1―3

「はぁ……はぁ……」

 ドアの施錠で一回。中野さんとの挨拶で一回。そしてエントランスを潜るときには四回。アキちゃんは計六回の深呼吸をへて通学路を練り歩く。

 時刻は七時一〇分。新聞配達のバイクが横切る程度には人気もまばらな通学路。

「………………」

「……」

 それでも、他人がいるというだけでアキちゃんにとっては毒だ。いまは周囲と距離があるからいい。けれど、死角から突然急ぎ足の他人とすれ違うものなら彼女は卒倒しかねない。

「……大丈夫?」

「大丈夫……平気……」

 アキちゃんの頭が忙しなく動く。電柱、文字情報だけの看板、ガードレール、私のツインテール――

「…………っ」

 堪えきれなくなったのか、アキちゃんは私の体を盾に後ろへと下がる。私のブレザーの裾を引きながら、恨めしそうに前方へと視線を散らす。

「ん?……ああ」

 アキちゃんの頭部の先には大工のお兄さんが三人たむろしていた。仕事の準備がひと段落したためか機材を積んだトラックの前でたばこを吸ったり、缶コーヒーを飲んだりとほっこりした様子だ。

「アキちゃん大丈夫。大工さんだから」

「…………うん」

 お兄さんたちには悪いけど、アキちゃんの視界に彼らの姿が入らないよう私は大げさに前に出た。

 学校が視界に入るとたんに人口密度が増してくる。

 増すと言っても部活の朝練に勤しむ運動部員や、ウチとはまた別の学校へと登校しだす生徒の姿がちらほら増える程度。それでも彼らが視界に入るごとにアキちゃんの顔は青ざめてゆく。

 これで人混みだらけの都会を歩くときはケロッとしているから驚きだ。本人曰く「たった一日しか縁のない背景みたいな人を見る分には一周周って我慢がきく」らしい。

 他人を背景モブ扱いとか失礼なことこの上ないけど、それは誰しもが持っている感覚。極端な話、人間自分の人生に大きく関わる人物が大事で、その他の例えば地球の裏側に住んでいる貧しい子供が野垂れ死にしたって心が痛まない。

 事件のせいでアキちゃんの名前は全国区……少なくとも待木市内で知れ渡ってしまった。例え七年前の事件だとして、中途半端に田舎な街において他人のマイナス評判は高確率で話の種になってしまう。

 アキちゃんが怯えているのは、そう言った自身を刺し貫く悪意の視線。もう直視することも敵わない歪んだ表情だ。

「袖……」

「‼……ごめん邪魔だったよね! すぐ、すぐ離れるから――」

「逆。思いっきり握っていていいから。私は盾に集中する。だからアキちゃんは登校に集中する。いつもやっている事だから、大丈夫」

「……うん……」

 たった一〇分で終るはずの通学路が果てしなく引き伸ばされたような感覚。私も他人のあまねく視線の盾となり、神経を極限まで緊張させた状態はしんどい。過集中気味なアキちゃんは言わずもがな、危ない。

「はぁ……はぁ……はぁ……」

 昇降口は下駄箱の前で手をつくアキちゃん。吐き気を懸命に堪えると、青みを増した表情で上履きを取り出す。

「保健室、一人でいけそう?」

「ごめん……ついてきて」

 私は無言でアキちゃんの左腕に自身の右腕をまわす。ここまで来るとアキちゃんの視線は定まらない。文字通り目を回しながら、私の誘導だけを頼りに保健室へと歩を進める。

「失礼します」

 引き戸を開けつつ様子をうかがう。私立のマンモス校特有の左右四床に広がる広大な保健室。そこにはまだ主たる佐伯先生はいない。

 私はおもむろにアキちゃんをお姫様だっこすると彼女を定位置である右奥のベッドに寝かせた。鞄はその隣につけられている勉強机の側面のフックへ。通称仁見学級はこれにて完成である。

「じゃあ私は昼休みにまた来るから。とっとと休んで体調戻しなさいよ」

「…………」

 アキちゃんは弱弱しく腕を上げ、サムズアップで返答した。

 ……どうでもいいけどそれじゃあ逆に終わりのシーンなんじゃ……。

 去り際仕切りのカーテンが閉まる音が聞こえた。視覚的に人間の存在を遮断できる、引きこもれる環境さえあればアキちゃんはすぐに活性化する。今日も無事に保健室登校。

「さて――」

 私もやるべきことをやらないと。

 保健室のある西校舎から東校舎へ。寒気が吹き付ける連絡通路を抜けると、朝練の喧騒が遠ざかってゆく。

 私達の学級、特進クラスは「学習に集中するため」という理由で化学室や図書室といった普段は特定の活動のためにしか使われない部屋が集まった棟に押し込められている。時刻は午前七時三〇分。この時間に登校しているのは私みたいに特別な用がある人間くらい。

「……」

 静謐が支配する空間は人間を物寂しくするのか、ついつい余計なことを考えてしまう。曲がりなりにも特進クラスに在籍する私は授業に追いつくべく予習に復習にやるべきことが山ほどあるのだけど……今朝も教室の自分の机に座った所で頭の片隅には常に、あの日の出来事がこびりついて離れない。

「……アキちゃん――」

 成績順に並べられた二〇席、私が座る窓側左の隅の席、その対角線上にある廊下側右隅の彼女の席を見つめながら私の思考は七年前をさかのぼり始める――

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