第一幕

 翌朝。目を覚ましたシキミが処置室から出てきたのは、様子を確認しようかとミオが考えていた頃の事だった。

「おはようございます」

「おはよう。よく眠れた?」

「お陰様で。思っていたよりも疲れていたみたいです」

 さもありなん。黒近衛から逃げ、倒れて目が覚めたら暗がりの騎士と契約を結ぶという大事を経験したのだ。疲労はさぞ大きいものだっただろう。

 医師としての目で彼の状態を観察する。一晩眠ったおかげだろうか、幾らか顔に生気が戻ったように見える。足取りもしっかりしていた。良い兆候だと、ミオは僅かに目元を和らげた。

「昨日より顔色も良くなっているね。食欲があるなら朝ご飯用意するけど、どうする?」

「では、頂きたいです」

 当人曰く、シキミはこれまでの二十年は人と変わらずに過ごしてきたのだ。この後オリジンとしての特徴が濃くなった場合はその限りではないのかもしれないが。一先ず、今は。

 とはいえ、まだ本調子でないのも事実だろう。食べるのであれば温かくて消化の良い物の方が良いと判断し、作り置きのスープを温めた。一人で診療所を回しているだけあって、家事も一通り以上に出来る。また自身の体調管理という側面から出来るだけ食事には気を配るようにしていた。

 ふわりと湯気の立つスープにパンを添えてシキミの前に置く。行儀良く手を合わせた彼と向き合い、ミオにしては少し遅い朝食を摂った。誰かと共に食事をするのは、一体何時以来だろうか。双方喋る気質でない為に決して会話が弾むものではないが、沈黙はそれほど苦にはならなかった。

 一通りを食べ終えた頃になって、ぽつりとシキミが言葉を零した。

「これから、僕はどうしたらいいのでしょう」

 黒近衛から逃げるといっても、あまりに漠然としていて如何したら良いのか見当が付かない、そんな困惑が滲む声だった。彼の往く道を他人が口出しし過ぎるべきではないとは理解しているが、迷う者に手を差し伸べたいと思うのもまた当然の感情だろう。昨夜から考えていた一つの案をミオは口にした。

「一番良いのは、この街の外に出る事だね」

「町の外に……?」

 驚きに見開かれた目に頷いて、ミオは少し前までスプーンを握っていたシキミの手を指差した。

「今君が着けている手袋、本来それはこの街には無いものだよ」

「そう、なんですか? 確かに初めて見る材質のものでしたが」

「あまり大きな声では言えない事だけどね」

 納得する部分はあるものの困惑が勝るといった様子で首を傾げる彼に対して、ミオはまるで内緒話をするかのように声を潜める。他に誰も聞いていない事は承知の上だが、それでも今から話す内容はあまり大っぴらには出来ないものだった。

「この街を覆っている灰色の壁。その向こうには、沢山の国があるんだよ」

「そんな、事って……あるんですか?」

「このフォートヴラッドだけが世界ではないんだよ。この国以外にも沢山の国があって、そこではフェアリーやオリジンが迫害されずに暮らしている場所だってある。そこなら、ここに居るよりも安全だと思うよ」

「……どうして、Dr.はそんな事を知っているんですか?」

 シキミの疑問はごく当然のものだろう。この街の人々にとって、壁の外の世界など知り得る筈も無い事だ。返す言葉をミオは少し選んだ。決して嘘は口にしないが、同時に今は言うべきではない事があったからだ。

「昔の話だけど。壁の外に居た事があるから、かな」

「壁の、外……? そんな、行ける筈がない、です」

「この街は、外の世界なんて無いって言っているからね」

 壁の中で生きてきたシキミにとって、ミオの話は俄には信じ難い事だった。そういった反応も想定の範囲内だ。けれど、ミオは事実として外の世界を知っている。嘗てそこに居たのだから。

 ミオが嘘を話している訳ではないとシキミも察してはいた。しかし、だからと言って内容をすぐに受け入れられるかどうかはまた別の話だ。

「壁の外には何も無い。だから、ここで生きていれば安全だって、そう教えられました」

「でも、それが正しくない事だっていうのは、君ももう知っているよね」

 追い詰めるような言葉になってしまうのは心が痛むが、それはシキミが身を以て知った現実だ。今の彼にとってこの街は決して安全な場所ではない。

「それは……そう、です」

「だから。此処で平穏に生きていけないのなら、外の世界で希望を見た方が前向きだよ」

 悲し気に伏せた顔がこれ以上俯かないようにと、ミオは言葉を重ねた。

「僕の言った事はまだ信じられないかもしれないけど、その手袋は外の世界があるって事を証明しているからね」

「確かに……こんな手袋、今まで見た事も無かったです」

 それに、と。自身の手から視線をミオへと上げる。

「僕は、貴方の言葉を信じてみたいと思いました。もし、この壁の中以外に世界があるのなら……僕は、そこに行ってみたい」

 突然これまで信じていた価値観を砕かれ、脅威から追われる身となった。暗がりに叩き落されたシキミにとって、ミオが語った街の外という存在は一欠片の希望となるに十分なものだった。願いを語る声色は随分と柔らかい響きを帯びていた。

「そこには、僕のような人は居るでしょうか?」

「この街の中にだって沢山のフェアリーは居るし、もしかしたら出逢えるかもしれないね」

 尋ねられた言葉に、必ず居ると言い切る事はしなかった。少なくともミオはシキミのような種族を彼以外には知らない。安請け合いをしようとは思わなかった。ただ。居れば良いと、いつかシキミがまだ見ぬ彼等と出会う事が出来れば良いとは思った。そう口にすれば、シキミは少し不安げに首を傾げた。

「僕が仲間と出逢ったらDr.は何処かに行ってしまうんですか?」

 はた、と。思いがけない疑問を向けられて虚を突かれる。ミオ自身、自分が街の外に出て如何するかという事を考えた事は今までなかった。ただ、何処に居ようと、自分が医師であることは変わらない。そんな自分を必要とする患者が居るのであれば誠意を以て応じるだろうと、己の考えを口にする。

「それでも、君をその手のまま置いて行く事はしないと思うな」

 シキミが同じ力を持つ仲間と出逢う場を見届けることと、彼が憂うものを癒すことは全く別の話だ。喩え彼が治療を断ろうとしても、中途半端な状態で投げ出す事を医師としてしたくはなかった。

「種族としてのものであったとしても、君自身がその手で気に病むようであれば、何とかしたいと思うから」

 再度、手袋を指して言った。ほっとしたように少し表情を緩めたシキミが頷いた。

「ありがとうございます。Dr.……でもそうしたら、僕は貴方に一体何を返せるのでしょう?」

「患者さんがそんな事は考えなくても良いんだよ、とは言いたい所だけど」

 一度ミオは顔を改める。目に見える変化としては酷く些細なものではあるけれど、まっすぐに見詰める白銀の瞳に宿る光の強さを、シキミはしっかりと感じ取った。

「僕の力だけでは君を護り切ることは難しいから、その時はオリジンの力を借りる事になると思う。だから、その時はよろしくね」

 オリジンの力は強大で、人間の身体と魂に著しい負荷が掛る。ともすればその身を滅ぼしかねない――全てを承知の上で、ミオはシキミを助けようと手を差し伸べた。そして、シキミはミオの意思を信じたからその手を取った。暗がりの騎士とオリジンが交わす契約に、それ以外は必要ない。

「分かりました。ありがとうございます。Dr.」

「こちらこそ。信じてくれてありがとう」

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