その“アイ”は何を視る

増田朋美

その“アイ”は何を視る

その日は、なんだか蒸し暑くて、ちょっと動けば汗が出る日だった。涼しい日が何日か続いたと思ったら、こんな蒸し暑い日が続くので、体調を崩してしまう人も少なくないと思う。そんなわけで、小杉道子の務める総合病院も、相変わらず患者さんで繁盛しているのであった。

「えーと、次の方どうぞ。」

と、道子は、次の患者さんを呼ぶと、患者さんは、一人の若い女性だった。

「石塚麻美子さんね。今日は、初診だそうだけど、どうしましたか?」

道子はできるだけ、優しい口調で言ってみる。

「はい、足が痛いんです。」

と、患者さんで有る、石塚麻美子さんは答えた。

「足が痛い。それでは、どこかにぶつけたりとか、転倒しただとか、そういう事はありましたか?」

「いえ、ありません。」

道子がそうきくと、麻美子さんは答えた。

「それなら、足のレントゲンを撮りましょうか。」

道子が言うと、

「またですか。そうやって、レントゲンをとって、血液検査をして、結局異常がないって言われて、帰れと言われてしまうんですよね。どうせ、どこの病院行っても同じなんだ。わたしは、これほど足が痛いのに、誰にも見てもらえないで、結局、無駄話になっちゃうんですね。」

麻美子さんは、嫌そうな顔をして言った。

「そうですか。でも、もしかしたら足に異常があることも考えられるかもしれません。面倒くさいと思うかもしれませんが、ここでも、足のレントゲンを撮ってください。」

道子は、麻美子さんにそういった。そして、看護師を呼んで、彼女をレントゲン室につれていくように言った。そして、嫌そうな顔をしている彼女の採血も行う。この病院では、数時間で結果がわかるようになっている。そこが、人気のある理由の一つでも有る。

「石塚さんどうぞ。」

道子は、再度麻美子を、診察室に入れた。

「えーと、骨に異常は見られないし、筋肉にも何も異常はありません。血液検査をしましても、コレステロールとか、そういう事も正常ですし、免疫などにも異常はありませんよ。あなたの体内は、極めてノーマル。大丈夫ですよ。」

道子は、わざとおどけてそういってみたのであるが、

「やっぱりそうなんだ。わたしが、いくら足が痛いと言っても、そうやって追い出されちゃうんだ。わたし、モンスターペイシェントとか、そういうつもりではありません。それなのに、足が痛いのはずっと変わりませんし、あたしは、この辛い足の痛みと、一生懸命耐えなきゃ行けなくて、なんのねぎらいもないんですね。」

麻美子さんは、ちょっと恨めしそうに言った。

「でも、数値がそうなっているんですから。医者としては、何も異常がないと言うしかないんですよ。」

道子が急いでいうと、彼女はがっかりした顔をした。

「先生は、わたしの何を見てくれたんですか。わたし、こんなに足が痛いのに、なんで、誰も異常がないって言うんだろう。レントゲンをとったって、血液検査をしたって、異常はないわけですよね?先生は、わたしのことを何も見てくれないんですね。お医者さんって、何も見てくれないんだ。わたしの事なんか。もういいです。医療関係者なんて、一番偉そうに見えるけど、そうでもないんだ。わたし、こんな立派な病院に行けば、なにか見てもらえると思ったんだけど、結局変わらないんですね。」

「まあ、石塚さん。そんな逆上しなくなっていいでしょう。異常がないんだから、素直に喜べばいいじゃないですか。そんな言い方をされたら、異常があったほうが良かったということになりますよね?」

道子は、なんでこの患者は、そういうことを言うのだろうと思いながら言った。

「先生は、わたしの事何も見てくれない。足が痛いのに、足が痛くて辛いんですねとか、そういうことを一言も言わない。偉い先生に見てもらえなんて、何が助かるのよ。薬さえ出してもらえない。結局、ロキソニンを大量に飲んで、眠るしかないんだ。」

と言って、石塚麻美子さんは泣き出してしまった。道子は、どうしたらいいのかなと思って、看護師の顔を見た。

「道子先生、なにか言ってあげればよかったんですよ。痛くて大変ですねとか、そういう言葉が道子先生には足りないんです。彼女だけではありませんよ。ほかの患者さんに対してもそうです。道子先生は、もうちょっと笑顔で患者さんに接してあげてください。」

