現実灯火
楽太
現実灯火
「はぁ……」
自宅への帰路に就きつつ、俺は社会人という生き物の儘ならなさを知って思わず溜息を吐いた。
空を見上げると、社会人が平日に出歩くにしては、雲の隙間から時々姿を覗かせる太陽の位置が高すぎる。
というのも、今朝定刻通りに出社した所を上司に呼び出された俺は、長時間残業を咎められた上で、無理矢理に三日間の有休休暇を取らされたのだ。
俺も今年で入社二年目、任される仕事も日に日に増えてきた事で、仕事のスピードが決して速いとは言えない俺は、就業時間内に割り振られた仕事が終わらない事が増えてきた。
つまるところ、俺は仕方なく残業をしているのだ。
長時間の残業を強制される世の中は最悪だが、残業を過剰に制限する世の中もまた良いとは言えないだろうに。
「寒……」
空には見るからに重たそうな雲が立ち込めていて、暖かな陽光を遮っている。
地面には昨夜降ったと思われる排気ガスで中途半端に溶けた雪が、茶色くドロドロしたみぞれと化していて、歩を進める度にグチャグチャと汚い音を立てる。
「わ」
ふと、右横から流れてきた暖かい空気が頬を撫でる。
見ると、『灯火』という看板が立てかけられた店の扉が僅かに開いていた。
一度意識すれば、コーヒーの香ばしい香りが漂ってきて、ぐぅと腹の虫が鳴く。
腕時計を見ると時刻は11時14分を示していた。
「ちょっと早いけど昼食にするか」
気分転換も兼ねて、ここで昼食を取ることにした俺は店に入る。
店内を見回すと、内装はかなり新しく、シックという言葉が似合う様相で、所々にキャンドルが置いてあるのが御洒落で印象的だった。
客は一人も居ない様で、店員すらもカウンターでコーヒーを飲んでいる女性が一人いるだけである。
いや、ちょっと待て、コーヒーを飲んでいる?店員が?
というかあの店員さん、どこかで……。
「あ!お客さん!?い、いらっしゃいませ~。って、あれ?もしかして後輩君……?」
「え、瀬川先輩!?お久しぶりです!」
余りの衝撃に久しぶりに大声を上げた。
何と、その場の気分で入った店に居たのは中学高校と文芸部の先輩だった瀬川南先輩だった。
この先輩は中高で一番お世話になった人で、当時は同級生よりも親しかった。
「七年ぶりですかね」
「私が高校卒業してからだから……ホントだ!七年ぶり!時間が経つのは早いね……。積もる話もあるだろうし、取り敢えず座って座って!」
「積もる話、って、先輩は今仕事中なんじゃ?」
「大丈夫大丈夫、どうせこの時間人来ないし、この店の店長私だし」
「まぁ、そういう事なら、お言葉に甘えさせてもらいます」
相変わらず適当だなぁ、と、苦笑しながら俺は席に座る。
が、内心では昔と変わらない先輩に安心していた。
いかに仲が良かったとはいえ、七年ぶりの再会という事で少し緊張があった俺だったが、昔と変わらない先輩の懐かしいノリに、その緊張は緩和された。
それにしても、若いのに店長とは、先輩は凄いな。
「はいこれメニュー表ね」
「どうもです」
メニューをざっと見て、注文を決める。
「じゃぁこの……卵サンドと食後にホットコーヒーを。あ、コーヒーはブラックで」
「おっけー。それにしても後輩君、いつの間にブラックなんて飲めるようになったの?」
「俺ももう大人ですから。先輩は、まだ甘いのしか飲めないんですか?」
「え……………………飲めるよ?」
今の間は何ですか。
とは言わない。
先輩の威厳を守るのも後輩の務めだからだ。
こんな先輩でも学生時代、悩んでいればいつでも相談に乗ってくれた為、尊敬している。
同時に相談料を取る強かさも持っていたが、相談料と言ってもドリンク一杯程度なので良心的と言ってよかった。
というか、今思えばあの相談料と言うのも、俺が先輩に相談を持ち込むことに罪悪感を抱かせない為の物だったのかもしれない。
「後輩君、なんで笑ってるの?も、もしかして疑ってるの?」
「いや、先輩は変わらないなぁと思っただけです」
昔を思い返していただけなのだが、どうやら自然と笑みがこぼれていたらしい。
それから、俺はサンドイッチを食べながら先輩との思い出話に花を咲かせた。
「――後輩君があんな嘘つきだったとは思わなかったね。あれには本当に傷ついたよ?私」
「噓つきって、先輩がいつも賞の応募期限ギリギリだから応募期限を二週間サバ読んで教えただけじゃないですか。というかそもそも、それくらい自分で把握しておいておくべきでしょう」
「ぐっ!」
図星を突かれた先輩が大袈裟に反応する。
そんな先輩の姿に呆れるとともに、懐かしいやり取りに今朝の一件で張り詰めた心が緩んでいくのを感じた。
「と、ところで後輩君は今日は仕事はどうしたの?今日まだ平日でしょ?」
「……」
突然だった。
無意識に避けていた話題を振られ、言葉がうまく出てこない。
落ち着け、落ち着けと心に念じて、何とか返答する。
「今日は有休を取ったんですよ」
意識していつも通りの声で答える。
嘘ではないが真実でもない言葉。
「ダウト」
「っ!」
が、そんな誤魔化しはこの先輩には通用しなかった。
