1-6

 昼休みが終わると私達はそれぞれ教室と保健室へと再び別れる。学生の本分は勉強。残りの授業も机に噛り付いて熱心に――

「じゃあ、今日は抜き打ちテストをするぞ」

 教師の言葉にクラスの雰囲気がざらつく。勉強が得意で真面目な生徒も不意の一撃には驚くらしい。

 まぁ、私はアキちゃんの予測のおかげで不動心。配られたプリントを見ると……うん、これまた予測の範囲のまんまだ。

 世間一般において特進クラス――私立の最上位の学級――と言えば特権階級のイメージらしい。勉強も、スポーツも抜群でクラスの仲も良く、キラキラした毎日を過ごしていると……いやいや……みんな漫画の読み過ぎだ。

 実態は今みたいに常に張りつめていて青春を謳歌する余裕なんて一ミリも存在しない。

 確かに、私達はある意味で特権階級であるかもしれない。私立大鷺大学付属高等学校において特進クラスは本来の意味における貴族・兵隊だ。国立に有名私立の合格を叩きだすために用意された傭兵。学校の偏差値に貢献さえすれば、ある程度の素行不良は見逃してもらえる。今日も何席かは空きがあって、彼ら曰くレベルの低い授業に出るくらいなら自習した方がマシとの事。実を言うと私のように真面目に毎日出席している生徒の方が成績が低かったりする。

「……ふむ」

 出題範囲があらかじめ分かっていた所で私のおつむでは解ける問題が限られている。アキちゃんはひょっとすると問題の答えも予測できるのかもしれないけど流石にそこまで甘やかしてくれない。私達はお互い甘やかす際のハードルを高めに設定しているようだ。

 それでも心構えが出来ている分冷静に向き合える。つまらない小問題は落とさず、全員が苦戦する得点比重の高い問題に途中式をぎっしりと詰める事で部分点を狙う。この方法で私はギリギリ降格を免れてきた。

 集中して解いていると、顔を上げた時に解答時間が半分しか経っていないことが多々ある。余ってしまった時間、身動きが取れない試験の空白の中で思い浮かべるのはもちろん入学以来一切埋まった事のない対角線上の空席。

 アキちゃんほど受験戦争の傭兵が似合う生徒もいない。なにせ彼女は教師陣がくり出す難問の数々をこともなげに解答してしまい我が校始まって以来のフルスコアを記録し続けている。体裁の上で日常行われる小テストを後日改めて受ける彼女だけどそれも満点となれば何のために実力を計っているのかバカバカしくなる。ある教師が嫌がらせとして大学教授でも解くのが難しい、高校生の範囲を超えた問題を出題したらしいけど見事に粉砕。返り討ちに遭った教師は一転「自分には誰かを教える資格は無い」と辞表を出したらしい。

「……ふぅ」

 対面になった時、アキちゃんの瞳が他人の顔に焦点を合わせる事は無い。そのためか、彼女と向き合った人間は体裁を剥がされ自身の本質を評価される気分になるらしい。

 考えてみればもっともな話だ。彼女はおばさん……自身の母親の事ですら誰なのか疑った。対人関係において彼女の視界は常に疑いで満ちてしまっている。「あなたは本当にAさんなんですか?」、「Aさんである証拠はありますか?」、「Aさんであればアレをする事が出来ますよね」……。

 世の中には外見だけが取り柄な人間もいる。それ自体は悪いことじゃない。整った顔で、瀟洒な衣装を身に纏い、洗練されたパフォーマンスをする事で人を見た目に楽しませることは凡人の私からすれば飛びぬけた才能だ。

 だけどその才能はアキちゃんとの相性が最悪だと言うほかない。彼女の前から最初に撃沈したのは体面を気にする人たち。事件から生還したかわいそうな女の子。善意に、スケベ心に様々な思惑をもった人たちがアキちゃんに手を差し伸べては……ひっこめざるを得なかった。これには少しだけ同情する。誰だって懇意にしたい相手から一向に顔を覚えられない事はもちろん、目線さえ合わせてくれないとなれば心が折れる。良い恰好をしようとした大人たち、イケてる同級生、友達だった皆は波が引いて行くように彼女から去っていった。