年配の女性看護師が、道子に言った。道子は、そんなことないと思ったのであるが、「ほら、患者さんに対して、なにか言ってやってください。患者さんは、あたしたちみたいに、知識があるわけじゃないの。」

年配の看護師に言われて、道子は、何を言ったらいいのかわからずに、

「ああ、まあ、お大事にしてください。」

とだけしか言えなかった。年配の看護師は、道子先生はこれだからだめなんだという顔をした。

「じゃあ、次の人。」

と、道子は、仕方なくそういって、石塚麻美子さんを返したが、からだの方に異常は何もないわけだから、薬を出すにしても、薬は出せなかった。泣きながら帰っていく彼女を、道子は、どうしたらいいもんだか、と思いながら、見送った。

次の患者さんは、久保さんという男性患者だった。

「道子先生。先程の彼女の話をなんでもうちょっと詳しく聞いてくれなかったんですか?」

と、久保さんは、そういった。もう80歳を超えているおじいさんにそう言われてしまうと、道子は、何も答える気にならなかった。

「彼女、かわいそうでしたよ。今日で、もう病院を10軒回っているそうです。そういうことを話しさせてあげればいいのに。それを聞けば、また違うことが見えてくるはずなんだけどなあ。先生は、レントゲンと、採血しか見なかったですか。」

と、久保さんは、道子に言った。多分、心のやさしい人物なので、足が痛そうにしている麻美子さんに話しかけてくれたのだろう。そういう事ができるのは、年配者でなければできない。

「全く、11軒目の病院でも異常なしと言われたんじゃ、彼女は医療に対する不信感も強くなりますよね。全く、先生は偉い人って言われるけれど、彼女はそれも、嫌がるだろうな。」

「はいはい、わかりました。それより久保さん、ご自身の症状はどうなりましたか?」

道子は、彼の話に、急いで聞いた。

「いやあ、俺のことより、あの彼女をどうにかしてやらないと。俺たちより、長く生きるわけだから、年寄の俺たちをみるより、彼女をなんとかしてやったほうがいいんじゃありませんかね。」

久保さんに言われて、道子はちょっと憤慨した。そういうことを言われては、医者であるさすがの自分もむかっと来る。自分のしたことは、そんなに悪いことだったのだろうか?

「あの女性は、可愛そうですよ。俺たちばっかり、病院に入り浸っているような、身分じゃないですからね。」

「そうなんですか。わかりました。これから気をつけてください。それより久保さんの症状を言ってもらわないと。診察になりませんから。」

道子は、久保さんの話を打ち消すように言ったが、

「わかりましたとか、これから気をつけるなんて、偉い人が、いつでも使ういいわけだな。俺の症状は、安定していますよ。足も痛くないし、もう週一回通院しなくてもいいくらい。それでいいかな?」

と、久保さんは言って、大きなため息を付いた。

「まあ、俺は、薬もらって於けばそれでいいけど、彼女はそうは行かないだろうよ。そして、偉い人に対する不信感がより高まるということだな。」

「安定しているならそれでいいわね。でも、リウマチとか、そういうものは、油断ができないものだから、ちゃんと週に一回は、来てもらわないと、困ります。」

道子がそう言うと、

「はあ、俺はリウマチとはっきりと異常がついてよかったなあ。全く、それで彼女は、何も異常なしか。はあ、かわいそうでたまらんね。」

と、久保さんは道子をバカにした様に言った。

「もう久保さんも、余計な事言わないで、ちゃんと食生活とか気をつけてくださいよ。不摂生はしないでくださいね。そして、ちゃんと、週に一回は、こちらへ通院してください。それは、ちゃんとしてください。趣味に打ち込むのもいいですけど、やりすぎはだめですよ。安静にする時間もとってね。それでは、前回とお薬は同じにしておきますから。それでは、お大事になさってください。」

道子は、そういう久保さんに、言いたいことだけ言って、サッサと返してしまったのであった。

そのあとも、何人かの患者さんを相手にして、道子はその日も勤務時間は終了したのであるが、石塚麻美子のような、検査をしても異常は見つからないという患者は出なかった。ここに来る患者さんたちは、関節がやられているとか、そういう異常が出る人ばかりで、何も異常がないというのは珍しいのだった。道子が、病院を出て、家に帰ろうとしたその時、

