出会い編

第1話 退学します

 梅雨明けの青空が広がる七月中旬、いよいよ今年も夏本番を告げる季節がやってきた。

 四月に入学式を終え、緊張顔だった新入生たちも、ようやく大学の雰囲気に馴染んでくる頃かと言う季節。

 ついこの前まで、満開の桜でピンク色に覆われていたかと言うキャンパスも、今ではすっかり夏らしく緑色に染まっている。


「暑い~、夏なんて嫌いだ……」

 そう独り言で愚痴りながら、キャンパスを歩く俺の名前は、下野敦盛しもつけあつもり。ここ、アカンサス芸術学院の二回生だ。

 

 時刻は朝の十時四十五分。

 本来なら、十時四十分からの二時限目の授業に出るので、時間的には遅刻なのだが、今日の目的地はいつもの講義室とは違う、学科長室なのだ。

 何故、朝っぱらから学科長室に向かっているのか? それは、先週の話に遡る。


 中途退学を決意した俺は先週、学生課の窓口へ退学届をもらいに行った。

「すいません」

 窓口のカウンター越しに、職員を呼ぶ。

「はーい」

 応対した三十代前半くらいの女性職員に、小声で用件を伝える。

「退学したいので、申請書を下さい」

「あっ、はい。ちょっと待ってて下さい、すぐ持ってきます」

女性職員は席を外し、奥の棚から一枚の用紙を持って戻ってくる。

「お待たせしました」

 退学届について、順を追って丁寧に説明してくれる。


「退学にはまず、ご本人が必要事項を記入します。次に、親御さんから同意のサイン並びに印鑑を押してもらって学生課に提出して下さい。その次に、学科長と面談して了承の判子をもらい、再度学生課に提出いただきます。その後は、教授会で退学届を受理するかどうかの審議が行われますので、それに通れば退学と言う流れになります」


 なるほど……結構、手続きあるんだな。

 でもまあ、聞いた話だと、教授会で審議とか言っても、結局は本人が望んでの退学。ほとんど通るそうだ。むしろ、通らなかったなんて話しは聞いたことがない。

 

 ところで、学科長の顔はさすがに知ってるけど、入学して最初のオリエンテーション以外はほとんど接点がなく、ろくに話したこともない。この退学についての面談が、初めてじっくりとお話しする機会になろうとは。


「ここまでで、なにかわからないこととかありますか?」

「はい、だいたいわかりました」

 退学届を渡す際に、その女性職員は難しい顔をした。

「えっとですね……」

 三秒ほど間を空け、こんなことを言ってきた。

「あの、私がとやかく言えることではないんですけど、大学辞めちゃうんですか?」

「え、ええ。まあ、そう言うことです」

 他に言葉が見つからず、とりあえずぎこちなく正直に返答する。

「そうですか……」

 その職員は、こほんと一つ咳払いを挟み、真剣な目つきで尋ねる。

「学生課の職員が、自主退学の理由を細かく聞き出すことはしてはいけないことなんだけど、これだけは訊かせて欲しいの。本当にそれで後悔はしないってことかしら?」

「は、はい……大丈夫ですよ」

 職員はなおも、このような忠告をしてくる。なんなんだ、この重苦しいムードは。手続きなんて、もっと事務的にササッと進むものかと思ってたんだけど……


「今の時代、次の進路はそう簡単に見つかりにくいですからね。あなたが今後どうするかは自由ですけど、自主退学したとあっては、今後就職するうえでも絶対に理由を訊かれますし、印象的にもマイナスになりかねないんです……」

 なんなんだこの職員は。言葉使いこそ丁寧だけど、言ってることはまるで親のようだ。

「俺が決断したことです。なにも問題ありませんよ」

 自分でもそれぐらいのことはわかっているつもりなので、思わず怪訝そうな目つきでそう返す。

「ご両親には、もう相談されました?」

「まだですけど、今週末に実家に戻って、話すつもりです」

 とっさにそう返したものの、重苦しい雰囲気は一層増すばかり。お節介な職員だなあ、いい加減早くこの場を切り抜けたいよ……

「わかりました。では、確かにお渡しします。まずは親御さんの判子をもらって、また学生課に提出して下さい。学科長面談の日程を詰めますので」

「はい!」

「期限は特に設けてないから、もし撤回しようと考えたりしたら、そのまま処分してくれて構いません」

「わかりました。それじゃ、失礼します」

 ぺこりと軽く一礼し、学生課窓口を後にした。

「よし、さっさとこれ書いて、今週末に一度帰省するか……」


 そしてその週末、俺は大阪を離れ高速バスに乗って、実家に戻った。

 俺の実家は徳島県徳島市。JR徳島駅から徒歩十分くらいのところにある。

「久しぶりの実家だな……」

 たらいうどんの下野しもつけと書かれた看板の店のドアを開ける。俺の実家は、徳島名物たらいうどんの店を経営。

 両親が切り盛りしており、うどん職人の親父が手打ちする自家製のうどんを提供している。


「おう、敦盛! 帰ってきたか。まあ、手伝えや!」

「えっ?」

 帰ってくるなり、いきなり親父に店のエプロンを投げつけられ、見事なコントロールで俺の顔面にヒットした。さすが高校卒業まで、野球部一筋で過ごしてきたその肩の強さはダテじゃない。

