3-2

「……」

「……」

 衆人環視……とまではいかないけれど、苦手な通学路であるにも関わらずアキちゃんが盾代わり私に身を寄せる様子は無い。それどころか周囲に怯えず、視線はあさっての方向を向いている。

 アキちゃんの記憶力と空間把握能力は完璧なので、例え後ろ向きで歩けと言われても彼女は難なくこなす。多少のよそ見程度では転ぶ事すら無い。

 普段は倍以上かかる通学路、それを早歩きで登校して……アキちゃんは通学タイムアタックの新記録を更新しようとしていた。長年アキちゃんを見てきた私としては嬉しいやら、気まずいやら……。朝方作ってしまった桃色の気まずさが原動力だと思うと……私の長年の苦労は一体何だったんだよ……。

 本能への敗北感から私も保健室で休みたい所だったけど、今彼女と密室にいる方が危険だと冷静に判断した私はいつも通り一人教室に向かう。

「……ん?」

 廊下を行く生徒の姿が多い。昇降口も賑やかだったし、すれ違う生徒たちは皆何かしらの荷物をもってあちこちを移動している。

「ああ、そうか」

 そう言えば本校は絶賛文化祭の準備中だったのだ。確か開催まであと二週間だったっけ。

 文化祭とは奇特なものでハード面での準備は一か月以内に済ませなくてはいけない。準備期間が長すぎると平時の授業の邪魔になるし、短いと飾り付けどころか出し物一つ出せない。

 そんな貴重な一か月の半分が経過してしまっているのだから学校中がお祭り騒ぎになってもおかしくない。早朝でこれなのだ。昼休み、放課後になると騒ぎはこれからもっと派手になるだろう。

「……呑気な」

 学校が存在する同じ地域で事件が発生したというのにだれも関心一つ持ちやしない。そりゃ、私だって見知らぬ誰かのために喪に服せなんて言わない。そんな事を言っていたら毎日が葬式になってしまう。今日もどこかで誰かが何らかの原因で死んでいる。それに一々反応していたらそれこそ病気だ。

 私達がナイーブなだけで、あちら側が正常なのだろう。危ないニュースに悲観するよりもこれから始まる楽しい事に全力で取り組む。うんうん、非常にまとも。

 結局事件が起きても日常は続く。被害者を置き去りにして……。

「……ふう」

 いい具合に桃色が抜けてきた。これなら次にアキちゃんに会った時にはまともでいられそう。

 フラットになった思考で教室に入る。そしていつも通りに授業の予習や、アキちゃんの宿題に取り組んでゆく。

「ねえ聞いた」

「ああ、朝のニュースね……」

「……」

 文化祭にノータッチな特進クラスの生徒の話題は案の定事件の話だった。腐った評論家の意見をなぞったり、推理小説まがいの推理を披露したり……お勉強マシーンが揃っているクラスかと思ったら案外俗っぽいのね。

 どの意見も噴飯ものだったけど……唯一同意できたのは「犯人は女の敵」であるという所。よくある報道で「相手は誰でもよかった」なんて言っている容疑者がいるけどそんなのは嘘っぱちだ。異常者は市井に溶け込むだけの知性を有している。最も効率的に自身の欲望を満たそうとするなら、弱い相手を狙うのが一番。それこそ女子供は鉄板だろう。

 正確を期するなら「弱者の敵」。ふふっ……皆さん朗らかに議論なさっているようですけど、あなた達も立派に犯人の守備範囲ですよ。

 なんて他人を馬鹿にしてばかりいられない。二度あることは三度……その三度目もすでに起きてしまった。彼女たちが囃し立てているように四度目の事件が起きないとも限らない。アキちゃんを守るために私は何をするべきなのか、真剣に考えなくては――

「仁見さん、演劇部に入らないかい」

「……は?」

 アキちゃんはこんな品のない返事をしない。彼女に対するあらゆる災厄にいち早く対応するのが私の仕事。私は目の前にいる優男・一之瀬累先輩に向かってメンチを切った。

「九条さん、僕は仁見さんに話があるんだけど」

「いやいや、この状況でそんな悠長なことが言えますかね」

 時刻は昼休み。私とアキちゃんはいつも通りに中庭で、二人っきりでお弁当を食べていたところだ。

 園芸部は文化祭に参加しない。七草部長曰く「馬鹿に花を荒らされたらたまったものじゃない」と。あちこちの教室が賑やかな中、私達は人影一つ見当たらない中庭で静かに会話を楽しんでいたというのに……。

