第 三 章 将 臣

第六話 勝利、拳に賭けた願い

「日本人未踏の快挙っ!十一ランド激戦の元、ウェルター級世界王者、日本人初のチャンプッ、若き覇拳の王者が誕生しましたっ!!すごいっ、凄いです。将臣選手、最高っ。真に持ってこれ以上の称賛の言葉を思いつきません」

 東京ドーム屋内ボクシング会場に結城将臣に絶賛の嵐が沸いていた。

 世界の頂点をその両拳に入れた結城将臣は静かにその手を眺めていた。日本人で初のウェルター級世界王者になった彼。その成績を手に入れながらも嬉しい、自分はすごいと思う高揚など感じられなかった。ただ、彼は呟く、

「これでも駄目なのかよ、翠、弥生・・・」


Round ZERO プロのライセンス

2005年1月20日、木曜日


「おいっ、まじかよ、将臣?一緒に東工大行こうぜって言ったじゃねえか?」

 将臣は親友のその言葉に申し訳なさそうな表情を見せた。彼はその友人に何故、大学へ進学しないのか理由を告げなかったが、お互い親友と認めあっているからその友人はどうして、大学へ進む事をしないのか大凡の見当は付いていた。だから、ほとんど彼の意思を確認するためだけにそのような言葉をかけたのだ。

「ああ、わかったよ。お前の事、応援するぜ。だが、忘れんなよ、どんなに俺達の進む道が違くても、友達だからな。だから、俺に何かできる事があるなら、遠慮なく言ってくれ」

「ありがとう、霧生・・・」

 その日の放課後、将臣は部室に置きっぱなしだったボクシング・グローブを取りに行き、それを持って妹と涼崎翠が眠ったままの済世会総合病院へ向かった。

 二人の病室へ、声をかけながら入ってゆくが誰の言葉も返ってこなかった。静かに眠る彼女達のベッドの間にパイプ椅子を置くとそれに座り、返事などくれるはずない弥生・翠へ一日の出来事を語りかけた。

 三十分ぐらいその場で一人喋り続け、ネタが切れたころに

「んじゃ、またあしたな。さっさと起きやがれよな、全く」と挨拶して、その病室を立ち去った。

 将臣は二人の語りかけの中で今日からプロを目指して、プロになったら二人が目覚めるまで勝ち続ける事を告げなかった。

 建物から出ると病院の在る双葉から南西に位置する三戸特別区四宮町にあるボクシング・クラブ・ジム『三慧(さんけい)』へ向かった。そこは一つ下の後輩でボクシング部のマネージャーだった琴坂みのり(ことさか・みのり)の父親が琴坂慧(ことさか・さとし)のs経営する場所。

 プロ・アマチュア、フィットネス・トレーニング共に三十人程度が在籍している。

 将臣は正面から中に入り、正選手を育成する三階へ向かった。そこまで登りきると、幅広な入口付近に立ち、七人いる選手の指導に声を張り上げている慧がいた。将臣は彼に近づくと挨拶のために言葉を向ける。

「慧さん、今日からお世話になりますっ!」

「結城君、よく来てくれたね。結城君がボクシングを続けてくれる気になって私は嬉しいですよ。はいっ、一時中断、彼を紹介するよ・・・」

「はじめまして、今年、聖稜総合学園を卒業して、ここでプロを目指すことになった結城将臣です。高校ではスーパー・ウェルターだったけど、一階級落として、ウェルター級で頑張っていこうと思っています。先輩方よろしくっ!」

 現在、身長174センチ、体重69・5キログラム。一つ上のミドル級と僅か400グラム。大凡500ミリリットルのペットボトル一杯分。ウェルター級は63・5~66・7。最低三キロ減らさなければならない。スーパー・ウェルター級時の体重維持にも苦労していた将臣。それを一階級落とすと云う事、十キロ、二十キロからの減量と違い数キロ減らすのは簡単じゃなかった。それを理解しつつも、彼は階級変更に挑む決意をした。将臣にとって体重を減らす事よりも、もっと過酷な目標がある故、減量なんかで躓いていられない。

 将臣は早速、自分で作った減量のための鍛錬を開始した。柔軟体操と準備運動に三十分。体が温まり始めた頃、走りに出るためにそれ用の靴に履き替え、外へと向かった。部活に在籍中、彼は20キロメートル一時間半で走りぬいていた。今回彼の走る距離は十キロ増しの30。だが、将臣は走者ではないのでいきなり10キロ加算するのではなく、体を慣らしながら日数をかけて、徐々にその距離に到達できるようにと考えている。

 汗を掻くためのサウナ・スーツを着込み、走っている最中に振る腕の動きを利用して筋力増加のために両腕に1・5キログラムずつ、足腰の強化のために足首に1キログラムずつ、現在の体重に合計五キログラム上乗せした状態で将臣はゆっくり走りだした。

 通気性の全くない衣服で体を囲ってもあまり汗をかけない方の彼が漸くそれを流し始めたのは走り出してから、三十分、五キロメートルを過ぎてからだった。

 走るのに慣れ始めてきた将臣は少しばかり、速度を上げて行く。

 三戸特別区には名前に『宮』と着く町名に一宮(いちのみや)、二宮(にのみや)、三宮(さんのみや)、四宮(しのみや)、五宮(いつのみや)、六宮(むつのみや)があり、それぞれ、五キロ間隔に町が続いている。三慧ボクシング・クラブ・ジムは三宮と四宮の境にあり、そこから五と六宮の境界まで行き、折り返して戻ってこれば大体二十キロ走ったことになる。結城将臣はそれを知っていた。

 暮れる街並み。道を通る人々を上手く避け走り込みを続ける。

 たまに通りかかる大人や子供が彼に『がんばれ』と声をかけてくれる。愛想のいいかれは声を掛けてくれた人を無視せず、『ありがとう』や手を振って答えを返していた。

 六宮との境を十数歩過ぎた交差点を渡り、来た道と反対車線の歩道から四宮へと向かった。三慧に彼が到着したのは六時半少し前。

 建物三階まで登りきった彼は息を整えるため十分くらいの休憩をとり、次に移る。強くになるには基礎が大事。それは誰にでもいえる事。将臣はその練習を嫌がらず、淡々と流してゆく。

 午後七時、最後まで残っていたこのジムの先輩がスパーリングの相手になってくれた。それが終わるとリングの外に大の字に寝っ転がり、これ以上はもう駄目だという意を体現していた。ちょうどその時に後輩のみのりが部活を終えて帰ってきた処だった。

琴坂みのりは将臣の前に立ち、

「先輩、お疲れ様。最初から飛ばしちゃっているみたいな感じだけど、大丈夫ですか?」

「はぁ、はぁ、はあぁ・・・、人の前に立つときはバショかんがえろってぇ~のわかんないかなぁ~。パンツ見えてんぞっ、くっきり赤白ストライプ」

 後輩の声が聞こえたと思って、目の上に乗せていた腕を動かした時、彼の視線上には彼女の彼が口にした物がはっきりと見えていた。

「いやんっ、もっ、もぉ、せんぱいのえっちぃ~~~」

 顔を真っ赤にしたみのりは制服のスカートを押さえつつ将臣を蹴ろうとするが彼女の行動に対して起き上がれない彼は転がるように逃げた。

 それから二十分くらいシャワーで汗を流し、帰り支度をしている将臣へ、

「先輩、夕食後一緒にどうですか?」

「なんで、そこまでお前の世話にならなければならないのかな、この僕が」

「将臣先輩、私んちのジムで世界目指しているんでしょう?それくらいはさせてよ。それに体調管理は大事だっていつも先輩が言っている事じゃないですか、ランクを落としてまでワールドチャンプ狙っているなら、一人で全部できるなんて思わない方がいいと思いますけどねぇぇ~」

「結城君、遠慮することはないよ。君だけじゃないし」

 慧が言うとおり、三慧では七人いるプロのうち二人がここで寝泊まりしながら試合などに臨んでいた。

「そういう訳です。だから、将臣先輩だけが特別じゃないですから、変な勘違いしないでください」

 今は昔の春香さんの様な眠っちまったままの僕の恋人(仮)、翠。彼奴が高校三年間ずっと水泳で勝ち続ける事が出来たのは詩織さんや貴斗さんがあれの身の回りの世話を、体調まで気遣ってくれたからだと言っていた。精神的な支えも大きかったって僕に自慢げに話していたよ。なら、僕だって、琴坂に少しばかり、世話になってもいいよな翠・・・。

「するかつぅ~~の。もう僕は彼女いるし・・・。でも、お言葉に甘えさせてもらいます」

 それから以降、毎日、僕は私生活で琴坂の世話を焼いて貰うことになってしまう。翠ん所の葵さんや秋人さんも食事を一緒にどうかと誘われることが多かった。翠が居ないのに涼崎さんちにお世話になるのも何か心が痞える様な想いになるが断ってしまうのも小父さん達に変に気を回させてしまう事、厭な思いをさせてしまうのもなんだし、精神修行という意味で僕は耐えた。

 三月の卒業まで学校を休まず通い続け、皆勤賞ゲッツ。ぼくすげぇ~~~、なんて思いつつその賞状と記念品を手に取り、それを掲げ同級生に見せつけた。何せ、僕一人だけが手に入れたものだったから・・・。翠や弥生も一緒だったはずなのに・・・。

 僕達、三年F組の担任をしてくれた藤原翔子先生の謝恩会の終わりにどうしてか皆が僕に寄せ書きをくれた。その文字のほとんどは『がんばれ、絶対世界目指せよな』、『チャンプになっても友達だぜ』や『がんばって、将臣君なら夢かなえられるよ』とか励ましの言葉が書かれていた。でも、その言葉はけして、僕だけに向けられたものじゃない。妹や翠にも向けられたものだって。みんな知っている、僕がどうして進学しないでボクシングを続けようとする動機を。

 何せ、前例があるからね。涼崎翠ってそれが。

 僕はみんなに感謝した。中にはただ皆が書いているからついでに、って程度の同級生もいるけど、そういう行為って嬉しいものだよ。だから、友達のつながりって大事だよなとそんな事を心の中で思う。

「わかってんだろうな、結城。ミドリっちやヤヨイッちをあのまんまにしたら、皆で呪うぞ」と二人の大の仲良しのクラスメートの瀬良奈々恵(せら・ななえ)がそんな事を云う。

「しっかり、眠り姫の王子様を務めろよな」と俺の肩をばしばし叩く、霧生洋介とは別の親友、崎口勝(さきぐち・まさる)。僕は勝の言葉に口は返さず、強く頷いた。

 そうして、僕は翔子先生に挨拶するとまだ暫らく続きそうな謝恩会会場を誰よりも先に後にする。


 ひたすら減量のためのトレーニングを続ける事、三か月。

 もう五月の終わりだけど、はっきりいって暑いぜ、まだ、朝六時ちょいすぎなのによ。天気予報でも日中は七月中旬くらいの気温になるって言うんだから、たまらねぇ、こんちきしょうっ!

 はあぁ、でも、暑い日が続くお陰でやっとの事で一キロぐらい落とす事が出来た。もともと、無駄な脂肪で太っていた訳じゃなく、筋量による物で、体力、破壊力や瞬発力を保ったまま体重を少なくする事が大変なことだって知っていたけど実際それをやってみるとその辛さが身にしみてわかる今現状の僕だった。でも、目標はもっと高い頂。プロになって翠と弥生が目覚めるまで勝ち続ける事。それに比べたら、今のこの目標を屁くらいに思って頑張らないと続く訳ないよな。

 そんな事を思いながら、走っていると、

「将臣先輩っ、ちゃっちゃと走ってください。ペース落ちてますよぉ、制限時間内にお家へ到着できません。朝食を準備しなければならない私の事も考えてくださぁ~い」

 自転車に乗りながら声をかけてくれる僕が通うジムの処の女の子。

 今年、聖稜高校の三年へ進級した琴坂みのりは聖稜大学への進学が確定しているのを好い事に、遅刻も気にせず、僕の朝の特訓に付きまとっていた。僕はそういうけどホントの処、後輩は遅刻なんてしていない、ギリギリセーフで。

 僕はみのりにそんな風に言われて、落ち気味の速度を持ち直させるように身体に活を入れる。後、三キロも走ればジムの前だ。

 額から噴き出る汗を拭わず、顔を少し下に向け左右に払って周囲にまき散らす。一瞬目を閉じ、また前方に戻すと『三慧』の看板を掲げた建物が視界に入ってきた。いつもそれが見えた時点で全力疾走。

 そこまで来ると急激に体の動きを止めず三慧ジム建物周囲を回りながら徐々にスピードを落とし、歩く速度になったころに大きく深呼吸をしながら三階へと向かった。

 練習場に辿り着くと一番広い場所に倒れ込み、ひんやりした床の感触をしばし味わって僕は体の熱を冷ます。

 そして、まだ体が暖かい裡に走る前にもやった柔軟体操を始めた。

 僕がそれを開始した頃、一緒に着いてきていた後輩が朝食の準備を彼女のお母さんと一緒に取り掛かるため、一階へと降りて行った。

 朝食を取った後、一時間くらい休憩をとってから先輩達と一緒に基礎練習をみっちり行うと時間の感覚が分からないくらい早く正午を迎えていた。

 昼食は先輩達と一緒にせず、僕は翠達が居る病院へ向かった。

 病院に到着した僕は妹と恋人(仮)、二人のいる病室618号室へと足を運んだ。気まぐれで買ってくる花を二分にして、二つの花瓶の隙間にさして、遠目から活けた花のバランスを確認した。

 僕には何の意味があるのか知らないけど、毎日新鮮なそれらが花瓶に挿してある。持ってくるのは翔子先生や翠ん所の葵おばさん達だった。

 時間が時間だっただけに二人とも栄養剤の点滴を受けていた。そう、今も二人は眠り姫・・・、ってこいつらにそんな可愛らしい言い方は似つかわしいぜ。

 眠ったままの二人へここに来る時間までの出来事を独り語り。話しの折り僕は座っていたパイプ椅子からすぅ~っと立ち上がり、上半身来ていた服を脱ぎ構える。

 構え、握った両拳を右から、中空を走らせ、見えない敵を殴るようなしぐさを、数回、左と交互に繰り返し、最後に左で顎を殴り上げる動作で終わらせた。

「へへっ、どうだ、弥生、翠。おれの体、前よりもかっけぇ~く絞まっただろう?プロテストまで何とか予定体重まで落とせそうなんだ。だから、応援よろしくなっ!」

 そんな風に言い切ってから服を戻した。僕の言いに二人が何かを返してくれる事はないそれは理解していた。わかっていてもやっぱり、辛いなこういうのは・・・。

 パイプ椅子に坐り直さないで、それを片づけると、『また、明日』って挨拶をしてから僕は二人の病室を出て行った。


 2005年8月9日、火曜日

僕はいつもと同じように午前中のトレーニングが終わると翠達の見舞いに行く準備をした。三慧ジム三階にもある給湯室の冷蔵庫からウィダインのマルミネとエネインを取りだすとその両方の蓋をあけて口に突っ込みながら外へと歩き始めた。階段を下りている途中で、靴紐が解けている事に気がついたから、ステップに座り、その解けた紐を直し始めた。

「将臣先輩、今日もこれから弥生先輩や翠先輩の処へ行くんですか?私もお付き合いしましょうか・・・」

「らめぇ、めんはいはぜっつへぇいっははろぉ、はんへいはひはい」

「何を言っているのか分かってあげられません。それ飲むのやめてちゃんと話してくださいよ」

「なんだよ、わかってるくせに。面会できるのは家族だけ。嘘だけどな。確かにみのりは翠や弥生と仲良くしてたから二人の見舞いに来てくれる理由はあるだろうけど。行ったってあいつら何にもみのりに話してくれないさ・・・。それに行ったってやる事ないだろう?みのりにとっては時間の無駄だよ」

「そっ、そんなことないです。私にだって、女の子の私だから出来ることだってあると思いますけど」

「ぅぅう~ん、それは問題ないぜ。翠の母親もいるし、どうしてか知らないけどさっ、翔子先生が二人の面倒を見てくれてるんだよな。担任だったからって理由じゃなくて」

 僕はそこで止めていた靴紐結びを終わらせ立ち上がって、

「まあ、行きたいなら、俺が居ない時勝手に行けばいいさ。僕なんかにかまっている暇があったら、先輩達の昼じゅんじしたら、うんじゃなぁ~~~」

 一階に降りたころはウィダインは空になっていた。玄関入り口に並んでいる分別ごみ箱の『燃える』へそれを放り込むと、日差しの強い空を一瞬眺め眩しそうに顔をしかめると僕は好きな野球チームの帽子をかぶり、病院へ降りられるバスの停留所を目指した。

 空調の効いた病室。外に出てから流れ続けていた汗を拭う。翠達を見ると彼女達も額当たりが少し汗ばんでいた。その場所くらいは男の僕が拭いて上げてもいいだろうと思ってそうしてやった。それでも暫らくするとまた二人の額にじんわりと汗が浮かび上がる。熱でもあんのかな?まあいいや、そうなら、二人の頭に『熱サマ』でもはっといてやりますか。

 僕は常備しているそれを取りだすと翠と弥生の額へそれを貼ってやった。気のせいだろうけど、二人が僕のその行為にニッコリしてくれたような表情を見せてくれた。うん、やっぱり幻覚か、はぁ・・・。

 それから、パイプ椅子を用意して、それにどっかり深く座り天井を眺めると何時ものように世間話を始めていた。


 2005年12月8日、木曜日

 ほとんど毎日、欠かさず弥生と翠の見舞いに行っている。そんで、二人にとってはつまらない世間話を語りかけていた。でも、今日の僕は愚痴をこぼすばかり。

「ちっくしょっぉ~~~、プロライセンス試験まであといっしゅうかんちっとなのに、あと、百グラム、あと100グラム。どうしても、おとせねぇ・・・。みのりの奴は髪の毛切ればいいとかいうんだぜ。今のこの髪形、僕気に入っているのを知ってるくせにあんにゃろぉ・・・。これ以上短くしたくない。先輩はあそこを剃っちまえば、ひゃくなんて、何ちゃないだろうとかいうし・・・、僕はそんな見せかけで、減らしたくない・・・」

 二人に愚痴を零しても、今の問題が解決できる訳じゃないのは分かっていたんだ。

「まあ、そんなわけでよ。試験が終わるまで、更に僕自身を絞ろうと思うんだ。だから、それまで見舞いに来れないの、勘弁な」

 僕はそう言って座っていたパイプ椅子から立ち上がった。残念だけど、僕のその言葉に二人が返してくれる事はない。二人は澄ました顔のまま眠り続けるだけだった。

「けっ」と毒づいてみせるがそれは厭味を込めたものじゃない。

「さて、もうひと踏ん張り・・・」と呟き、二人の病室を後にした。


 それから僕は六日間、最後の足掻き、根を詰めて、減量に励んだ。その数日間で、何度も意識を失いお彼岸の向こうのとってもファンシーなお花畑と翠や弥生とは比較できないきれいなお姉さん達が手招きしている光景を垣間見た。その甲斐あって、僕の望んでいた結果よりも、二キロも落とせたんだ。合計五キロの減量、それとまた少しばかり、一センチくらい身長が伸びた。


 2005年12月13日、火曜日

 僕はこの日、東京地区のプロボクシングC級ライセンス試験を受けに行くために上京した。三戸特別区から東京へ走る都市快速鉄道トライ・シティー・エクスプレス(Tri-City-Express)、略してTCX(ティーシックス)。特快速は三戸中央区と東京池袋を中継、さいたま市のみを経由して、25分で繋ぐ電車だ。某隣の県のあれゲな鉄道に対抗してつくったとか、つくらないとか、噂に上がっているけど、僕には関係ない。今まで、三戸から東京へ電車で向うにはTCXができるまで存続していた三戸鉄道三埼線でさいたま市まで向かって、そこから埼京線で行くか、または鈍行三京線に乗ってのらりくらり、埼玉と茨城と千葉の各地方都市を回りながら、上野に到着するその路線を使うしかなかった。特急快速でも約一時間半もかかってしまうような路線。

 僕はTCXに乗り、早く過ぎてしまう景色をHDMプレイヤーで覇加瀬太郎のアルバムを聴きながら、無思考で眺めていた。そんなに曲数を聞けない間に東京池袋駅に到着。僕はSicaを照らし、TCX改札口から出て、地下鉄丸ノ内線に乗り換えて、後楽園ホールへ向かった。


