2-4

「これシャンプーです」

「ん」

「ボディーソープも。それ最近流行っているやつなんです」

「ん」

「乾燥しないようにクリームも塗って下さいね」

「ん」

 部室練のシャワールームで蜷川と二人っきりとは色気の無いシチュエーションだ。

 それでも普段と違って苦にならないのは彼女がサポーターに徹しているから。同じ状況把握でもアキちゃんの場合はぼんやり全体を見ているだけですべてを知る。蜷川の場合一人に集中してピンポイントに動作を合わせる。こいつは案外マネージャーの仕事が向いているのかもしれない。

「ふう……」

 サッパリした私は下着を履いて手早く制服を身に着け始める。

「ちょっとセンパイ」

「なによ。流石に下着までアンタが用意したもの着たくないんだけど」

「いや、私もそこまでおせっかい焼く趣味はありません。マナセンパイのスリーサイズとか知らないですし。興味もないです」

 そう言いながら蜷川はスクールバックから化粧水のボトルを取り出した。

「仕上げがまだです」

「アンタのカバン勉強道具は入っているの……? さっきから身だしなみのアレコレしか見かけないんだけど」

「センパイもアキセンパイの家をカバン代わりにして基本置き勉のスカスカじゃないですか。勉強なんて授業を一回聞くだけで終わりなんですから対していりません。乙女にとって最も重要なのは身だしなみです」

 さあ動いて、と蜷川は私を洗面台へと促す。シャワールームと言えどウチの学校の設備はちょっとした銭湯並み。ドレッサーさながらのそれを見ると果たしてここは学校なのか。ホテルにでもやって来た錯覚に襲われる。

 私の頭にヘアバンドを被せ、おでこまで引き上げると顔面が露わになる。蜷川は自分の手のひらに化粧水を乗せると、慣れた手つきで私の顔を叩いては馴染ませ始める。

「これは私の独り言なんですけどー」

「……」

「マナセンパイはお腹の中ではあんな目つきでアキセンパイの事を見ているんですか?」

「……」

 化粧水が打ち付けられる度に視界が、頭部が僅かに揺れる。不愉快では無い。手つきはむしろ絶妙で、だからといってこの状態で喋るのは難しい。

 これは蜷川なりの「口を挟むな」というサイン――

「今日ボクシング部を見学したのは木戸君を見るためだったんです。私も先輩と同じで付き合うなら自分よりも背の高い男子じゃないとアウトです。木戸君、たくましい体格と甘いマスクのギャップが可愛いですよね」

「おひおひ」

 作業中のところ申し訳ないけど流石にツッコみたくなったぞ。

 目的はナンパかよ……。

「動かないで――バランスが崩れます」

「……」

 蜷川の動作は単に顔面の潤いをもたらすだけでなく、マッサージも兼ねている。みるみるうちに顔面がリフトアップしてきて……これは見た目以上に繊細な作業のようだ。

「センパイ、私は美しさって重要な要素だと思うんです。まぁ、美の価値観って人それぞれだとは思うんですけど。なんて言えばいいんですかね……見た目はもちろん、『その人がその人らしくある姿』? ですかね。どれだけ見た目が良くても立ち振る舞いが下品ならもうアウトです」

「……」

「木戸君はかわいそうですね。顧問の先生の狙い的には世界は広いというか、『世の中には才能だけじゃ倒せない化け物がいる』って事を教えるつもりだったのでしょうけど、相手がセンパイじゃハードルが高すぎます。外野から見たらあんなのボクシングなんかじゃありません。出来の悪いゾンビ映画です。

 リングを降りた後のあの牙を抜かれた顔……あそこから立ち直れたら相当肝が据わるようになるでしょうけど……当分は輝けない――」

「……」

「今までの木戸君らしさは間違いなく砕かれました。別にその事を責めている訳じゃありません。私もメンタルが弱い男子はアウトですから。それが分かったのでむしろ感謝しているくらい……。

 でも、あの目をアキセンパイに向けるのはいつもの――」

「…………」

「人間お腹に隠し事をするなんて当たり前です。キレイなだけが人間じゃない。私も下心があってアキセンパイに近づいています。だけどマナセンパイみたいに事件の事、特性を理解した上で接する事、支えになる事は私には難しいです。だから私がアキセンパイに近づけるのはあくまで賑やかな後輩としての立場だけ。たまにふらっと現れて、おしゃべりするのが限界――」