 その次に離れたのは意外にも仁見家の人々だった。あの瞳と共同生活を営む際にかかるストレス――常に不安げな瞳で、肉親の存在すら疑われてしまったら……あの事件以来おばさんもまたどこか壊れてしまったらしく中学に進学した時は間に一軒挟んでいるにも関わらず喧嘩の声が飛んできた。アキちゃんが私の部屋に避難してきた事も一度や二度じゃない。

 今彼女が家族から離れて一人暮らしをしているのは、「娘が高校に通えやすい距離で生活できるように」という配慮と「距離を取りたい」という切実な願いからだろう。一緒にいる事で辛くなるのであればたとえ家族だろうと……。

 その点私はというと……他人からはよくもまあ彼女との関係を続けられていると言われる。

 つまる所、私の動機は彼女の「監視」にある。アキちゃんがあの日の記憶を、誘拐事件のキッカケを思い出すかどうか。集中力、瞬間記憶能力、未来予測と代替機能を発達させる中で事件に繋がる萌芽があるのか、それをひたすらに観察する……。

 犯罪的な下心ほど人間の行動力を支えるものは無い。なんて経験則で思ってしまう。ひょっとすると犯人もこんな気持ちでアキちゃんを誘拐して……滅茶苦茶に壊したのだろうか。

「はい、試験終了。結果は明日の一限目に伝えるからな」

 五限目が過ぎてあっという間に六限目が始まる。科目は英語。比較的得意な教科ゆえに私の意識は引き続き思考の海の中を漂う。

 アキちゃんの視線にさらされるという強烈なストレスと、それを上回る私が犯した罪が生み出すストレス。そう考えると私の生活は相当にストレスフルに思えるかもしれない。

 けれど、アキちゃんの隣にいる事で得られる役得はストレスを上回るものだと私は思う。

 こんな事を言うといやらしいけど、アキちゃんは同性の私から見てもかなりかわいい。長い黒髪、大きな瞳、お人形みたいな背格好。ツインテールがキツくなってきた私にとってアキちゃんは愛らしさの象徴だ。隣でアキちゃんの様子を見ているだけでストレスなんて吹き飛んでしまう。

 それにアキちゃんが出した予測に惑わされるのも悪くは無い。同級生たちは容易に未来を言い当てるアキちゃんの事を気味悪がったけど、いい予測であれば受け入れれば良いし、悪い予測であれば原因を叩くか、別に情報を持ってきて予想図を書き換えれば済む話だ。幸いなことに私は体を動かすことが大得意、その辺の男子よりも力と体力がある。友達のために汗水流す事は悪くないものだ。

「さてと……」

 六限目が終わるとさすがのガリ勉な特進クラスもざわつき始める。それぞれ背を伸ばして緊張を解してから、スマホを見たり、友人とダベったり、家か予備校に向かってそそくさと帰ったり……。

「今日はどれくらいで来れるかしら」

 私はというと待ちぼうけ。待ち人はもちろんアキちゃんだ。

 私のことをアキちゃんにべったりと揶揄する人間もいるみたいだけど、別にいつもべったりというわけじゃない。放課後は二人にとって自由時間。アキちゃんは別室で担当教員の監視の下小テストを受けたり、他にも保健室登校の代価をちまちま消化していたりする。私にだって私なりの用事がある日もある。