 試験内容は筆記テスト、規則に関する物で事前に何度も予習していたから暗記が得意な僕にとって躓く事はないはずさ。それが終わると計量。その時の体重で今後の階級が決まる僕にとって最も重要な部分。この計量のためにマジで血が滲む様な幾多の試練を乗り越え、目標に達したんだ。体重計の間違った処をさしたら、速攻殴り壊してやる。で、それが終わると実技試験のスパーリング二ラウンド。スパーリングで相手に負けたからといって不合格になる訳じゃい。あくまでもボクシングをやる上でその本人がこの競技に技術的適性があるかどうかを見極めるものだ。スパーリングの対戦相手に倒される事があっても、その戦いの中で審判に認められるような動きを見せれば勝敗を気にする事はない、って先輩達、ジムのオーナーから聞かされているけど、負ける積りは毛頭ないぜ。

「以上で試験の一通りの説明を話し終えたが、何か質問のある者、しっかり聞こえる声で挙手する事・・・、居ないようだな。よし、筆記試験を始めよう。手渡されたものから、順に始めてよし」

 試験監督がそう声を出すと、補助員の人達が問題を配りだした。その紙を受け取った僕は回りがどうしているなんか気に掛けず、速読すると回答欄に素早く、シャーペンの芯を走らせた。

 筆記で落ちるような奴はよっぽどの馬鹿って言うのか、ボクシングをやる資格なんて本当にない。極端な僕の思考かもしれないけど、ボクシングじゃなくてもスポーツ、競技としての格闘技は殺し合いじゃない。相手を倒し、勝利する事が前提だけど競技者本人がどれだけの高みを目指せるのかが大事なんだ。問題にはそういった精神的な事も出ているから、そんな事が理解できない奴に同じリングの上に立ってほしくないから僕はこんな考え方をしてしまう。って、実際そんな高尚な思考なんか僕には似合わないんだけどね。

 答案を書き終えた僕は腕時計の時間を確認した。筆記試験時間終了までまだ十分余裕があったけど、回答の見直し何か考えていなかった。答案に埋め終わった生徒はそれを提出して、外で待っていてもいい事になっていたけど、いっちゃん先に提出して、変な優越感に浸りたくなかったし他の受験者への精神重圧(プレッシャー)も与えたくなかったから、暫らくほかの人達が終わるのを待った。それから二十分弱、数人が同時に立ちあがり、補助員に解答を渡す動作が目に入ると僕もそれに倣うように筆記用具をしまって、答案を持って近くの補助員へ移動した。

「お疲れ様でした。まだ、じかんがありますが、計量室で待っていてくれてもいいですよ」

「うっす」と僕はその補助員に返事すると、筆記試験室から外へ出た。

 外で待つ事、三十分。全員がその部屋から出てくると揃って、計量室へと僕達は移動する。

 何台も名並んでいる電子式の体重計に受験番号順に計測が行われた。僕は名前の順でも裏の方だけど、今回のこの試験でも試験番号が最後から数えて三番目だった。だから、僕の番が来るまでドキドキしながら、周りの様子をうかがった。

『すいません、ちょっとトイレに』って声が何度も僕の耳を通り過ぎる。誰もが、自身で決めた体重に到達する事が難しかった事実が声として会場内に響く。方や目標通りの受験者たちは力強く、ガッツポーズを作って見せていた。

 果たして、僕の結果は・・・・。

「頼むぜ、デジ計ちゃん、しっかりと僕の体重を見せてくれよ・・・、・・・・、・・・・・、・・・・・・、さぁ~~~すぅがぁっ、ぼく!!よしゃぁっ!!」

 僕は両拳でガッツポーズを作り、今までの努力が無駄じゃなかった事をしっかりと受け止める。残るはスパーリング、相手に飲み込まれないようにしっかりやるぞっ。

 後楽園ホール5階に移動して、スパーリグの準備を始めた僕。さっきの計測の時に僕と同じ階級になれる受験者はいなかった。そういう場合はどうするんだろうか・・・。無差別級対戦なのかな?なんて心配してもどうしようもない事を考えながら柔軟を繰り返し、体を暖める。二つのリングで二ラウンドのスパーリングが始まる。一ラウンドは三分だから、直ぐに僕の順番まで回ってきてしまった。

「よろしくお願いしますっ!」と僕と対戦相手の声が重なり、ゴングが鳴った。

 スパ前の説明で相手は僕が高校の時の階級、スーパー・ウェルター(旧ジュニア・ミドル)だった。21歳、172cm。相手にとって不足なしっ!

 相手の動きを観察するためにやや防御態勢に入り、牽制する様に動く。僕のちょっと変わった防御姿勢なんか気にも掛けてくれずに、相手は相手の防御の事なんか全然考えていない風の攻めに、攻めに来るスタイルだった。

 相手のジャブやフックを僕が練習の時にパンチングボールを打つ時の様に右手で往なして、時折、飛んでくるストレートは左手の甲で叩き落とすように僕の顔面に迫り来る拳の軌道を逸らせた。仕掛けず防戦だけする僕に、苛立ったのか相手は攻撃する速度を更にあげて僕に襲いかかった。ジャブも、フックも、ストレートもその一発一発の重み、威力が放たれるたびに増していくのを僕の拳が受け流す、そのグローブ越しにはっきりと痛みとして、僕の意識に訴える。

「行動パターン把握・・・」と僕は戦いの最中、余裕があった訳じゃないけど、何時ものように呟いていた。

『仮令、負けても試験に合格できる可能性があるからといっても、やっぱりこんな処で負けるわけにはいかないんだっ』と対戦中、そう心の中で叫んだ。

 相手の動きが威力だけが増して、動きが煩雑になり始めた頃に大振りのストレートが僕の顔面、紙切れ一枚の処へ迫っていた。その時、相手は僕をノック・アウトすると確信していただろう。でも、僕は相手の表情を別の物へと作り返させた。

 多分、目を丸くしているだろう相手。その眼には僕の姿は映っていない。そして、僕は相手を訳も分からず、天井に視線を向けるしかない状態に追い込んだ。

 そう、相手のストレートが来ると分かった瞬間、膝を頭一つ分、下げて立ち上がる反動でアッパーを放ったんだ。自慢だけど、僕は僕の動体視力に凄く自信があった。流石に超能力者じゃないんで、動いている物が止まっているようには見えないけど。それと迫ってくる物を恐れずその直前まで見続ける勇気も経験を積んで備わったから、今みたいな芸当ができると云う訳さ。まっ、相手の動きに僕の体も反応できる速度だから何とかなったけど、それを上回る速さで打ってくる相手には有効じゃない奇策。

 審査員が相手の状況を見て、立ち上がれないと認識すると僕達の実技が終わりを告げた。僕の後に二組のスパーリングの結果が見えると全員の試験終了。

 結果は明日発表。東京は三戸から遠い場所じゃないから、別にここに一泊してまで待つ必要はない。だから、戻って翠達の見舞いにでも行くか。

 地下鉄で池袋まで、戻ってTCXのホームで下りの電車を待った。

 手持ちの携帯音楽再生機の音量を上げても周囲の喧騒は消えない。だけど、その喧騒が嫌な訳じゃなかった。イヤー・フォンから聴こえてくる音楽と周囲の話し声や環境雑音の両方を耳に入れながら下り向こうの線路の人々をぼんやり眺めていた。

 中にはそうじゃないかもしれないけど、僕の目に映る連中はみんな気楽そうで、自分よがりな生活を送っているように思えた。今、僕が置かれている状況と比較して、僕自身の事を不幸だなんて思わないし、そんな連中が羨ましいとも思っていない。ただ、今は僕が信じた事を実現させる事が精一杯で回りを深く意識しないようにしているだけなんだけど・・・。

 音楽と喧騒が向かってきた下り快速の駆動音に掻き消され、一瞬世界が無音になったかの様な気がした。

 停車した電車の扉に我先にと乗り込む人々の最後に中に入り、扉脇の椅子側面の板と柱に身を預けた。走り出す快速電車の窓の外を無心で眺め、僕は三戸への到着を待った。

 三戸に戻ると在来線に乗り換えて、済世会総合病院のある双葉駅で下車した。

 面会時間ぎりぎりで翠達の病室へはいり、

「無事に試験終わったぜ。過信はしないけど、合格大丈夫なんじゃないかな・・・。明日ちゃんとした結果持ってくるから、うんじゃ明日・・・」

 そんな少ない言葉を僕は答えを返してくれない二人に向かって語りかけると直ぐに病室を後にした。で、翌日、大喜びしながら、結果を翠と弥生に伝えに来る僕だった。

「やったぜぇっ!!」とそんな人声を上げながら僕は彼女達の病室へ飛び込んだ。

「今日、日本ボクシングコミッションからプロ合格確認してきたぜ」

 プロボクサーとしての権限を得た事は嬉しい事なんだけど、不意に僕の中で本当に望んでいた事が過り、それを口走っちまっていた。

「お前や弥生がこんなんじゃなくて、貴斗さんや藤宮さんが・・・、生きていたら三人で聖大に進学して・・・、でも、しょうがないよな、これじゃ」

 こんな言葉を吐いちまったせいで、嬉しかった気分が徐々に遠のいて、そんな気分にさせやがった弥生を見、妹の頭を手のひらで二、三回軽くたたいちまった。今度は翠の方を向き、フッと鼻でため息をつく。

「ほんとっ、涼しげな顔で眠りやがって・・・」

 そんな彼女の額に掛かる前髪を左掌でよけ、数回撫でやった。彼女の肌のさわり心地が何ともいえず、しばらく離せなかった。手を置いたまま僕は、

「どれだけの歳月をかけなくちゃならないのか分からないけど、翠、お前が春香さんへあの時ああしたように、俺はこの拳で勝ち続けてやる・・・」と呟いて、翠から手を遠ざけながら拳を作っていた。それを僕の額のあたりまで上げると、力強く握りしめ、自分の誓いの強さをその中に込めたんだ。とそんな気合いをこめては見るんだけど、何せ、今まで気侭に歳を重ねてきたから、本当に僕にできるだろうか・・・、

「はぁ、弥生もいるから一筋縄じゃいきそうもないな・・・」と愚痴を漏らし、下方気分の溜息も吐く。

 そろそろ、帰ろうかと思ったときに翔子先生が二人の見舞いに来てくれた。で先生の名前を呼んだときに先生って敬称を着けそうになったんだけど、なんで翔子先生はそこまで私生活で先生って呼ばれるのが嫌いなんだろうか・・・、理由を尋ねたらもっと怒られそうだから、そのことには触れないで、暫らく先生と話し、翠達の事を任せて、僕は帰宅した。

 でもなぁ、なんで翔子先生、二人の面倒を見てくれんだろう。何度聞いても大人の事情がどうとかで、答えになっていない、答えを返して呉れる始末。

 仕事ばっかで全然顔を見せてくれる事もない親父。稼ぎはすごいらしいから、頼めば、ヘルパー雇えると思うんだけどな、その事を翔子先生に持ちかけたんだよ。でも、余計な事は考えなくていいとか、云われ僕の案は破棄されていた。

「さて、五月にはプロ初の試合があんだけど、体調管理どうしよう?今日の夕飯何にしようかな・・・」

 そんな事が口から洩れた処で自宅近くに停まるバスが病院前停留所に向かってきた。


 Round ONE ウェルター級初戦

2006年5月15日、月曜日


 僕はリング・コーナーのポストに寄りかかりながら第三ラウンド開始のゴングを待った。

 僕の右手、リング外のロープの隙間から顔を出し、話しかけて支持をくれるのは三慧ジムオーナー兼コーチの慧さん。左手には後輩のみのりが右目瞼上の出血の手当てをしてくれていた。

「結城君、初戦から勝ちに行きたい気持ちは十分わかります。でも、焦るな。君の持ち味は冷静な試合運び、相手の行動を分析して、弱点を攻めるものだろう?」

「うっすっ」とアドバイスをくれた慧さんに感謝した。今、自分でも判らないくらい気持ちが勝つことに先走っていつもの自分になっていない事を気づかされた。

「将臣先輩、無茶しないでって言っても無駄だろうけど、それでも・・・」

「できない相談だ」

 僕が後輩の言葉へ返答するのと同時に第三ラウンドのゴングが鳴った。

 特殊な防御姿勢で相手の動きを探る。僕のこのスタイルはバカだと思われるかもしれないけど、子供のころに見たボクシングとは関係ない格闘漫画のそれを真似て改良したものだった。

 僕のプロ-ウェルター級、初めての対戦相手は有野邦夫。田宮ジムの選手で三年前の新人決定戦で優勝した事もある人なんだけど、それ以降の成績はぱっとしていない。それでも経験は僕以上。相手にとって不足なし、な言葉じゃなくて十分以上に強すぎるぜ。邦夫も戦績を少しでも多くしたくて、僕との対戦を望んだんだろうけど、そうはいくかよ。

 冷静さを取り戻した僕は三、四、五ラウンドと邦夫に決定打を許さず、体力を温存しながら動きの分析を続けた。そして、B級ライセンス最後の第六ラウンドに僕は勝負をかけた。邦夫は右ストレートの時にかなり顎を前に出す。左利きの僕の腕は彼のそれよりも拳一つ長い。邦夫のストレートに合わせて僕も合わせれば・・・。

 彼の右肩が引くのを僕の目は見逃さなかった。来るっ!

『防戦一方だった結城将臣選手っ!ここに来て、見事に、あざ~~~やかにっ、サウスポークロスカウンター。レフリーが有野邦夫選手に近づき、カウントダウンをかいしだぁ~~~』

2・・・、3・・・』

『有野選手必死にリングに張り付いた手で体を起こそうとするが・・・』

『7、8・・・、9・・・、・・・、10』

 僕はじっと構えたまま審判の秒読みを聞き、相手が立たないように覇気を送る。

 十秒、凄く長く感じる。早くゴング鳴れよ、と心の中で叫び、それが鳴るのを待った。

『有野選手必死な体制直しも間に合わず。テンカウント・・・、ここで試合終了のゴングがっ!結城選手、ウェルター級プロになっての初試合で有野選手からの指名選を見事乗り越えました』

 そのあとも実況の人がいろいろと僕の事を褒めていてくれたみたいだし、観客も喜んでくれていた。だけど、彼らの声は僕に届く事はない。どうしてか?緊張が途切れた事で、リングから降りた瞬間、気を失うっていう失態を起こしていたからだよ。なさけねぇ~って思うなよな。僕は格好いい人間じゃないんだから、こういうこともあるさ。

 それから、どんだけの時間が経ったか目を覚ますまでわかる訳ないけど、僕はどこかのベッドの上で目を覚ました。

「あっ、先輩、めっ、さましましたねぇっ!」

「うぅ、うぅぅ~~~ん・・・、はぁ・・・、ここは?」

「私んちよ、先輩」

 それから、僕が失神して、三慧ジムまで担ぎ込まれるまでの間の事を楽しそうに語ってくれる後輩みのり。まだ意識がはっきりしないで目を宙に泳がせながら、

「迷惑掛けちまったな・・・、処でいま何時だ?」

「迷惑だなんてそんな事ないですから」

 後輩はそう口にして腕時計を見た。

「七時二・・・、三分」

 みのりの言葉で寝かせていた身体を急に起こし、

「朝の?」と言いかけ、窓のカーテンが閉じていたのが目に入り、夜だって理解した。流石に一日も気を失っていた訳じゃないだろうな?病院の見舞い時間終わりまで一時間無い。三慧ジム近くに来る病院行きのバスがこの時間何時に来るか思い出し、

「みのりっ、看病サンキューなっ!今からあいつらん所行ってくるよ」

 僕が寝ていた机の上に丁寧に畳んであった僕の私服にさっと着替えると彼女の呼びとめも聞かずにジムを飛び出した。

 今日の試合は午後十二時半から行われて、六ラウンド闘った。ラウンド間休憩を入れても試合総合時間は二十二分。一時少し前に終わって以降、僕は午後七時まで気を失って眠っていたようだ。高校時の試合で何回かKOくらって失神した事あるけどこんなに長い時間は初めてだな。はぁ、それほどプロ初の試合に緊張していたって訳か・・・。こんなんじゃ、先が思いやられるぜ。もっと精神も鍛えないと。

 面会時間終了十分前に病室へ慌てて駆け込み、二人の様子を見た。高々、初戦で勝ったからって翠も弥生も目覚めてくれる事はないだろうって思っちゃいるけど現実はそれを肯定していた。

 生きているけど覚醒しない二人へ、

「へへっ、やったぜ。プロ初めての試合、辛くてしょうがなかったけど、なんとか負けずにすんだよ。僕のこの美男子顔を傷付けられちまったけどなぁ」

 ガーゼの当たっている怪我の上に指を軽く添え、その部分を撫でてみた。

「これから先、試合で一杯殴られて顔の形がめっちゃ、変わった頃にお前達が目を覚まして、僕の事を見て、お前誰だって言ったら凹むからな・・・」

 とりあえず、今日中に二人へ直接、僕の初戦の結果を伝えたから、帰ろう、っと。


 Round TWO 知った相手

2006年7月18日、火曜日


 今回も指名選。相手は高校時代何度も闘った事のある奴だった。曲山治起(まがりやま・はるき)南京都高校出身で僕は彼と総体や国体で何度もやり合った事のあり、僕らが二年の時に曲山は高校選抜、総体、国体と三冠をやったほどの相手。でも、僕はそいつと高校時対戦した時に一度も負けはない。

 三年の時の総体で僕は彼にプロにならないと云ったのに現実はこれだった。彼から指名が来たときに、これは高校の時、僕に一度も勝てなかった事の雪辱戦だねと。

 試合開始、一ラウンド三分の間で曲山の動きを観察し、牽制だけの攻撃を仕掛けていた僕。曲山の必殺の一撃でもあり、外した時の隙も多いその技、スクリュー・アンカーって周囲がそんな名前を付けていた。当たればKO間違いなしって破壊力。

 僕が負けた事がないのは曲山のそれの後にできる隙をついて大きな一発を顎にお見舞いするからだった。

 誰もが驚くような素早さで曲山の全体重を乗せた上から叩き下ろすようなパンチ。あまりの速さによけるとか普通に考えられないから僕以外の曲山と戦った選手は両腕でそれを防いでいた。でも、ガードなんて無意味。交叉した腕中央で受け止めてもそれを弾き脳天に重い一撃を喰らいマットに沈むのが落ち。どこに当たったとしても試合続行するには致命的な代物なのさ。でも、僕はそうじゃなかった曲山の動きを高校のころからずっと研究し、どの時点でそれを使うか、判断できるような感を掴んでいた。回避できれば受ける先がなくなったそいつの体が前に転がろうとする。体制を戻すのに五、六秒の隙が出来るんだ、顔面ガラ空きのね。

 一ラウンド、終了間際。曲山はスクリュー・アンカーを打ってきた。当たる訳にはいかないし、観察のため、大きくバック・ステップ。曲山のパンチの後の姿勢制御が高校の時よりも早かった。それでも、僕の反撃が通用する時間はありそうだった。

 僕のその思考考察が終えたのちに第一らウド終了の合図が聞こえてきた。よしっ、曲山がスクリュー・アンカーを打ってきたら迷わず、顎に大きな一発を喰らわしてやるさ。

 どんな時でもKOで勝ちたがる相手だから、六ラウンドまで幾らでも機会があるはず。判定負けする事はないだろうけど、僕も二ラウンド目からは攻めに入ろう。

 二ラウンド目のゴングが鳴り、僕はディフェンス・スタイルから、オフェンスへ変え、殴りかかった。僕はどんな相手に攻撃類型を掴ませないために変則的な動きで、フック、ジャブ、ブローを打っていた。曲山は力押しな分類に属するけど、我武者羅に攻撃してくる訳じゃないんだ。頭で考えなくても、相手の動きに合わせて、それよりも早く動く俊敏性が最も厄介で、攻撃の組み合わせでほんの僅かな好きでも作ってしまえば、痛い一発を喰らっちまうんだ。だから、それを意識して、殴る、殴る、殴る。

 僕がひたすら殴り続けるのと同じように曲山も防御なんかしないで、僕を殴る事だけしか考えていないようだ。曲山の間合いじゃない、どの攻撃もヤツ本来の威力はなかった。曲山の顔に苛立ちが見えた。試合中なのに僕って冷静・・・。と思った瞬間、彼は軽くバック・ステップした。

『くるっ!』スクリュー・アンカーのモーションに合わせるように僕の体が半身、彼から見て左にずれさせ、ここぞとばかり、左を思いっきりまっすぐ伸ばした。僕の拳を守るグローブ中央が顎の真ん中を捕えた。僕の拳が当たるほんの僅か前に曲山は変な動きを見せたけど、僕のパンチが当たった勢いで曲山がリング・ロープの方へ軽く背面跳び・・・、彼の双肩がリングに落ちた。

 審判が彼に近づき時間を数え始めた。KOでの勝利を確信した。でも、闘いは最後まで分からない。僕は起き上がるかもしれない彼にすぐにでも仕掛けられるように攻撃態勢だけは維持し続けた。

「・・・、9・・・、」

「おおっとぉ、今年、新人の中でも最も注目されていたあの曲山治起選手が二ラウンドでおわりなのかぁーーーっ」

 実況が奴の現状を解説する。

「10っ!『カンッ、カンッ、カァ~~~ンッ』」

「ここで、しあいしゅうりょうだぁ~~~っ!なんと、結城将臣選手の冷静な一撃で曲山治起選手を二ラウンドでノック・アウトぉーーーーーーーっ!」

 暫らくの観衆の響(どよ)めきのなかで、実況が僕や曲山の対戦結果を話していた。まだ、実況の言葉が続いている中で、響めきが喝采に変わった。僕はその歓声を聞きながら、控室へと琴坂親子と歩きだしていた。

「へへっ、将臣先輩、曲山さんには強いですね。今回もあの人から勝ちをいただいちゃいましたね」

 そんな言葉をみのりは僕に掛けてくれながら、ストロー付きの飲み物を手渡してくれた。汗でぐだぐだの頭に真っ白な手拭で隠した顔の中でゆっくり飲んだ。吸い込む体力がない位に疲れてしまっている。蓋も開けられやしない。彼女に蓋を開けてもらうと大きく広がった飲み口に唇をあて、一気に飲み干した。

「みのり、今何時だ?」

「もうすぐで、午後の六時です。先輩達のお見舞いには十分間に合う時間ですよ。今日も行くんですよね?」

「ああ・・・」


 午後七時三十分少し前、僕は翠達の眠る病室へ辿り着いた。今日の試合でもらった花束の一部を見舞いのそれの代わりに携え、二人のベッド中央に歩み寄る僕。

「昨日も言ったけど、今日プロ二戦目。対戦相手は前々から言っていたから今さら話すこっちゃないよな。で、その結果は一戦目続いて白星。曲山との戦績は今回で四戦四勝。僕にとってはありがたい試合だったけど・・・。試合中はそっちに意識が集中しているからほかの事は何にも思わないけど・・・、やっぱ、つれぇ~~~よ・・・。挫けそうだぜ、まだ二戦目が終わったばかりだってぇのによ。僕をこんな気持ちにさせないでくれよ、みどり・・・、やよいぃ・・・」

 僕は情けないとわかっていても、現状が変わらないことが悔しくて、リノリウムの床に顔を向けて、持っていた花束を強く握りしめて涙していた。


 Round THREE 雪辱に燃ゆる漢、曲山治起!

