2-5

「行ってきます」

 時刻は二十一時。秋の夜は深い藍色みたいな色をしている。この空の下を走るのは銀河の中に飛び込むようで気に入っている。春、夏は暑すぎるし、冬は暗くて寒い。秋は地味に思われがちだけど、穏やかな季節と言うのも悪くないものだ。

 我が家をスタート地点にその辺を飽きるまで走り倒す。アキちゃんを守ると決めてから己に課した体力づくりのランニング。夜目にも大分慣れてきた。

「……」

 コースの都合上、どうしても彼女の実家の前を通る事になる。ウチも大概だけど、仁見家は一階リビングにのみ明かりが着いているだけで静まり返っている。本来であれば二階の……アキちゃんのものだった部屋にも明かりがあって、一家団欒の音が聞こえてもいい時間帯。

「……」

 事件終了後、流石におばさんが見張りをする事は無くなったけど、一家元通りというわけにはいかない。おじさんは仕事を言い訳に帰りが遅いらしいし、達人お兄ちゃんは大学進学を機に家を出た。あの家には今、おばさんが一人だけ。

「……ハッ! ハッ!」

 ペースを上げてゆく。変速機のように徐々にギアを上げていって……最終的には呼吸が苦しくなるまで思いっきり手足を動かす。

「ハッ! ハッ!」

 内にこもるのもアリなのかもしれない。私だってアキちゃんに存在を疑われた事は一度や二度じゃない。その度に自分を証明する事に苦闘したけど、それは決して不可能じゃない。

 けれど親子という強い関係ゆえに心が折れる事だって世の中にはある。だから私はおばさんのあの様子に対して無責任に何か言える立場じゃない。誰だって親しかった人に否定される事は……辛い……。

「ハッ! ハッ!」

 だから私は、友達という他人でしかない私だけでもアキちゃんの側に居る事にした。アキちゃんのために強くなる。それだけが彼女の誘拐事件に加担してしまった、あの日まで混じりけのない親友だった私が出来る罪滅ぼし。

「ハッ……っ!……」

 腹部が悲鳴を上げる。これはランニング特有の内蔵の痛みでは無く、肉が生み出す鈍痛。アキちゃんとのやりとりで籠っていた熱がようやくはけてくれたのか、木戸君のパンチの全貌が露わになる。

 その後も走り続ける度に全身の痛みが主張を始めた。ガードに使った腕、ヘッドギア越しの側頭部……不思議と蜷川の施した顔面だけ痛みが無い。思考は程よく冷えてクリア。ありがとう蜷川、アンタのおかげであと少しランニングを楽しめそう。

「ハッ! ハッ!……はっははははは――」

 今の私はアイツが言う所のらしくない顔をしているのだろうか。

 部活動荒らし。それは一時期つけられた私のあだ名だ。社会がどれだけ知的で上品になろうとも、最終的な資本は体力、肉体由来の物に集約される。頭が良くても動けなくては意味がない。逆に言えば体力さえあれば人間いつかは何事かを成し遂げることが出来る。殺人も、誘拐も――なんでも。

 アキちゃんの高校生活の目標が社会復帰ならば、私の目標は彼女を守れるだけの……あの日のようにアキちゃんが誰かに襲われても立ち向かえる、迎撃出来る人間になれるよう鍛える事だ。

 九条家の血のおかげか、昔から体力だけには自信があった。小中高と今までシャトルランでは男子に負けた事が無いし、スポーツも男子のレギュラー手前並みにこなせる運動能力がある。自慢じゃないけど部活の助っ人では女子相手じゃ物足りないくらい。

 そんな私に必要なのはさらに上の実力を身に着ける事。最低限、男子レギュラー相手にいい勝負が出来なければアキちゃんを暴漢から守れない。

 私だってヒーローを夢見る子供じゃない。男女の間には圧倒的な性差が存在するし、きちんとしたルールで戦えば、ウチの学校の精鋭とでは勝負が成立しない。

 部活動荒らしとは不名誉なあだ名だ。傍から見ると私はふらりと現れては部を滅茶苦茶にしているように見えるらしいけど……私は部活に関わる人達にきちんと自分の目的を伝えて、その上で協力してくれる部にアポを取ってスパーリングしているだけ。どの部活も人材不足。優秀なサンドバッグを求めているものだ。

 時折まぐれで勝つことがあって、そこをたまたま目撃されて噂に尾ひれがついただけ。今日だって相手が新人じゃ無かったら一方的にボコられていた。レギュラーの、三年の先輩はもっと容赦がない――

