最終章
物言わぬ黒尽くめの影が一つ、二人の前に立ちはだかる。顔の部分をガスマスクで覆い漆黒の長外套を纏った、恐怖の御伽噺の象徴。ちらつく白い鱗片は、その黒をより深くさせていた。
ミオはシキミを庇うように、彼の前に立ち黒近衛と対峙した。
油断なく相手の姿を観察する。黒い外套とガスマスクを身に着けた姿が、昨夜診療所に来た憲兵の背後に控えていたものと同一個体であるかどうかの判別は付かない。尤も個体の差など些末な問題だ。比較的人に近い姿形をしていて、体格差がそれ程無いのは救いだろう。少なくともミオにとってはその方が戦いやすい。
小さく息を吐いて呼吸を整える。そこでミオは自身にオリジンの力が宿っていることを改めて知った。
足元の石畳が黒近衛を中央にして六色に分けられている。その中の青と紫の領域の色が沈んでいた。其処に居ては危険だと直感的に理解した。幸いにも、今居る場所は黒色の領域だ。十分に剣の届く範囲である。大きく移動する必要はない。判断するや否や、抜刀と同時に距離を詰める。剣筋に一切の躊躇はなかった。
避けるよりも先に、白く鋭い刃の切っ先が黒近衛を捉える。舞う小雪をものともせず、同時に二撃、どちらも急所に入った。ガスマスクから空気の漏れるような音が零れ、黒衣に包まれた身体が揺らぐ。黒近衛に痛覚があるのかは分からないが、相当なダメージを与えられたと見て良い反応だろう。
手応えを感じながらも警戒は解かない。自身と、隣に居るシキミに変化がない事を瞬時に確認し、次の手を打つ。
今の攻撃のせいだろうか、黒近衛が僅かに身を引く。しかしそれは撤退の気配ではなく、傷を治癒し体力を回復させるための動作だと理解する。させるものかと、それよりも前にミオは動いた。相手の行動の察知が己の経験に基づくものであるのか、人ならざる力を借り受けた騎士としてのものなのか、それを考えるのは今ではない。
ちらり、とシキミを見る。相手へと距離を詰めれば護るべき彼と離れる事になる。そのリスクを計算しても尚、手負いの相手を此処で屠る事が最善だと判断を下した。
黒近衛を見据える白銀の瞳に揺らぎはない。敵に対する恐れも、また憐憫も皆無だ。その双眸がガスマスクに反射して映る。
剣を構え直し、黒近衛へと直進する。閃光の如き動きは人間の身では到底出来るものではない。刀身は再度、避けようとした黒近衛を斬り裂いた。しかし、浅い。あと一歩足りない。再度踏み込もうとした刹那、その刀創から黒近衛の装備がボロボロと爛れていった。
『黒近衛達から逃げる時に必死になっていたら……僕の手を掴んだ黒近衛の手が、爛れていました』
シキミの言葉が耳に蘇る。ドリアートである彼の力が、それを借り受けているミオの剣に宿っていたとしても不自然ではない。
目の前で黒近衛の身体が灰塵と化し、消え去ってゆく。掛ける言葉もなく、ただその様を目に映していた。とはいえ、共に無傷で黒近衛を撃退したのは喜ぶべき事実である。やがて霧散したことを確認して、ミオは背後を振り返った。
「大丈夫?」
「ど、Dr.……?」
怯えや恐怖、ましてや苦痛ではない。ただただ困惑を滲ませた様子でシキミはミオを見る。
「貴方は、一体……何者なんですか?」
ある意味当然の反応だろう。オリジンが力を与えたから、到底それだけでは今の戦いぶりは説明できるものではなかった。手を引かれ、黒近衛と対峙した。それから瞬く間に剣を揮い、黒近衛は倒された。それがシキミの目の前で起きた事の全てだった。理解しきれないとしても無理は無い。彼は今まで荒事とは無縁で生きていたのだから――ミオと違って。
「……知りたいなら、戻ったら教えてあげる」
流石にこの場に留まったまま話をするのは落ち着かない。一先ずは診療所に戻ろうと言う言葉にはシキミも異存は無かった。
来た時と同様に手を引こうとして、一度それを留める。そうして改めて差し出された手に戸惑いが浮かんだ。謝罪をしたミオの挙動は、シキミの目には触れる事を躊躇うように映ったのだ。
「ええ、と……僕に触れるのが嫌でしたら、お気遣い無く」
「そういう事ではないよ」
決してその意図は無かったのだとミオは即座に否定する。緩く首を横に振って、結局は手を取り合う形となった。
「怪我は無いね?」
「何もありませんでした、と言いますか、何も出来なかったと言いますか……はい」
「そんな事はないよ。君の力がなければ届かなかった。ちゃんと背中は押してもらったよ」
人間の力だけでは黒近衛を退ける事は不可能である。何処か申し訳なさそうな顔をするシキミに対して「寧ろ」とミオは眉を下げた。
「僕の方が怖がらせたかな」
いいえ、とシキミは首を横に振る。言葉を探すように間を置いてから、再度口を開いた。
「格好良かった、ですよ?」
「……そっか」
その言葉に、ミオは苦笑交じりの顔を伏せる。玄人業の剣技を、荒事に慣れていない者が見たら恐れられてもおかしく無いだろうに。圧倒されたのは確かだが恐怖はなかったとシキミはあっさりと受け入れた。微かに胸が痛むと同時に、何処か温かなものに包まれるような、言い表せない感覚をミオは覚えた。
無言のまま、手を引いて二人は診療所への帰路に着く。白い小雪が柔らかく、彼等の戻る道の跡を覆っていた。
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