2006年9月21日、木曜日


 蝦の前屈み、くの字に体を蹲らせ僕の両足がリング・マットから宙に浮いた。その勢いで右肩から身体をマットへ叩きつけられ、マウス・ピースを口から吐き出し、身体を痙攣させられる。かっと見開いた両目付近に幾つもの星が青や黄色に光っては消え続けた。

 僕が曲山から強烈なボディー・ブローを喰らう際、

「いつもと同じだと思うなよっ」って彼奴が囁いたのをはっきりと覚えている。

 プロ第三戦目。再び僕と曲山治起の試合が組まれ、試合開始の第一ラウンド目終盤で僕はこのありさまだった。レフリーのカウントダウンが僕へ届く。

「7・・・、8・・・、なぃ・・・」

「うおわぁぁあっぁあぁぁっぁあああぁぁっぁぁぁっぁぁっ」

 レフリーが九秒を数え終える瞬間に僕は大きな気合いの声と一緒に腕を杖代わりに立ちあがった。運は僕を見捨てなかった。立ちあがった瞬間、足にも相当障害が来ていたみたいで倒れそうになるが、ノック・アウトじゃない第一ラウンドの終了のゴングが鳴った。リング・ロープに手をかけ、お凸をコーナー・ポストに当て、体が倒れ込むのを支えた。僕は慧オーナー兼コーチに一体何が起きたのか、訪ねていた。コーチの話を聞いている間、湯立つ僕の頭に冷えたタオルを乗せてくれるみのり。

 曲山はほんの一分前にスクリュー・アンカーを打ってきたんだ。僕は奴のその行動に一ラウンドKOの勝機だって思って反応したはずだった。思いっきり振りかぶった僕左ストレートの軌道上に曲山の顔はなかった。曲山の野郎、必殺の一撃を使った後の前に倒れ込む勢いを利用して、態勢を低くし、相手の顔や体の位置なんか分からない状況でアッパーを出したって事らしい。それが諸に僕の鳩尾あたりに当たったって訳。若しも、曲山が放ったそれが確実に鳩尾に打ち咬まされていたら、慧コーチにこんな事を聞いていられる状況に居なかっただろうな。

 前回の試合で曲山治起が見せたスクリュー・アンカーの後の妙な動き、今彼奴が放った打撃の布石だったなんて誰も予想していなかった事だろうし、勿論、僕もだ。二戦続けて同じ対戦相手って試合はそうそうあるもんじゃない。だから、7月の時は曲山自身が技の完成度を確かめるために僕を指名したのかも・・・。まあねぇ、実際彼奴が何考えているか知らないけどさ。

「先輩一分たっちゃいますよ。少しでもこれ飲んで体力戻してください」

 みのりはそう言って僕に大塚製薬のポカリ・スウェットとエネルゲンを混ぜたそれを飲むように勧めてくれた。どちらも単体で飲むには申し分ないくらい好きだけど、混ぜると微妙・・・。でも、それを飲む僕。そして、口を右腕でぬぐいながら、リング・中央へと第二ラウンド開始のために歩み寄った。ラウンド間の一分の休憩じゃ僕の平衡感覚の回復は完全にできなかったみたいで、銅鑼が鳴る僅か前に微妙に足がふらついてしまった。その姿勢を直そうとしたのと同時に甲高い音が試合再開の合図を示した。

 曲山の野郎、僕のその体の異変を察知したようでさ、開始早々、スクリュー・アンカーを出してきた。さっき僕はこれに合わせる様に体を翻し、左正拳突きを出して、やられた。だから、今度は何もせずに相手の動きだけを追う事に思考が瞬時に僕の体へ働きかけた。避けられる事なんて気にしないで曲山は上から捻る様に降ろして来た拳の勢いを殺さないで態勢を低くし膝を屈めた瞬間、僕はどう動いていいのか分からないくらい彼の力の方向変換が速かった。

 唸る様に振り上げられた彼の左拳。僕の体が条件反射的にそれから逃れる様に後ろへ倒れ込んだ。顎からの打撃を避ける事が出来たが、斜めを向く僕の人中線の臍から胸倉までを抉る様に彼の拳は走っていた。刃物に嘗められたかのような痛みを感じると実際、僕の胸から血が流れていた。

『コイツ、ありえねぇ、攻撃しやがって。何か僕に恨みでもあんのかよ・・・』と思いつつ、汗と混じる血をグローブの紐がある面で切られた部分を撫でていた。

 マウス・ピースのずれを僕は口を動かし元の位置に戻しながら、

『戦闘分析機(ファイティング・アナライザー)の二つ名で勝手に周りから呼ばれている僕に同じ手が二度も通用すると思うなよ』と心の言葉で語った。

 曲山はそれでも二、三十秒に一回の間で二段強打を出し惜しみしないで使ってくるんだ。対処の仕方は理解できていても体が反応しきれなかった。致命傷(KO)は逃れられても、小さい損傷とポイントを奪われる。曲山は体力持続も長いし、何より、急所以外は撃たれ強かった。僕もしっかりとした攻撃を当てているから、点数差し引きでは互角のはず。

 アンナに大振りした技を何発も打ってんだからよ、サッサとばててくれよ・・・。

 B級ライセンス最終ラウンドの六回目のゴングが鳴った。僕の体は傷だらけで、大小両手の指じゃ納まらない程、絆創膏を後輩に貼って貰っていた。

 勝敗を時の運に任せたくない。どうにかして、ここで一発、僕も曲山に喰らわしてやる算段を最後休み一分で考えていた。でも、何も思いつかなかった。あいつのい二弾攻撃はちょっと避ける位で躱せるものじゃない。僕の方が大きく身を引いた時には元々、曲山の野郎の才能の俊敏性が次の攻勢を取れる状況にしていた。隙がないんだよ、畜生がっ!くそっ、また来た。

 初回以来何とか大きな一撃を避け続けてきたけど、もう時間がない。勝負をかけないと負ける・・・。あぁあぁあっ、もう破れかぶれだ、曲山のアンカー・スクリューに耐えられる自信はないけど、こうなったら、クロス・カウンターで、なんて思った瞬間奴のそれが飛んできた。

『うをぉりゃぁああああぁぁあっぁあっぁぁぁっぁぁぁっぁっぁああ』と胸中で叫んだつもりの声が口からも漏れていて、その勢いと一緒に左拳を曲山の顔面へ打ち出した・・・、僕の拳を伝わって硬い物を殴りつけた感覚を察知した、眼前が白と黒の波が点滅する。視線が曲山からゆっくりと会場を向いて、天井の照明を見上げていた。審判の大きな声で秒読みを始めたそれが耳に届きてきた。実況の声も確かに聞こえる。慧さんやみのりが何かを叫んでいた。

「両者、ともだおれかぁああぁぁぁっぁーーー、曲山選手、立ち上がれないっ、雪辱を果たせず、リング・マットに抱かれたまま夢に落ちるのかっ!ここまで負け知らずの結城選手、その記録更新ならずかっ!最初に立ちあがるのは一体どちらだぁーーー」

 腰よりも下に力が入らない僕はマットに張り付く体を引き剥がす様に両腕をばたつかせ、踠く。

『やべぇっ、こんな処で僕の連勝止まっちまうのかよ、負けちまうのかよ』

 必死に起き上がろうと足掻く、顰めっ面な僕の顔。大量に噴き出す汗と一緒に涙も流れているだなんて誰も思っていないだろう。僕すら気が付いていないんだから・・・。

「シックスッ・・・、せぇヴ・・・」

 レフリーの声が聞こえるから、意識はある。でも、体が言う事を聞いちゃくれない。

『まじで、だめなのかよっ、僕はっ!!』と自分に悪態を着いた時に、

『ココデ、クジケル、キミデハ、ナイダロウ・・・、タツンダ、マサオミ』

 それは幻聴?その声が這い上がるのに苦しみ足掻く僕が見せた錯乱の中の、妄想の中で聞こえた言葉でも僕を奮い立たせるには十分すぎる位励みになる声だったんだ。

 その人の声は僕が異性として好きな翠よりも、血を分けた苛めたくなるほど愛おしい妹の弥生よりも、僕の知る大事な友達の誰よりも、僕の闘士を焚き付けてくれる、勇気を再燃させてくれるあの人の声。

「カウント、エイトにはいぃっったああぁあああ、両者もう後がない。どっちだ、どっちらが先に立ちあがるぅぅうう」

「イトッ・・・ナイゥン・・・」

「ぐわゎぁっぁあっぁぁあぁぁっぁぁぁっぁぁあああぁぁあっぁぁぁあぁぁ」

 全身に気合を入れるために大声を張り上げ、痙攣する両足を腹の方へ屈めると両腕を競技場の天井へ突き出すとそれを大きくマットへ振りおろし、底を叩く反動で達磨立ち。

 僕の視線の先には片膝状態で今にも立ち上がりそうな曲山の姿が見えた。奴の表情はかなりしんどそう。だけど、諦めている風じゃないんだ。

 蛙が構えているような姿勢から背筋を測る時の器具を引っ張るような姿勢で立ちあがった。曲山も同じくらいに片膝から姿から気合いの言葉を吐きながら立ち上がる。

「ンッ・・・、テェ」

 審判が十を数える前に僕達はしっかりと両足をリング・マットに付け身体を起した。審判の再開の合図。第六ラウンド残り、十二秒。その勝敗は・・・。

 僕は試合が終わった直後、みのりに怪我を見てもらってから今日の試合結果を翠達に伝えに行っていた。

 病室の真ん中にパイプ椅子を置いて、二人をどっちつかずに眺めながら語りかける。

「時の運、っていったいどんな理由で決まるんだろうな?あの最後の十二秒。時間の流れをめっちゃゆっくりと感じた気がした。いや、むしろ僕の周りが止まって見えたよ、まじで。僕は残った体力全部使い果たす様に殴りかかったんだ。多分、曲山の野郎もね。で、僕の打ったパンチ、曲山に当たる方向に飛んでいなかった・・・、・・・、へっ、お前ら僕が今負けたと思っただろう?チッチッチ、甘いな。まるで曲山の方から僕の左に当たりに来るように吸いついてきたんだ」

 一端ここで言葉を止めて大きく深呼吸する僕はそれが終わった後に続きを語る。

「理由は簡単さ。曲山は最後の一撃に力を入れすぎて、足元がふら付き、それが原因で彼奴の顔面が僕の拳の方へ勝手に移動してきたって訳。これで三連勝。でもよ、ワールドクラスの試合までもっともっと試合しなくちゃならねぇから願掛け通り、勝ち続けるのは難しいかも・・・。それでも、お前らが目覚めるまでの連戦連勝は諦める積りはないけどよ」

 僕は今日の報告をそう括ると背筋を伸ばし、

「また明日な・・・、おやすみな・・・、っていうかさっさと起きやがれよ、バカ野郎が・・・ケッ」と二人に聞かせて病室を後にした。


 Round FOUR 負けたくない相手

 第三戦の曲山との戦いの後、11月の中頃には第四戦目(東日本ウェルター級新人決定戦準決勝)を二ラウンドKO勝ちで、12月24日第五戦を控えていた。それは東日本ウェルター級新人決定戦決勝。ほんとだったら翠と二人っきりで過ごしたかった日なのに・・・、ああ、貴斗さんや詩織さんや皆で一緒にもいいかも、でも其れはもう叶わない願い。

 相手は鶴畑弘毅(つるはた・こうき)。東京の虚栄ジムって所のボクサー。

 十二月の朝、五時半。日の出前の自宅周辺、立教台の路地を走っていた。僕の進む道を照らす街頭。住宅街だから回りは大分ひっそりとしている。でも、やっぱり人が多く住んでいる場所。日の出前でも、僕のように外に居る人は疎らに居た。

 犬と散歩している人、運動の為か、健康の為なのか?僕と同じようにジョギングをしている人、自動二輪の新聞配達のおっチャンや近所の豆腐屋さんの牛乳配達の聖稜とは違う処の女子学生。

「結城さん、おはよぉ~~~っす。これどうぞぉ、次の試合も頑張るっすよぉ」と笑顔で一番小さいサイズの牛乳パックを渡してくれた。

「あんがとよ」と僕はストローを使わずに開けた部分を三角にして口に付けた。

「いいのみっぷりっすねぇ~、はぁーいっ、ゴミ」

 その子は飲み終わったパックを出してくれ風に手を出した。僕は遠慮せずに紙パックをきれいに畳んで渡した。彼女は僕へまた笑顔をくれるとスクーターで僕が来た方角へ走り出した。僕もジョギングを再開して、ここら辺では一番長い遊歩道を進み、国塚方面市街地へ向かう。

 車道には国塚駅へ向かう車がヘッド・ライトを着け、陽の登る前の道を照らし走っていた。そんな車を眺めながらいつもと変わらない歩調で走り、呼吸も調整した。周囲の温度が10度以下を示す様に僕の呼吸で吐き出される息が白い靄を作る。僕は遊歩道の終わりを抜け、6時少し過ぎたくらいでその間にある大きな公園の中を通り利根川河川敷へ進路を変えた。

 利根川河川敷ランニング・ロードをもうかなりバテバテで息も乱れ、眼前で吐く度に白く広がる靄が荒れ狂ってやがりますよ。

「あああっ、もぉだりぃ~~~、ここらで一息・・・」

 僕はそんな風に呟き、めっちゃ広いし土手の芝生なのに綺麗に手入れされたそこへ滑る様に寝転んだ。零下で凍った芝生上の水分が滑る僕に潰されながら、『シャリシャリシャリ』とそんな軽快な音を僕に聞かせてくれる。

 滑る僕の姿勢が停まると両手を頭の方へ回して、空を眺めた。晴れた日の出の空。差し込む太陽の光が眩しくて瞼を軽く下す。

「ふあぁぁああ~~~」

 頭に回していた腕を広げ、大きく欠伸と一緒に上半身を起こして、川の対岸を眺め、人間観察を始める。遠くの人の細かい部分まで見る事で動体視力を鍛えているんだ・・・、ってのは嘘。僕の動体視力の鍛え方は卓球と僕の同級生で大学に進まずカー・レーサーのプロを目指し始めた友達に協力してもらう事と後は近所のバッティング・センターの小父さんに頼んで球速を変えられる奴から出てくる球に書いてある物を見る事。

 対岸で犬と戯れる人やキャッチボールをしている人、一人でバットを振る練習をする人、向こう側のランニング・ロードを走る聖稜高校とは別の高校の朝練の団体。その朝練をしている奴らを見ていたら再開しなきゃなって思いになった。僕は立ち上がって土手をかけ登り、ランニング・ロードに戻ると立教台二丁目、僕の内を目指した。

 利根川河川敷を離れる頃、対岸を走っていた高校生団体とすれ違った。向こうは僕の事を知っているみたいで、挨拶をしてきた。勿論僕もそれに手を挙げて応え、走っていった。

 午前七時、ちょっと過ぎくらいに翠ンチの前を通りかかると、外に新聞を眺めている秋人さんの姿を見つけた。

「おはようございますっ」

「ああ、おはよう、将臣君。毎日の練習頑張っているね。もう、家に戻る所だろう?一緒に朝食でもどうかね?遠慮することはないよ。将臣君は私にとって息子も同じなのだから・・・」

「あっ、はい・・・、じゃ、お言葉に甘えさせていただきます。シャワー浴びて着替えてから戻ってきますよ」

「何だ、そのような事、家のを使えばいい」

 秋人さんの言葉に断る理由はないから、頷いた。翠の親父さんは深い笑顔を作ると新聞を閉じて玄関へ歩き出した。

 葵小母さんと秋人小父さんの三人で朝食を僕達は日常会話をしながらゆっくりと採っていた。

 後一カ月も過ぎればあいつ等が事故ってから一年経とうとしていた。以前、翠から聞いた話なんだけど、春香さんが今と同じ状況になっていた時に姉さんの彼氏だった柏木宏之さんへ、目を覚まさない彼女を諦めろ見たいなことを言ったらしい。このまま、目覚めない翠。秋人さんは僕にその時と同じ事を云うんだろうか?まあ、言われたからって受け入れないけどね・・・、でも。

 朝食を頂かせてもらった葵小母さんへ感謝して、玄関に向かう。外に出ると秋人さんも一緒だった。

「小父さん・・・、僕は小父さんが今後、翠の事を諦めろ、って、見舞いに来なくてもいい、って言っても聞きませんからね。僕の意思は固いんです」

 僕はその言葉の後、『温泉卵よりは』なんて冗談を混ぜてしまいそうになったけど、ぐっと堪えて伝えたい事だけ言い切った。秋人さんは思案顔を作るだけで、僕のその答えに答えてくれる事はなく、

「次の試合も頑張ってください」と言ってくれるだけ。



 2006年12月24日、日曜日、東京後楽園ホール東日本ウェルター級新人王決定戦決勝試合特設会場。試合一分前。

「将臣先輩、私の為にも絶対勝ってくださいね」

 みのりは調子づいた表情でリング中央へ歩みだした僕に言葉を投げた。

「ばぁ~~~ろっ、僕が勝つ理由は翠や弥生の為だ・・・、・・・、・・・、まっ、少しくらいはそう思ってもいいかもよ、世話になっている訳だし」

 中央へ向かう足を止め、後輩に背中を見せたままそんな返答をしてから、軽く左腕を上にあげて再び歩き始めた。

 対戦相手、鶴畑は僕の全く興味の示さない余興を演じてから、リングに上がり、戦闘態勢を取った。彼の余興の受けがよかったか、どうか今回の観衆に微妙なところだった。どんな事をしたかって?おもちゃのバズーカ方を二つ持って、訳の判らない台詞を吐いてからその玩具を観客に向けて放った。砲身から出てきたのはパーティー・クラッカーの様な紐と紙吹雪。それと『絶対勝利』と書いてある幕。

 僕は鶴畑が決勝の相手だって知ってから、徹底的に彼の試合の運び方を研究した。絶対勝ちたかったから。他人がどんな思いでボクシングをしようかなんて、僕には関係ない。でも、こいつだけは性的に受け付けない、そんなやり口の男だ。確かに実力はある高校の時も一度、闘った事がある奴だ。その時は地味だった、プロになってからは観客の事も考えないで試合のたびに目立つような事をやって色んな意味で回りを騒がせたり、チャンと強いのに自身よりも弱い相手としか試合を組まなかったりと、兎に角、鼻につく。

 僕も相手の鶴畑もゴングが鳴る前から互いを威圧するような視線を投げ、雰囲気でも相手を圧倒させようと醸し出した。そして、第一ラウンドのゴングが鳴る。鶴畑は開始の合図とほぼ同時に攻勢を仕掛けてきた。

