは本当に相手を理解してくれるように、気配りをしてくれる出来た人だった。なのに・・・」

 親父はそう言い切ると随分、表情を翳らせた。俺や弥生にとっても母親は命を呉れた人だから大切な人だったけど、親父にとっては比較しちゃならないくらいなんだろう。

「なあ、親父と神奈母さんってどこで知り会ったんだ?」

「私は神奈が勤めていた研究所の施設技師で、技師と研究者の交流を施設長が年に三回ほど行っていて、そのパーティーで・・・」

「なに、親父から声掛けたって?」

「ちっ、ちがう・・・。それはない」

「まっ、そうだよな。親父がそんな玉じゃないだろうし・・・、では本題を聞かせてくれ、どうして、親父は母さんの写真を処分したんだ?」

「娘も母も表面の性格は違うかもしれないが、今の娘は容姿が似過ぎている・・・。普通の親子ではありえないくらいに・・・。そう予見したのは私がお前達を残して日本を立たなければならない出張の数日前だ」

「なんで、そう思ったんだよ?」

「神奈の遺品を整理していた時に出てきた神奈の幼少の頃の写真を見てだ。若し私が居ない間に、弥生が神奈の写真を見て気がふれてしまうのではと心配して・・・、母の全ての写真を・・・」

「本当に全部処分しちまったのか?マジで?」

「・、・・、・・・、・・・・、・・・・・、私の手元にある物以外・・・」

 この時、親父がウソを吐いている事なんて知るはずもないから、それで納得してしまう俺。

「そんなに似てるの?母さんと弥生って」

「ああ、今の容姿は私が初めて神奈にあった頃とほとんど遜色がない程にな」

「ふぅ~~~ん、なら、後で見せてくれよ。その頃の母さんの写真」

「うん、ああ・・・」

 風呂に上がってから、母さんと父さんが写っている二十代前半の物を見せてもらった。っていうか弥生よか、よっぽど母さんの方が綺麗じゃなぇか・・・。こっ、これは息子が母親に抱く幻想じゃねぇぞ。写真がそれを証明してくれていんだからよ。それよりも、何だよこの親父の無愛想ぶり。笑っちまう。

 親父の様に好きな人に対して態と無愛想な素振りをする人がいた事を。

 それでも、その人とその人が愛した人は写真の中の両親の様に不釣り合いに見えなかった。もういないその人達の事を思い出して少しばかり感傷的になってしまう俺だった。


 2011年5月3日、火曜日

 俺達は翠ンチの前で秋人さんが車を出すのを待っていた。親父は俺の周りでは珍しく煙草を吸う人だったから、待っている間、それを吹かしている。そして、妹弥生に、

「将嗣お父さん、何度言葉にすれば、判ってくれるんです?ちゃんと、煙草の灰は携帯灰皿の中にってっ!その為に、それをプレゼントしたのに。ポケットの飾りにしないでください。煙草を吸う事を駄目って言っている訳じゃないのですから」と憤慨され、

「うん、ああぁ」と曖昧な返事をしながら、渋々と男が使うには躊躇いがあるファンシーなそれを取り出し、吸い殻を落とす。俺には弥生の親父に対する嫌がらせとしか思えないのだが、妹がそんな事をするはずがない。親父の好みを知らない俺達だから、弥生は弥生が気に入った物を買って来たんだろうな。自分がどんなものを好きなのかを知ってもらいために。しかし、果たして親父がそれを理解できるかは判らない。

 親父が三本目のキャメルという銘柄のそれを吸い終わった頃に秋人さんが運転する車が出てきた。LEXUfiniti(レクスフィニティ)、LEXUS(トヨタ)とinfiniti(日産)。トヨタ日産の世界規模の合資会社。高級車への永遠の追及を掲げたブランドとして去年の暮れに出したばかりの新型・ハイブリッド、ラインナップ内の一つが俺達の前に登場した。

「かっけぇっすねっ!エルファード」

「おほめ頂いて、ありがとうございます。お待たせしました、さあ、乗ってください」

「秋人君、煙草は・・・」

「禁煙です、遠慮してください」

 はっきりと答えを返されて、親父は自動で開いたドアから後部座席に遠慮なしにでんと座りこんだ。

 弥生を最初に中部席に乗せその隣に俺が座るとまた、自動でドアが閉じた。

 俺達が乗り込もうとした時、翠の表情が優れなかった。何を話したらいいのか、判らなかった俺はとっさに弥生に気付かれないよう妹を翠の隣に座る様に促したのもそれが理由だ。

 それから、俺は窓の方に映る彼女を視線だけで確認して、UMPCで最近ハマり始めたオンライン・ゲームを始めた。今時分はTVゲームをする事なんて、当たり前な世代だけど殆どゲームをした事がない俺にとってOLGは十分魅力的な素材だ。あくまでも翠達の事を考えなかった場合だけどな。

