サカナ

駅の時計は14時26分を指していた。

 時計を見る。

 次の電車まで、20分。

 無人の駅では自販機がヴーヴーと寂しく音をたてている。ひんやりとしたベンチにひとり、私は座っていた。

 なにをするわけでもなくスマホを取り出す。ロック画面には友人からのメッセージが、三件。ロックを解除するがメッセージを見るのは億劫で、結局ゲームを始めた。

 キャアキャアと楽しそうに騒ぐ声が聞こえてくる。おそらく私と同じ高校生くらいの女子だろう、知り合いと分かったわけでもないのに私は顔をうつむかせた。頼むからこっちへこないでくれ。

 私の願いも虚しく、彼女たちはかしましくこちらのベンチに近づいてきた。そりゃそうだ、私が座っているベンチの右横にはずらりと空っぽのベンチたちが整列しているのだから。待ち時間20分という時間ならば座って待つだろう。

 ゲームのログインボーナスを受け取っていると、私のベンチからひとつ空けてそのまた隣のベンチに三人仲良く座ったのがわかった。

 画面から目を離してチラと横目で見ると知らない制服が見えた。私の背筋は緩み、安堵の息がもれる。目線は再びゲームに向いた。

 彼女たちは大きな声で喋るので会話の内容が丸聞こえである。聞かれてるとは思わずに喋っているのか、聞かれてもかまわないと思っているのか。聞かれてもかまわないと思っているのだろうな。周りは知らない人しかいないのだ、当たり前だろう。知らない人。今までも、これからも。

 電車が出るまで、15分。

 今ので5分か。早く着き過ぎてしまったと思っていたが、案外あっという間かもしれない。

 その間もバカデカい声で話し続ける彼女たちはどうやら学校が別々らしい。「ウチのがっこは……、」と自慢話から始まって、くるくると話題が変わっていく。

「さなちゃんがそれ、よりによってセンセの前で言ったからさぁ、ゆかりが口を利かなくなったの」

「え、ゆかりってそんなキャラだったっけ?」

「あーなんか高校入って変わったかも。最近は色んな人と喋るし色んな人と喧嘩してる」

「え、意外。もっとおとなしい人かと思ってたわぁ」

「いやさなちゃんの方が変わったよ」

「うそうそ、どんな感じ?」

 開いたゲームは地下だからか通信状況が悪く重い。その上耳に入ってくる会話はゲームに集中したい私の気を散らしてしまって、過去最低点の表示が出た瞬間ぷつりと電源を切った。

 時計を見る。長針はさっきと変わらず6の位置だ。働き者の秒針がカッタ、カッタ、と進んでいき、長針の彼もやっと一歩進んだ。

 秒針は怖くないのだろうか。狂ったように動き続け回り続け、行ったっきりで戻ることはできない。

 どんなに頑張っても、一秒は一秒だ。

「電車遅くない?」

「や、あと10分ちょいあるもん。来るの早すぎたんだって」

 アハハハハ! と可愛い声で彼女たちは笑った。高くて可愛い声だった。

 意味もなくスマホの画面を点けたり消したり、スマホカバーのフチをなぞったりしたけれど、彼女たちの可愛い笑い声は耳から離れなくって、リュックからお気に入りであるライムグリーンのイヤホンを出してスマホに繋いだ。ぷす、とプラグをさす時に手に伝わる感覚が気持ち良くて私の気分は少し上昇する。イヤーピースのふにふにを堪能してから耳にそれを突っ込んだ。

 時刻は14時36分。きっかりあと10分だ。2曲……、短い曲なら3曲は聴けるかな。ダウンロードしてある音楽をランダムで再生する。音は少し大きく感じたが、周囲の雑音をかきけしてくれてちょうど良かった。

 早く家に帰りたい。きっと誰もいないだろうけど、待っている人がいないというのはとても気楽で体が軽くなる思いがした。

 いや、傲慢なことを言っている自覚はある。あると信じたい。お母さんもお父さんも元気だし、格好いいお姉ちゃんも可愛い妹もいる。みんな元気で毎日美味しいご飯を食べて、私なんて私立の高校にだって通わせてもらっているのだ。タノシイタノシイ高校セイカツ。

 「世の中にご飯を食べたくても食べられない、学校へ行きたくても行けない子どもたちが何人いると思っているの」と、ここにお母さんがいたら真っ先に言われていただろう。お父さんでも同じ。

 知ってるよ。わかってはないけど、知っているよ。何回も何回も言われたもの。それこそ大好きだった小学校の時の担任の、にしむら先生にだって。

 でもそう言われると、私のこころはいつだってもやももやと曇った。弱音を吐ける権利を取り上げられた気分になるのだ。

 私は幸せだ。きっと間違いない。幸せなことを嘆くのはいけないことだ。贅沢なことだ。

 なにをどう感じたとしても、結局こころの底のところでは自分が可哀想だと言って貰いたいと思っている私が嫌だった。可哀想と言って貰いたいって、なに? サイテーだ。我ながら軽蔑する。

 昔から私はこのような子どもだった。なにか気に入らないことがあるとすぐに拗ねてカビ臭い押し入れに閉じ籠った。可哀想、ごめんね、ごめんね、とお姉ちゃんやお母さんたちが謝ってくれるのをずっと待っていた。ヤなお子様。世界が自分を中心に回っていないことを認められないのだ。生意気ったらありゃしない!