「おおっと、鶴畑選手の攻撃に怖じ気着いたか、結城選手防戦一方だっ!」

「この流れから行きますと、弘毅選手の方が優勢に見えますね」

「さぁ、どうでしょうか?まだ試合は始まったばかり、結城選手、果敢に攻める鶴畑選手にどのように仕掛けるか楽しみですねぇ・・・」

 鶴畑の初撃の速さなんて見え透いた事。その後の鶴畑の僕の予想通りで僕はそれらの攻撃を全てはじき返す。すると、短気な彼はただ拳を振り上げるだけ、攻撃がぞんざいになり、隙だらけになった。鶴畑がそうなったのは試合開始後、二分チョイ前。そして、僕は

『お前なんかに、負けられないんだっ』

 大きく右を振りかぶって隙が出来た鶴畑の顔。僕はそこ目掛けて、一撃で仕留める様にこの後はない位な勢いで左を着きだした。

「おおっとぉっ!これはあまりにも華麗にサウスポー結城選手のストレートが鶴畑選手の顔面を直撃っ!レフリー、鶴畑選手の前に駆け寄る」

「これは見事ですねぇ、将臣選手、この一撃を放つためにずっと耐えていたのでしょうか・・・」

 審判が秒読みを開始したが、直ぐに口を閉じて、腰を落とすと鶴畑の頬を叩いていた。鶴畑を見て首を振ってから立ち上がり、僕の方へ歩み寄ってきた。僕を掴み堂々と掲げてくれた。

「なんと、なんと、これはTKOだっ!」

「一ラウンド目のTKO記録としては遅いですが、その鮮やかな決め方は今までなかったでしょう。うん、実にすばらしかったです、はい・・・」

 僕は直ぐに実感がわかなかった。僕が勝った事に気が着いたのは審判が腕を上げてくれてから、みのりと慧さんが僕の処に来てくれて、焦点の合わない目を直す様にコーチが両頬を軽くたたいてくれてからだった。はっと我に返った僕は勝利を実感するように雄叫びと二つの拳を天井に向かってあげてから、後輩とコーチをはぐった。

「まっ、将臣先輩」

 可愛らしくも顔を赤くして上擦った声で僕にそう告げるみのり。僕は興奮状態の為に彼女の感情なんて読みとりゃしないし、顔なんて見ていなかった。声なんて筒抜け。お構いなしに汗ばんだ顔で彼女と頬を合わせても居た。で、慧さんにぶんなぐられてまた我に返った。

 午後五時からの試合。速攻で決着がついたから六時少し前には会場から出られる状態だった。みんな僕のお祝いをしてくれたいみたいだけど、それよりも先に翠達の処へ行きたかった。だから、祝勝会は明日にしてもらう。

 表に出ると東京の大学に通う親友の霧生洋介が二つのヘルメットを持って待っていてくれた。洋介には僕の試合がいつ行われるか教えた事がなかったけど、東京が会場になる時にはたいてい見に来てくれていた。

「今日の試合。凄かったぜ。本当にスカッとしたぜ、あの一撃。好かなかったからな、あの鶴畑ってボクサー」

 洋介は言いながら僕へ、ヘルメットの一つを投げてくれる。僕はそれを両手で受け取り、かぶってからバイザーを上げた。

「乗れよ、将臣」

「ありがとう、さん」

 僕はそう言って洋介のバイクの後部座席に坐った。HONDAのCBR何とかって名前らしい。僕は興味ないからその手の知識は全くない。

「のりにくいなぁ~、これ」

「文句言うなよ、電車よりも早く、済世まで送ってやるんだからさ」

 お互いにそんな言葉をかけながらヘルメットのバイザーを下した。運転中、洋介に話しかけても聞こえない事はわかっていた。だから、信号待ちで少し会話する程度。大した会話もしないうちに僕達は三戸の大事な二人が眠っている場所へ辿り着く。

 バイクから降りた僕達は翠達の病室へ着くまで近況を話しあっていた。

「へぇ、翔子先生がねぇ・・・、いいなぁ・・・」

「いいわけねぇ、だろうが。いっつもこっちは先生に顔を合わせる度に緊張もするし、まあ、翠はいいとして、不肖な弥生の面倒まで見てもらっちまって恐縮しちまうんだよ。先生いつも綺麗だし・・・」

「まだ目覚めない、涼崎に知られる事などないのに万年発情期のお前が先生に手を出さないとは殊勝な事だ」

「なっ、なにぉ~~~、ぼっ、僕はみっ、み・・・、翠一筋なんだ、そんな事がある訳いだろう・・・」

「怒るなよ。判っているさ、お前が見かけのチャラチャラしている雰囲気とは逆路線だってこと」

「けっ、都会かぶれの似非クソ・クールなインテリが。洋介なんか、気もないくせにあの手この手で女の子引っ掛けては泣かせてんだろう」

「さあ、どうだか。俺は至って真面目さ・・・」

「ああ、そうそう、どうしてか、先生って」

 僕がそう言った頃に翠達の病室へ辿り着いた。中から人の気配を感じた。もし翔子先生だったら、先生って口にした事を咎められそうで怖かった。そんな僕の考えも知らずに親友はノックして扉を開けた。で、返ってきたのは礼儀正しく品のある男の声だった。

「お邪魔しています・・・」

「響か・・・、お前も懲りないな・・・」

「将臣さんと考えは違うでしょうけど・・・、僕は僕なりに考えて弥生さんと翠さんのお見舞いに来ているんです」

 こいつは翠や弥生の事を名前で呼ぶ。理由は知っていた。同じ名字の奴が複数も居たら名前で呼ばないと区別するのに面倒だからだ。相手が個人をどのように呼ぶかは自由だし、可笑しな呼び方をされない限り僕は余り拘らない。ただ、弥生は別。妹は親しくない相手に名前で呼ばれるのが嫌いみたいだ、同性異性関係なしに。今は眠っているからどうでもいいけど、実際、妹が目を覚ました時に響の奴が、妹を名前で呼んだ時の反応がたのしみだな、こりゃぁ。

「うんなことは、ずっと前に理解した事さ・・・、ああ、コイツ、俺の高校の時の」

「微妙な親友の霧生洋介だ・・・、君、どこかで見た事がある様な・・・」

「僕も自己紹介しておきます。藤宮響です。僕には三つ上の姉がいまして、藤宮詩織という君達と同じ高校に通っていました」

 洋介の奴は響が自己紹介している間、何かを思い出す様な仕草をしていた。でそれを思い出すと手を打ち、

「思い出したぞ、お前、確か、ロン=ティボー国際コンクール二〇〇五年で、日本人で初めて二部門、ピアノとヴァイオリン一位を取ったのが・・・、藤宮響君、そんな名前だったはず」

「なにっ、お前、楽器弾けるのか?」

「まあね・・・、でも、父さんや母さんは言うんだ。奏者を目指している物が楽器を扱えるのは当たり前だって。自身の得意な楽器で、自身で作った曲で聞いてくれる人たちをあっと言わせる、感動させる事が出来るのが本当の音楽家何だって・・・さ」

 僕はそれを聞いて、響の着ている服の胸倉をつかんで強請・・・、揺すった。別に怒ってそうした訳じゃない。その理由は次の僕の言葉が示すさ。

「なんだよ、響そんなすげぇ才能があったのかよ。ただのテコンドーバカかと思っていたのによ。作曲できるのか?」

 そういってから、謝る様に頭を下げながら身を引いた。僕はイージーリスニングやクラシックが好きだ。だから、楽器を扱える人を実はすごく尊敬している。藤宮詩織先輩、綺麗で聡明だけじゃない。先輩に凄く憧れをもっていたのも音楽を出来る人だったからだ。それは春香さんにもなのだが・・・。その二人が共演している処、一度は見たかったな・・・。

「はいはい、君にとって、大柄の僕はそれにしか見えないでしょうね・・・。姉さん程じゃないけど、まあ、ぼちぼち」

「なら、僕の登場テーマ曲作ってくれよ・・・」

「そうだね・・・。全日本新人王決定戦で勝利したら考えてもいいよ」

「うっす、なんか、めちゃやる気出てきたぜ。なんで、こんな時間までいたんだ?」

「はぁ・・・、どうして、僕が将臣さん今日の試合に勝った事知っていると思っているんですか?」

 響は言って、視線を棚に向けた。そこにはラップトップPCが置かれていてLANが繋がっていた。

「僕の友達にも君ファンは多いんだよ。女の子のね。そのこ今日の試合を見に行っていたのさ。その子、施設運営に知り合いがいたらしくてネット回線で放送してくれることになっていたの将臣さんの試合。で、わかるでしょう?それを翠さんと弥生さんへ聞かせていたのさ」

「へぇ、それは面白いやり方ですね?放送の権利とか厳しいものがありますから。いずれこのネット回線がTV放送を上回る事になるのでしょうかね・・・」

 洋介はパソコンに挿さっている回線をいじりながらそう呟いていた。

「何だよ、翠も弥生ももう僕の結果知っちまっているってことか・・・。ほら、今日も勝ったぜ、もういい加減起きやがれよ」

 僕は呆れを示し溜息を吐きながら、翠と弥生のお凸を軽く小突いた。でも小さな寝息が聞こえるだけで反応はない。それを理解した僕の感情が落ち込み、顔が無表情になっていた。

「将臣、まだ、これからだろう?涼崎の姉さんの時を思えばな・・・」

 洋介は俺を励まして呉れる積りでそんな言葉を口にしながら、僕の肩に手を乗せる。

「この程度で、しょげるなんて僕の知っている粗野な君らしくないね・・・」

「いったなぁ~、このぉ」

 僕は響の言葉に軽く反撃して、無理に笑った。

「しゃなぁねぇ~、結果は伝えた事だし」と時計を見てから

「上がりの時間が来たようだから、かかりつけの先生に怒られる前に出ようぜ」

 僕は二人に行って先に出た。

 それから、洋介は響に興味が出たらしく、僕達は三人で夕食を共にすることにした。

 僕以外の二人は成人を迎えていたから合法的にお酒を飲める歳だったので、食事の後にそれを飲んでいた。ただ、部分的に硬い考えを持っている二人だったせいで、僕のそれを飲む機会を阻まれる。

「いいじゃんかよ、すこしくらい、ゆるくいこうぜ」

「かかと落とししますよ」

「飲酒幇助で俺は捕まりたくないのさ」

「ちぇっ、東日本新人王に少しぐらい労えよ」

「二十歳越えたらな・・・」と二人の声が同時に聞こえた。

 それから二時間近く過ぎて、酔いつぶれた洋介が眠り、結構飲んでいた響は素面と変わらないくらいの顔つきだった。そんな響に。

「なあ、なんで、お前、貴斗さんの事嫌いなんだ」

「なんでその事を君になんかに・・・、・・・、・・・、・・・・、・・・、・・・」

 それから響は俺の顔が見えない方角に面を向けて、ポツリポツリ言葉を漏らしてくれた。

「僕には姉さんが二人いた・・・、らしい。小さかったころの僕にとって双子の姉どちらが、どちらにと見分けなんかできなかった。でも、どっちの姉も何時も興味を示したのは僕じゃなく、彼奴だったんだ。悲しんでいる姉さんを慰める事の出来るのも彼奴、姉さんが笑っていてくれるのも彼奴のおかげ、姉さんが色んな才能を持つ事が出来たのも彼奴の為、姉さんを悲しませることも多かったけど、それでも彼奴の存在は詩織姉さんの全てだった。あいつと一緒に居る姉さんは本当に幸せそうだった。詩織姉さんを支える事が出来るのは本当に彼奴だけなんだって判っていた。それが妬ましくて・・・。姉さんに何もできないそんな自分が悔しくて・・・・。幼稚な嫉妬だって判っていたさ。姉さんを幸せにできるのは彼奴だけしかいないなら、僕が出来る事は何もないんだって。彼奴の存在そのものが姉さんの存在するすべての理由なら、弟として詩織姉さんにできる事はただ、幸せを願う事だけだって思った。でも、それでも、納得出来ないんだ今でも。どうして、そんな姉さんを捨てて春香さんに乗り換えたのか・・・。それが、許せないんだよ・・・、絶対に」

 響の言った言葉に僕は自分の耳を疑った。酔っているから適当な事言って誤魔化そうとしているんだって、僕の中の貴斗さんの理想像を崩したくないから、幻聴だって思いこませようとした。でも、響の口ぶりに嘘はなさそうだし、いまだに響は貴斗さんの事を『彼奴』や『それ』『野郎』って呼び方をするのもいま語ってくれた事が原因の一端なのかもしれない。それでも・・・、それでも僕はあの人、貴斗さんを信じたかった。

「信じるか、どうか、それは将臣さん次第さ。真相は誰も知らないんだから・・・」

「だな、故人は何も語らず・・・」と余り意味を持たない相槌を返していた。

 響は言いきって、グラスに残っていたカクテルを飲みほした。

 

 2007年2月17日、土曜日

 明日は大事な試合なのに僕は休まず一日中トレーニングをしていた。締めのランニング中に不意に飛び込む街角の時計が午後6時を指していた。何かを思い出す様にハッとした僕は進路を変え、病院の方へ向かった。今から行けば、七時ちょっと前くらいには着くはず。

 毎日、街の中を走っていると確率はそんなに高くはないけど、それでも僕の知った人たちと顔を合わせていた。誰もが僕を応援してくれる声をかけてくれる。それは僕が持つ本来の闘う理由とは別にして、少なからず励みになっていた事は内緒さ。

 今も病院まで十分とかからない途中で知り合いと顔を合わせて、

『明日の試合直接は見られないですけど、頑張ってください』と言ってくれた。本当はそんな些細な言葉でも嬉しいくせに照れを隠す様に似非ニヒルな顔で『どうも』と簡単に返事をして走りすぎ去っていた。


 肩で息をしながら、翠達の病室のドアを開け、中に入ろうとしたけど、独り語ちに、

「やっぱこんなんじゃ、翠も弥生も嫌だろうな・・・。シャワー借りてくる」と言って入院患者付添いが使用する浴室を借りることにした。一階の売店でシャワーを浴びるための道具を変え揃えると会計に向かい料金を支払おうとしたけど・・・、仕舞った現金が・・・、

「すっ、すいません、エディーやスイカ使えますか?」

「はい、どちらとも大丈夫ですよ」

「じゃっ、エディーの方でお願いします」

 僕は胸をなでおろし携帯電を読込端末へ置いた・・・。今の買い物でエディーの残高がゼロになったようだ。なんとか間に合ったようで心の中で再度胸をなでおろした。

 シャワーでしっかり汗を流して着替えてから速攻で病室へと戻る。それほど時間がないから簡単な話しかできないやな。

 病室に入り、走り続けた体力を戻すために二人のベッドの真ん中にパイプいすを広げて座った。大きく深呼吸してから、焦点を合わせないように床を眺め、

「明日から新人王者決定戦が始まるんだ。四回戦って予定みたいだな。今日まで負けなし、KO勝ち。TKOで勝ったって話も覚えているか?俺って凄いだろう・・・、フッ」

 今の翠達に掛けた言葉がなんとなし恥ずかしくなって自分をあざけってった表情を作っていた。そんなことは僕自身ではわからないけど。

「明日も絶対勝ちにいく、もちろん、判定じゃない。テクニカルか、ノック・アウトで・・・、俺は絶対見負けない。お前等が目覚めてくれるまでは・・・、それが何時になるか分からなくても、相手がどんなヒールな奴だって怯まないぜ」と言いながら拳を強く握ってその手を見ていた。

 僕自身自覚ないけど、最近、一人称が『僕』じゃなくて『俺』に変わっている事があるらしい。心境の変化がそうさせたのか、周囲の影響なのか・・・、それとも。

 視線を何気なく翠へ向ける・・・?

「ぅん?なんだ、お前、少し身長伸びたのか?ここは低くなっているようにも見えるけどな」

 心ではちゃんと理解しているだけど、体が勝手に・・・、手が彼女の胸のあたりに伸びようとしていた。触れるか触れないかの瞬間、僕の表情はニヒルな笑いを浮かべていたけど、

「こらっ、将臣君っ!翠ちゃんが気付かないからと言いまして、その様な行為をするモノではありませんわ、破廉恥です」

「しょっ、しょうこせぇ、いや、翔子さん。俺は何も疾しいことなんて」

 なんで先生はいつも唐突に現れるんだよ、まじ心臓に悪い。

「どうしてでございましょう、将臣君のお声が狼狽して私の耳にお届きしますのわ?」

 本当に悟しい先生ですね翔子先生は・・・。まあ、何と言われようとも反省する気なんて全くない。だってもう教師と生徒って立場じゃないからさ。

「将臣君、明日は大切な試合が有るのでしょう?お二人のお見舞いにきたいといいますお気持ちはご察しいたしますが」

「わかっていますよ。今日はちょっと顔見に来ただけですから、もう帰ります。まだ、トレーニングの途中だし」

 先生と居るのは嬉しい事なんだけど、色々大変なことも多くて撤退することにした。椅子を片付け出ようとする僕へ、

「無理は禁物です。明日の試合のために体調管理は万全を期してお望みします事をわたくし翔子は強く願います」

「了解です。それじゃ、帰りますけど、俺みたいなガキに対しても翔子さんその丁寧口調何とかならないんですか?調子狂っちゃいますよ」

「駄目ですわ、これが私の性分でございますから・・・、フフ」

 先生のその笑顔が堪らなく可愛いんだけど、敢えて、そのことは口に出さないで、別れの挨拶だけをして病室を出ていた。


 Round Five Take a rest

「ここで、ごんぐだぁあああぁああっ、十ラウンド激戦の末、結城将臣選手、西日本代表の縦澤融(タテザワ・ユウ)を下し、全日本ウェルター級チャンピオンの栄光をてにしましたぁああああっ!」

 意識が定かでない僕は審判左腕の手首を軽くつかまれそれを上にあげさせてもらっていた。お互い最後の一撃で対戦相手のオサムシ・ジムの縦澤と僕はマットに叩きつけられた。でも、再び立ち上がる事が出来たのは僕だけのよう。

 実況を挟んで解説の二人が僕や縦澤の戦いの結末を議論し合っているようだけど、僕には聞こえない。

 試合が終わった事でリング・ポスト向こう闘いを見守ってくれていた。慧さんとみのりが駆け寄って、審判から腕を解放されて、倒れ込む処を押さえてくれた。

「結城君が私の処のジムに来てくださった事、大変感謝していますよ。我がジム初の新人王誕生ですからね・・・」

「将臣先輩ならやってくれると思いました。流石、私が惚れた先輩です」

 後輩は恥ずかしがらないで、最後そんな事を云いつつ、とびっきりの笑顔を俺に向けてくれていた。

「こんなことで、おどろいているなんて、まだまだっすよ、僕・・・、俺の目標は世界王者なんだからよ・・・」

 僕はそう言い切ってから、気を失ってみのりとも慧さんとも判らない方向へ倒れ込み体を預けた。


 僕は・・・、俺は二カ月に一遍という間隔でAクラス・ライセンス八ラウンド制の公式戦を行っていた。五月にブラジル選手のビリー・マーチン(Billy=Martin)に四ラウンドKO、七月の翠の誕生日に合わせた試合、JA鴨川ボクシングクラブの得田久晴には負けそうになったけど6ラウンドで逆転TKO勝ち。その日勝てた事に勇んで、二人が待つ病室へ向かったけど現状は変わらなかった。落ち込みはしなかった。今回が駄目なら次に、って心構えでいたからさ。

 で、現在八月に入ったばかり。次の試合11月24日の韓国選手の李四藩(リー・ヨンヒュン、Li-Yonghun)。俺より二歳年上だけど、俺同様無敗の相手に勝つため、がっちり、鍛錬をしていた。


 2007年8月3日、金曜日

「先輩、わき甘いですよっ!」

「ちっ、やってくれるな、ゆうきっ!」

 俺は二階級上ミドル級で現在東太平洋王座目指して調整しているジムの楚山永禮(そやま・ながれ)先輩とスパーリングをしていた。ファイティング・アナライザの俺に掛かれば先輩といえども楽勝・・・、な訳なかった。二階級も違うと体の頑丈さがはっきりとわかる。かなり強めに打ったパンチで確実に当てたけど、楚山先輩の顔は平然としていた。