 今だって、翠とどうしていいか分からなくて逃避的にやっているだけだし。今、翠の事で弥生に頼るのもお門違い。まっ、OLGは俺に出来る事が判るまでの付き合いだろうけど、それまでは遊ばせてもらうぜ。

 OLG内での合間の感情移入のないチャットをしながら、翠の様子を伺ったりする。彼女は相変わらず、物憂い気な顔のまま、外を眺めているだけだった。話すだけで解決できるのなら、バカを演じてでもそうしたい。でも、そんな雰囲気には見えないから昔みたいに接する事が出来なんだ・・・、こんな時、洋介がいたら思いっきり笑われるだろうけど、何か助言を呉れるだろうに・・・、あと、頼りになりそうなのはあの人だけか、はぁ。

 OLGに中途半端な意識でやっているから、度々、ゲーム内で死にそうになったけど、薄いつながりの見えない仲間が救ってくれた。本当は感謝すべき事なのかな、と思うけど、上辺の礼を吹き出しにしていた。

 何時しか、瞳を閉じていた翠。眠っているようだった。後、十数分で目的地に到着する頃、見ているとめっちゃ、心が痛くなる表情で翠は涙を流していた。どうして、泣いているのかはっきりとは理解できないけど、春香さんや貴斗さん、詩織さん、それに一番尊敬していただろう、隼瀬さんの夢を見てそうしているんだろうと思う。手を伸ばしても届かなくなってしまった大切な人たちの夢を。

 今の俺には彼女の心のケアは出来ない。でも・・・、彼女の涙ぐらいは拭ってやれる。目的地の伊豆のキャンプ場に到着して、車から降りる際に俺は、

「ついたぜ、いい夢でも見れたか」と言ってハンカチを翠へ向けた。これが、今できる俺の精一杯だ。

 翠は俺がそれを渡した理由を暫らく理解できない様で可愛らしく困惑していたけど、やがてその理由に気がついて、小さくほほ笑んでくれた。そういう風な顔を作ってくれたって事は感謝してくれたって事でいいんだよな?


 キャンプ場に着いてから、男達はテント張り、女の人達は昼食の準備、でも例外として、慎治さんのお姉さん、八神佐京先生だけはテントの組み立ての方に参加していた。本当に佐京先生って美人で格好がいいと思う。テントなんて女の人が簡単に出来る作業じゃないのに調川先生と一緒に当たり前のようにこなしていた。

 昼食はカレーだった。でも、そこらで買える市販ルーとかじゃなくて、何と翔子先生の秘伝らしい。なんか、周りの年上の人は誰もが凄人ばかり。でも、俺は日本で初のウェルター級世界チャンプだから、もっと凄い。なんて口にしたら皆に、特に翠や弥生に白い目で見られそうなので思うだけに留めておこう。

 カレーだけでも満足できそうなのにサラダに、御菜(おかず)と盛りだくさん。それでいて、食べ残しのない美味しさ。翔子先生やっぱすごいっすよ、なんでこれで彼氏とかが出来ないのか不思議でしょうがない・・・。

 昼食後は翠と過ごそうかなと思ったんだけど、調川先生と佐京先生の釣りに弥生と一緒に行くって事で、これは診療の為に先生達だけにした方がいいのかなと思って、俺は独り、一碧湖って湖へ向かった。

 桟橋の方へ眼を向けると、その場所には慎治さんとその妹の右京チャンって子がいた。何やら面白い事をしているみたいで、昔の俺と弥生の事を思い出してしまった。自嘲気味な笑いを独りでし、先輩の方へ近づいた。

「慎治さん、あんまり、妹さん、右京ちゃんにひどいことしていると後が大変ですよ」

「それは将臣君の経験則からくる言葉なのか?」

 慎治さんは右京チャンの頭を撫でながら、朗らかな笑みをこぼしながら当たり前のように俺の心の核を答えてくれていた。

「まあ、そんなものです」

「ねぇ、シンお兄ちゃん、ボート乗ろうっ、ボート」

 慎治さんの妹さんは慎治さんの腕を引っ張り、桟橋に繋がれているそれを指差し、目を輝かせ訴えていた。

「右京ちゃん、俺も同乗してもいいかな?」

「はいっ、勿論いいですよ、ねっ、だから、シンおにいちゃん、あれに乗りましょう」

「将臣君、弥生ちゃんや翠ちゃんと一緒じゃなくていいのか?」

「ええ、なぜか、愁先生、佐京先生と釣りに出かけてしまいましたよ。俺は面白みを感じられそうに無かったからパスしました。で、慎治さんどれに乗るんですか?」

 先生達と一緒にさせたのもそうだけど、やっぱり釣りその物に興味がない。慎治さんに聞かれてもいい事だったから隠さずにそう口にした。

「定番はアヒルか、あの櫂でこぐヤツだろう?」

 実は小学生くらいの女の子って自分じゃ漕げないくせに普通の手漕ぎボートに乗りたがるんだよな。俺の周りだけだったのかもしれないけど、で予想通り、慎治さんの妹さんもそれを選んでいた。