「…………」

「その意味で私、マナセンパイの事を尊敬しているんです。この人は自分の美学のために、誰かのために行動できるんだなぁ……って。でも――センパイが部活動荒らしをしている所を何度か見ましたけど、とんでもなく芸達者ですね。普段どれだけ欲求を押さえつけているのやら、人間多面的ですけどあれはワイルドすぎる――」

 アキセンパイが見たらヤバいですよ――そうひとりごちると蜷川の手が止まる。全く長い独り言だ。

 ……独り言、ね。アンタの事見直したわよ。でも大丈夫。いくらアキちゃんが表情を認識できないからってあんなはしたない顔を見せるつもりは無い。それに、私には尻尾を出さないためのとっておきがある。

「髪型はいつもので?」

「ええ」

 蜷川は制服のポケットから赤いヘアバンドを取り出して私の髪型を側面から生やした子供っぽいツインテールに仕上げる。鏡の中には七年間彼女を騙し続けてきた女の姿が映し出されていた。

「仕上げはこれです」

 蜷川は私の首筋に香水をかけた。

「至れり尽くせりね」

「体の痣は制服で隠せますけど、顔はどうしようも無いですから。好きな人の周りに醜いものがあったら気分が悪いので」

「アンタのわがままに感謝しておく」

「ええ、私も楽しみです」

「?」

 仕事は終わったとばかりに蜷川はそそくさとシャワールームを出てゆく。

「センパイ、たまには他人の気分になってご自身を見つめ直す事をオススメします」

 去り際、彼女はよく分からない事を言い残して姿を消した。

「⁇」

 鏡をもう一度見つめる。そこには多少スッキリした自分の顔があるだけで、それだけで他人なんて大げさな……。

「???」

 首をかしげつつもいい時間なのでアキちゃんの下へ向かう。

 果たして教室には一人ポツンと自身の席で待ちぼうけしているアキちゃんが。

「アキちゃん!」

「!??」

 ん、反応がおかしい。普段であれば「マナちゃん」と返してくれる所を何かに弾かれたように椅子を引いて後ずさる。

「え、環奈ちゃ……ん? でもマナちゃんにも見えるし……え……どっち!??」

「え⁉ 私が、蜷川に!??」

 私のどこに蜷川を感じる要素が……ツインテールは完璧だし、ヘアゴムは確かにアイツのだけど私だって時折色々な物を試してはちょっとしたおしゃれを楽しんでいる。それでも今までアキちゃんに認識されて来た。

「……あ!」

「汗、女子の出す匂いじゃありません」、「仕上げはこれです」。

 なるほど……外見をコロコロと変えるアイツがなんでアキちゃんに警戒されないのかずっと疑問だったけど――答えは匂いだったって訳か。

 今の私の体臭は私らしい匂いをシャワーで流しては蜷川が差し出して来たもので構成されているようなもの。よくよく嗅げば……香水はトドメだ。トップノートが終わればいつものアイツの匂いそのものじゃないか。

「え、どっち? どっち⁉」

「アキちゃん落ち着いて! 冷静になって、私だって、九条愛美だって分かるから‼」

 お互いが施して来た戒めが合体した事で思わぬ事故……いやこれは立派な故意だ。

 あのヤロウ……最後にとんでもない爆弾を残していきやがった。

 アキちゃん相手に自分が自分である事の証明をする事は悪魔の証明に近い。こういう時、顔とは人間の最大の個性であることが身に染みる。

 それでも背丈、声、立ち振る舞い、ありとあらゆる手段を用いて最終下校時刻までには私が九条愛美である事をかろうじて認めてくれて……はぁ……とんでもなく疲れた……。

 帰り路の十分間も疑念の目はぬぐえず、私が私である事が腑に落ちたのは私がFTRに跨った時。

「ああ……! またね、マナちゃん!」

「……」

 こういう時、女子の切り替えの良さは本能に近い。アキちゃんの曇りなき眼は大好きだけど流石に白々しい……。

 だけど私は文句を言わない。これこそがアキちゃんの視界、彼女が認識している世界。それに付き合うのは「何時認識不良を起こされるか」との格闘なのだ。

 だから私も「また明日」と爽やかに告げてFTRを吹かした。

「……――っ」

 フルフェイスを被れば内側でどんな顔になってもばれやしない。雑音も排気音が消してくれる。

 確かにアキちゃん相手に腹の中身なんて見せる暇は無かったけど……蜷川のヤツやりやがったな……‼

 帰路を流す中で私は今年一番のため息をついた。吹き付ける風は凍える程に冷たいにも関わらず、全身の熱は当分冷めそうにない。

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