「止まっていると、返り打ちだっ!」と言って先輩のフックが襲いかかって来た。辛うじて、避けるけどヘッド・ギアの出っ張りを掠められ、頭が揺れ、一歩後退した。

「将臣先輩、何をやっているですか、先輩らしくないですよ」

 スパーリング中だって言うのに楚山先輩は声が聞こえてきた方を向き、拳を下して、コーナー・ポストの処まで歩いて行った。

「せっ、先輩、練習中っすよっ!まったく。なんだ?もう学校上がりかよ」

「お帰り、コーチの娘さん、そちらはご学友かな?」

 先輩は物珍しそうに、みのりの隣の来客を見ていた。俺は先輩の声につられて後輩の隣に立っている人を見た・・・。『めっちゃっ、可愛い・・・、しかも外人か?』

 みのりは聖稜高校卒業後そのまま、聖稜大学に進級していた。今は夏休み中で部活か、サークルか、何かの活動で大学に行っていた。

 後輩の隣に立っている女の子は何かをみのりに耳打ちしていた。聴こえないって程じゃない。日本語じゃないのは当たり前だけど、何を言っているかさっぱり判らんは。

「エッちゃん、待っている必要ないよ。さっさと紹介すればいいの」

 みのりは言葉を区切り、区切り発音をしっかりしながら、『エッちゃん』と呼んだ女の子に話しかけていた。

「はっ、はじまりまして、私、です、エレクトラ・ロックフィール。ミノォーリ、私、呼びます、エッちゃん。イツ、マイ・ニック・ネーム」

 それから、その子は日本語と英語が混ざった喋りで自己紹介を練習場にいる俺達へしてくれた。高校程度までの英単語ならなんとか分かったけど、判らない事の方が多かった。フランス系アメリカ人の様で、大学の交換留学で九月からのみのり達と授業を受ける事をみのりの通訳で理解する。彼女の趣味はあれだな、最近海外ではかなり流行りのあれ。

 で、エレクトラがここへ来た理由はみのりと日本語の勉強をする事と今後、国際試合も多くなるだろう俺や楚山先輩に彼女、エレクトラが英語の先生になるって事らしい。

「やだよ、面倒な・・・、そんなもん喋れなくても闘えるって」

「そうか?私は賛成だけど、いいんじゃないか?」

「プリーズ・ヘルプ・ミー・ラぁーん・ジャパニーズ・オーラル・アンド・エヴリデー・カンヴァセッション」

 俺の頭の中は白紙になっていた。先輩は少なからず意味を理解しているようだし、悔しい事にみのりは完全に理解しているようだった。まあ、みのりは高校の時から英語が得意で英語討論会とかも積極的に参加していた。その分、理系は駄目だったようだけど。

 俺にとって英語なんてどうでもよかったけど、教えてくれるのがエレクトラって可愛い子なら習ってもいいかなんて思いつつ、

「先輩、だべるのは終わりにして、続きをしましょうよ」

 そう声に出して楚山先輩に呼びかけ、リング真ん中に戻ると僕は構えを取っていた。

 それから、間の一分の休憩をちゃんと入れて六ラウンド分のスパーリングを終わらせた。リングから降りて頭に冷えた氷水をたらし僕は熱を拡散させる。

「将臣先輩、今日のトレーニングはもう終わりなんでしょう?早速勉強始めましょっ」

「少しは休ませろって」

「先輩には休んでいる時間はないでしょうよ。あっ、楚山さんはどうしますか?」

「私はこれから用事が入っているので無理ですね。それじゃ結城君、しっかり勉強しろな」

 楚山先輩は濡れタオルでさっと全身を拭うとランシャツ、スラックス姿でサッサと練習場を出て行ってしまった。妹や翠の三人でいたころは特に意識した事ないけど、後輩のみのりとその友達、エレクトラ。僕は場の雰囲気がとても気不味かったから、

「ああ、俺、シャワー浴びる位はさせてくれよ・・・」と返答を待たないでシャワー室へ駆けこんでいた。


 2007年8月5日、日曜日

 今日は二つ月に一度の練習休み。僕は休日でも朝起きる時間は変わらなかった。そして・・・、僕は自室から出るとその向かいの部屋のドアをノックして、

「や・よ・いぃ~~~、あさめしぃ~・・・、・・・、・・・、何俺莫迦やってんだろう、居ねぇのによ・・・」

 返事なんて戻ってくるはずなかった。僕は自分のした態度に嘲りの笑みを浮かべ、一階へ続く階段へ向かった。

 台所へ向かうけど、食べ物は林檎とバナナだけしかない。後は飲み物だけ、さびしい朝食を摂ろうと、キッチンに入って僕は一瞬思考が停止したのち、現実逃避の為、明後日の方角を見た。まるで、当たり前かの様に洋食卓の椅子に座り、視線向こうのテレビでアニメを眺めるエレクトラとガスレンジ前でフライパン片手に鼻歌交じりで何かを作っているみのりが居た。

「何やってんだ、お前ら?っていうか、鍵掛かってるんだぞ?アルソック契約だぞ」

「あっ、おはようございます、将臣先輩っ!」

「グッモぉーニン、まっさおみぃ~」と全く罪悪感のない笑顔で朝の挨拶をくれる後輩と僕の名前を変な発音で呼ぶ留学生。

「じゃなくてよ・・・、・・・、まあ、おはよう、みのりとロックフィール」

「ノン、ノン、エレクトラです。ロックフィール言うならぁ、ミス・ロックフィール正しいです」

「はいはい、さようですか、でもここ日本な・・・」

 僕の返答のすぐ後にみのりのフライパンを動かしている手が止まった。ちょうど準備が終わったようだった。三人分の朝食が女の子二人によって運ばれてきた。後輩はどうやってカギが閉まっている僕の家に上がれたのか種を明かしてくれた。翠ん所の親父さんが鍵を貸してくれたんだとよ。何かあった時の為に家と翠ンチの鍵をお互いに預けていたんだ。

「ふぅ~~~、で一体朝から俺に何の用だ」と大きなボールからエレクトラが小分けして盛りつけてくれたサラダをもしゃもしゃ口に突っ込みながら、二人となしに聞いていた。

「エッちゃんが海行きたいんだって」

「イヤッ、アイ・ウォンナ・ヴィジット・シー・サイド」

「やなこった。なんで折角の休みなのに表に出なきゃあかん」

「えぇええっ、せっかく、可愛い後輩二人が誘ってるのに、ひどいなぁ~~」

「マッサオミィ~、ユゥ~・ハヴ・トゥー・ゴォ~、ウィズ・アス」

「ロックフィールさんよ、頼むなら日本語で言えよ。ここにほんな。イン・ローマ・ドゥー・アズ・ア・ローマンズ・ドゥーだっけ、郷に入れば郷に従えって?」

「はいっ、マッサオミイ~、ワタシ行きたいです、うみに。お願いします、連れて行ってくださいましぃ」

 変に二人に抵抗しても、騒がれるだけだっと思って半分呆れ顔で僕は承諾した。

「じゃあ、支度してくるから、ちょっくまってろよ。ああ、洗いものは俺がやっておくからそのままでいいぜ」

 言って洗面所へ歯を磨きに行った。支度を終えてからダイニングで待っている二人の処へ戻ると食器は全部洗われていた。

「いいって言ったのによ、まあ、ありがとうよ」と言って僕は玄関へ向かった。

 僕達は電車で横浜に向かう。車中で僕はいつものように耳にイヤー・フォン、新型高音画質携帯音楽再生機のiPot(interactive Personal on-demand transcriptions)を操作し始めた。

「何でいつも、そうなんですか?お話しましょうよ」

「私、学びたいです、日本語をもっと」

 そう言ってくる二人へつい、何時もの音楽を聴くときに邪魔されるときの仕草癖でにらんでしまっていた。不満そうに下唇をかむ、後輩と、なぜ、僕がそんな表情を作ったか知らない留学生は目を丸くして、きょとんとしていた。

「あっ、わっ、ああ、わりい、くせなんだよ、みのり、怒っちゃいないからそんなかおするな、ロックフィールも」

 項を掻いて、申し訳なさそうな顔を二人に見せてから、携帯再生機をポケットにしまい込んだ。それからは電車の中で横浜に付いたらどこの海岸まで行こうかと話し合い、帰りにエレクトラの為に鎌倉観光をしようって事になって江の島の海水浴場の片瀬海岸西に向かう事になった。

 TCXで池袋まで出て、湘南新宿ライン快速、小田急江ノ島線の乗り換え二回。目的が決まるとそれ以降はエレクトラの興味がある事を題材に彼女へ日本語を教える事となった。彼女の興味は漫画やアニメ。僕も嫌いじゃないけど、高校を卒業してからずっとボクシングの事ばかりしか頭になかったから知識が古く、彼女に返答できない事が多い。そのてんみのりは情報収集の一環でその手の知識もなんのその。

「けっ、オタクどもめ・・・」

「それは私にとって褒め言葉ですよぉ」

「ユゥ~、アー、プライジング・みィ~、アァ~ンチュゥ!(You are praising me, aren’t you!)」

「ほめてなんかねぇ~よっ・・・」

 あほらしくなった僕は窓辺に腕を乗せ二人から視線を逸らす様に外を眺めた。もう直ぐで目的地だ。十時五十分と七。十一時前には浜辺に足を踏み入れる。そして、僕は手を庇にして空を見上げた。

 僕は晴れ男、僕が外出するときに雨はない。さっさと、木陰に避難しろとばかりに灼熱の太陽の光。トレーニングに集中しているときは気にならないけど、これは酷いや。この暑さの中、人の多さ。みんな海好きなんだな。僕も嫌いじゃないけど、でも・・・、

「あぢぃ~~~」と舌を出しだらける僕を笑いながら更衣室へ向かう二人。

「適当に場所探してるから、目印はこのパラソルな」

 来るときに買ってきた大きなパラソル。絵柄はあのオタクども目・・・。来た時間が遅かったためにいい処はほとんど取られていた。でも、ほとんどが五、六人以上の団体。僕らのように三人程度がとれる場所は点々と穴のように開いていた。あんまり、遠すぎるとあいつら探せないだろうし、あそこにしようっと。

 ビーチ・シートを敷いて四隅の穴にプラ製の輪っか付き杭を打ち込んだ。足漕ぎ空気入れを取り出し、大きな浮き輪とロングサイズ・クッションをシャコシャコと膨らませる。膨らませたクッションに寝そべり、あの人から貰ったOAKLEY、Pro・M‐Frame。今は形見になってしまった貴斗さんのサングラスを掛けて、空を眺めた。

 断わっておくけど、別にカッコつけるために掛けた訳じゃないからな。

 寝っ転がってから十分過ぎくらいして、やっとみのりとエレクトラが僕の処へやってきた。

「へっへぇ~、将臣先輩、どうですかぁ~~~、私のこれ、似合っています?」と口で聞いてくる後輩に対して、留学生はさも自分の姿が当たり前だという風に言葉にしないで堂々とした態度で彼女の隣に立っていた。

 二人とも翠や弥生と違って女の子としての質感を存分に曝け出していた。目の保養にはなるけど、ただそれだけ、僕の心が動く事はない。でも、保養なんで、サングラスを外して、楽しむように、

「いいんじゃねぇ?二人とも」とお世辞を言った。

「なんか、先輩目がいやらしいですよ」

「まっさおみぃ~、アイズが下品でっすぅ」

「当たり前だ、今俺、そういう風に眺めてんだから・・・」

 みのりは僕の言葉に楽しむ様な笑顔で、両手で胸元を隠して、背を向ける愛らしい姿を取り、エレクトラは海へ入ろうと僕の手を取った。

 泳げない二人と浮輪で十分遊び、回りの連中が帰り支度を始めたころ、僕らも切り上げることにした。

 帰りに鎌倉観光そして、最後に武器屋・山海堂って処に立ち寄る僕の予想通り、エレクトラはかなり喜んでくれた。実はみのりもな。


 一日だけ、休んだ翌日から、また、次の試合に向けての練習を再開した。練習最後の締めのスパーリングを始めたころに大抵、みのりとエレクトラが大学から戻ってきて、楚山先輩と他、俺達の練習を見学していた。終わった後はエレクトラと日本語と英語の勉強を教え合うそんな日々が続く。


「よっしゃぁぁっ!初めて、せんぱいにいっぽんとったぜっ!」

「流石、期待の新人は違うな、結城っ!タイトル取ったばかりで、調子づいている私にスパーリングといえど一杯食わされるとは」

 楚山先輩の体力回復の速さには驚いた。アッパーを顎に決めて一、二分前は立ち上がる事も出来なかったのに今は笑顔で僕にそんな言葉を掛けてくれた。

「あさっての、李選手との試合には好い景気づけですね」とオーナーの慧さんは僕らに近づきタオルを出してくれた。

 リングの向こうではなぜか、エレクトラが目を輝かせていた。


 それから、また、時間が流れ、僕は二〇〇七年の11月、韓国戦で1Rその後、二〇〇八年二月に赤城ジムの胴元友則(どうもと・とものり)も1Rで、次回、日本ウェルター級タイトルマッチを掛けて再び、子金ジムの曲山治起と対戦し3Rで勝利をおさめた。どれもKOだけど、いつもながら、曲山との戦いは辛かった。よく勝てたと思うよ。

 曲山治起に勝った事で現在、日本ウェルター級タイトル保持者、サカヱ・ジムの東條麗(トウジョウ・レイ)との対戦権を得た。日程は十月二七日、月曜日だ。試合まで後一月と二週。


 2008年8月30日、土曜日

 ああ、そういえば、エレクトラと知り合ってもう一年になるのか・・・、彼女の日本語の上達、適応性は高かった。僕の親友、霧生洋介によると大抵どの言語でもしゃべるのはさほど難しくないらしいよ。だけど、日本語の文法は歴史とともに変化を繰り返しているからそのすべてを覚えるのは難しいらしい。現代語だって、不定形極まりないって不満を漏らしていたな。でも、そんな不定形な文法もエレクトラはみのりや僕とのやり取りでかなり上達しているみたいだった。

 一年という周期。その間で進歩もする人もいるし、その逆も、停滞しっぱなしの人だっている・・・、果たして僕はどの属性なんだろ・・・。

「マサオミ、無理しすぎはヨクナイデス。インターヴァル大事です」

 エレクトラはそう言ってパンチボールをもう二時間以上殴っている僕へ歩み寄ってきて、飲み物とタオルを差し出してくれた。

「エッちゃん、それわたしのしごとっ!将臣先輩にべたべたしないでくださいっ!」

「べたべた?意味分かりません、みのりん。スティッキーですか?」

 エレクトラの奴、みのりの言った意味を判っているくせに、舌出しておどけていた。

「もぉっ、先輩少しどころか、凄く遠慮してください」

「なに、おこってんだよ、お前?ああ、そうか、きょうはあれの日か、わりぃ、きづかなかったよ」

「晴れの日?」とエレクトラは僕が何を指しているか本当に判らなかったようできょとんとした表情で悩む表情を作る。

「生理、えぇぇえとぉ、フィジオロジカル・フェノメナン」と思いだした単語を口にしながら、判った時によくやる指を上げる仕草をした。

「ちっ、ちがいますっ。男の人ってなんでそういう単語ばっかりすぐ覚えるんですか。先輩、次の試合絶対勝たなきゃならないんでしょ、休憩取っている暇ないです」

 僕の回答は間違いで余計にみのりを怒らせて、彼女は怒った表情で僕の背中を押しながら、リングの方へ追いやられた。遠ざかるエレクトラはやれやれという仕草を作って鼻で笑っていた。

 リングに上がるとそこには楚山先輩とは別の僕より一階級下でスーパーライト級日本タイトル六回目防衛中の縫殿俊樹(ぬいどの・としき)先輩がスパーリングの準備をしていた。

「あんまり、オーナーの娘さんをいじめるなって、お前に気があんの判ってんだろう?まったく、かわいそうに・・・、そんなみのりちゃんの為に、僕がいっちょもんでやるか?結城」

 先輩はヘッド・ギアをかぶった頭を左右に数回振って、グローブを嵌めた両拳をぱしんっ、パシンッ、と景気のいい音を立て力強く叩きつけていた。僕もヘッド・ギアを被り、クローブを締め直す。

 縫殿先輩とはほとんど体重が変わらなくというよりも、僕の階級とは数グラムしか差がない。身長も三センチ差。練習相手では楚山先輩よりも、相性が良かった。でも、やっぱり経験の差が大きく、縫殿先輩にはまだ一度も勝てていない。それから、十ラウンドが経過した・・・。

 僕はマットに寝っ転がり、天井の蛍光灯をずっと拝めていた。

「だらしねぇなあぁ、そんで次の試合で日本タイトル狙おうとでも思ってんのか、やめとけ、やめとけ」

 先輩は厭味ではなく、爽快な笑みでリング・ロープに体を預けながら僕へ声を掛けてくれていた。惨敗です・・・、全く強い。見た目のヒョロヒョロはフェイクだ。背中にファスナーが在って、それを開くとなかから、マッチョな、先輩が出てくるんじゃないかと思えるほど一撃、一撃の打ち込みが強かった。

 まだ起き上がらない僕の処へみのりがバケツを持って歩いてくるとそれを僕の顔へぶっかけた。

「うわっつ、つめてぇなぁ、なにすんだよ?俺、気絶してねぇだろうよ」

「いえいえ、ほてった体を冷やしてあげようと思ったんです」

「何が、そんなに不満なんだ、お前?」

「知りません・・・」とみのりは口をとがらせ答えると、そのまま行ってしまった。

「きげんとってやれな、結城」

 縫殿先輩は言って、リングから外に出ると、

「エレクトラちゃぁ~~~ん、そこのタオル取ってくれますか」と判り易く、はっきりとした発音で彼女に声を掛けていた。

 先輩達と一緒に慧さんやその奥さん、みのり、エレクトラ大勢で夕食を預かった。僕が帰るまでずっと不機嫌なままだった後輩。結局その意味を理解できず、僕は帰路に就いた。で、翌日の僕等はまた至って普通に一日を過ごす。


 一日の始まり、朝起きて、もう、当たり前のように朝食時にみのりとエレクトラが居て、一緒にそれを摂ると彼女達は大学へ行き、僕は鍛錬を始める。大抵、二時頃に翠達の見舞いに訪れていた。その後は夕方頃から三慧ジムで先輩達と取っ組み合い始めた頃、大学に通う二人は練習場に現れ、その終わりまで、僕等を眺めていて、それからエレクトラによる一時間の英会話教室と三十分の日本語雑談。僕は強制的に参加させられ、先輩達は先輩達の気分次第だった。

 慧さんの威光で・・・、意向で僕の練習休暇が月一回から週一にされた。だが、のんびり休めたためしがない。人の休暇を邪魔する後輩と留学生が居るからだよ。


 2008年10月19日、日曜日

 今日は翠達の見舞いに親友の洋介が一緒だった。僕が誰の見舞いに行っているのか興味を持っているエレクトラを巻くのがいつも大変だった。ほとんどの場合、みのりが何とかしてくれるけど、どうも最近二人の仲が宜しくない。

 洋介がエレクトラの興味を持ちそうな話を出して、今日限定何処ドコで、何やっている。そんな話題で餌をまき、彼女をそちらへ仕向けてから、僕等は病院に向かっていた。親友のやり方、次回参考にしようと思ったけど、無駄な知識をため込んでいる暇がなさそうなので断念だな、こりゃっ・・・。

 例のごとく、僕よりも先に響が病室へ訪れていた。別に会う約束をしていた訳じゃない。そいつは翠側じゃなくて、弥生の方の外側に立っていた。

「あっ、将臣さん、こんにちは、洋介さんも」

「なんだ、来ていたのか・・・、ごくろうなことだな・・・」

「よっ、有名人、暇じゃないんだろう」

「あっちこっち、忙しいのが嫌だから、両親から逃げてきました・・・、あっ、そうだ、もう来週ですね、日本タイトルマッチ。この前、お話した将臣さんの登場メイン・テーマできましたよ。二十七日の試合、僕も観戦に行きますから、生演奏で聞かせましょう」

「おおおぉっ、やっとできたのか?で、曲名は」

「試合の時まで楽しみに待っていてください。お代は将臣さんの勝利です。いいですね?」

「いいなぁ、俺も自分のメイン・テーマの作ってもらいたいですね」

「洋介、何のテーマ曲だよ、お前の場合?」

「決まっているでしょう?目指せ、ノーベル・プライズ・フルコンプ。または目指せ、味の探求世界の珍味ですかね?ああ、昔あった映画のタイトルをもじって2008年俺の旅ってのもいいなっ!飽くなき欲望、知的探索も捨てがたい」

「こんな奴が東工大三類工学部の主席とはとても思えないぜ」

「まあ、まあ、よく言葉にします天才と馬鹿は紙一重なのではと思いますよ」

 響は悪意のない笑みを漏らしながら俺の親友にそんな暴言を吐くけど、洋介は気にする様子もないし、僕の親友をバカにしている訳でもないから、僕が起こる必要もない。初めて、あった頃は藤宮響、詩織さんのこの弟とはそりが合わないんじゃないかと思っていたけど、そうでもなかった。貴斗さんの事を除けば、響は同年代の良き友人になっていた。

「それじゃ、僕はもう帰ります。ずっと逃げ回っている訳にも行きませんから」

 前組をしていた腕を解くと、別れの挨拶をする風に響は軽く腕を僕達にあげた。病室を出て行く前に彼は妹弥生に方へ視線だけを向けた。その瞳の色は何故か、悲しそうだったような気がする・・・。