 右京チャンの様子を見ると慎治さんのそばに居たそうだった。かなり年上だから甘えたくてしょうがないのだろうか?だから、先輩の代わりに漕いであげよう。

「うまいんだな、将臣君」と何の含みもなく純粋にほめてくれる先輩に苦い笑みをこぼしながら、

「初めてじゃないですからね。子供の頃、弥生と乗って、湖の真ん中まで行くと妹を突き落とした事が何度もありましたから、アハハハハッ」

「将臣おにいちゃん、そんな事をしたら、弥生おねえちゃんがかわいそうですぅ」と可愛らしい不満げな表情で俺を訴える右京チャン。俺はそれを流す様に、

「はははははっ、もう、時効、時効。そのおかげで、妹は水泳の名手になれたんだぜ」と返していた。でも、よく弥生は俺の悪戯にめげなかったよな。仕返しをされた覚えもない。今、思うと恨まれても仕方がない事も多かったのに、これから少しは労ってやろうなんて気分にもなるかもしれないそんなボートの遊泳。

 何時しか、湖の上で静かに揺れるボートの心地よさに右京チャンは眠ってしまっていた。慎治さんにあおう、会おう、思っていたけど、その機会がつかめなくて、色々と相談できなかったけど、今なら・・・。

「慎治さん、翠たちが居ないから、ちょうどいい機会なんですけど・・・。慎治さんはこれから、どうするんですか?」

「どうするとは?」

「どの様な道を歩むかという事です。翠も、弥生もちゃんと目覚めてくれたから、もう、俺がボクシングを続ける必要性はなくなった。慎治さんも、見たでしょう、俺の引退会見と最後の試合」

 俺の言葉を聞いた慎治さんは一瞬目を瞑って顔を掌で覆った。そして、独り何か頷く先輩。掌を顔からどけて、俺の次の言葉を待つような表情に変っていた。俺が聴きたい事を悟った風な信頼のある顔つきに促されるように言葉を繋ぐ。

「慎治さんはこのまま、トマトで仕事を続けるつもりなんですか?俺は俺を応援してくれている連中のためにボクシングを遣っていたわけじゃないから、やめるのは簡単だったけど、その後の事をまったく考えていなかったんです」

「要するに、俺に今後の事をどうしたらいいのかって相談だな?翠ちゃんや、弥生ちゃんたちは?」

 今は俺の事を聞いているのに先輩は翠達の事を尋ねてきた。先輩はもしかすると俺だけじゃなくて、三人を含めた視野で考えてくれるのか?凄いな、やっぱり慎治さん。貴斗さんが絶対の信頼を置いていたのが判る様な気がする。

「え、翠達ですか?なんか知らないけど、大学にいくとか言い出しています。で、二人して勉強必死になってやってますけど・・・」

「その二人と一緒に大学に入ろうとは思わないのか、将臣君は」

「だって、今更、そんな所に入ったって、それに」

「年齢を気にしているのか?おい、おい、まだ二十五だろう?問題ねぇって。俺が一年のときに三十を越えているやつだっていたんだぜ。それでも、みんな仲良く遣っていたさ。それに今は、四十、五十を越えても大学でもう一度、勉強したいって連中もいるんだから、そんな事気にする必要ないってな。それに、将臣君くらい頭が良けりゃ、四年間も大学通っていれば、進みたい道が見つかるさ。翠ちゃんや弥生ちゃん、二人とも表に出してないつもりなんだろうけど、俺には何となくわかる」

「何が判るって言うんですか?」

「将臣君も・・・、アイツ、貴斗と一緒で案外、鈍感なんだな、女の子の感情に・・・」

「そんな事ないですって。ちゃんと二人の行動は把握しているつもりです」

「確かに、将臣君は二人をしっかりと見ているかもしれない、表面だけはな。だけど、人の心は複雑で、曖昧なんだよ。人によっては感情が行動になって現れるやつもいる。ってことはその逆な人だって居るってことだ。それは判るよな」

「ええ、なんとなく。じゃあ、翠や、弥生がそうだって言うんですか?あの二人に限ってありえませんよ」

「俺もそうだけど、将臣君が知っている二人は、六年前の二人だろう?でも、今は六年間沈黙し続け、目を覚ましたばかりの二人なんだ。仮令、空白の時間があっても弥生ちゃんと翠ちゃんの心境に変化が無いとは断言できないだろう。まあ、本当はそんな御託はどうでもよくて、要するに彼女達二人だけより、君が混ざって三人の方が、二人にとって心強いだろうと思うんだよ、俺はな」

