可視光線

灰野 折

第1話


水面がゆれる。ゆらゆら揺れる。光の粒を満遍なく纏って、それらをころころと弄ぶように転がす。


やっとこんなに近くで見れたプールの水面は想像していた通りに眩しくて、想像していたよりもなんだか物足りなかった。

あんなにも焦がれていたものなのに、近くで見てみればあっけなく感じてしまうのは私の感性が麻痺してしまっているからなのか。それとも。


「だれ」


低い声が鼓膜をついて勢いよく私は顔を上げた。少なくとも今日は誰も来ない、来るはずのないこの場所に私以外の人がいる。


「ここ、水泳部以外立ち入り禁止なんだけど。あんた、水泳部じゃないよな」


「あ、」


返事が喉に絡まってそんな間抜けな声しか出なかった。忍びこんだのがバレてしまった、という後ろめたさに私は目の前の、彼の顔を見れずに俯く。


「ごめんなさい」


俯いたまま、呟く。空気ぐ揺れる気配がして、彼がこちらにゆっくりと近づいてくる。ペタペタペタペタ。熱を持ったプールサイドを歩く彼の足音のリズム。


「それ」

「は、い?」

「スケッチブック?」

「あ、はい」


ん、と彼がこちらに右の手のひらを差し出す。なんだかわからなくて首を小さく傾げれば「それ、見して」と言われて書きかけだったスケッチブックをそっと、彼の右の手のひらに置いた。


まじまじと私の書きかけのスケッチブックを見る彼の様子をしばらく伺っていたけれど、なんだかいたたまれないような気持ちになって、さっきまで眺めていたプールの水面に再び目を向けた。幾分か凪いだ風が優しく水面を揺らしている。


「これ、完成?」

どれくらいたったころだったか。彼がふとそんな言葉をこぼした。

「ううん。まだ」

「でも、綺麗にかけてんじゃん」

これ、と彼は私が描いた絵を顎でしゃくりながらスケッチブックを返してきた。

「うん。まあ、そうなんだけど」

ゆっくりと、自分が描いた絵に目を落とす。プールサイドのベンチ。日陰になっているそこで描いた絵。今まで見てきたよりも、ずっと近くで描いた絵。

絵の表面をなぞる。鉛筆の黒が指先について、私はそれをなじませるように指先をこすり合わせた。

「なんだか、足りなくて」

「足りない?」

「うん」

ずっと3階の教室の窓から揺れる水面を見ていた。夏の間だけ、あんなにも魅力的に輝くそれをこの小さなB5の紙に映し出して見たかった。胸を高鳴らせて、鷲掴みにして離さない存在を私の手で表現してみたかった。

「でも、無理だったみたい」

「なんで」

「だって、なにかが欠けてるもの」

彼と話したのはこれが初めてだというのに、本心を言ってしまう。まるで自分から、一番の弱点を差し出しているみたいな感覚になる。


水泳部の休みだった今日、こっそりと忍びこんで近くで見たプールの水面はあんまりに綺麗で、でも物足りなかった。あんなにも焦がれていたのに、その焦がれていた気持ちすらをちりちりと、じわじわと焦がしていってしまうほどに。

「どうして、なんだろう」

やはり私の感性が麻痺してしまったのかもしれない。焦がれすぎて、私の感性にはガタがきてしまったのかもしれない。

私は親指と人差し指の指先にこびりついた黒を見つめた。

「そんな遠くで見てっからだろ」

「え、」

「もっと近くで見てみろよ」

「どう、やって」

彼がにやりと笑って。これからの行動の意図を掴んだときにはもう遅かった。スケッチブックをひったくるようにとられて、プールサイドに放られる。腕を引っ張られて、一緒に、プールへと飛び込んだ。

ザバッ、という音とともに、身体が沈む。

急なことで私はあわあわと空いている手を水中で掻いた。

「ん」

彼が私の肩を叩く。細長い指が上を指差している。見上げろ?

「、っ」

見上げて、そこに広がっていたのは青くて眩しい世界に思わず息を呑んだ。私と彼、二人分の気泡がぷくぷくと浮かんでいって、それさえもその世界を彩っているみたいだった。

空の青、乱反射する光の粒。ぽわりと浮かんでは消える、気泡。

なんだか、全てが綺麗で。でも綺麗って言葉なんかで表現していいのかわからなくて。私はずっと、息が止められなくなる瞬間までその景色を見ていた。


仰向けで水の上に浮かぶ。彼も同じように浮かんで、なにも言わずにただずっと空を眺めていた。

「なあ、青かった?」

「うん、青かった。すごく」

そっか、と落ち着いた声で言ったかと思うと彼は何を考えたのか、バシャン、という音を立てて、水の中へと沈んでいく。

「え、ちょっ、」

私は大の字に広げていた両手を不恰好な蝶みたいにバタつかせる。引っ張ってあげなきゃ、と思って、すると彼はゆっくりと上がってきた。

「なにやってんの、びっくりした」

「俺には、もう青く見えないんだよな」

感情のこもっていないような声。視線をずっと水面に向けたままの彼に、問いかけた。

「泳ぐの、やめちゃうの」


声に出した瞬間、緊張とかその話を耳にした時の驚きに襲われた。

彼は何も言わない。ただ黙って水面を見つめている。

「千景くん」

初めて、彼の名前を呼んだ。ゆっくりと彼がこちらを向いて微笑む。

「名前、知ってたんだね」

「うん」

千景日向。誰にでも優しくて、かっこよくて、水泳部のエース。

「知らない人はいないよ」

「そうかな。和久井さんは知らないと思ってた」

自分の名前を久し振りに他人の声で紡がれて、鼓動が変になる。

「どうして、やめちゃうの」

再び、彼に問いかける。おそらく、彼と関わる人は知りたがっているであろう、それを。

彼が水泳部をやめるという話が噂になり始めたのはつい1ヶ月まえのことだった。将来有望と期待され、強豪校であるここへ来た彼が、なぜ。

「もう、青くないんだ」

蝉の声。ひどく遠くから聞こえる吹奏楽部の不揃いな音色。


きっと、私と彼以外にはわからない。誰も理解することはできない。さっき彼と見た景色が写し撮ったように頭の中に浮かぶ。

彼の言ったことが胸にストンと落ちて私は何を言うでもなく、また水の上に浮かんだ。

視界に広がる、空の青。その端でチラチラと揺れる、プールの水面。

「私が見てた千景くんは、すっごく青かったよ」

3階の教室の窓。遠く離れたプールで誰よりも青く見えたきみ。

ふは、と彼の弱い笑いが聞こえた。

「俺も、和久井さんと見た水面は青かったよ」

青をなくした千景くんと、青を見つけたわたし。

「千景くん」

「ん?」

「完成したら、見てほしい。絵」

「ん。わかった」

ゆらゆらと揺れる水面。光の粒がころがる。それと、きみ。

もう青が見えない君に見せてあげたいなんて、そんなことを思った。

「和久井さんの青、見せて」

そう言われて、彼と同じように微笑んで、空へと手を伸ばす。

開いた指と指の間から太陽の光が漏れて、私の目を焼いた。


青はまだ、続いていく。

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可視光線 灰野 折 @saika_s

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