 私は変わってしまっただろうか。小学生の時に私の望むような大人はいないと6年かけて知った。中学生の時に私も変わってしまうのだと、秒針が進む限り子どものままではいられないのだと3年かかって知った。

 高校生になってもう一年が経とうとしているけれど、私はまだ変わってしまっていないし、変わることもできないままだった。つまらない大人にはなりたくなかったけれど、ただ幸せを嘆く醜い子どものままでいたくもなかった。

 「変わったね」と言われるのが大嫌いだ。この前、中学の時の友人に会い、「さくちゃんは全然変わらないね」と言われてとても嬉しかったのを覚えている。その子は何て言えば私が喜ぶかを知っているけど、たとえそれが本心じゃなくても構わなかった。

 だから周りを気にせず、気にしていたとしても変わろうとしたその勇気が単純に羨ましくて憧れて、彼女たちの言う「さなちゃん」はすごいなァと顔も知らない相手にこころの中で賛辞を送った。“同年代”というだけで見ず知らずの人間と自分とを比べたくはなかったけれど、私の脳ミソは勝手にものを考えてしまうのだ。自分を貶められるようなきっかけがあるのなら特に。

 どろどろに煮詰まった思考が邪魔をしてきたところで片耳のイヤホンを外す。ひやりとした空気に触れ、マスクを外したわけでもないのに少し息がしやすくなったように思った。

 例の女の子たちのうちのひとりが、カラになったペットボトルを捨てにこちらに向かって歩いてきた。私が座っているベンチの左隣はゴミ箱だからだ。

「アッ」

 ぽここん、みたいな間抜けな音をたてて、私の目の前にそれが転がり落ちた。彼女は焦って拾おうとするが私が掴む方が早かった。

 血液が身体中を巡り、顔が熱をもったように感じる。彼女の目がこちらを捉える。

「ア、ありがとうございます~」

 へらりと返された謝礼に頷いてペットボトルを渡した。彼女はそれを雑にゴミ箱に押し込むと早足で仲間たちの元へ戻り、「落としちゃった、はずい」と囁いた。囁きだったけれど、声はこちらに届くくらいの大きさだった。器用なことをするものだ。

 強張っていた肩の力を抜く。ペットボトルを差し出した私の手は小刻みに震えていた。彼女は気づいただうか。

 時刻は14時43分。あと3分だ。片耳から脳に流れてくる音楽はとっくに次の曲へと変わっていた。音量をゼロにして一時停止を押し、イヤホンを外す。

 気づけば女の子たちだけではなく、くたびれたスーツを着たしかめっ面のおじさんや上品な帽子を被った小柄なおばあさん、中学校の制服を着た眼鏡の男の子がプラットホームのぎりぎりのところまで出て電車を待っていた。私もそれにならい、イヤホンをまとめてしまいベンチをたった。静かな空間に彼女たちの話し声だけが響く。

 同じ世界に生きているとは思えなかった。3人仲良くお喋りに興じている他校の生徒を見て、知り合いでもないくせに勝手に劣等感を抱いている自分に嫌気が差すなんて経験が、彼女たちにあるのだろうか。

 みじめだった。ひとりが好きなのに、帰って誰もいないと安心するのに、ひとりだとすごくみじめ。ここにいるのが同じ学校の生徒だったならばなおさらだ。

 でもそれをみじめだと認識する私自身はもっと嫌いであった。

 ゴゴゴゴゴ、と地響きのような音、それからガタタンガタタンと電車がレールの繋ぎ目を通過する独特の音が次第に近づいてくる。

 キキキキキィィィーッと耳につんざくような音が鳴り、電車が停まる。目の前で扉が開いた。

 降りる人はほとんどいなくて、すでにぎゅうぎゅう詰めの車内に飛び込む。近くに立っていたオネーサンのキツい香りの香水と、その隣にいたおじさんのコーヒーのにおいが混ざって気持ち悪かった。

 目を伏せて扉が閉まるのを待つがなかなか閉まらない。恐ろしいほど静かだった車内がざわめきを取り戻し始める。その直後、ポーンと、重たいチャイムが鳴った。

「黙祷ッ!」

 誰かが叫ぶように言った。


 手と手をあわせる。

 誰も何も言わなかった。

 あの女の子たちも、お洒落なオネーサンも、この世の疲れを溜め込んだようなサラリーマンのおじさんも。

 働き者の秒針の針だけが進んで、けっきょく時間が動き出した。

 3月11日、14時37分。

 私の乗った電車は、一分遅れで駅を出た。

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サカナ @kkk0303

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