 ああ、やっぱり慎治さんは人の心が見えているんじゃないかって思えてしまう。慎治さんだって俺がボクシングで勝ち続けている間、大変な日常を送っていたのにもかかわらず、それから脱して、まだ時間もそれほどたっていないというのに俺が求めていた答えを簡単に返してくれた。話してよかった。やっぱり、俺はちゃんと翠達の事を判ってやれていなんだ・・・。頼れる親友もいいけど、経験が物をいう話ではやっぱり、年上の人の話は説得力があるな。ただし、中身のある人生を送っている人の言葉だけだけどよ。

「そんなもんですか?でも、今やる事が見つからず、何もしないでいるよりは、慎治さんが言うように入るだけ、入ってみるのも良いのかも知れないですね」と明確な答えを貰ったのに俺は半信半疑な言い回しで慎治さんに返していた。

「ああ、それなら、二人とも同じ大学に行くつもりなんだろう?君は何も教えず、入学してから驚かすのも一興かもな」

 俺の性格を把握しているかのごとく、そんな面白い提案を呉れる先輩に素直に感謝を口にする。

「慎治さんに、相談してよかった。ずっと前に貴斗さん、言ってたんです。〝何でもいい、悩み事があったら慎治、八神慎治に相談しろ。あれの性格はちゃらけているが、信頼できる男だ。他人には如何でもいいような悩みでも付き合ってくれる。その返答は適当に聞えるときもある。だが、聞いて間違いは無いだろう〟って。柏木宏之さんも似たような事を言っていましたよ」

 俺は何の考えもなしに貴斗さんと柏木さんの名前を挙げてしまった。慎治さんの表情は翳り、失態だ・・・。

「慎治さん・・・。もしかして、俺、何か不味い事を言ってしまったんですか?」

 慎治さんにとって親友だった二人。それを同時に失ってしまっている先輩にとって軽いノリで口にしてはまずかったのかもしれない・・・、

「いや、なんでもないって。ただ、貴斗や宏之が俺の事をそんな風に見ていてくれた事が何となく嬉しかっただけさ・・・」と表情とは全く正反対の言葉を返していた。

???そんな事を心の中で思いながら、以前、みのりから聞いた貴斗さんが詩織さんから・・・、翠のお姉さん、春香さんへ心変わりしたって話、慎治さんはその事を知っているのだろうか?答えてくれるかどうか、知っているかどうか、判らないけど聞くだけ聞いてみよう。慎治さんにとってはいい話じゃないのかもしれないけど・・・、でも知りたい。

「あの、慎治さん、聞きたい事があるんですけど?いやだったら答えてくれなくても構わないっす」

「聞きたい事?」

「たっ、貴斗さんの事なんですけど、俺のボクシングジムにみのりって奴がいて」

「みどり?翠ちゃんと同じ名前なのか?」

「み・ど・り、じゃなくて、み・の・りっす。琴坂みのり。先輩からすると五歳下の聖稜高校の後輩になる奴です。そいつが・・・、貴斗さんが、詩織さんを・・・、んじゃなくて、えぇえっと・・・」

「もしかして、アイツが藤宮と分かれて、涼崎姉を彼女にした事か・・・」

 俺が言いこまねいていると慎治さんは俺が聴きたかった事を言葉を濁しながら言ってくれた。

「はっ、はい。それです。俺には信じられなくて・・・、あんなに似合っていた二人の貴斗さんと詩織さんが・・・」

「聞いて、後悔しないなら話してやってもいい。翠ちゃんや弥生ちゃんには教えないことも条件だ。アイツ、貴斗の過去は易々と人に曝け出していいものじゃないんだ・・・」

「後悔しません、何を聞いても驚きません」

 それから、慎治さんは大きなため息を一回吐いてから、本当に貴斗さんが詩織さんと別れて春香さんと付き合っていたのか、その真相を語ってくれた。二人が付き合うようになったのは春香さんがお亡くなりになるほんの一月前からだったそうだ。その言葉で、みのりが言っていた事が正しいと肯定されてしまった。でも、どうして?その後に続く慎治さんの話しは俺が簡単に想像できるほど簡単なものじゃなかった。

 貴斗さん本人から聞いた訳じゃない。翠から教えてもらった事、それは貴斗さんが記憶喪失だったという事。そして、2004年の在る事故を皮切りに先輩は記憶を取り戻した。その記憶を戻した事が詩織さんとの仲を別つ原因なのだという。

