第四章 未来の正しい書き換え方

4-1

「アキちゃーん。おーい……」

 演劇部から帰宅しておよそ一日が経過していた。私がアキちゃんを寝室になんか入れてしまったのが悪手だった……あれから彼女は部屋の内側に鍵をかけて思考を続けている。

「一日何も食べていないでしょ。軽めの物だけど用意したよ」

 牛乳に浸したフルグラ。個人的にこれを料理とは呼びたくないけど……空っぽの胃にきちんとした料理を入れるのは怖い所がある。だからってアキちゃん御用達の完全食品は避けたい所。一気に飲み干して思考に戻られてはそれこそ体に毒。「過集中」なんて言葉を聞くと「かっこいい」だなんて勘違いする中二病な人たちがいるだろうけど、休憩を挟まずに一日中走り続ける様子を想像してほしい。緊張の糸が切れた瞬間、忘れていた痛みが逆流する、非常に不健康な行為なのだ。

 アキちゃんの脳はその辺の人間よりも処理能力があるけど、だからって一度くらい休憩を挟まなければ……でも、わざわざ鍵をかけるって事は相手が私だろうと入って欲しくないって事だし――

「ああ……」

 こういう時相手が姉だったら問答無用で侵入してお風呂と食事とマッサージをお見舞いするのだろうけど……ええい私はヘタレな男子中学生か!

「……アキちゃん」

「……………………」

 内側からはカサカサカサと何かしら作業する音が聞こえる。どうやら今回は計算規模が大きいらしく、部屋そのものを魔法陣にでもしているのだろうか。

「……………………‼――」

 音が止まる。

 同時に、ドン!と一際大きな衝突音。

「アキちゃん!」

 合鍵だなんて悠長なもの使っている場合じゃない。私はフルグラをうっちゃるとドアを蹴破り部屋の中へと――

「…………マナちゃん……」

「――ッ」

 部屋の中は惨憺たる有様だった。真っ白な壁面一枚を巨大な魔法陣にしているんだろうなぁ、なんてぼんやり考えていた自分を張り倒したい。壁はもちろん、床、ベッドシーツ、天井、パソコンの液晶画面……書き込める物体であれば何もかもに黒々としたおぞましい跡が刻まれている。

 部屋を埋め尽くす魔法陣。それだけでも人を怯えさせるのに十分な光景だけれどそんなのは序の口。六畳間にパソコンとベッドだけだったアキちゃん部屋にはいつの間にか大量の張り紙が魔法陣の上にかぶさっていたり、別の魔法陣に上書きされては内容を汚されていたりしていた――

「これは――」

 A4サイズの印刷紙。パソコン周辺機器の鉄板と言えばカラープリンターだろう。ペーパーレスが進んでいる昨今でも、直感的に判断したい時には内容を印刷した方が捗る事もある。しかしながら……そこに出力された内容はどれも殺人事件に関するものばかりで……中には地上波ではお目にかかれないようなおぞましい赤色の画像まで――

「アキちゃん!」

「マナちゃん!」

 私が支えるよりも先にアキちゃんが私の胸へと縋りつく。一つの答えを出し終えて……疲労のためか掴む力は弱弱しい。夢と現の間をさまようような握力。

「殺される…………殺されちゃう‼」

「ちょっとアキちゃん――」

 それでも体の震えだけは止まらない。寝たら最後――草食動物が肉食獣に睨まれた時の反応。今のアキちゃんには何も見えていない。私の顔を見ながら瞳に映るのは深淵。七年前の空白。アキちゃんはわが身に迫ろうとしている恐怖にかつての経験を重ね合わせて――

「――」

「アキちゃん‼」

 緊張の糸が切れたらしく、アキちゃんはその場で気絶した。直前の体勢のおかげで彼女を何とか受け止められたけど……。

「一体何を……それに……私?」

 答えを聞こうにも肝心のアキちゃんが寝てしまったし、私では魔法陣を解読する事は不可能だ。あの独特な文字列の解読法は彼女の頭の中にしかない。

 とはいえ印刷された情報であれば流石に原文ママだろう。私は少しでも状況を把握するために推理ドラマよりも見栄えの悪い犯罪相関図を覗き込む。

「これって……」

 資料が錯綜する中で目立つ位置に配置されているのは例の連続殺人事件に関するもの。この事件は確かに身近な恐怖と言える。私達が住む町で発生していて、アキちゃんもかつてこの町で誘拐された舞台。でも……アキちゃんがこの手の事件に敏感に反応するのはだ。