「バレましたか……」
「バレバレだよ、私がどれだけ後輩君のお悩み相談を受けてきたと思ってるの?」
「そうですよね……」
バレてしまった。
折角久しぶりの再会で楽しい雰囲気だったのに。
俺が壊してしまった。
「じゃ、後輩君。悩みを話してもらおうか」
「え?」
「え?って何さ。後輩の悩みを聞くのは先輩の務めだよ」
「でも、俺達もう大人ですし……」
「悩みに大人も子供も関係ないよ。それに、後輩君の悩みなんて聞き飽きてるんだから。今更一つ増えたところで何も変わらないよ」
「そう、ですかね……」
「そうだよ」
お悩み相談、か。
俺の脳裏に過去の思い出が蘇る。
……正直、悩みに大人も子供も関係ないという言葉には納得はしていない。
だが、何度も先輩に悩みを相談してきた思い出が、重い俺の口を軽くした。
「……実は、上司に働くなって言われて会社を追い出されたんですよ。働き過ぎだ、って」
「働きすぎ?」
先輩がキョトンとした顔をする。
当たり前だ。俺だって入社前はこんな理由で注意されるなんて思ってもみなかったんだから。
「俺は仕事のスピードが人より遅いんです。だから、人より長く仕事をして遅れをカバーしようと思った。頑張るだけで周りに迷惑を掛けずに済むのならそれでいいと思ってたし、出来ると思ったんです。でも、それは違った。働ける時間には制限がある。残業は出来ない、でも仕事のスピードはそう簡単には伸びない。俺は不安なんです。この先やっていけるのかって。ホント、考えても仕方のない悩みです」
長々としたい話では無い為、俺は一気に話し切った。
「分かるよ、それ」
「え?分かる、ですか?」
初めてだった。
俺の相談に対して、先輩が「分かる」と返したのは。
人の悩みに対して簡単に分かると言ってはいけないというのは、先輩自身が言っていた事だ。
「私もちょっと前まで同じ様な事で悩んでたからね」
「先輩も、ですか……?」
「うん。私もさ、最近ごちゃごちゃしてたんだよ。二年前、父さんが亡くなって、急遽誰かがこの店を継がなくちゃいけなくなってさ」
先輩が若くして店長なのはお店を継いだからだったのか。
「小さい頃から店の手伝いはしてたから、上手くやれると思ってたんだけど、現実はそう甘くは無くて、客足は日に日に減っていった。でもだからと言って相談できる人もいなくて、余裕なくなって、一時期は一日中暗い気持ちで居る日もあった」
深刻な話をしている筈なのに、先輩の顔が穏やかなのは、先輩が悩みを克服したからなのだろう。
「先輩はどうやって乗り越えたんですか?」
「私は別に乗り越えてないよ。逃げただけ。ゴールに向かって全力でね」
ゴールに向かって全力で逃げる?
先輩は一体何を言っているんだ?
「後輩君が今抱えているその不安は、実は誰しもが持っている物なんだよ」
「誰しもが持っている?」
「そう。普段はその悩みを忘れているだけでね。でも、なんて事も無い日常の裏に隠れたその不安は、確かに心の深い部分にヘドロのように溜まっていて、偶に心を搔き乱された時に心の中を埋め尽くす」
「……」
静かに告げる先輩に俺は言葉が出ない。
「悩みを解決するには努力するしかないのなら、全力で努力するべき。でもそれだけじゃ辛いから私たちは悩むんだ。なら、好きな事に現実逃避ればいい。そうやって毎日を充実させていけば、いつかは心に余裕ができるものだよ」
「現実、逃避……」
それでいいのか?とは思う。
それでも、長い時間を共に過ごしてきた尊敬する先輩の実感の籠った言葉には妙な説得力を感じた。
「後輩君には無いの?何か現実逃避出来る物」
「……」
無い。
思い返せば、俺は社会人になってから仕事しかしてこなかった気がする。
でも、先輩との時間は――
「あの…………」
言葉に詰まる。
俺が今から言おうとしているのは甘えであり、逃げであり、とても図々しい願いだから。
「何?」
先輩の、今まで聞いた中で一番優しい声。
意を決して、言おう。
「これからも、この店に来てもいいですか?」
「もちろん」
先輩は即答してくれた。
昔と変わらない暖かい微笑みで。
「ありがとうございます……」
「どういたしまして」
対する俺の返事は恥ずかしさの余り、尻すぼみになってしまった。
そんな俺に先輩は悪戯っぽく笑った。
「先輩、今日はもう帰ります」
俺はそう言って代金をカウンターに置いてカバンを取る。
「え?食後のコーヒーがまだだけど?」
確かに、喋り過ぎて喉はカラカラだが。
「そのコーヒーは明日飲みに来ます」
「それは別に構わないけど……」
「後、明日のコーヒーはミルク入りでお願いします」
「あ!もしかして後輩君、本当はブラック飲めな「違います」え、じゃあ何で……?」
先輩が顔を輝かせるが、即座に否定する。
「ただ、久しぶりに甘いコーヒーを飲みたくなっただけです」
そう、俺はただ飲みたくなっただけだ。
懐かしく甘いあのコーヒーを。
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