 それから、貴斗さんが帰国子女だった事や、日本に戻ってくる前にあった事件を漠然と語ってくれた。ただ、漠然と言う表現は俺にとっては当てはまらない。何処までが詳しくて、そうでないのか事実か、どうかも判らないからだ。

 話しの事象を遡っていくにつれて、どうして、詩織さんと別れなきゃならないのか、その理由がやっと慎治さんの口から声になって現れたんだ。

 貴斗さんにとって幼馴染だった詩織さんは二人目の恋人になる様だった。一人目はなんとドイツ人で二歳年上の人だったらしい。しかも、詩織さんに相当似ていたとか・・・、その最初の彼女の方が・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、貴斗さんの目の前で殺されたらしかった。銃殺。

 貴斗さんは記憶喪失になる前に重度の精神疾病を持っていて、その疾病が加害妄想という物。精神医学では今も未開拓の分野でちゃんとした研究も行われておらず、その発症は日本人固有のものらしいその病気。ある個人の周囲で発生する悪い事象は全てその本人の所為だと、自身が原因で起こってしまった物だと思い込む精神病。

 慎治さんは加害妄想って言い方が悪いと口にして『過剰加害意識』と置き換えた。

 その精神疾患が貴斗さんの記憶を取り戻した時に詩織さんとの仲を裂いた。今まで多くの事件や事故が貴斗さんの眼の前で大事な人達の命を奪ったらしい。それを全て貴斗さんの存在の所為だと思い込んでいたようで、あの春香さんの事故ですら貴斗さんの所為だと思っているとのこと。

『全て、アイツの所為なんかじゃないはずなのに』と慎治さんは辛そうな表情で言葉を吐き捨てながらも、続きを話してくれた。

 彼女だった詩織さん、自分のそばに居てはいずれ、自分のせいで彼女を失ってしまうのではという恐怖を抱いた。

 慎治さんの語りでは貴斗さんにとってこの世界で一番大切な詩織さん。そんな彼女を自分の所為で喪う事は、自身を呪い殺してしまうほど辛い事だという。ただ、それだけでは春香さんに乗り換えても、一緒じゃ?って思うけど、慎治さんの言葉がそれを補正した。

 今までの人生で全く接点のなかった春香さん。途中から知り合った春香さんと一緒になれば今までの不吉な人生を一変できるかもしれないという願いで春香さんと付き合い始めた様だった。ただ、ここで肝心なのは実は貴斗さんから春香さんの告白ではなくて、春香さんから貴斗さんへの告白だったという新事実。

 話の内容から貴斗さんからと思っていたけど、俺は勘違いしていたようだ。どうして、春香さんが柏木さんと別れて、貴斗さんを選んだのかまでは慎治さんも知らないらしいけど、春香さんの三年の眠りは貴斗さんの所為であるという意識が、彼女への罪を償うために、春香さんの想いを受け入れなければならないと作用したんでは、と慎治さんは語りまとめた。

「貴斗の事、見損なったか?」

「そっ、そんなことないっすよ。俺なんかが想像もできないほど大変な事が多かったのに、記憶喪失で本当なら自分の事を気遣わなきゃならないのにそんな事を微塵にも見せずに俺達の面倒を見てくれてたんですから。本当に強い人っす。俺の貴斗さんへの尊敬は慎治さんの話しを聞いてもやっぱり変わらないですね」

「ふっ、表面上は本当に強がりで独りよがりな奴さ・・・」と皮肉な笑いを見せて、横に顔を振る慎治さん。それに何の意味があるのか俺には理解できなかったけど、それが貴斗さんをバカにした事じゃないだけははっきりと判る。

「俺以外に口にしなかったがな、記憶喪失だった頃の貴斗にとって俺や宏之の事もだけど、君、将臣君や翠ちゃん、弥生ちゃんの存在は大きかったようだぜ。貴斗はそれを失う事を恐れていた・・・。それくらい大事に・・・」

 俺は慎治さんのその言葉を聞いて気恥ずかしく照れていた。そして、丁度ボートも岸に到着した。


 五月の連休のキャンプから戻って来た日から俺も翠達と一緒に大学へ入れるように勉強を開始した。でも、二人の前でそのそぶりを見せないで、ただ、一緒に図書館についてゆくだけで、聞かれたら教える程度だった。俺が必要ない時は仮眠とかをとって、自宅に戻って夕食の後にみっちり頭の中に叩き込んだ。

 翠と弥生の二人が勉強に集中して、判らない処を聞かれるたびに俺は自分に対する復習も兼ねて丁寧に教えていた。受験日が近づくにつれ、勉強する時間がもっと欲しくて、三人で図書館に出かけた時なんかは途中で二人の間から席をはずし、別の場所で過去問題集なんかを必死に解いていた。今の処、あいつ等には俺も大学受験をするって事を気づかれていない。二週間後の九月三日、四日には聖稜大学秋期入学試験が控えていた。


