四十を数えた辺りから苦しくなってくる。


 私は長い長い一日を終えようとしている。やっと今日が終わる。と同時に明日もすぐそこにやってきている。


 イジメは日常と化していた。それは人間が呼吸をすることが当たり前過ぎて、その本質や意味を考えないように、クラスメイト達は意味や理由を考えず、まるで肉食動物が草食動物を捕食するように、私と草井を虐めているのではないだろうか。


 そんな私が気を抜ける場所は、唯一お風呂場だけになってしまった。学校での嫌なことを思い出すと、湯舟に潜り何秒息を止めていられるか数える。何故なら、その時だけは何も考えずに済むからだ。そして六十を数えた時、物音がした。私は驚いて慌てて顔を上げ両手で顔を拭った……もう一度顔を拭った。


 ……何これ! と私の口から零れる。私はありえない光景に目を疑った。鼻先からポタポタ落ちる液体。


「入浴剤いれてあげたよ」


 そう言って桜が私を見下ろしている。状況を把握できずにいた私は突然の桜の出現にたじろいでいた。こんなことは初めてだ。


 私のことを見下ろすその眼は氷のように冷たく、湯舟に浸かっているにもかかわらず悪寒が走った。


 桜は液体の入った容器を強くつまんで、私の視線を遮るように眼を目掛けて噴射した。それを嫌がった私が顔を反らすと、再び頭頂部に液体を吹きかけた。


「跳ねるから動かないで聞きなさいよ!

 あんたは私の影なんだよ! 影のくせになんで私と同じ顔してんだよ! そのせいで散々な目に遭ったのよ! 明日からはもう双子でもなんでもないからな! よおく覚えときなさいよ!」


 そう言い放った桜は物凄い勢いで空の容器を私の頭に投げつけた。


「痛い!」


「影らしくなったね。その入浴剤さ、色がキツいからちゃんと浴槽とか洗剤でゴシゴシ洗ってね」


 そう言った桜は満悦な表情を浮かべ、意気揚々と去っていった。


 湯舟から上がり鏡に自分を映すと、そこには見たこともないグロテスクな影がいた。目玉だけが白い黒く濡れた化け物は私を見つめていた。


「こんなことで泣くもんか……」


 シャワーを勢いよく頭からかぶるが、とめどなく黒い水が頭から流れ続けた。シャンプーを泡立てても黒い泡。流しても……流しても……透明にならない黒い水。まるで、この心そのものだ。


 桜に言われた通り風呂場を洗剤で洗い、桜が眠る部屋へ……。空になった墨汁の容器を投げ付けたかった。


 この家の女王様に逆らえば親にも見捨てられる。とりあえずサンドバッグになってやるよ……。自分の名前が書かれた墨汁の容器をゴミ箱にそっと捨て、ベッドに潜り込んだ。


 そして翌朝、目覚ましが鳴る前に私が起きたのは眩しいからではない。やたらと首が痒いのだ。昨日かけられた墨汁のせいだろうか、とにかく痒いのだ。


 指先を見ると髪の毛が絡まっているではないか。墨汁を頭からかぶると髪は抜け落ちてしまうのだろうか。ちょっと、まって……尋常じゃない髪の量が……。弄るよに頭に触ると、慌てて起き上がり枕を見た。大量の髪の毛が散らばっている。手鏡で確認すると右耳の裏側辺りの髪の毛が刈り取られている。この異常事態に私は叫んでいた。

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