 天に誓って今日はたまたま二人の用事が空いていた日に過ぎない。

 ごほん……閑話休題。

 そう、いつもべったりって訳じゃ無い。私だってアキちゃんが「やりたい」と言えば手出しせずに見守る事に徹することだってできる。

「!」

 窓越しに小さな影が横切る。

「……マナちゃん……」

 やつれた声と共に教室の引き戸が申し訳程度に開く。生まれたての小鹿みたいに頼りなく歩みを進めるのはもちろん、アキちゃん。

「お疲れ様、今日は二十五分。まあまあな記録ね」

「そう……なの……あはは……もうちょっと早かったと思ったんだけどな……」

 瞳を白黒させながら私の正面ひとつ前の席に腰を下ろす。青白い額に大粒の汗がびっしりと……流石に気の毒なので労いの意味も込めて私は下敷きで煽いであげた。

 小学時代の目標は留年せずに卒業。中学時代の目標は保健室登校でもいいから三年間皆勤賞。そして、高校生活の目標は社会復帰を果たす事。

 何をもって社会復帰とするか、そのさじ加減はアキちゃん次第だけど一応の決まりとして「出来るだけマナちゃんに頼らない」という縛りがある。

 先ほど保健室から教室まで一人でやって来たのもその一環。放課後開始の一番ごちゃごちゃした時間帯で私の支えなしに教室までたどり着くこと。なんて書くと「ただ歩いているだけじゃないか」と思うだろうけど――アキちゃんにとって最も恐ろしいのは知っているかもしれない顔と不意に接触する事。大都会の人混みでならスルー出来るはずの、彼女の知り合いや事件を知っている人間に不意に近づかれる事は恐怖でしかない。いくら偏差値が高い学校に入学したからって立地はドのつく地元。私も完全には把握していないけど小・中から地続きの人間関係が存在していたり、興味本位で事件に首を突っ込んでくるバカいる。

 ……まぁ、その手の連中は私が一年生の内に制裁を加えておいたけど。

 私がいる限り大抵の人間はアキちゃんに手を出さない。しかしながら接近が無くても存在しているだけで生理的嫌悪が止まらない事はよくある。マネキン人形だらけの視界、彼女にとって校舎の中を歩くことは、カオナシに見られているかもしれない感覚を味わう事は強烈なストレスなのだ。

「全く何を浮ついているんだか。学生の本分は勉強なのにね」

「……それボーっとしているマナちゃんがいう?」

「ああ、ばれてた」

 皮肉を返せる程度には回復したらしい。互いに準備が出来た事を目配せ――アキちゃんの視線はツインテールだけど――で伝えると私達は机をくっつけて勉強道具を取り出した。

「こほん。それじゃあ晶子先生による愛美君への補習授業を始めたいと思います」

「はい。先生よろしくお願いします」

 良い返事ですね、とアキちゃんはおどけた声で応じる。それと同時に大量のプリント資料を私に配って来た。

 アキちゃんにとって学校の授業なんか屁でもないけど私の場合はあと一歩が届かない。別に私がバカという訳じゃ無い。中学の時は常に成績上位にいたし、この特進クラスの内容が特別ハードだというだけだ。

 成績が常に下位のクラスとの間を漂っている私にとってアキちゃん特製の「テスト予想」だけでは足りない。この環境に居続けるためには付け焼刃だけでなく、根本的なベースアップが必要。

 なので私はアキちゃんが暇なときは家庭教師になってもらって足りない学力を補充しているのだ。

「相変わらずよくまとまった資料だけどこれどうやって作っているの?」

「どうって、スマホでちょちょいとやって保健室のプリンターで出すの。おっと、私語は謹んで」

「はいはい」

「返事は一回」

「はい」

 役得と言えばこれも役得なのだろう。私は美少女に間近で勉強を教えてもらえて、アキちゃんは私の苦手科目を教える事で会話の端々からクラスに出られない分の学校の情報を補充することが出来る。

 私達の姿を指差して閉じた青春だと揶揄する人たちもいる。いやいや、よく考えて欲しい。別に誰も彼もが漫画みたいなキラキラ輝いた高校生活を送りたい訳じゃ無い。本来学校は勉強する場所。学力を身に着けて、将来の目標に合致する大学に通うための発射台に過ぎない。特進クラスのクラスメイトたちは現実をわきまえているからこそこの環境に身を置き、望む未来のために勉学に励んでいるのだ。机に噛り付く青春、大いに結構じゃないか――

「はい、今日はここまで」

「うう……頭が痛い……」

 ――もちろん、程度によるけど。

「相変わらず攻める側になるとスパルタ」

「何言ってるの。これでも難易度落としているの。私が作った問題集程度このクラスの他の人たちなら満点だよ? これくらいは解けるようにならなきゃ降格しちゃう」

 マナちゃん勉強できない訳じゃ無いのに――その言葉が耳に痛い。

 いつかアキちゃんが言っていたっけ……「要領が良いだけだと問題の本質を解くには足りない」、「各教科に合わせた解き方を理解しない限りさらに上の領域には近づけない」とか。

