私のすべて

 仕事を終えると一目散に向かう場所がある。


「失礼しまーす!」


 最後の退出時だけは弾んでしまう。


「お疲れでーす!」


 すれ違う男性スタッフに私は斜めに頭を傾ける。出勤時とは対象的な私の笑顔に男性スタッフはまったく動じない。毎日こうだから日常的な光景なのだろう。きっと私は二重人格だと思われいてるかもしれない。それくらい出勤時の私は、いろんな意味で最悪だ。


 何度も肩からズレ落ちるバッグのベルトを何度もかけ直しながら駅まで駆けていく。風俗街を抜けると、踏み切りが鳴り響き電車が駅に流れ込んできている。改札に財布をバチン! と当てて、階段を一段飛ばしで駆け上がる。私はこんな仕事をしてるけど、Tシャツにデニムとスニーカーだ。


 この電車に間に合うなら息を切らしても、髪を振り乱しても、汗ばんで化粧が崩れてもかまわない。


 やけに長ったらしい発車合図のメロディが私を急かす。メロディが止み閉まり出したドアにかまわず突進し、狭まるドアの隙間に肩をぶつけながらもギリギリで滑り込んんだ。


 こんなことは一度や二度じゃない。身体半分が挟まったことさえある。なにはともあれ電車を待たずに済んだ。


 こんな些細なことで喜べるほど、これから向かう先は渇いた心を潤す私にとってのオアシスだ。


 口の中の唾液が失くなる以上に、心の中の何かが蒸発していることを最近になってようやく気付いた気がする。


 改めて考えると毎日天国と地獄を往復するような生活だ。ただ地獄があるから天国が際立ち、天国があるからこそ地獄に飛び込めることを私は頭ではなく心で理解している気がする。


 電車が踏み切りを通り過ぎると、ゆっくりと速度が落ちていく。この丁寧過ぎるブレーキ操作に若干の苛立ちを覚えながらも電車が止まるのをじっと待つ。やっと停車してドアが開くと私は改札を一番で駆け抜ける。


 次に向かうのは契約駐輪場だ。走りながら自転車の鍵をバッグの中から引っこ抜き、汚れてグレーに変色したウサギのキーホルダーを揺らしながら走り抜け、いびつに歪んだカゴにバッグを放り投げ、年期の入った自転車を漕ぎ出す。


 夕暮れ時の商店街は帰宅する人や買物客が行き交い混雑している。私はそのパイロン達を巧みなハンドル捌きでかわしていく。毎日ここを走ってるうちに自然とうまくなってしまったようだ。


 ここを抜ければもうすぐだ……。ペダルを踏み込む足に自然と力が入る。


 風が気持ちいい……。早く逢いたい……。君に逢いたい……。


 突き当たりを曲がり、古ぼけた大きめの二階建ての門の前で力いっぱいブレーキを握りしめる。年期の入った自転車の甲高いブレーキの音は私の存在を知らせる合図でもあり、歓喜の雄叫びでもあるように思える。


 私は鍵もかけずに門の中へ駆け込む。この瞬間が何よりも幸せで、何にもかえられない、私の生きる意味……。私の全てであり、私の愛……。


 私のことを待ちわびていたかのように駆け寄ってくる少女。


「ママー!」


 私は腰を落としながら歩み寄り、まるで遠距離恋愛中の恋人の再開のように抱きしめ合う。私は彼女を愛していて、彼女も私を愛してくれている。嘘偽りのない愛を抱きしめることで、私は母親に戻ることができるんだ。


 華奢で柔らかい体、くりくりの瞳、ふわふわの猫ッ毛、すべてが愛おしい。


 地獄から生還する私はこのオアシスの天使にいつも救われている。私のしていることが正当化され、汚された心が洗われる瞬間だ。


 ただ、この子が私の胸に顔を埋めて言うこの何気ないこの一言には、いつも胸が痛むんだ。


「ママ今日もいい匂い」


 ……当たり前だ。私の仕事は泡まみれになって汗臭くなることはない。

 

 最後の客を見送ると、身体の隅々までキレイに洗い直す。客と交わった身体は不潔だ。体液が流れてしまった胃袋は、退勤したあと毎回胃洗浄したいぐらいだ。


 この石鹸の匂いのするママが毎日してることを知ったら、この子に軽蔑されるかもしれない。


 私は『愛のため』と称して、男から金を吸い上げているだけの魔女なのかもしれない。


 無邪気な娘の言葉に追い詰められ、いたたまれない感情を抱いていることを彼女にだけは悟られたくないから、私は笑顔を崩さない。


 肉塊と事を成している最中、心の中で念仏のようにリピートしている『愛のため』。この愛こそが私の娘の名前だ。


 私の本名は“清野 舞”

 娘の名前は“清野 愛”