「はぁ、弥生ちゃん、いつ見ても可愛いよな・・・、俺にくれっ!将臣兄さん」

「きしょくわりぃ~、ちかよんな、クソ洋介っ」

「まあ、冗談はさておき、ああ、弥生ちゃんがほしいのは冗談じゃないからな・・・、まあ、まあ、拳を振り上げるなよ、我が朋よ。もう三年も過ぎたな、涼崎もお前の妹も眠ったままで・・・、将臣、本当にお前大丈夫なのか?精神的にだぞ。もうそろそろ、別の道を選んでもいいんじゃないかと、親友として提言するがね」

「くっだらねぇ~~~、事言ってんじゃねぇよ。知っているだろう、洋介、俺、一途で頑固なんだ」

「そして、皆が気がつかないほど実は繊細、グラス・ハート。何がお前をそこまで追い詰める」

「べっ、別に追い詰められちゃいねえよ・・・・・・・・・・・・」

 伊達に僕の親友を名乗っていない洋介は心を見透かすような目で、僕に話しかけていた。その眼を見て言葉に詰まるけど、

「だから、だいじょうぶだっつぅ~~~のっ!俺は独りじゃねぇんだよ。親友のお前も居るし、響だって、翠の両親も、みのりん所、ジムの先輩だって居るんだ。どんなにつらくても俺一人だけじゃなんだから、やってやるさ。こいつらが目を覚ますまでは」

「ああ、わかった。今しばらくはこのままでいよう・・・。だが、切の好い処で琴坂君の気持ちにもこたえてやれ・・・、お前をすいているのは別に後輩だけじゃないようだがな、ふっ。まあ、安心しろ、お前が後輩と一緒になるなら俺が涼崎と弥生ちゃんの面倒は見てやる」

「だまれ、この脳内エロス」

 鼻で笑い、ずれかけた眼鏡を直す洋介の胸を裏拳で軽く僕は小突いた。


 Round Six 栄光へのファースト・ステップ

2008年10月27日、月曜日


 東京の後楽園ホールボクシング日本ウェルター級タイトルマッチ特設会場、観客席は満員。完全予約制の入場券販売の為、それを買いそびれたファンの為に運営側は外に大型液晶を設置して、入れなくても来てしまった観客の為に試合中継を行う事にした。

「試合開始は午後五時二十五分、残すところあと十分となりました。見てください、この会場にお越しになられた観客の数、そして、この熱気。まるで世界王座さながらの雰囲気です・・・」

 実況がその言葉の後、解説者に話を振り、試合が始まるまでの場継ぎをした。

 選手入場の時間になり、控室から出て廊下を歩く将臣。その廊下の両側には彼のファンや関係者からの花台や花束、花輪が並ぶ。その中で、とりわけ大きな花輪。差出人名儀はない。ただ、必勝という文字だけが大きく花輪の中に置かれていた。

 いつも、誰からだろうと疑問に思っていた彼。今も、その思いを抱きつつ、ホールへと続く扉の向こうへ足を踏み入れた。

 登場と同時にスポットライトが将臣に向けられ、立ち止った。彼以外にも向けられる。

 実況者が将臣の扉を開ける少し前から、

「若き勇者、結城将臣選手、なんと彼は今、音楽界を席巻するイケ面ヴァイオリニストの藤宮響と面識があり、今日は将臣選手の為に作曲した登場曲をから自身で演奏していただける事になりました、さあ、今日の日本ウェルター級タイトルマッチ挑戦者結城将臣の登場ですっ!お聞きくださいブレイヴ・アップ・スピリッツ!」

 僕が会場のリングへと続く花道の第一歩を踏み始めるのと同じくらいに響がヴァイオリンを弾きは閉めた。一歩一歩前に出す足に力を込めて進む。

 徐々に近づくリング、前進するたびに響が聴かせてくれる音楽で僕の闘士がいつもより何倍も湧きあがっていくように思えた。音楽の持つ意味の神髄を知ったような気分で、リングへ駆けのぼり、響の居る方角を向いて高々と拳を上げて、感謝の意を示した。

 弾き終えたそいつも、ヴァイオリンを肩に乗せたまま、弓を持つ腕を上にあげ答えてくれた。

『これなら、勝てる・・・、いや、絶対勝つんだ!俺を応援してくれる皆の為に』

 観客席前列に居る親友の洋介とその学友。エレクトラと縫殿先輩。今日、セコンドに立つのは楚山先輩とみのり。慧さんはプロモーター席からこちらを見ていた。最後に僕は僕側にいる観客をざっとみて、日本タイトルチャンプの方へ力強く振り向いた。

 レフリーが僕等に近づけと手で合図を送る。僕等はそれに従い決められた距離まで寄ると両拳を上げた。

「ファィットッ!」と試合開始の鐘の音と同時にレフリーの声が僕等に投げかけられた。



 Round Seven 終わりの見えない勝利

 二〇〇九年八月十八日の木曜日。翠達の病室に日本ウェルター級タイトル三度目防衛戦の実況が流れていた。Netbookと呼ばれるシャープ製のメビウスと呼ばれる機種のPCを彼女達のベッドの間に置かれているキャスター付き収納台の上に乗せていた。

 それを二人のベッドの真ん中にパイプ椅子を置いて観戦するのは藤原翔子。弥生側の壁に背を預け、胸元で腕を組んだ状態で、眺めるのは藤宮響。

 彼の位置からの距離、Netbookの画面の大きさはやや小さく感じる。だが、響には音声さえ聞こえれば問題なかった。

 対戦相手はブラジル国内タイトルを持つビリー・マーチン(Billy=Martin)。

 去年の十月に行われた防衛連勝21の実力者だった東條麗との戦い、激闘の末六ラウンドKOで日本ウェルター級タイトルを手に入れた。結城将臣は今年に入ってから二月に陽光アマチの社刹那(やしろ・せつな)、五月にヨネサワ・ジムの後田雄二(あとだ・ゆうじ)に3R、6R、どちらもKOで防衛を成功させていた。

 試合開始のゴングの甲高い音が静かに四人の居る病室に広がると同時に腕組みしながら持っていたヴァイオリンを肩に乗せ、弓で弦を撫でる。曲は将臣の為のあの曲。

 曲の長さは四分五十一秒。その曲が引き終わる前に決着は見えず、第二ラウンドの中盤を迎えていた。一度下した腕をまた上げて、別の曲を弾き始める響。未完の曲で何節続くかもはっきりとしない曲を奏で始める。題名は『Endless After Winner』だった。

 響は将臣が何故、ボクシングで勝ち続ける事に拘るのかその理由を知っていた。響は涼崎春香とも翠も知っていた。春香の方は面識もあったし、彼女には顔も覚えてもらっている。妹の方、翠。彼女は度々、詩織に会いに藤宮の家に訪れ、何度か顔を合しているも、翠にその記憶はほとんど残っていない。合わせた事があるといえど、数秒程度、覚えてもらえるわけがなかった。

 春香が今の翠達の状態に置かれたときにその妹が、今の将臣と似たような事を姉、詩織と翠の会話の中で耳にした事があった。

 誰も将臣が勝ち続けるからと言って弥生達が目覚めるかどうか、先の事など判るはずもなかった。響にとって涼崎姉の目覚めの出来事は偶然、涼崎妹の頑張りで、そうなったなんて想像はできなかった。だから、未完の曲Endless After Winnerなる物を作り始めたのかもしれない。

 未完の曲だけに終わりがどこにもなかった。曲調も、その曲の主旨みたいなもの途中で変わり続けた。

「うつてなしかぁあああっ!もう、将臣選手後がないっ!体力的にもきつそうだっ!最多連勝にはまだ届かないが、ここで連勝すとっぷかぁああっ~!」

「そうですかねぇ・・・、今までの傾向から行きますと、ここからが彼の本領発揮だと思いますが」

「ですが、もう第九ラウンド残すところわずか一分を切りました。兵藤解説のおっしゃる通り、将臣選手何か見せてくれるの?」

 実況の声が詰まりその眼を丸くさせた。ビリーがまだ倒れず、執拗に粘る将臣にうんざりして止めを刺してやろうと渾身のパンチを繰り出した。だが、その場所に将臣の顔はなかった。拍子抜けしたビリーの顔を将臣はまず、上からの右フックがマウス・ピースを吐きそうな表情で下を向いた対戦者を間合いが殆どない位置から垂直に上げる様に左のアッパーが彼の顎を捕えた。

 ビリーの両踵が宙に浮く瞬間を映像で見る藤宮響。将臣に勝利を確信した彼はまだ続く曲を途中でやめて、弦から弓を遠のけヴァイオリンを肩から降ろした。

「とてもいい曲でしたわ、響君」

「詩織姉さん程じゃない」

「謙遜しては駄目ですよ。自信をお持ちになってください」

「自意識過剰になりたくなんです。僕は僕の出来る事をする。回りの評価なんてどうでもいい。聞いてくれる人が聴いてよかったって思えるだけで十分。でも、翔子お姉さんに褒められるのは悪い気はしないよ。同じ音楽を奏でられる人ですからね」

「響君も大分ご成長なされましたね、フフっ」

 彼を小さいころから知る彼女。彼女のその含みのある笑みに分が悪そうに苦い顔を作る響だった。

「一度でいいから・・・、・・・、・・・、龍一さんのピアノ伴奏と一緒に何か曲を弾きたかった・・・」

 響はその言葉を漏らしながら楽器を箱にしまう。

「あら、わたくしとはそのように思ってくださりませんの?」

「翔子お姉さんとは音色が、曲色が違うから、ちょっと無理かな?それじゃ、将臣さんがここへ来ちゃう前に僕は退散します」

 響はそそくさとメビウスもしまい込むと翔子から逃げる様に弥生達の病室から退席した。ちょっと不満そうな表情と言葉を漏らすと、二人の少女?に話しかけ始めた。

 ヴァイオリニストが去った一時間後に結城将臣を乗せた霧生洋介のバイクが済世会病院へ到着したのは午後七時四十二分の頃であった・・・。


 Round Eight 闘う理由

2009年11月6日、金曜日

「なあ、ロックふぉ・・・、ロックフィールさんよ、みのりの前でフィジカル・コンタクトやめろってぇ」

 聖稜大学に交換留学期間に限定はないみたいで、エレクトラ・ロックフィールは院生に進んでいた。で、みのりというと途中で国際文芸から国際経済へ進路を変更して、マスター・オブ何とかを得るためにその院生に進んでいるみたいだった。

 まあ、そんなことはどうでもいいけど、日本語も大分上手になって読み書きが当たり前になったエレクトラ。そういう事はとても喜ばしいのだが、彼女は俺の何処を気に入ってくれたのか知らないけど、友達以上恋人未満の様な感じで接してくる。彼女は自分の感情に忠実でそれを隠したり、仄めかしたり、無理に止めようとしたりすることもない。赴くままだった。

 先輩達からあれだけ言われれば、女の子の気持ちに悟しくない俺でもみのりが好意を持っている事を意識しない訳にはいかなかった。

「まさおみぃ~、何を恥ずかしがっているのでしょう?」

「てれちゃねぇよっ!」

「こらっ、エレレェ。先輩大事な試合控えているんだから邪魔しちゃだめって言ったでしょうっ!」

「わたしぃ、わっかりませぇえ~~ん、どうしてぇ、みのりん、おこったですか?」

 エレクトラは今じゃ流暢に日本語話すのが当たり前なのにみのりに対して日本語始めました風の口調で応対していた。

 二人が喧嘩する事はないけど、見るに痛い光景だ。闘う意気が萎える。

「もてますねぇ、結城君うらやましいですよ」

「いいねぇ、両手に華か?いや違うな、可愛妹さんと元彼ノ、ハーレムか結城よ。いやぁ、さすがイケ面ボクサーは俺等、タイトルあるけどよその分顔面もボコボコとは格が違うな、無敗の王者さん」

 楚山先輩と縫殿先輩はスパーリングを止めて俺らの方のロープに近づくとそれに体を乗せ本当に嫌味のない軽い冗談のノリで声を投げてきた。

「ああ、もぉ、状況をややこしくするような事を云わないでください。それに翠を勝手に元彼ノにもしないでくださいよ」

「モトカノ?ミドリ?だれですか、マサオミ」

「あぁ?俺の大好きな飲み物の緑茶、グリーン・ティーとジャパニーズ・トラディッショナル・スイーツの最中の事だよ」

「リョクチャ、モナカにとってもあいます。私も好きです、はい」

 なんとか話を逸らしたが、事実を隠した事にみのりが呆れは表情を作っていた。それから俺は先輩どもに振りかえり、

「楚山先輩、縫殿先輩、六日後の東洋太平洋ウェルター級王座決定戦の景気づけとして、ちょっくら揉んでください。俺もこのタイトル取れば先輩たちと同じっすよ」

 俺は嵌め直したグローブで拳をいい音が出るくらいの力で叩き合わせ、リングに向かう。

「おこるなって、結城。まっ、お前が勝つのは俺達にとっても嬉しい事だから、てかげんしねぇぞ。楚山、俺から先やるわ」

 縫殿先輩の言葉に従い、楚山先輩がヘッド・ギアを外しながらロープを擡げ、場外に出た。先輩は気を利かせてくれたのかみのりとエレクトラが奪い合っている俺の頭に被る物を取り上げると、こっちへ投げてくれた。二人に睨まれる先輩は飄々と場を流して、椅子に坐っていた。

 それから六日後、その間、何時も見舞いに行く翠達の様子に変化はなかった。

 2009年11月12日、木曜日、頃六時からの試合前一時間。会場集客許容人数の2倍以上もの観客が今か、今かと試合を待ち望んでいた。俺はその光景に圧倒される事もなく平常心を保つ。新人王決定戦以来、俺の試合を間近で観戦してくれる洋介。日本タイトル防衛の時は見に来てくれなかった響が今日も観客兼俺登場曲を生で弾いてくれるために足を運んでくれていた。

 俺は響の曲に合わせて、堂々と花道を歩み、俺の事を待ってくれている東洋太平洋タイトル保持者の処へ徐々に近づいて行った。その間、

「今日の対戦カードは日本初っ!ニッポン人同士の東洋太平洋王座を掛けた試合。ウェルター級でもっとも世界に近い男、伊佐木基樹三十三歳、方や挑戦者、干支が丁度一回り違う結城将臣選手、弱冠二十一歳、連戦街道まっしぐら全戦無敗のサウスポー。四度目の防衛に成功し、結城選手の連勝に歯止めをかけるか、それとも王座を奪い取り無敗伝説に新たな勝利を加えるか非常に心躍る試合が見られそうです。この試合、どういった展開になるでしょう、解説の窪田さん」

「いやぁ、確かに面白い戦いになるとは思いますが、伊佐木選手は九年目のベテラン、それに比べ結城選手は三年目。経験の差が三倍もあり、いざという時に経験の差は勝利に行方を大きく左右すると思いますが」

「では、田部さんはどのように、お考えでしょうか」

「僕はですね、将臣選手がここまで勝ち上がってこられた力は事実。今まで対戦してきた相手は誰もが兵ばかりの選手でした。彼らに正面切って勝って来たのですから、基樹選手といえども簡単に防衛できるとは思えませんよ。まあですが、何時も通りの展開でしたら初戦の彼の手の内は相手の力量を図る事に専念するでしょうね」

「と、云う処で両者、開始の合図待ちの状態となりました」と実況や解説が俺達の事を語っていた。

 ゴングが鳴る。俺達、拳闘士には解説者達が何を喋っているかなんて聞こえてこない。相手の伊佐木さんは解説の説明通り僕の何倍も試合経験があった。それと同じくらいの動画での試合記録も。俺はその試合動画を見て徹底して伊佐木さんの闘いの研究をした。初期の頃は闘う動きに切れも定型もない。その場で判断しないと動きを捕えられないそんなスタイルだった。でも、歳を重ねる事、ベテランと呼ばれるようになる頃、それはきまった形に自身をはめてしまう事だって六年目、七年目以降の闘い方を見ていれば判る事だった。

 そして、今の伊佐木さんの初手は後手に回り、相手が一発殴る姿勢に入ってからそれよりも鋭い速度の左フックで対戦者の姿勢を崩し、右の二連続ジャブ後のストレート。

 伊佐木さんも僕を研究していないはずがない。だけど、僕は定まった型を持たないアウト・ロー。誰もが初めに仕掛けるのは俺じゃなくて伊佐木さんだと思っていただろう。

 開始早々、俺から見て、伊佐木さんが右手に吹っ飛んでいた。

「おおっ、とこれはなんだぁあああああっ、一体何が起きた。開始十五秒、伊佐木選手リング・マットへたたきつけられたああぁあっぁぁああっ!」

「これは見事な左のサイド・ワインダーですね。完全に基樹選手の視覚を外した場所からの一撃でした」

「レフリーがカウントを上げる・・・、浅かったようです。一秒を数え切らないうちに伊佐木選手立ち上がりました」

「将臣選手、初めてですね、初手を決める戦いをするのは・・・、今日はいつもと同じで解説したら見当違いになりそうな予感です」

 解説達が淡々と語るなか、観客は静まり返っていた。何が起きたか未だに理解できていないようだ。伊佐木さんが再び中央へ戻ってきた頃に観衆が大きな声をあげて、俺の初手に歓喜を示してくれた。

 今日の俺は闘いながら相手を分析しない記録動画だけで十分。再び、ゴングが鳴る。

 同期で今も俺の背中を追ってくる曲山の必殺技、スクリュー・アンカーを利き腕左で放った。彼奴のように綺麗ではないが、威力は抜群。フット・ワークの速い伊佐木選手は上体だけを逸らし、俺のそれを避けつつ、右で応戦してきたけど、既にその時には俺の右も伊佐木さんを打つべく飛び出していた。右拳、グローブ同士で力の鬩ぎ合い。俺も彼も力の斥力で、数歩裏に下がるが倒れる事はなかった。

 その距離を保ったまま俺も伊佐木さんもお互いの出方を見る風な体制になる。俺は視線をタイトル持ちの首筋と足元へ向けていた。

 伊佐木さんの首が微妙に左に傾き、右踵を一瞬上げて、左から踏み込んできた。

 左ジャブ二回、右横フック、左ジャブ一、最後に右上からのフックで後退が来る。俺はその動きに合わせて、右掌でそれを受け止め、右横フックはそのまま左を防いだ右手で叩き落とし、反動で戻した右手でまた襲い来る左ジャブを払い除ける。最後に来る上からのフックは体全体で避けて、バック・ステップで後退する伊佐木さんに合わせる様に俺は踏みだし、右ストレートを放った。後退中の体制変更は難しい。俺のリーチは長い。胸中を捕えたと思った俺の拳は固めた両肘でガードされてけど当たりの間合いが短くなった分力を乗せる事が出来た。

 結果、バック・ステップの間合いよりも大きく飛んだ伊佐木さんはそのままマットに倒れ込む。ダウンするけど、これでカウント十上がるはずはない。俺は攻撃態勢のまま、伊佐木さんが起き上がるのを待った。ちょうどそこで第一ラウンド終了のゴングが鳴る。

 まだ一撃も喰らっていない俺。疲れもない、コーナー・ポストに背を着け、瞑想に入った。

『よし、勝てる』と気合を入れてリング中央へ戻った。

 二ラウンド目に入ると伊佐木さんは攻戦の手数を増やした。第一ラウンドで体の温まった伊佐木さんはエンジン全開で攻撃を放つ。速さも、威力も格が上がっていた。読み切るだけで、反撃できない。予測できても打った後から更に延びる様に加速する東洋王者の腕。数回に一回、その速さについていけなくて撃たれる事があった。でも、まだ、マットに沈まない。沈まってたまるか・・・。第二ラウンドは利き手でない伊佐木さんのストレートを交わしたところで終わった。

 コーナーに戻るとマウス・ピースを外して、みのりから飲み物を貰う。一回、口をゆすいで、それを吐きだし、二、三回喉に通して腕で口を拭ってから歩みだした。

 三ラウンド、俺の体も全力を出していい頃合だった。開始と同時に俺の方から仕掛け、伊佐木さんの体制を崩させてもらってから左サイド・ワインダー。伊佐木さんは体を俺の方に倒してきて、その直撃を避けるようにクリンチ。レフリーが割って入り俺等の間合いを広げてから再開の手を振る。それと同時に俺は左、伊佐木さんの右ストレートがお互いの顔面を捕えた。俺の方が百七十の伊佐木さんよりもわずかに高い分、腕も長かった。俺が当てた重みと伊佐木さんが当てた重みの違い、俺の方が強いのを感じた。それでも、伊佐木さんが倒れない事も理解している。

 殴られた威力を殺す様にお互いに後ろへ大きく飛び退き、倒れないように踏ん張った。それからすぐにもう一打しようと踏み込んだところで第三ラウンド終了。

 第四、第五・・・、第十ラウンドまで似たような攻防で試合が続いた。俺はポイントを計算しながら闘っている訳じゃない。相手もそう、出来るならKOで勝ちたい。そんな事を考えながら戦っている。伊佐木さんは俺よりもずっと年上、十ラウンドの終わりごろ動きに切れがない一瞬があった。だから、次のラウンド、手数で攻めて、体力を削った処で大きな一撃を・・・、そんな事を思案しながらリング中へと歩き出した。

 第十一ラウンド、開始、一分。

『くそっ、ありえねぇっ!』と心の中で悪態を吐く。

 俺と同じように攻めの一点の伊佐木さん。今までのラウンドよりもジャブ、フックのどれもが一撃、一撃の重さが増していた。でも、俺だって負けられない。殴られたら、それよりも強く的確にダメージを与えられる処を殴り返す。殴られた時の口や瞼の流血なんて関係ない。ボクサー殴られてもなんぼだっ!