「事件と私達とにどんな関係が――」

『バッ! バッ! バッ!』

「⁉」

 思考を打ち切るようにスマホが振動する。このパターンは蜷川からの電話の合図。まったく蜷川のヤツ……追い詰められている時に限って――

「ああもう!」

 ひとまずアキちゃんをベッドに寝かせる。本当はもっと清潔なシーツに寝かせたいけど、今はこの電話に出なければいけない、そんな予感がする。

 アキちゃんが示した「私達」。彼女の交友関係はかなり限定的。そしてその中には――

「はい九条です」

「……マナセンパイ」

 いつものおどけた調子の無い、トーンの落ちた声が耳元をなぞる。

「アンタが掛けてくるなんて珍しいじゃない……悪いけどこっちは忙しいの。アキちゃんが倒れて、いつも通りの緊急事態。特に用が無いなら切るわよ」

「………………」

 おいおい、頼むから何かリアクションを取れよ。アンタが落ち着いているとこっちがむずむずする……。

「……蜷川……?」

「たすけて」

 電話はブツリと一方的に切れ、同時に地図アプリへと座標が送られて来た。場所はこの街の総合病院――

「おいおいおいおい」

 あの蜷川がここまで弱って、しかも私を頼ってきた。こんなことがあるだろうか。事態はアキちゃんの予測通り最悪な方向へ向かっている……?

「……………………」

 アキちゃんか、蜷川か。普段であれば私は迷いなくアキちゃんを選ぶ。今の能力を使い切った彼女は無防備なことこの上ない。マンションのセキュリティは信頼できるものだけど、この世に完璧なんて存在しないのだ。異常者は思いもよらない方法で日常を浸食する――

「……っ、ああもう!」

 私はアキちゃんの実家に電話をかけた。予想通り電話口にはおばさんが。犬猿の仲だとしても私達の根っこは同じ、私はおばさんに要点だけ説明してマンションでアキちゃんを守ってもらえるように頼んだ。

「迷惑な奴……っ!」

 バイクセットをひっつかんで部屋を飛び出す。こうなったらエレベーターよりも階段二段飛ばしの方が速い。エントランスで中野さんに「家族以外をアキちゃんの部屋に近づけないように」と言付けを残してFTRに跨る。

 田舎の道は交通量が少ないことだけが救い。速度超過もお構いなしにスロットルを吹かして私は蜷川のいる病室に――

「蜷川ッ‼」

「あ! マナセンパイだ!」

 はたしてそこには普段通りの茶目っ気満載の蜷川の姿があった。ニコニコ笑顔で他人を馬鹿にしたようにコロコロ笑う。今日もスマホを片手に撮影中。フラッシュが私の顔面を襲っては――人が必死な顔のどこがおかしいんだよ……、

「早かったですね。もっと時間がかかるものかと」

「……アンタ……」

「ああですか? そんな深刻な顔しないでください。ちょっとしたかすり傷です――」

 だから笑って下さい、なんて笑っていても言葉尻が湿っているのは丸わかりだ。

 相手が私で強がっているのか、それとも彼女が普段から笑顔の仮面をかぶっているのか。それはともかく……蜷川の左頬全体がガーゼ覆われていて――

「大丈夫なの……」

「みんな大げさなんです。こんなのちょっと切られただけでベッドの上に座らされて、精密検査だからってダッサい患者衣。女の子なんだからオシャレとメイクくらいさせて欲しいのに……」