 私は娘の名前を源氏名として使うことで、自らに枷を与えた。


 逃げ出したくなるのは目に見えていた。だってクソ野郎共に、契約された時間、全てを尽くし、そしてこの身体を好き勝手にされるんだからね。


 だけど辞めるわけにはいかない。金が必要だ。愛と一緒にいる為に……。金の為……いや、愛のためにやるしかない。


 愛する我が子の名を汚すようで厭だったけど、私は地獄で『愛』と名乗ることにしたんだ。


「帰る支度してきな」


 何故か妙な含み笑いを浮かべ園内に駆け込む愛の足取りは弾んでいる。


「清野さん、こんにちは」


 男性の声に振り向くと、見慣れた顔があった。


「郁人先生、お疲れ様です」


「だから先生じゃないですって!」


 照れくさそうに言った彼は園長の息子で、暇な時間があると園内の手伝いをしているらしい。こういうことが許されるのも無認可保育園だからなのかもしれない。


 郁人先生は愛の初恋の人であり、『ひわんせ』らしい。私は、まだ小さな女の子の恋バナを聞くのが日課になっており、嬉しそうに楽しそうに幸せそうに、そしてなにより、たまに織り交ぜる大人びた発言をする愛が可笑しくて可愛かった。


『フィアンセ』を『ひわんせ』と言い間違えているが、面白いので訂正してはいない。私たちのお茶目な共通言語だ。ちなみに彼のことを『郁人先生』呼ぶのも、そうだ。そのせいもあって彼とはよく話す機会があり、家での愛の発言など話し笑いあう仲だ。


 細身で180ぐらいの慎重に短めの無造作ヘアーが似合っていて、鼻筋の通った顔が笑うと、くしゃっとなるのところが魅力的なのかもしれない。23歳の私より、一つか二つ歳は下だったと思う。


 そんな彼の様子が変だ。何か言おうとしてはいるが、目を泳がせつばを飲み込みこんだり落ち着かないので、私はしびれを切らせた。


「あの……何ですか……?」


 そういうと彼は慌てた様子で早口で何か言った後、逃げるようにして園内に走り去っていった。取り残された私はいったいどうすればいいのだろうか。そして、しばらくすると郁人先生が愛を抱きかかえて駆け寄ってきた。愛は何故か笑っている。


「愛ちゃんとデートさせてください!」


 はあああっ! なに言ってんの! もしかしてロリコン⁈ 私の表情にそれらが書いてあったのだろうか。彼は慌てて弁明を始めた。


「ちっ、ちち違うんです。あっ、あっ、愛ちゃんが……こっ、今度の土曜日……誕生日ってきいたので、それで、それで……」


 明らかに取り乱している。そして郁人先生はいきなり愛の顔を覗き込み声を張り上げた。


「そうだよなああああ!」


 なんだ? どういうこと? 私はあきれ果てて愛の様子をうかがった。


「もういいよ! ママにはあいがいうから!」


 膨れっ面で愛がそう言うと彼は、さよなら、とだけ言い残し、園内に逃げ込んでいったのだった。

 

 私は自転車の後ろに愛を乗せ訊いた。


「郁人先生は何が言いたかったの?」


「愛のお誕生日のことだよ」


 そういえばそんなこと言ってたな。


 今度の土曜日は愛の誕生日だ。


 詳しい内容を愛に訊ねると、愛は少し不満げな顔で、事細かに郁人先生とのやり取りを教えてくれた。


 どうやら愛が誕生日プレゼントの代わりに郁人先生にデートを要求したらしい。それにしても、あのテンパり方は普通じゃない。園長先生の息子が園児とプライベートで会うのはまずいのだろうか。


 どちらにしても面倒くさいな。でも愛は一度言ったら聞かない子だし……なんでこういうところまで私に似ちゃうのかな……。


 私は気を取り直して愛に訊いた。


「じゃあママは誕生日プレゼントどうすればいいの?」


 すると愛は声を弾ませて言った。


「それも決まってる。ママにはデートに着ていく、お洋服買ってもらうの!」


 抜かりないなこいつ。


「じゃあスーパーの子供服売り場で買って帰ろうか?」


「イヤイヤイヤイヤ! ちゃんとおっきなデパートのお洋服屋さんで買うの!」


「はいはい、わかりました。前の日は仕事早く終わらせるからデパート行こうね」


「うんっ!」


 憎たらしいけど愛は満面の笑みで頷いた。その笑顔で私も嬉しくなる。愛が喜ぶならそれでいい……。



 愛の保育園バッグを開き、連絡帳を確認するのが帰宅直後の日課だ。連絡帳には簡潔に愛の一日の行動や、体調管理が記されている。いつも通り連絡帳を開くと、スッと何かが滑り落ちた。足元を見ると、折り畳まれた紙が落ちていたので、私はそれを拾いあげた。


『先程はすみませんでした。

愛ちゃんの誕生日を僕も一緒に過ごさせてください。どうかお願いします。 郁人』


 こんな短い文章さえ言えなかった郁人先生を私は情けなく思った。よく見たら下部の空白の部分に消しゴムで消した跡がある。


 私はその消した跡にこそ、彼の言いたかった本心があるのではないかと目を凝らしてみた。だけどすぐに面倒くさくなり、パッと指を離した。


 あなたの願い叶えましょ~う……ヒラヒラ落ちていく紙切れは、ゴミ箱の中へ吸い込まれていった。


  

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