「この場所、許可の無い人は立ち入り禁止ですよ」

「それなら心配なく。七草から許可は取っている。『庭にいる鳳仙花にさえ刺激しなければどうぞ』とだけ言われたけど」

 鳳仙花とは七草部長が私に付けたあだ名だ。実に触れると種がはじけ飛ぶ、その様子がそっくりだと土をいじりながらおっしゃっていた。

 一之瀬先輩ほどの人間であればその程度の教養は持ち合わせているだろう。それとも、あえて無視してこちらに来たか……。

「何度も言っていますけどアキちゃんは参加しませんよ。演劇部だなんて危ない場所――」

「僕はね、仁見さんの特性は演劇に、演じる事に向いていると思うんだ」

「はぁ?」

「……」

 一之瀬先輩はおもむろに両手を広げる。私を、アキちゃんを、いや、この場に存在する生き物を全て無視して、自身の演技の領域を押し広げるかのように口を開く。

「君の身に起きたことは……僕も知っている。ただ下世話な好奇心では無いと思って欲しい。僕がその事実を知ったのは君の特性を知った後。僕は純粋に、君の瞳は演技に集中する事に向いていると、発想を逆転させればいい面もあると伝えたかったんだ。

 演技とは、僕は全く違う自分になり切る事だと思っている。演じる事に必要なのは他人からの評価や視線じゃない。自分の内側に存在する、なりたい自分を全力で表現する事。そこには他人も、自分ですら必要ない。ただ純粋に集中して力を発揮する。その中で時に自分ですら知らない一側面に出会える。それこそが演技の醍醐味だと、僕は思っているんだ。

 僕は仁見さんの事を全然知らない。もしかすると今僕が言った事は君にとって、九条さんが言う所の毒なのかもしれない。それでも、新しい何かに挑戦する事は意義のあることだと思う」

 丁度、事件に対する復讐としても――男性とは思えない、鈴を鳴らしたような耳障りのいい声が通る。これがアキちゃん用に作り上げた演技なのか、それとも演じる中で彼が獲得したなのだろうか。

 この人はペテン師だ。事前にすべてを調べたうえで、アキちゃんが弱った絶好のタイミングで仕掛けてきた。その点、流石は将来有望な演劇部の部長と言えるけど……。

「……先輩はどれだけの覚悟がありますか」

「半年もあれば僕は彼女を立派な女優に仕上げるだけの覚悟があるよ」

「違います。悪意のある不特定多数の前にアキちゃんを晒すことのリスクをどう考えているんですか……!」

 私はアキちゃんがやりたいのであればそれを全力で支持するつもりだ。それでも、人前に出る事のリスクだけは常に計算しておかなければいけない。

 事件を、障害を知っている地元の人間。事件を囃し立てる無責任なマスコミ。世の中には平気で悪意をぶつけてくる人間がごまんといる。

 それに……異常者たち。アイツらは人間の急所を平気で突いてくる。その中にはもちろんアキちゃんを誘拐した犯人も――

「ごめん。流石にそれについては僕は責任を持てない」

「アンタ……」

 一之瀬先輩が後ずさる。

 ははは……私は今きっととんでもない形相になっているに違いない。七草部長のネーミングは正しい。触れれば破裂する鳳仙花。飛ばすのは拳かもしれないけど――

「でも――」

 先輩は居住まいを正すと右手を差し出した。その指先は――

「彼女は少し、やる気みたいだよ」

「マナちゃん……」

「⁉」

 私を盾にせず、アキちゃんの視線は先輩の指先へと焦点が合わさる。並び立った彼女の瞳、そこには怯えも恐怖も無く、ただ真っ直ぐに先を見据えている。

「いい機会だし……私演劇やってみようと思う」

「ちょっと、アキちゃん――」

「マナちゃんが色々と心配してくれている事は分かってる。分かっているけど、でも……このまま事件に怯えて家に閉じこもっていても駄目だって事も分かっている。私……私だって自分の力で戦ってみたいんだ……」

 アキちゃんの足が一歩ずつ動き出す。私と並んで、なお前へ進み……、

「一之瀬先輩……よろしくお願いします」

 女性と見まがう真っ白で綺麗な手、それを掴んでは頭を下げる。

「こちらこそ、よろしく」

 一之瀬先輩は今までで一番の笑顔を浮かべた。それはさながらカーテンコールで万来の拍手を浴びた時のようなやり切った表情。今彼の手には一年に渡って求めていた存在が収まっている。

「…………」

 今ツインテールを解いても誰も気にしない。そう言い切れるほどにアキちゃんの瞳は決意に向いていた。

 この場所は私達の場所なのに、居心地が悪いったらありゃしない……。

「なんなのよ……もう」

 私の本能がこの男だけは頼るなと告げている。だけど、それは所詮私の主観も混じっている。アキちゃんがやりたいと言えばそれを支えるのが私のあるべき姿で――

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