 2011年8月19日、金曜日、夕方

 俺は二人が勉強の休憩に入った頃を見計らって、

「なあ、翠、弥生。再来週はもう試験だよな?」

 二人は当たり前じゃないか何バカなことを言ってんの、という風な表情で俺を見るけど言葉を続け、

「今日まで、根詰めて勉強してきたんだから、明日か、明後日の一日くらいはユックリしてもいいんじゃねぇ?三戸祭りだし・・・。今は一日だって無駄にしたくないってわかるけどよ、なっ!一日くらい息抜きしようぜ」

「・・・、・・・」と翠、

「・・・、・・・、・・・」と妹、弥生。

 二人とも苦い顔を同時に見せてくれる・・・、やっぱ駄目かな?

「ううん、将臣だって、やりたい事あったと思うけど今日までずっと私達の勉強に付き合ってくれていたんだし、明日くらいならいいかな」

「ホント、お兄ちゃんたら、しょうがないなぁ。でも、みぃ~~~ちゃんがそうするなら弥生もいいよ」

「よっしっ、決まり、明後日の祭り締めの花火大会でも見に行こう。で、午前中はアトラーディアにでも行こうぜ」

「えぇぇっ、何言ってんの?私、今着れる水着なんて持ってないよ」

「弥生も持ってませんっ!」

 二人は声をそろえて休もうぜって言った時に作った顔よりも渋い顔で俺を訴えるけど、

「アトラーディアに行けば、そんな物、幾らでも売ってんだろうが、お前ら流行とか気にしないだろう?大した金額じゃないんだ俺が買ってやるよ。なんたって、ボクシング時代の賞金ほとんど使ってないからな」と少しばかり調子づいた表情で二人を見ていた。

「ホントにしょうがないな、将臣、はぁ~~~」

「ええぇっ、将臣お兄ちゃんが買ってくれるの?今まで一度もそんな事なかったのに」

「お前らの運気の景気づけだとでも思えよ・・・、うんじゃ、勉強再開」

 俺はそう言って、今の会話を終わらせた。

 翌々日の八月二十一日、寝坊する事がなくなった弥生と一緒に翠を迎えに行った。で、最近寝坊がちな翠を待って三人で都市バスが走る大通りまで歩いた。三戸の中では一番大きな遊園地・・・って俺たちの世代でそんな言葉を使う奴はもうほとんどいないか?テーマ・パーク、近隣で似ている場所といえば東京ドームシティーアトラクションズ。まだ俺が中学生くらいの頃までは後楽園遊園地って呼んでいた処。

 アトラーディアは開園が早く、閉園時間が遅い方だから休みの日は朝から晩まで人の波が絶えない。それに今日は三戸祭の最後の日で盛大な花火大会があるから郊外の観客達がそれのはじまる時間までアトラーディアで遊んでいるのが最近の事情。三人でバスに乗り南に下る。電車じゃなくても携帯電子マネーが使えるから、本当に最近財布を持つ事が少なくなった。

 弥生と翠はバスに乗ると到着するまで二人で二人だけの話題で楽しみながらも勉強もしていた。本当によくやるよ・・・。到着まで三十分。俺は携帯オーディを出して、画面を見ながら選曲して、レイフォレストって奏者の曲を聴き始めた。響に奨められて聞き始めた曲だ。なんだか、彼奴に俺の楽曲の好みを知られたみたいで嫌なんだけど、響が渡してくれた物だけあって、いい曲ばかりだ。

 カナル式イヤー・フォンで塞がれた俺の耳の穴。外界からの音を消し去ってレイフォレストの曲に酔いしれながら、走るバスの窓向こうの流れる街路地、俺は視点を合わせずに眺めていた。六曲目が終わりに近づいたころにテーマ・パーク経由の都市バスが目的地へと到着していた。それに気がつかなかった俺は翠達に呼ばれ、降りる事を促される。その時いつもの癖、音楽を聴いている最中に邪魔された時に出る奴で翠を睨んじまったけど、彼女は小さく笑って俺の眉間に寄った怒り皺を人差し指でグリグリされて、俺の表情に気が付き、苦い笑いを見せると弥生も朗らかに笑った。

 バスから降りてアトラーディアの正門に向かう。入園には前売り券や当地販売のチケット・ブースでパスを買うか、色々あるけどその場所をみると人の長蛇列があった。俺は鼻で笑い、翠達の手を引きそのまま、ゲートへ向かってゲートの入り口の非接触端末前にあるディスプレイで入園人数とパスの種類を指で選び、携帯電話をそこへ翳す。