「うをぉりゃぁぁあああぁぁぁぁあああっ」と叫び、左を上から振り降ろす。

「おおぉっとぉ、これは関西の拳帝、曲山治起の十八番(おはこ)のスクリュー・アンカァ~~~~だっーしかも、さうすぽーでのぉ~~~」

 ここまで来たらもう体力なんて残しておく必要ない。一撃でマットに沈めてやればいいさ、の勢いで殴りつけた。喰らったらまずい、そう感じた伊佐木さんは体を後ろではなく横へずらして躱そうとした。後ろに避けても、曲山の野郎と同じ技のつなぎなら、次の手からは絶対逃れられない。なら、二撃目が出せない間合いで横にずれた後に体を戻す瞬間に反撃にでればとそう判断した様だった。

 しかし、どうも、勝利の女神は俺に微笑みかけてくれたらしい。俺の拳の速度が伊佐木さんの思った速さ以上で落ちていた。リーチの長さもある。まっすぐ出すより振り降ろす方が距離を掴み辛い。タイトル王座の肩甲骨あたりを貫く俺の左。当たると同時に軽快な音を立てて、伊佐木さんは崩れ落ちた。肩に手をやる伊佐木さんの表情に苦しそうな感じはなかった。おっちまったかと思ったのに。立ち上がれない彼にレフリーが近寄り、しゃがみこんでから言葉を掛けていた。何かに答える様に伊佐木さんは顔を横に振る。審判が俺の顔を見てから立ち上がり、力強い歩みで間合いを詰めてきた。

 ぐっと俺の左手首をクローブ越しに掴み上にあげる。

『勝ったんだ、俺・・・』

 レフリーに一言伝え、その腕を降ろしてもらうと、立ち上がらない伊佐木さんの方へ歩み寄って肩を抱き起こした。俺の方を見て鼻で笑うと上げられない方とは逆の右手で俺の腕を掴み上に挙げて爽快な笑みで元王者が祝福してくれた。そんな厚意が無性にうれしくて俺も笑みをこぼす。それから、わっと、観客からの大歓声。

 試合開始前に審判員側へ返上された東洋太平洋ウェルター級王座のチャンピオンベルト。伊佐木さんがリングから出るのと入れ替わるように大会委員長がそれを持って現れた。そのベルトは伊佐木さんの手に戻る事はなく、俺の方へ向けられた。

 両手でしっかり受け取り、王座タイトルの精神的重みとそのベルトの重量の重みを噛み締め、ゆっくりと上に掲げ、観客席に見せつけた。それとほぼ同時に、楚山さんがリング内へ駆けより近づくと俺の股に頭を突っ込み、上半身を上げる。肩車でリング内を一周してくれている間、全面の観客みんなへそのベルトを手に知れた俺を見せつけた。

 会場の熱気も冷めないうちに先輩に肩車されたまま控室前まで来ていた。そこには縫殿先輩が居て、俺が楚山先輩から降ろされると同時に閉っていたそこの扉を開けると背中を押されていた。俺が振りかえったのと同時に先輩達は何かを含んだ笑みを漏らして、扉を閉めていた。

「なっ、なにするんすかっ!先輩!」と閉められる瞬間に言葉を出すがその後の先輩達の反応を見る事は出来なかった。控室内に背を向けたままでいるとその方から声が聞こえる、みのりの声が。

「将臣先輩、太平洋チャンピオンおめでとうございます。先輩なら当然だって思っていました」

 近寄ってくる気配の後輩。俺は背中を向けたままだった。ここへ来る前に慧さんにガウンを掛けてもらっていた。背中とその生地越しに、彼女が俺に体を預けている重みを感じる。この後の展開・・・、予想できない訳じゃない。でも、俺の心は変わらないだろう?そんな風に思いながら、みのりの次の言葉を待った。

「私、先輩の事が好きです。自分の気持ちを抑えたまま、先輩を応援するのは辛いです。エレクトラと仲良くしているときも焼き餅やいちゃっている私が嫌。だから、はっきりさせておきたいんです。好きです、本当に好きです。だから、私とお付き合いしてほしいです」

「それには答えられない」とはっきりと大きな声で、廊下で耳を欹てていると思われる先輩たちにも聞こえる通る声ではっきりと答えていた。

「どうしてですか?このまま勝ち続けて、世界チャンピオンになったからって、翠先輩達が目を覚ますなんて判らないんですよ?意味ないですっ!それに先輩との付き合い長いんですよ、もう、私も・・・」

「意味がない訳ない・・・。その言葉、同じような感じで、一度、翠への告白で、俺がまだ僕って自分を言っている時に使った。そしたら、彼奴、なんて言ったと思う?人を好きになるのに時間は関係ないだ、とよ。一緒に居ようといまいが好きって気持ちは一度決まるとそう簡単に変わらないって事」

 後輩の暴言に俺は腹を立てない。冷静な声をまま返した。

「知ってます。将臣先輩、翠先輩と同じ事をしているインですよね?翠先輩のお姉さんが、今の翠先輩と同じようになった時の?あれは偶然じゃないですか?将臣先輩が同じような事をしたからって、叶う訳ないんですっ!」

「そうやって、否定しなさんなって、みのりも今さっき自分で言っただろう?未来は判らないって。それに俺は翠を真似しているんじゃねぇ・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、俺は俺の尊敬する人、いつかは肩を並べたかった人、その背中を超えたかった人。藤原貴斗さん、その人が守った彼女を守りたくて、続けているんだ。翠が目覚めるまでは」と俺は本音を暴露し始める。

 翠が正式に俺の事を彼氏と認めてくれた頃、どうして、彼女が貴斗さんを兄の存在以上に意識してしまったのかその理由を教えてくれた。記憶喪失で自身の精神を労らなきゃいけないはずで、既に詩織さんってとびっきりすげえ彼女も居て、詩織さんを優先させなくちゃいけないはずなのに、翠の辛い時も、悲しい時、不安になる時も、気がふれてしまう時も、いつもあの人は翠のそばに居て彼女の心を支えになって、彼女と一緒に春香さんの目覚めを待ってくれていた。中でもその話の中で一番衝撃を受けたのは翠が目覚めない春香さんに嫌気がさして、殺してしまう寸前を、貴斗さん自身怪我が負う事なんてお構いなしに止めてくれたその話に感銘を受けた。男だって思った。俺が貴斗さんを余計に尊敬してしまう一端になった。真剣な口調でそんな事実を翠は語ってくれたあとにおちゃらけた笑顔で『詩織先輩が男の人だったら、詩織先輩にもほれちゃっていたかもねぇ~~~、なんてぇ』と言って舌を出して笑っていた。

 寡黙で真摯で、紳士な格好よさを持った貴斗さん。あくまでも、翠にはそう映っていた・・・。まあ、おれもそれに異論はない。

 そこまでして翠を支えてくれた貴斗さんに、翠を放り出して、他の女の事、付き合おうなんざ、貴斗さんが余りにも、浮かばれないし、やっぱり、尊敬する人が越えた事がある壁なら、自分がどんなに苦しくても、やっぱり越えてみたいものだ。

「理解できたか、みのり?これが俺の闘う本当の理由」

「藤原・・・、貴斗さんですか?私も一度、お会いしてみたかったです。将臣先輩をそんな風に思わせてしまう人ってどんな方だったのか・・・。許せもしませんけどね、先輩をそんな風に縛りつけちゃう人なんで・・・」

「貴斗さんの事を悪くいう奴は誰だって、ゆるさねぇぜ・・・。まっ、俺の尊敬すべき人の姉はもう教師やめちゃったけど、あの藤原翔子先生だぜ」

 当然、その事を口にするとみのりは目を丸くして、驚いていた。

「藤原先生の弟さんなら何となくそう思っちゃうかもしれませんね」

「だろう?・・・、・・・、・・・、話を戻すけど・・・、翠もちゃんと目を覚ましてくれて、彼奴の気が俺になくて、俺もそう思わなくなっていたら、その頃まで待てるなら考えていてもいいかもな・・・」

 みのりはその言葉で顔を明るくさせるが直ぐに不満げに、

「そういう、期待の持たせ方ってずるいですよねぇ・・・・・・、ふぅ、そうなると私の当面のライバルはエレクトラになるのかな・・・・」

「エレクトラ?それはねぇよ、文化のずれがある分、一緒になると面倒だしな」

「そうかなぁ?日本が好きな海外の人達って日本人以上に日本人ぽっいし」

「そういうのが面倒なんだって、他民族が他民族文化に憧れて、現地人よりも、詳しくなっしまうのは当然の事。日本人にも言える事さ。そうやって様々な文化を取り入れて今の日本があるんだからよ。混沌としている様な気がするけども。話しは全部終わり。間に合わないと思うけど、今から見舞いに行ってくるよ。先輩達そこに立って開けられないようにしているならどいてくれ」

 俺の言葉で動く気配を感じた。

「賭けは俺の勝ちだ。オッズは低いがね」と洋介が鼻で笑いながら、ヘルメットを持って待っていた。

「何の賭けだよ」と何を賭けていたのか予想がついた俺は嘲るように笑う。

「行くんだろう?」

「オウよ」

「将臣の先輩方も莫迦なこと考えてないで、これよりも先に世界タイトル取る事ですね。まあ、俺は俺の親友が先の方に賭けますけど」

「云って呉れるぜ、こいつ」と縫殿先輩は洋介の肩を軽く叩き、控室へ入ってゆく。

「行くぞ、将臣」


 三戸に戻って病院に辿り着いたのは午後九時を過ぎていた。

「だめだな、こりゃぁ」

「そんなことはない」

 正面入り口まで洋介のバイクに跨ったまま走り入れていた。そこには翔子先生が居て、

「面会三十分だけですよ」

 洋介の手回しがいい事に今更ながら気がついた。

「ありがとよ、親友」

「次も期待しているぜ。それじゃ、俺は戻るとする」

 それから、翔子先生と一緒に翠達の処へ向かい、やっぱり目覚めていない二人へ今日の戦いの結果を直接俺の口から伝えた。

 それから、翔子先生と約束していた。今回タイトル取れたら一つ、我儘云わせてくださいのお願いも通す事に成功。それは春香さんの御墓とその彼氏だった柏木宏之さんって人の墓を貴斗さん達と同じ場所へ、移してほしいという願い。


 Round Nine 狙われたのは?

 俺のボクシング街道は俺自身でも驚くほど快調だった。去年東洋王座を手に入れて、防衛戦を三回。第一回目の防衛、オーストラリアのコリー・アリード(Collie=Allied)を四ラウンド、第二回目の防衛、フィリピンのノリー・グァール(Nolly=Guarl)も四ラウンド、第三度目の防衛戦は再びオーストラリア選手のラトリー・グレイスマン(Ratory=Graceman)を三ラウンドKOで下した。この勢いで世界タイトルに攻め込めば初の世界ウェルター級日本人獲得も夢じゃないと慧オーナーもJBCも考え、その結果、2010年9月27日、俺は本当に世界チャンプになれたんだ・・・、だけど。

 今日の勝利、いち早く、翠達へ伝えたかった。だけど、回りがそうさせてくれず、祝宴会を抜け出せたのは十時過ぎ、毎度の如し親友の洋介にバイクで病院まで送ってもらった。午後十一時を過ぎていた。

 夜間介護の名目で、俺は翠達の病室へ駆け込み、二人の様子を見ながら、

「やったぜっ、翠、弥生。世界チャンプっ!!俺、世界チャンプになったんだぜ。しかも、今まで日本人では取れなかったウェルターっていう階級でだ。凄いだろうっ!」とそんな言葉を吐くも、二人が俺へ応じてくれる事はない。

「くっ、これだけ、頑張っているというのに、まだ、俺の頑張りは足らないって言うのか?どうして、翠も、弥生も、何も言ってくれないんだ・・・。なぜだよっ・・・」

 俺は泣き言を漏らし、悔しくて、悔しくて、俺が出来る事を精一杯やっても二人が笑いかけてくれなくて立っていた姿勢から体を崩し床に膝と手を突いてしまうほど、今回は堪えた。俺はあと何年、続ければいい?あと何勝重ねればいい?俺はお前からお前の本当の気持ちを聞けないと前には進めないんだよ・・・。だから、答えてくれよ・・・。これ以上、この病室に居ると本当に涙を流してしまいそうだった。俺は自分の心に鞭打って力強く立ち上がると、強がりな顔を作って、

「また来るぜ、お前達の為にもう少し頑張ってみるは・・・」

 病室を出て外に出るとそこにはまだ洋介が居た。洋介だけじゃない。

「マサオミ、パーティー、急に抜け出しいけません。ここは病院です。どこか痛いのですか?」

「しいて言えば、心かな・・・」

 ここに親友が居て彼女が居るってことは彼女が中に入らないように話題を作ってくれていたんだろう。

「洋介、何時もわるな」

「そう思うんなら、弥生ちゃんを俺にくれ」

「まだ、言うか、お前は・・・」

「ヤオイちゃん?わっ、私も好きです・・・」

 変な勘違いをしているようだな、エレクトラの奴。まあ、それで話がそれるんなら俺にとってはいいことだった。

「なあ、洋介、もうしばらく俺に付き合えよ」

 俺がどうしてそんな言葉を口にしたのか理解してくれた洋介は、眼鏡のずれを直しながら、ニヒルに笑って頷いてくれた。

「それじゃ、パンドラ・ボックスにでも行こうか・・・、今のお前には必要なもんだろう」

 何かを含んだ言葉を乗せつつ、午前四時まで営業しているショット・バーへ行こうと口にした。

「私もついてきます」

「そうか、じゃぁ、将臣、お前はタクシーで。エレレレレレッは俺と一緒だ」

「やだ、私、マサオミト一緒がいい。ヨォースケェ、ちゃんと名前よんでください」

「そんなこと言うと、連れてかないぜ」

「わかった・・・、マサオミまたあとでね」

 俺は言われた通り、タクシーでPBへ向かって、暫らくそこで世間話をしながら、飲み明かす。外人の割にエレクトラは酒が強くない。三杯目のカクテルで空ろ、虚ろに、四杯目を口に付けた処で眠りに入ってくれた。

 エレクトラの笑っちまう寝言を聞きながら、男二人だけで談笑を続けた。

 午後三時半、ラスト・オーダーも過ぎた頃、エレクトラの飲んでいる間、何度も噴き出してしまいそうな面白い寝言と、洋介との会話のお陰で心の中の痼こりも解れたし、希望を持ち続ける士気も上がった。

「おらぁ、エレクトラ、帰るぞ」

 俺は彼女の両頬を指で引っ張り目を覚まさせた。彼女の頬のさわり心地が良かったのは内緒にしておこう。

「フェレレェ~」と変な起き声を挙げて、ムックリ立ち上がる彼女。眼は半開き、よたよたと玄関へ歩く姿。何かがおかしい・・・、なぜ、靴を手に履いている・・・。

「あれじゃ、さすがに振り落してしまいそうだ。タクシーに乗せて、帰らせよう」

 洋介は言って俺に手を出した。金を出せって事だろう。

「コンだけあれば、足りるだろう?ってかさ、彼奴の家知ってんの?」

「ん?抜かりはないさ」

 俺達がそんな会話をしている間、エレクトラが車は通っていないけど、車道へ飛び出していた。何だろう、嫌な予感がする・・・。そう思った時の俺の体は走り出して、彼女の処へ向かっていた。案の定というか、何と云うか、乗用車のヘッド・ライトとも、トラック見たいな大型の物とも違うお供えの団子の様に三つ並んだ光源がエレクトラに伸びていた。彼女は三車線ある通行車線の真ん中あたりに坐っていて、俺には彼女の背中しか見えない。

 俺が道路に出た頃、走行物がなんであるかはっきりするほど、近づいていた。トライ・サイクル。車線上のエレクトラを認識していないのかそれに乗っている奴は遠くに視線を合わせる様に運転しているように思われた。

「えれくとらっ!!!」

 大声で彼女の名前を呼んだ。彼女は猫のように首だけを曲げて、俺の方を向く。一般道の規制速度余裕ぶっこきでスピード出してんじゃねぇよぉ・・・。

『おめぇ、状況判ってんのか、こんにゃろぉ~』と心で彼女へ悪態を吐いて、眼前まで迫っているトライ・サイクルから彼女を助けようと思いっきり横っ跳び。

「うりゃぁああっ、まにあえぇえええっっ!」

 うまく彼女の体を抱きしめ、転がるように中央分離帯まで体を移動させていた。彼女を抱いて、転がる際に足に何かがぶつかった感触があった。それが何に当たったのかは判らないけど、その数秒後、遠くで赤い炎が上に伸びていた。それがいったい何を示すのか俺には関係ながい。自業自得って奴・・・。

 もつれる様に移動してきた俺とエレクトラはちょっと妙な体制になっていた。組み体操の馬の様な格好の俺と、その腕足の間に居る彼女。顔と顔が向かい合って見つめ合っている様な・・、・・・、・・・、・・・、じゃなくて、俺の腹の上、腕を胸に突き立てる姿、お○に坐る様な格好の彼女。にっこり、怪しい笑みを漏らし俺を見ているエレクトラの顔の距離が縮まっている様な気がするのは俺が酔いからさめていないせいじゃない。

「まあぁさぁ~~~、エヘエヘェ、ムニュムニュ」

「やっ、辞めろっ!俺にそんな気はないっ!早まるなっ!」

「まあぁ~~~さぁ~~~はわたしと、いっしょぉ~にっなるですぅ~~」

 やばい、俺と彼女の顔が鼻と鼻の先が触れ合う距離までになっていた。彼女の目が閉じている。彼女の欲求が何なのか判らないはずがない。

『みどり・・・、ごめん・・・』と諦めた時、まるで、動画の巻き戻しの様に彼女の頭が遠のいて行った。エレクトラの頭越しに、鋭い光を放つ双眸、彼女の頭を躊躇いもなく鷲掴みして、引き寄せるのは琴坂みのりだった。その背中には黒いオーラが見える。口はスイカを切った様な半月を作り、その口で笑う。不気味だ・・・。殺気すら感じる。

 頭を掴む、みのりの腕を両手でつかむエレクトラは軽く涙目、叱られた子供の様な顔になっていた。

「勝手に祝勝会抜け出して、将臣先輩といい雰囲気になっているはエレエレさん、これはいったいどの様なご了見でしょうかねぇ」

「うにゃぁうにゃぁあ」と翻訳すらできない言葉で答えるエレクトラなんか無視して、

「おとしまえぇ、ちゃっ切りつけさせていただきます」と任侠物の男の様な声色で彼女を引きずり歩道へ戻ろうとする後輩・・・、鬼だ。鬼が現れたよ・・・。

 移動している最中、どうしてみのりがここへ来たのか聴いても、振り返って、恐ろしい笑みを見せてくれるだけで、言葉を発してくれなかった。

 洋介も俺達の居場所をどうして、みのりが知っていたのか判らない様子だった。

 パンドラ・ボックスの駐車場に後輩の車、MAZDAデミオの姉妹車レミオが警告灯を点滅させ、停車していた。

 みのりは後部座席を開けて、エレクトラをそこへ放り投げると、後輩もまた直ぐに運転席に乗り込んでいた。窓が開き、

「将臣先輩、大きな借り一つですよ・・・」と据わった眼光で云い、車を発進させた。

「女って怖いな、マサオミ」

「ああ・・・、」

 力弱く、洋介に相槌を返し、俺達も帰る事にした。


 Round Ten 闘争の中で見えた閃光

2011年3月30日、水曜日

「本日もやってまいりました東京後楽園ホール特設会場世界ウェルター級タイトル防衛戦。今日で三回目の防衛戦になる結城将臣選手。タイトル外公式戦を含めまして、通算三十二戦・・・、全試合KOでの勝利。負け知らず、若き無敗の拳王と我等が称賛する彼の登場です・・・」

 俺は実況の呼びかけにこたえる様にリングへ続く花道を歩き始めた。それと同時に藤宮響が生で弾いてくれる俺のメイン・テーマのブレイヴ・アップ・スピリッツが場内に広がっていった。