「痛っ……」

 それでも一流の動きは間近で見るだけでも勉強になるし、何より痛みになれることが出来た。少なくとも去年よりはマシに動けるようになった実感がある。武者修行のおかげで私が睨みを利かせるだけで彼女にちょっかいをかけようとする馬鹿が消えてくれるし、本物のバカは実力でねじ伏せられるまでになった。さらに鍛えれば……少なくとも高校生活のこり一年と一学期はアキちゃんを守れる。

「ハッ! ハッ……」

 瞳が細まる。街灯が全身を照らしてきて……いつの間にか賑やかな所に来てしまったらしい。

 都市部の郊外とは中途半端な環境と言わざるを得ない。都会ヅラした真に便利なスペースは全体の二割程度。後は遠ざかるごとに道の舗装が剥がれ、田んぼと畑と山ばかり。

 こういうきらびやかな場所で暮らしていれば、アキちゃんが狙われる事は無かったのだろうか。

 誘拐犯……犯罪者の考えなんて分かったものじゃない。都会だろうと、田舎だろうと、ヤルやつは結局行動を起こす。異常者の行動を未然に防ぐなんて事実上不可能だ。

 それでも一つ事件が起こってしまったのだから、私達が住んでいた辺りの警備を強化……少なくとも街灯を増やしたりして形だけでも行動を示して欲しかった。

 背後にそびえる藍色の夜闇、それを追い払うように広がるのは暴力的なまでに極彩色の銀河。繁華街の中にはちゃっかり役所もあるのに……こちら側に住んでいる人間にとって人ひとりの人生が壊れた所で何の関心も無いのだろう。

 それは全国区でも同じ。騒ぐのはトピックになった時。構うのは安全圏から「可哀想」と言える時。フランダースの犬の主人公たちが同情されたのは彼らが死んで遠くに行ってしまったからであって、仮に彼らが一晩生き残ったとしても、村人は冷遇するのを止めないだろう。

 この世は地獄。薄皮一枚向けば誰だって暴力性を孕んでいる。平和に暮らしたい多くの人々はその事実から目をそむけることで日常を維持している。だからこそ、はみ出てしまった私達は異常者からも一般人たちからも身を守る術を身に付けなくてはいけない。生き方のトレンドは「自己責任」なのだから。

「……アキちゃん……」

 縦横無尽に走っているつもりが、いつの間にかアキちゃんの住むアパートの前まで来てしまっていたようだ。帰巣本能なら出来れば自宅のほうがいいのだけれど……。

 そう言えば今日はバイクでやって来たんだった。普段はロードバイクだから……運動をサボった分登校をやり直したかったのかもしれない。

「……なんて」

 そうでも思わないとまるで私がストーカーみたいじゃないか。私はあくまでアキちゃんの味方、騎士ナイトだ。そんな私がまるで夜闇に紛れて得物を探すかのような――

「……あ」

 首元にかかるセミロングの毛先。アキちゃんがいない範囲で運動する時は流石に頭が邪魔になるのでツインテールを解除している。

「蜷川のヤツ……いいとこ突いてくるじゃない……」

 友情と、罪悪感と、今までアキちゃんに接する中で、彼女に向ける感情はこの二つが占めていると、そう思っていた。

 九条家の運動欲求、いやそれよりも別の、アキちゃんには見せて来なかった私らしくない何か。今まで気づかなかっただけで、私にもひょっとしたら異常者に近い欲望が渦巻いていたのかもしれない。

 元来の物か、七年前に芽生えたのか……。

「はは……はっはははははははは――」

 ジャージのポケットからヘアゴムを取り出す。百均で買った飾り気の無い黒。いついかなる時も予備を常備しなければいけない私にとってひいきにしているそれでおもむろに髪型を作り上げる。

「……よし」

 アキちゃんがベランダや窓越しに星空を観察しているとは思えない。脳のカロリー消費が激しい彼女は早寝早起きが基本。時刻は二十二時を回っている。とっくに寝ているだろう。

 例えそうだとしてもアキちゃんの領域に入ったのであればらしさを作り上げる必要があったのだ。うん、それは正しい。

「ハッ! ハッ!」

 物足りなさは解消された。体もそろそろ限界みたいだし、今日はもう帰ろう。

 踵を返して帰路を行く。藍色の闇の中を一直線。思えば今日は大分体を追い込めた。ベッドに入った瞬間ぐっすり眠れるだろう。

 きっと歪んだ笑顔も浮かべる余裕もなく、ぐっすりと――

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