 数歩前にあるランプが赤から緑に変わると閉鎖されていた駅の改札口の様な開閉戸が開いて進める様になった。翠と弥生に先に通れよって促して最後に俺が通過するとそれが閉じられ末端の場所から三枚の非接触型ICカードが出てきた。俺はそれを引き抜くと、一枚ずつ二人へ手渡す。

「首にぶら下げるパスケースがあそこの店で売ってるから水着買うついでに好きなの選べ」と言いながら、俺はすでに用意していた物をジーンズのポケットから出すとそれを首からぶら下げパスをその中に収めた。

 二人はもう精神的に大分落ち着いてきたのかなって笑みを見せてくれると手を繋いでその店に小走りで向った。おれはあの人のサングラスを掛け、ゆっくりと追いかける。

 翠と弥生はお互いに服の前に選んだ水着を被せながら見せ合って、どうこういっていたけど、翠は決めるのが早く、弥生は二つあるうち、どっちがいいか決め悩んでいる。翠が絶対こっちがいいってゴリ押しで、レジに向かったから俺もそこへ向かい会計を済ませた。

 先に着替え終わった俺は更衣室近くのプールで二人の出てくるのを待った。俺とあんまり変わらないくらいの時間で翠達も姿を見せる。二人の方をサングラス越しに眺め、洩れる言葉は、

「お前ら、もう少し大きくなれないのか?貧相だねぇ。まっ、水着は似合ってるけどよ」

「一体、誰と比較してるんですかっ!」

「お兄ちゃんの変態っ!」

「あん?決まってんだろう、詩織さんとだよ、詩織さんと!お前らじゃ、逆立ちしたって勝てない人」

 本当は頭の中ではエレクトラやみのりとも比較していたが、それを口に出すはずがない。

「水着を褒めてんだからいいだろう」

「水着を褒めるんじゃなくて、これを来た私を褒めるのが普通でしょう、バカマサっ!」

「そうだよぉ、本当にお兄ちゃんは女ごころ判ってないんだから」

「なんだ、なら、弥生は男ごころが判るっていうのか?褒めているのに」

「褒めるならもっともっとわかりやすく言ってよね」と二人の声が重なった。俺は鼻で笑い。背中を向け歩き出し始めながら、

「今のお前らのその細い整った体形に合っているくらい可愛く似合っているよ」と言ってやった。

「何キザったらしく言ってんのさ、将臣」

「お兄ちゃんにそんな言葉、似合いませんっ!」と言葉と一緒に背中を押され、プールに落とされた。

 沈んだ体、頭を勢いよく水面から出すと、大きく笑いながら、

「やったなぁ、このぉ~~~っ!」と言って腕を大きく振って水を掻きあげ二人に掛けた。おどけながら逃げ惑う二人は俺の両側を挟み込むようにプールに入って俺の腕を掴んでいた。

「ねえ、将臣・・・、そのサングラスって・・・」

「翔子先生に無理言って譲ってもらった・・・、貴斗さんの形見さ・・・」

「似合わないですっ!お兄ちゃんにはもったいないから弥生にください」

「うっせぇ、ばぁ~~~か、弥生が触ったらくず鉄以下になっちまうよ」と言って二人から逃れる様に腕を振りほどき泳いで逃げるけど、勝てるはずがなかった・・・。

 適度な休みを入れて午後、三時までアトラーディアで遊んでいた。それから自宅へ戻り、浴衣に着替えて、五時から祭りを楽しむために三戸中央の街中を歩き始めた。あれこれ眺めながら、俺も二人も食いついたのはお好み焼屋の屋台だった。普通とは違う形。幾つもの鉄板が置いてあって、自分で焼くみたいだった。焼けない人は何人かの焼師が居て、代わりに焼いてくれるようす。お好み焼なんて種類なんかないと思ったら、具材ごとに名前の違うお好み焼きが品書きされていて、味比べをするために三人とも別々の物を注文した。こんな時、弥生は得意そうに焼き始めて、俺も真似をするんだけど、そろそろいいかなって、ひっくり返し、失敗すると、

「へぇ~~~んだ、お兄ちゃんのへたくそ!」と得意げな顔で小馬鹿にし、翠もひっくり返そうか、そうしないか悩んでいると、

「みぃ~~~ちゃん、こうするんですよ」と言って翠の裏に回り手を取って二人の手が動く。綺麗に裏返しになって、驚きながら喜ぶ翠と、それにつられるように弥生も笑っていた。