「そんな強がり言わなくていいから……痛かったら痛いって言いなさいよ……。どうせここは病院だし……それに襲われて怖いなんて当たり前でしょ……」

「マナセンパイ、やっぱりあなたは優し過ぎますよ。センパイはアキセンパイの下にいるべきだった」

「何を言って……」

 蜷川が崩れる。私の胸にしな垂れかかって……普段は私を見下してくる彼女が収まるほどに小さく……。

「マナセンパイは常に他人の幸せの事しか考えていないじゃないですか。お二人の間に割り込める、アキセンパイに近づける人間なんてとっくに誰も居ないのに、マナセンパイは走り続ける。そして今は私が危険だからって理由でここまでやってきて……センパイの事だからアキセンパイを守る策がいろいろあるんでしょうけど、それは悪手です。少なくとも、今回の事件ではセンパイはアキセンパイの側を離れるべきじゃない――」

 ――まあ、そんなマナセンパイだから甘えられるんですけど。

「……」

 アキちゃん相手に散々慣れた胸元に広がる湿り気。声を上げないのは彼女のプライドがそうさせるのか。すっぴんだとしても蜷川の美しさと柔らかな匂いは変わらない。けれど今は少し塩辛い。

「……」

「……」

 ありがとうございます。先に沈黙を破ったのは蜷川だった。顔を上げるとそこにはいつものニコニコ笑顔が。目元に腫れも無く、私のTシャツの湿り気が無ければさっきまでコイツが泣いていたなんて分からないだろう。ほんと、切り替えの良い奴だ。

「センパイ、私のカバン持ってきてくれませんか?」

「別にいいけど……こんな小さなバッグに何入っているのよ」

「メイク道具です。化粧崩れを直すための最低限の物しかないですけど、顔を整えたいんですよ」

「傷口に響くから没収」

「酷い! 私の素顔はメイクして完成するんです。こんなひどい見た目で事情聴取なんてむさくるしい事に参加できません!」

「アンタねぇ……」

 元気になったと思ったらこれかよ……。まぁ、いつもの調子を取り戻してくれて何よりだけど。

「すっぴんで誰かと会うのが怖いって言うんだったら隣にいてやるから、とにかく自分を大事にしなさいよ。あんたにとって綺麗な顔は何よりも大事なんでしょう」

「……センパイはやっぱりずるいです」

「言ってろ」

 こうして馬鹿な行動を止められたのは良かったけど……果たして他人である私がノリで事情聴取に参加する事になって良かったのだろうか。

 聞くところによると蜷川の両親もウチと同じ共働きで休日だろうが手が離せないらしい。

「と言うわけでセンパイにはいとこの姉役になってもらいます」

 このとんでもない大嘘つきを相手にしなければならないなんて……警察も可哀想に。

 しかしながら蜷川も役者、私服の刑事が入ってくるなり取り乱したフリをし、涙を浮かべながら私の腕を掴んできたのである。それを事件のショックと勘違いしてくれたのか、私は彼女の保護者としてその場にいる事を許された。

 一つ大きな嘘をついているためか、彼女は事情聴取に素直に対応してくれた。

「昨日の土曜日の夜……時刻は二〇時四七分くらいですね。インスタに自撮りを投稿しようとしたら……」

 蜷川は一度私に画面を見せると、その後刑事にも写真を見せた。映えを厳選するために連続モードで撮られた一連の写真、フラッシュに飛んだ背景の中に突如として迫る黒い影。

「画面に違和感があって……町が危ない事はニュースで聞いていましたら……切られちゃいましたけど、とっさに護身用のスプレーを使ったんです」

 今回ばかりは蜷川のインフルエンサーとしての勘と私のおせっかいが功を奏したらしい。これで相手が一般人であれば「災難でした」と同情するけど、写真には切れ味の良さそうなナイフがバッチリ映っている。蜷川は見事に世を騒がす異常者から生還することができた。

「この写真だと犯人の姿が分からないんだけど……何か特徴を覚えていませんか?」

「とっさのことだったので服装とかは何とも……。ただ……一目見ただけでも分かる綺麗な女性だったってことですかね。変な感じなんですけど、スプレーをかけた瞬間後悔したっていうか……傷つける事をためらうというか……襲われる恐ろしさよりも美しさの方が勝る、そんな人でした。ひょっとすると今までの被害者もそれが原因で警戒心を解いてしまったのかも……」