「先生!ちょっと来てください!病院のゴミ捨て場が燃えています!」

と、看護師が声をあげて走ってきたため、道子も急いでその現場に行くと、たしかに病院のゴミ捨て場が燃えていた。ほかの看護師が、急いで消化器を持ってきて、急いで火を消すことに成功したのであるが、道子はこんな経験ははじめてで、ちょっと怖いなと思ってしまった。周りに火が出そうなものや、燃えやすいものは置いてなかったので、これは放火と思われると、看護師たちは言っていた。病院の事務員が、警察に通報しようといったが、なんだか警察に任せきりにしては、安心できないような気がした。

その次の日。病院は土曜日で昼も回って、道子は午前中で病院を出た。帰り道、お昼を食べていなかったことを思い出して、通り道である、イシュメイルラーメンと看板にかかれているラーメン屋に入った。

「いらっしゃいませ。」

と、店の主人である、ぱくちゃんが彼女を出迎えて、まあ好きな席に座ってくださいといった。そこには、先客がいて、ラーメンを食べていた。誰かと思ったら、杉ちゃんだった。

「ようラスプーチン!お昼でも食べに来たのか。」

と、杉ちゃんに言われて、道子は、またそういうことをと言いながら、席に座った。

「ご注文はなんですか?」

とぱくちゃんに言われて、道子はとりあえず担々麺と言った。ぱくちゃんは、はいよ、と、言って厨房に戻っていった。

「で、お前さんは、今日何があったんだよ。また、変な患者でも来たのか?」

と、杉ちゃんに言われて、

「変な患者というかね、昨日病院で放火があったのよ。全く、まさかうちの病院が狙われるとは思わなかった。病院に恨みがある人なんて居るのかな。そんな事、はじめて考えたわ。」

と、道子は答えた。

「はあ、放火ね。八百屋お七じゃないけどさ。必ず、そういう事するやつってのは、理由があるんだよな。単純な理由かもしれないし、複雑な理由かもしれないけど、必ず理由があるのよ。」

と杉ちゃんに言われて、道子は、

「何も思いつかないけどなあ。」

と、言って水を飲んだ。

「なにか、覚えの有ることはないの?」

杉ちゃんに言われて道子は考え込む。

「そんな事全然ないわよ。あたしは、ちゃんと、リウマチとか膠原病とか、そういうのがある人達の体のこととか、血液のこととか、そういうことを、ちゃんと見てるわ。それ以外に何を見てるのよ。」

「ほらあ、それ以外のやつはどうするんだ?患者さんのことと、お前さんは言ったけどさ。それ以外のやつだって来るんだろ?」

と、杉ちゃんに言われて道子は、

「そんな人のことなんかいちいちいちいち覚えていられないわよ。それよりも、あたしが、助けられる患者さんを、助けてあげることが、肝要だから。」

と言った。

「そうかも知れないけどね。覚えていられないんだったら、なおさら狙われる可能性があるかもよ。それは、お前さんがどうするかにかけられているんじゃないの?」

「そうねえ。でも、名前も所番地も忘れてしまったし。どこの誰かなんて覚えていないわよ。そんな患者さんのことなんてさ。」

ちょうどその時、担々麺の丼を持ったぱくちゃんが、

「やるほうは、そうやって、直ぐに忘れちまうんだけどさ。やられたほうは、一生忘れられないくらい恨むんだ。僕たちウイグル人が、皆土地も家も取られて、強制労働された事なんて、漢人は誰も覚えてないんだろうな。」

と、言いながら、道子の前に丼を置いた。

「まあ、そんなスケールの大きいこととは違うけどさ、人間はどこの民族でもそういう感情は有るよ。」

杉ちゃんは、ラーメンを食べながら、そういうことを言った。

「そうねえ。あたしは何も心当たりないんだけど、放火されるってことは、そういうことなのかしらね。」

道子は、担々麺を食べながら、そういった。ぱくちゃんの作ってくれた担々麺は、面も極太で、大変硬かった。なんだか、黄色いさぬきうどんというような感じの麺だった。少々食べにくかったが、道子は完食した。そしてぱくちゃんにお金を払って、ラーメン店を出た。

また、道路を歩いて自宅へ帰ろうとすると、近くのセレモニーホールで、葬儀が行われているのか、一つの看板が置いてあるのが見えた。誰の葬儀だろうと思ったら、石塚家と描いてあったので思わずピンとくる。