「さすが、弥生、私のお嫁さんになってぇ」

「それはいやぁ~~~」

 全部が焼きあがり・・・、結局俺は弥生にやってもらったそれを三分割にして、熱さでまだ鰹節が上で踊るそれを食べ始めた。

「お好み焼きにチーズって合うんだねぇ」

「和風ピザって思えばあうよねぇ、みぃ~~~ちゃん」

「マジで、おいしいな。お好み焼なんてキャベツと魚介類か肉だけかって思っていたけど」

 それぞれ、おいしいって言いながら感想を言葉に出していた。全部食べ終わり、まだ物足りなさそうな二人は品書きを眺めていて、いきなり大声で、

「絶対、あれを頼むべきですねぇ」

「弥生も、そうおもいますっ!おにいちゃん、あれ、あれ頼みましょうよ」

 二人が指さす品書きを見て、俺は渋い顔、眉間にしわを寄せ、訝しげな表情を作っていた。何?『パフェ・もんじゃ』ありえぇね・・・。焼くのかパフェをもんじゃ風に?溶けちまうだろうよ。駄目だっていう前に、二人は手を挙げてオーダーをしていた。俺は頭を抱え、身もだえしていた。

 二人はそれの作り方を尋ねて、綺麗になった鉄板へパフェ・もんじゃを流し込んでいた。二人の動作を恐る恐る眺めながら、出来上がるのを待った・・・、やっぱ溶けてんじゃん。形になるのか、これ?白かったはずの物が茶色を帯び、奇怪な泡を吹く不気味な生物に見えた・・・。二人はそれを見ながら楽しそうに作る?

「でっきあがりぃ~~~、はい、将臣っ」と言ってもんじゃ用の小さなへらを俺へ差し向けた。

「それじゃ、頂きましょうか?」

「将臣、食べさせてあげようか?」

「いっ、いいよ、別に自分ですくうから・・・」

 ドキドキな心境で箆を不定な形の物体へ通し、掬いあげ口に運んだ。恐れで口と瞼が同時に閉じてしまった。

「・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、え?なかなか、いけんじゃねぇ?」

 反対側に座る翠も弥生も俺の表情を見て予想通りの反応をしたって顔を作っていた。ちっ、してやられたよ。甘い物、イケる口だから見た目が危険なこのパフェ・もんじゃ普通に食べられた。

 全部食べ終わり、暫らく腹休めをしてから最後に冷たいお茶を喉に通して、お好み焼屋から移動した。

「いまから、あそこに行けば、ちょうど花火が始まる時間になるんじゃないか?」

「そうだね、急がなくても大丈夫そう」

「行く前に携帯蚊取り線香買っていこっ、おにいちゃん」

 妹に言われて、途中のコンビニでそれを購入すると聖稜高校の裏手にある小高い丘へ向かった。

「あれぇ?昔、こんなフェンスあったっけ、将臣」

「俺達が卒業した頃に取り付けたんだ。学校側からも」

 眼前には目の細かい網で手を掛けてよじ登れないフェンスが囲んでいた。高さも俺と翠や弥生が肩車をしても届かないくらい。

 一か所鍵付きの扉がありそこからしか入れない。

「でも、問題ないさ」と言って浴衣の帯の間から鍵を取り出し、そこへ挿す。ここの所有している人に今日だけ使わせてって頭下げたから問題ない。

 丘をかけ上り、大きな木があるその下まで来るとそこへ胡坐を掻いて座りこんだ。翠が俺の隣に弥生がその隣に座りながら、買ってきた蚊取り線香を開け、大口の豚の形をした中に入っている蚊を寄せ付けないんじゃない退治する成分を放つ最新鋭の蚊取り線香の火と電気を付けた。原理は判らなんだけど、その入れ物に蚊が誘導する様な香りを放ち、豚の表面に取りつくと焼き殺すって、見た目の可愛らしさとは思えない殺蚊兵器だ。

「もうはじまるかなぁ~~~、ふわぁあああ」と大きなお欠伸をしたころ、一発目が空に尾を棚引かせながら上がっていた。

 一時間半続くそれ、俺達は取り留めない話しをしながら、眺めていた。夢じゃない、これはもう現実。二人は今ここに居る。そんな事を強く、思いながら、楽しんでいる翠と弥生を見て二人の実感をかみしめた。

 最後の花火が上がった頃、翠は俺の方を向いていた。

「ねえ、将臣、将臣にとって貴斗さん、ってどんな風に思っていたの」と翠は呟いた。

「なんだよ、急にそんな事を言って」

「いいから、聞かせて」

「うん、ああ、尊敬してんのは知ってるだろう?あとは俺やお前らと違って落ち着いていて頼れる兄貴・・・、俺の兄貴になってほしかった人だよ。お前ら手がかかりすぎるから・・・」

「悪かったわね、子供じみててっ!」

「弥生だって、将臣お兄ちゃんなんかより、貴斗さんがお兄ちゃんだた方がよかったもんっ!」

「はい、はい、そうですね」と呆れた笑いを二人に見せて、大きく花開き、今にも消えそうな花火を見ながら立ち上がった。

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