 刑事がスマホの画面を食い入るように見る。事件の犯人があからさまに怪しい恰好をしているとは限らない。むしろいかにが勝負といえる。異常者は一般人の皮を被って、隙を突いてくる。

「! もしかして――」

 刑事はスマホと蜷川の顔を交互に見比べる。ひょっとしたら警察の勘みたいなやつが働いたのかもしれない。

「刑事さん、何か分かったんですか!」

「君ってひょっとして環奈ちゃん⁉」

「え?」

「……は?」

 私と蜷川は同時にフリーズした。

「ええっと……これ!」

 刑事は慌ててポケットから自身のスマホを取り出し画面を表示させる。そこには蜷川のインスタ画面が。

「恥ずかしながら本官もフォローさせていただいております」

「……はぁ……」

「………………」

 被害者が自身の信仰の対象である事に役得でも感じたのだろうか……刑事は堰を切ったように蜷川の魅力を語りだした。

 ……肩書が偉くとも、所詮は地方のおっさんが……。目の前にいるのは昨日殺されていたかもしれない傷ついた少女だと言うのに……警察が被害者をセカンドレイプしてどうするんだよ……――

「……」

「セ……お姉ちゃん」

 乗り出そうとした私を蜷川が制す。コイツも私と同じく――ひょっとしたら私以上に――不快感を味わっているのだけど、その表情が一転して媚びるような明るいものになる。

「ねえ刑事さん、もしかしたら私また狙われるかもしれません……。防犯対策のために事件について詳しく教えてくれませんか?」

「え……それは流石に……本官にも守秘義務がありますし……」

 お題目を持って来れるあたり警官としては機能している。そこは褒めてやる。けれど言葉とは裏腹に鼻の下は伸びまくり。おじさんとは、いや、雄とはいいところを見せたがる生き物なのだろうか。刑事ですらこれだと世も末だ。

 そしてその隙を突こうとする蜷川もまた稀代の悪女の才能がある。彼女はインフルエンサーとして培ってきたコミュニケーション能力を存分に発揮すると刑事から事件の情報を見事に引っ張り出した。

「事件は決まって二〇時以降に発生しています。そこからご遺体を損壊して……失礼」

「他の被害者も環奈ちゃ……蜷川さんと同じように自撮りなどの隙を突かれて背後からの一撃で――この方法から県警としては一連の事件が同一犯の物だと考えています」

「ネットで出回っている写真は被害者のスマホからも投稿されていました。どうやら犯人は自己顕示欲が強いらしく……こちらも削除申請を出すなどして対応しておりますが……」

 これ以上の情報は流石に出せないらしく事情聴取は解散となった。最後に蜷川は刑事さんの警察手帳に記念のサインをしたため……それを受け取ったおじさんは何度も「ありがとうございます」と頭を下げるとホクホク顔で病室を出ていった。

「あの野郎……次会ったらぶん殴ってやる……っ」

 収穫はあれど非常に不愉快な事情聴取だった。情報をアキちゃんへのお土産に出来るかもしれないけど……蜷川に媚びさせてしまったようで座りが悪い。

「……女の敵は女、なんでしょうかね」

 対照的に蜷川は落ち着いていた。無感動に扉を見つめ、ガーゼに触る。彼女曰く、大げさなガーゼに覆われているだけで顔の傷は浅く、全治一週間といった所らしい。

 だからって「大したことなくて良かったね」なんて無責任な事は言えない。怪我の大小なんて関係ない、今日一日だけでも酷い目に遭っている。「襲われた」という事実だけでこれから先の人生大きくゆがめられるなんてざらだし、なにより相手は蜷川の最も大切なものに手を出したのだ。

 そして……その魔の手は……アキちゃんの予測を信じれば彼女にも伸びようとしている。

「まさか。女の、人間の敵は異常者よ」

 慰めの言葉だなんてお互い求めていない。私達の関係はそんな甘いものでは無いのだ。

 だけど……せめて少しだけでも蜷川のために何かしたかった。

 日常に犯罪が入り込んでしまった少女相手に、私が出来る事は何だろうか。無力感に苛まれながら私は病院を後にした。

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