「あの、失礼ですが、この葬儀で亡くなられた方は。」

と、道子は、セレモニーホールの入り口で、掃除をしていた女性に言った。

「ええ。石塚麻美子さんという女性のお弔いです。かわいそうですね、病院に行ったけど、何も見てもらえないで返されて、挙句の果ての自殺だったそうですよ。」

と、掃除の女性はそういった。こういうところで働いていると、わけがあって自殺したとか、そういうことに敏感になるものである。

「そうなんですか!」

道子は、流石に、自分が彼女を診察した医者だったなんて名乗りをあげることは、できなかった。そんな事したら、石塚麻美子さんの遺族は黙っていないはずだ。皆、麻美子を返してとか、そういうことを言うんだろう。そんなことを言われたら、道子も医者として、立場が危うくなる。

「そうだったんですか。本当にお気の毒のことでした。」

と、道子はそれだけ行って、急いで葬儀場の前から走っていった。とてもその場所に居ることはできないような気がした。

その日は、なぜか自宅に帰りたくなかった。家の中で、ぼんやりしていても、何も意味はないだろうなというような気がしてしまった。道子は、駅へ歩いていって、急いでタクシーを拾って、製鉄所まで乗せていってくれと頼んだ。

道子は、製鉄所の前に到着すると、タクシーにお金を払って、製鉄所の正門を勝手にくぐった。道子が、こんにちはといって、インターフォンのない玄関を開けると、四畳半から、水穂さんの咳き込んでいる声が聞こえてきた。あら、誰もいないのかしらと道子は部屋の中に飛び込んだ。そして、けたたましい音を立てて四畳半に行くと、水穂さんがやっぱり布団の中で咳き込んでいた。周りに人はだれもいなかった。確かに今日は土曜日だし、皆遊びに行ってしまっているか、仕事や学校に行っている人も居ることだろう。道子は、水穂さんこれ飲んで!と急いで枕元にあった水のみの中身を水穂さんに飲ませた。幸い、内容物は少量だったから、畳をひどく汚すことはなかった。道子が、背中をさすったり、叩いたりしてやると、水穂さんの咳き込むのはやっと止まってくれた。

「水穂さん、ほかの人達は?」

道子が言うと、

「皆、学校や仕事にでかけました。」

と、水穂さんは弱々しく答えた。

「誰か一人、そばにいてくれるように、お願いしなかったの?また咳き込んで血が出たら、誰かがすぐに薬を飲ませてくれるようにしておかないと、大変なことになるかもしれないのよ。もし、よければわたしが、お願いしようか?」

道子は急いでいうが、

「いえ、そんな事ありません。僕みたいな人は、放置されておくのが一番いいんです。」

と水穂さんは言った。

「そんなこと言ったって、あなたは、患者なのよ。寝たきりで、何もできないのよ。そして、誰かに世話してほしいと頼む権利だってあるの。周りも不親切というか不謹慎ね。なんで誰も、水穂さんの事考えないのかしら。」

「いえ、僕が、そうするように頼みました。そんな事したら、みなさんが自由にできなくなるからって。」

道子がそう言うと、水穂さんは、そう答えた。

「そんな、あなたが不利になるようなことをなんでわざわざ頼むのよ。いい、からだが辛いとか、苦しいとか、そういう事はいくらでも言っていいのよ。それは患者さんとして当然の権利。それは、当たり前じゃありませんか!」

道子は、呆れたというか、困った顔で水穂さんを見た。

「でも、あんまりそればかり続いていると、人間は、視る気をなくすというか、そういうことになるんじゃありませんか。だから、僕がもういいって言ったんですよ。だって、そればかり囚われていると、皆嫌になっていくでしょう。ずっと苦しいと表現していたら、そうなるでしょう。」

水穂さんに言われて、道子は、はっとした。こないだの石塚麻美子さんも、こういうことだったのではないだろうか。彼女は真剣に足が痛かったはずだ。それなのに、連日足が痛いと言い続けていて、家族も嫌がるような存在になってしまったに違いない。

「水穂さんでも、そういう事は、ちゃんと言わないと、後でとんでもないはね返りが来ることだって有るわよ。」

道子はそういうのだが、水穂さんはそれでもいいといった。まるで自分のような人間は、そうなって当たり前なのだと言いたげだった。道子は、石塚麻美子さんが、逝ってしまったのは、もしかしたら、自分が職務を怠けたのではないかとおもった。それを、変えさせるというか、そういうことができるのは、道子にしかできなかったのだ。もし、麻美子さんに、なにかあると言ってあげれば、彼女が家族に自分の症状を話すためのきっかけになってくれたかもしれない。道子は、それができなかったのを、ひどく後悔した。道子は、自分の目で患者さんをしっかり見てやらなければならなかった、そう、視てやらなければならなかったんだと、反省して涙をこぼしたのだった。




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