 急がず、遅すぎもしないいつもと同じ歩調、平常心でリングまで進む。その道を歩いている間、会場までの廊下に毎回送られてくる『必勝』と文字だけあって、差出人明記がない大きな花輪の事を思い出した。

 差出人が名無しだから、誰がくれたのか判らないはずだった。でも、どうしてなのか今日だけは俺の勘が告げてくれた。その送り主が誰なのか。

 俺は観客席の視線より、やや上のリング・マットの隅に足を掛け、一番上のローブを掴むとその上をジャンプして通り越した。リングに立ち、自分の陣地へ足を運び、俺側の応援席をちら見して、リング中央へ向き直す。ガウンの肩口を掴み、勢いよく脱ぎ去り、

『親父、見てろよ、今日もこの手に弥生達の為に勝ちを頂くぜ』

 俺が意気込みを入れた頃に俺からタイトルを奪おうとする挑戦者の解説が入って、その相手が花道を通ってこちらへ向かっていた。

 エリック・フェルナンド(Eric=Fernando)、フランスの選手だ。身長、体重は互角、年齢は一つ年上。去年EU王座を手にして、その勢いで俺に挑戦してきた。自分と同じような躍進を歩んできた相手。俺はそのまま順調に今の地位に居る。仮令俺と同じように進んできたからって俺に勝てると思うなよ。俺は負ける訳にはいかない。あいつ等が目を覚ましてくれるまではな。

 俺達は審判の手で示す間合いで身構え、試合開始の合図を待った。

 甲高い音が場内に響く。午後一時半、開始の合図だ。俺はエリックの肩と足元の動きを見ていた。足の動きは打ち出す拳の左右を判定で来て、肩の動きは打撃の種類を判別できた。相手の攻撃手段が判れば、後出しでも、相手より早く当てられる。

 右・・・、ジャブかっ、俺はその初動に合わせて打ち出そうとした。おっと、思っていた以上に早い。打ちに行くのをやめて、次の動作を窺いつつ躱す。それから、ジャブが二回、フックが一、ジャブがまた三回来て、打ち出さない俺の様子を見る様に後退した。

「王者、結城は挑戦者に対して何もしかけない。今日の調子、よくないのでしょうか?」

「彼の戦いは何時も後半戦からでしょう?まだ、第一ラウンドです。調子が悪いという事はないでしょう・・・」

 エリックからもヨーロッパ王者の風格みたいなものを感じた。俺が何もしない事に対して苛立っている様子はない。相手も冷静だった。俺も何かしないと、応援しに来てくれている観客が気を病むだろうから、こちらから攻撃した時のエリックの反応を分析するために手数で攻めることにした。お互いに有効打撃を一回しか出来ない裡に初回が終わった。それから、二、三、四、五ラウンドと続く。このラウンドに来て、彼も俺と同じ、相手の動きを捕えながら攻める様なタイプだった。対戦相手としては非常に厄介だった。

 左に動けば、相手も同じ方向へ動き、打撃に入れば同じように撃ってくる。まるで鏡を相手にしているような感覚にとらわれそうになる事度々。それはエリックにも言える事だろうけど。それなら、勝敗を決めるのは打撃の強さ、それに打たれた時の忍耐力と試合を続けられる体力・・・、そして、最後の最後まで諦めない、折れない心、胆力だ。

 第六ラウンド以降は見ている観客の殆どが驚かずにいられないそんな俺達の攻防。パンチを打つ瞬間、それを交わす速度、避ける方向とその距離、倒れた後の起き上がる速さからか前に戻るまでの時間。全てが奇妙にも同じだった。

 第九ラウンド、クロス・カウンターを喰らって、吹っ飛び口の中を切った俺は流れ出す血を手首で拭うと、俺のパンチで頬を切ったエリックは肩に近い腕の付近でその血を拭っていた。切った場所は別で、拭い方は違うけど、それに掛けた時間と立ち上がり、レフリーの指示する場所まで戻る間隔は一緒だった。

 レフリーに『ファィ』の声で試合再開と同時にお互いの、俺は左で、エリックが右のストレートが俺達の顔面に当たり、鼻血を出しながら倒れた。仰向けに大の字になる俺。意識はあった。だから、直ぐに起き上がる行動に出る。体を起こした時にエリックの顔が俺の視線上にあった。相手もやっぱり、俺と同じように鼻血を出している。

 審判は俺達の流れる鼻血を拭わせるために一度、試合を中断するか、しないか、判断をしている様子だったが、指で続行のサインを出す。俺達はそれに従い、立ち上がり、審判の支持する場所まで戻った。

 再開の合図と一緒に先ほどとは同じにならない様にバック・ステップでエリックの攻撃を避けようと思うと、彼もまた同じように動いていた。そして、そこで九ラウンド終了のゴング鳴った。

 コーナー・ポストに戻ると、

「将臣先輩、大丈夫ですか?頭とか、痛くないですか?」

 みのりはそう言って鼻血で真っ赤になったその下、口周りを拭ってくれた。タオルで鼻を噛んで中にたまる血を吐きだして、後輩に救急鼻血止め薬を鼻の中に塗ってもらう。彼女にそうして貰っている間、今日のセコンドの縫殿先輩が助言をくれるも、助言といえるものじゃない。だって、『同じ行動してくるんなら、打ち勝つしかねえ』だもんよ。まあ、その通りなんだけどさ。

 一分たちラウンド間休憩が終わった。前に出て構え、挑戦者の目を見る。俺と同じように勝ちたいって闘志が瞳に浮かびあがっている様な気がした。手数で勝負よりも、重い一発で決めた方がいいのか?

 レフリーと銅鑼の音が重なり、俺達が動く。打ち込むように見せかけ、途中でそれを止めて横に逃げると、やっぱり、エリックも同じ様な動作をした。それから、お互い、六ラウンドから九ラウンドまで撃ち合い続けていたのに手数が少なくなった。読みはエリックも同じか・・・。

 ファイナルラウンドの十二回戦。もう後がない、引き分けは認められない。それじゃ駄目なんだ。でも、後一分切ってしまった。曲山の十八番、真似したくないけど、威力は今までの対戦相手の中で最悪だったあれなら、エリックといえども、起き上がれないだろう。でも、その隙が出来ない・・・、うぅぅぅ。

 どうするか悩んで、一瞬瞳を閉じてしまった。そして、その時、俺の頭の中がぱぁ~っと閃光を放つように光りが広がった。奇妙な感覚にとらわれた。何事かと思って、試合中にも関わらず、俺は観客席の方へ視線を向けてしまった。そんな俺を挑戦者が見逃すはずがなかった。

 俺が視線を戻した時にはエリックの拳が近づいていた。しかも、

『スクリュー・アンカーかよっ!』と心の中で吐き捨て、

『俺にはそれはつうようしねぇんだよっ!』

 曲山に勝った時の光景がフラッシュ・バックする。振り降ろされたエリックの拳に逆らうように振り上げ、その攻撃を潰し、裏に仰け反る、挑戦者に左のストレート、更に今回はもう一発、右のアッパー、止めに、大きく前に踏み出してもう一回左のストレートを出した。リング・ロープまで吹っ飛んだ彼はそのロープに弾き返され前のめりでマットに沈んだ。レフリーが駆け寄り、挑戦者の様子を見るカウントしようとするが、首を振り、俺の方へ歩み寄ってこようとした。TKOかと誰もが思った。

 でも、エリックの腕がピクリと動き、慌てて、レフリーが駆け寄ってカウント・テンを読み上げた。大きい三発も喰らってまだ立ち上がろうとするのか?俺は歯噛みしつつも、十秒以内で立ち上がった時に直ぐにでもまた攻撃できるように態勢を崩さないままだった。試合時間は、あとどのくらいだ?たつのかよ・・・。

 残り七秒で片足を、その一秒後には両足で立ち、膝に手を置く。その状態ではまだ、カウント続行のままだ。九秒までその姿のまま。残り一秒で、雄叫びをあげて、ファイティング・ポーズをするエリック。レフリーが動き、指定の位置まで来いと合図をして、歩き始めた瞬間、エリックは糸が切れた操り人形のようにマットに沈んだ。

 審判は彼に近づかないで首を横に振る。審査員側を見て何かに頷き、俺の方へ歩み寄ってきてくれた。

「激戦っ、十二ラウンド、最終ラウンドで僅か五秒前に結城将臣選手のTKO勝ちっ!」

 その後も実況が俺の事をたたえてくれる言葉を告げてくれる。後は何が起こったか分からない。その言葉を全部聞いていないうちに意識を失っていたからさ。

 それから、俺が意識を取り戻したのは午後六時を回っていた後楽園ホールの控室だった。先輩がたや、みのり、エレクトラがいる。親友も響も。

 俺はガバッと起き上がり、周囲を見てから、

「洋介、今何時だ?」

「そんなものより、先に知っておくべき事があるだろう?」

「何をだよ?」

 俺のその問いかけに着替えを差し出す親友は、俺に耳打ちする。

「喜べ」とだけ呟いた。

 何に対して、そうすべきなのか理解できなかった。困惑する表情の俺へ、

「だろうな・・・、サッサと着換えろ、行くぞ」

 含み笑いを作る洋介はほかの連中を無視して、着替えが終わった俺の手を引いて外に出た。

「なっ、なんだよ、皆に挨拶してねぇよ」

「そんなことは、どうでもいいだ。今お前に一番必要なのは涼崎達が目を覚ましたって事実だろう?」

 俺はそれを聞いて走り出していた。俺の目覚めを待っていた各種の記者を遠巻きに走り出した俺の背中を見ながら、鼻で笑う洋介も同じ様に着いてきて、

「焦るなよ、お前が走ったって直ぐに三戸には戻れないだろう?」

 それでも、懸命に俺は洋介のバイクが駐車させている処まで走っていた。速攻で後部座席に座り、運転席のその部分を叩き早く捨てくれとせがむ様な動作をするが、

「メット出せないから、とりあえずどけ」

 それを聞いて乗っていたばしょから退くと洋介は急がず後部座席を開けてその中から二つヘルメットを取り出し、一方を俺に渡してくれた。着用して、同時に椅子に座る。

「急ぐからな、振り落されるなよ・・・」

 親友はそう言ってからバイザーを降ろしキーを回してエンジンを掛けると何時もなら暖気をしてから走り出すのにそれを省いて動かしてくれた。

 信号とかはちゃんと停まるんだけど、走り出したら、警察も真っ青なスピードで洋介はバイクを走らせていた。『スピード出しすぎで事故るなよ』と走行中に伝えても聞こえないだろうし、口にしたところで意味はないだろう。

 向かう途中で俺達が事故に遭っちまって仏になったら本末転倒。馳せる気持ちを抑えて、洋介の口にした事を信じて、病院へ到着するのを待った。

 二十三分と何秒か?東京と三戸の双葉台にある病院までの最短記録更新。前回の記録がかすんで見える位だ。

 病院入り口で止まった親友のバイクから俺はヘルメットを脱ぎながら降りて、洋介に何かを伝えようとすると、

「俺の事はいい。早くあいつ等の処へいけよ。・・・、・・・、・・・、・・・・、・・・、・・・もう、お前には会えないかもな・・・」

 洋介はバイザーを降ろしながら何かを俺に伝えていたようだけど、くぐもっていて何を言っているのか判らなかった。聞き返そうにも、洋介は直ぐにバイクを走らせ、俺から遠ざかって行った。

 俺は彼に背を向け、翠達の病室へ駈け出した。病院内を走ったせいで当直の看護・・・、婦・・・、看護士・・・、どっちでもいいやに注意されたけど、今の俺には馬の耳に念仏でしかない。そして、俺は勢いよく、二人のいるはずの病室のドアを二人の名前を呼び掛けながら開けた。

「翠っ!、弥生っ!???」

・、・・、・・・、・・・・、・・・・・、・・・・・・、・・・・・・・、・・・・・・・・

「将臣君、ここは病院だ。大声をあげられては他の患者に迷惑であるぞ」

「すっ、すんません、佐京さん」

「うむ、分かればよろしい。以後、気を付けられたし、良いな、将臣君」

 鋭い視線の八神左京先生に叱られ俺は平謝りしながら、先生の言葉に顔を挙げて、もう一度、この場に居る顔ぶれを確認した。俺の記憶と中々重ならない顔・・・。でも、間違いない俺と弥生の命の源の片割れ・・・、結城将嗣父さん、親父だった。

「ういぃっす。なんだ、親父も来ていたのか・・・?本当に将嗣父さんなのか?翠のご両親、こんち・・・、いや、こんばんわですね」

 大人達に挨拶をしてから、俺の本当の目的、願いが叶った事実を噛み締める様に二人を見るけど・・・、なんともしまりのない顔の二人だよ。

「まったく、いままで、ぐうすか寝ていたくせに、まだ眠り足りない顔しやがって、二人とも」と二人の反応を見る様に昔通の軽愚痴を吐いていた。

「なによっ、デリカシーない言い方。もっと他に言い方あるんじゃないの?」

「みぃ~ちゃん、将臣お兄ちゃんへそんなこと言っても、無駄、無駄」

 二人の返ってきた答えを聞いて、瞳を瞼で覆ってから、余りの嬉しさを隠す様に軽く嘲りの笑いを作っていた。でも、嬉しくて、嬉しすぎて、何を言葉にしていいか全く頭に浮かんでこなかった。二人がさっきの俺の言葉で返してくれたんだから、この現実がウソって事はない。それだけは確信できるけど、翠と弥生に伝えたい気持ちが言葉にならなかった。

 俺が何を言葉にしていいか悩んでいると、いつの間にか親父たちも先生達も出て行ってしまっていた。そういった動きがあったのに気がつかないでずっとそのままでいるとは今の俺は相当間が抜けている。

「何じっとしてんのかなぁ?将臣らしくないですよぉ」

「そうですよ、おにいちゃんらしくない・・・」

 俺よりも先に二人から声を掛けられちまったよ。そんな些細な事が嬉しすぎて、皮肉な言葉で返してしまう俺。

「くぅ、今まで散々心配掛けさせやがって・・・、今日のこんな日に目覚めてくれるなんて、なんて因果だよ、まったく」

「何泣いてんのよ、将臣。全然似合ってないんだから」

「そうだよ、将臣お兄ちゃんが泣いたっておかしなだけだよ」

「けぇっ、本当にお前等ときたら・・・、嬉しいんだから泣かせろよ、少しくらい」

 母さんが死んだときだって泣いた事がなかった。最後に涙を流したのはもう、記憶のあやふやな小学校に上がる前に保育園で飼育していたなんかの動物が死んだ時だったと思う。だけど、今俺は涙を流しているようだ。大泣きとかじゃないけどよ。ボクサー世界チャンプの俺を泣かせるたぁ、ふてぇ二人だ。翠にも弥生にも情けない顔を見せたくなくて、背中を向けて微量なのに直ぐに止まってくれない涙を流し続けた。

 黙り続けるのは辛かったから、今日の事について口にしていた。ただ、春香さんの時、始めのうちは記憶障害とかで時間の認識がどうのって事があったから、俺はそれを気にして、二人に話しかけていたんだけど、ったく、こいつらときたら、俺の気の回しようなんて意味ないとはっきりと言ってくれる。でも、翠や弥生のそういった性格が好きなんだけどよ。

「なんだよ、春香さんの事があったから、気ぃつかったんだけど意味ネジャン。損した」

 思っている事を直ぐに口に出してしまうのは俺の癖。

「お兄ちゃん、分かっていてもそんなこと言っちゃだめですからね」

 俺が妹のそれに『ざけんなよ』と答えを返そうとした時に真剣な表情で翠は俺を呼び掛け続き、何かを言いたげだった。

「将臣」

「うぅん、何だよ、そんな窺うような顔して?」

「あのさぁ、将臣は殆ど毎日お見舞いに来てくれたみたいだけど、その八神さんとかは・・・」

「八神慎治さん・・・、・・・、・・・・」

「ちょっと、何?その歯切れの悪いこもった言い方」

「音信不通なんだよ。八神のおばさんに聞いても佐京さんに聞いても知らないっていうんだ。仲の良さそうな家族なのに、しらねぇちゃぁねぇだろうと思うだけど。その一点張りで・・・」

 俺の口にしたそれは事実。ボクシングで連勝を続けるために努力している合間も、慎治さんには連絡を取り続けていた。俺がくじけそうになった時にあの人なら力になってくれそうだと思ったからだってのは内緒さ。俺の言葉の選び方が不味かった?

「おっ、おい、なに泣きだしてるんだよ。どう見てもうれし泣きとかじゃねえぞ」

 彼の声に泣きながら私は何とか返そうと思ったんだけど出来なくて・・・。

「信じたくない・・・、信じたくないですけど・・・・、弥生・・・、慎治さんが・・・、に巻き込まれて・・・」

 二人は俺が口にした表情で、言葉を詰めた。急に泣き出した二人。その涙の色は絶望と悲しみみたいな雰囲気で、俺がどんな言葉を出しても、泣きやんでくれそうになかった。でも、どうにかしようと考えるふりだけはしていないと・・・。くぅ、誰かなんとかしてくれよ・・・、ほんと、俺って女の子の対応は他力本願名処が多い・・・。

 静寂の中に二人だけの鳴き声が聞こえていて、何とも居た堪れない情景だった。俺にはどうにもできない。逃げ出したい気分。それを拭ってくれるかどうか判らないけど、病室のドアを叩く音が淡々と部屋に広がった。誰だ?

「どうぞ、あいてますよ???えっ、八神さんなんですか?ほんとに?」

 俺がつ二の言葉を出すよりも早く、翠が割り込んできて、

「八神さん、いままで、何処に逝ってたんですか。みどり・・・、翠。夢の中で八神さんが・・・、先輩が、落ちた飛行機と一緒に死んじゃったかと、思っちゃったじゃないですか。寂しかった、寂しかったのに・・・、先輩ひどいですっ!私たちを置いて先輩たちの所へ逝っちゃおうだなんて、ずるいです。嘘つきですっ!一緒にがんばろうって言ったのに・・・」

「勝手に俺を殺すなっつぅ~~~の。見ろよ、足付いてんだろうが」

 朗らかに笑う八神慎治さん。その顔を見てどうしてか安心してしまった。全身の力が抜けて行くようだ。

 慎治さんの言葉にあほくさい屁理屈を言う弥生を笑う俺。彼は翠の方へ近づくと、俺の彼女?は勢いよくその先輩の胴に腕をまわして抱きついていた。驚くけど、それは翠の直せない性格。なら、受け入れてやるだけさ。

「彼氏が居るのに、不味いだろう、これは」

 狼狽ているようで、実はそうでない慎治さんは苦い表情で俺にそうたずねてくるけど

「俺は別に気にしないから、翠が泣き止むまでお願いします」と大人な笑いで返す。でも、俺の行動原理なんて見透かしていた慎治さんは的確にその核心を突いてくれた。

「ははっ、大人な事いいやがる。それはアイツを真似しているのか・・・」

 今度は空笑い・・・。それから、今までの慎治さんの事を語ってくれた。話しを聞き続けるには心が痛く辛いそんな話。どうして、俺の尊敬する先輩もその親友も話に聞いたほど大変な思いをしなきゃならなんだろう?理不尽すぎる。

 順調で平穏すぎる日々といっぱい頑張って努力を怠らなかった。それが着実に結果となって今まで過ごしてきた俺。

 それなのに慎治さんや翠も弥生も、どうして、こんなに不幸なんだ?幸と不幸の価値観は見方、見る人によって違うと思うけど、どう考えたって三人とも三人だけじゃない貴斗さんも詩織さんも春香さんも春香さんの友人で翠の水泳の目標だったっていう隼瀬香澄さんも春香さんの彼氏だった柏木さんも、どうして?納得がいかな過ぎる。どうして、こんなに不合理なんだ?何か、見えない糸に操られているのかもと勘繰ってしまう・・・、・・、・・・、・・・、って事をこの俺が思いつくはずないからな。

 なんたって、今は翠と弥生が眼お覚まして、音信不通だった慎治さんともまた再開で来て嬉しすぎるからだ。

 慎治さんは言いたい事だけ、語ってくれると俺の大事な二人へ温かい言葉をくれてから帰って行った。そんな先輩のいなくなった背中を見ながら、

「はぁっ、今日は色々ありすぎて、流石の俺も疲れたから、もう帰る。また明日来るけど、ちゃんと目覚ましてくれていろよ。あっ、それと弥生、翠に迷惑かけんなよ」

「みぃ~ちゃんに迷惑をかけているのは将臣お兄ちゃんの方じゃないっ!」

「そんなクールガイ気取ったって全然似合わなんだから」

「俺的には結構いけていると思うんだけどな、それじゃ」

 翠に言われなくたって判ってるさ。でも、俺は尊敬する先輩を真似る様に至って冷静に病室を出て行ったつもりだ。

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