 なるほど正しい。本音を隠して壁一枚作って彼女に接している私そのものじゃないか。

「最後この問題だけ――」

 アキちゃんの追撃に水を差すようにチャイムが鳴る。時刻は午後七時三〇分。校舎からの完全撤退を示す終鈴。

「やった! 回避!」

「なわけない」

 プリントが無慈悲にもツインテールに叩き付けられる。

「これは宿題。明日の朝ウチに来たとき答え合わせするから覚悟して」

「うう……」

 前言撤回……アキちゃん、もう少しだけキラキラしてくれませんか……。

 何がともあれ今すぐにでも学校を出なくてはいけない。頭の痛い問題をスクールバッグに仕舞いつつ私達は帰り支度を始める。

「今日も暗いね」

 窓の外はすっかり夜闇が覆っている。東校舎はとりわけ出入りが少ないのでめぼしい明かりは私達の教室だけ。まるで秋の寂しさが校舎に充満しているみたいだ。

「大丈夫。アキちゃんには私がついている」

 私はアキちゃんの手を取った。アキちゃんが感じている寂しさ、私が感じている寂しさ。季節が私達の心を乱さないようにしっかりと、握る。

 いくら日本が諸外国に比べて比較的安全とはいえ、年々物騒になっている世の中、女の子の一人歩きはNG。まして今朝はこの町で殺人事件が発生している。帰るのであれば日が昇っているうちがベストだ。

 しかし、アキちゃんの視界の事を考えると地元の混みあった時間に動く方が毒。よって私達は学校が終わるギリギリまで帰宅時間を待たなくてはならない。

 一人よりは頭数があった方がマシ。私一人増えた所で組織的な犯罪に巻き込まれればアウトだけど――最悪通り魔が出た時には盾くらいにはなれる。マンションまで徒歩一〇分、暗い分私達は油断なく帰路を行く。

「犯人、まだいるのかな」

「分からない。相手は町の外から計画的に犯行をしたのかもしれないし、地元の人間で衝動的にやったのかもしれない。少なくとも、犯人逮捕のニュースが無い以上は……」

 アキちゃんの手が強く握ってくる。呼吸も荒い。瞳を大きく見開いて……今にも倒れそうな彼女。自身の存在しない記憶に怯えているのか、それとも次は自分が襲われるかもしれないと――

「大丈夫。アキちゃんには私がついている」

 私は少しでも恐怖が和らぐようにとアキちゃんを抱きしめた。言葉で足りないなら行動も。人間、身を委ねていい物があると落ち着くもの。

「……うん……そうだね……私には……マナちゃんが……いる」

 うわごとのように繰り返される言葉。体の震えは徐々に収まり、伝わる早鐘も正常に戻る。

「やっぱりだめだなぁ……私、マナちゃんがいないと外も歩けないや……」

 すがるような視線がツインテールの結び目に注がれる。お互いの視線が交わることなく、自身が一方的に彼女の顔を覗き込む感覚は正直、居心地が悪い。彼女は表情に嘘を浮かべる事が無い。過去に尊厳を破壊された事で今さら嘘で身を守れなくなったアキちゃん。混じりけの無い本音だけでコミュニケーションを取る事は時に恐怖すら覚える。

「大丈夫、アキちゃんの事は私が……私が守るから」

 私の言葉は嘘じゃない。だからと言って「本当に」出来るかと言えば難しい。具体的に、何を、どうすれば、彼女を襲う恐怖を掃うことが出来るのか。そんな状態でいい加減な事を言うのは不誠実だ。

 それでも私は七年間根拠のない自信と罪悪感だけを頼りに彼女の隣に立ち続けてきた。だから私は拙い言葉と、それで足りないなら体を張ってアキちゃんに応える。

 視線が注がれるツインテールはそのためのものなのだから。

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