「もうすぐかき入れどきやけん、しっかり働いてもらわなあかんでな」

「おいおい、マジかよ……」

 なんでやねんとは思ったけど、午前中の仕込みの時間に帰ってきてしまったのだから、仕方ないっちゃ仕方ない。

「お帰り敦盛、まさかこの土日で帰ってくるとは思わんかったよ。でも、お前がいると店としても助かるから、よろしく頼むわよ」

 厨房から出てきたお袋も、にこやかにそう言ってくる。店は夜九時まで営業しているから、今回みたいな話は、営業時間の合間にできるような簡単なものではない。

「わかった、手伝うよ」

 俺はそう返事を返す。親父もお袋も、閉店時間を過ぎないと手が空かないし、ここは夜までなにも話さず、おとなしく店を手伝うことにした。

「だいぶ繁盛してんのか?」

「まあな、自分で言うのもアレじゃけんど、ここらじゃ評判のいい腕前しとるでのう」

 ガハハハと高笑いする親父であった。


 そして嵐のような一日が終わり、閉店時間を迎える頃には、俺の身体は久々の飲食店業務でへろへろになっていた。

「つ、疲れた……」

「おう、よくやってくれたけん、助かったで。それで敦盛、今回帰ってきたのには、なにか理由があるのか?」

 営業が終わったばかりの店内の椅子に、テーブルを挟んで親父と向かい合わせに座る。お袋も三人分のお茶を淹れて持ってきた。

「実はね……俺、大学を辞めようと思うんだ。一言で言えば、退学……」

 退学の意思を親に告げる瞬間は、やはり緊張した。せっかく地元を出て大阪の大学に通わせてもらい、もちろん仕送りもしてくれている。

 そんな親に対して、いとも簡単に退学したいなんてのは、親不孝もいいところではないか。後ろめたさが襲ってくる。

「そんなことか。ああ、辞めろ辞めろ。辞めてこの店を継げばいいんじゃ!」

「えっ?」

 親父の口から、想像していたのとはるかに違う答えが返ってきた。

「そんなことかって……そんなあっさりでいいのか? もっとこう、親として息子にいろいろ言ったりとか……」

 それでも親父の答えは、あっさりしたものだった。

「いろいろ? なにを言うたらええんか? 俺が言いたいのは、お前にこの店を継げってことだぞ? ずっと前から言っとるじゃろうに……」

 親父の表情を見る限り、退学について怒っている様子は全くない。

 

 確かに高校三年生のとき、親父から「大学には行かずにこのまま修行して店を継げ」と言われたけど、それを断り進学した。

「やっぱり芸術大学みたいな変わった所は、お前に合ってなかったんでしょ?」

 お袋も口を開く。

「ラジオで喋る人になりたいから、店を継がずに大阪に出てアカンサス芸術学院に進学したいなんて言ったとき、あんたみたいな暗い人間じゃどうせ無理だと思ってたよ」

 そこまで言われると、ちょっとグサリとくるものがある。

「昔からラジオが好きで、ほんとよく聴いているなとは思ってたけどね。高校でも放送部に入ってたし」

 親父と同様、お袋もとくに咎める様子はなく、淡々とそう言い放つ。

「とにかくまあ、進学してみたはいいが、やっぱり自分には無理だと思って、地元に帰る気になった……これでいいか?」

「あ、ああ。そのとおりだよ……」


 俺からとくになにも言う必要なく、親父がまるでエスパーであるかのように俺の心を読み取り、あっさり家族会議は終了。その時間、十分足らず。

「ほなけん、話は決まりな。判子を押しとくけん、これを大学に提出してこいや」

 退学届には、親父直筆のサインと判子が押された。

「うん……」


 通常、退学する際に一番ネックになるのは、親の同意を得られるかどうかだと聞く。俺の場合もそうなるかと思っていたのだが、あっさりと第一関門を通過してしまった。

 この第一関門を通過してしまえば、もうあとはぶつかることはない。


 かくして俺は、アカンサス芸術学院を退学することが決まった。

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