第25話 晴れ渡る空と心

 カーテンの隙間からは眩しい日差しが室内へと飛び込んできている。暑くもなく寒くもなく快適な日だ。ただ、俺自身は今にも雨が降り出しそうな曇り空の気分を感じている。

 正直、他の演者に合わせる顔がない。

しかしこれ以上マユミとの約束を破るわけにもいかなかった。


「アユトさん。おはようございます」


 リビングの扉を開けると、あいも変わらず俺の為に朝食を準備してくれている母親役の女性が俺を見るなり声をかけてきた。毎朝の恒例行事にこちらもおはようございますと不愛想に返した。


「……どうされたのですか?」


 テーブルに腰掛けたタイミングで朝食を持ってきた仮の母親は、自分の頬を触りながら訪ねる。少しだけ驚いた要素を言葉に含んでいた。


「気になさらないで下さい」


 少しだけ冷たいような気もしたが目もあわせずに突き放す。説明する義理もないし、他人に説明する気分でもなかった。

 微妙な俺の雰囲気を察してか、仮の母親はもうそれ以上何も聞かなかった。


「ごちそう様です」


 テレビも付けず静まり返るリビングで朝食を食べ終えた。

 マユミの諦めたら殺すという強烈な一言を何度も繰り返すように思い出していたので、朝食を作業的に口に運んでいただけだ。

顎を動かす度に頬をビンタされた箇所に痛みが走るのは不快だった。


「いってらっしゃいませ」


 学校の制服に着替ええてから玄関の扉を開けると見送る母親役の声が俺の背中に当たる。行ってきますと俺は振り向かずに答えた。

 玄関を出て空を見上げると快晴の空が広がっていた。果てしなく続く青さに何も感じずに眺めた後で両足を動かす。


「アーユトさーん!」


 最初の曲がり角で青色の物体に声をかけられた。

 青色のジャケットを羽織っており、青色のお嬢様風のふんわりとしたミニスカート、さらに青色の靴下は膝まで伸びており、青色のスニーカーで地面を掴んでいた。

 ツインテールのリボンも青だった。どの青も若干に色合いが違っているがいつも通り分からない。


「なんでお前がいるんだ……」


 俺は下着も高い確率で青だと予想できるアイに向けて呆れる。今日は平日のはずなのに私服でうろうろしているのはおかしい。


「えー。その腫れたほっぺたはどうしたんですかー!?」


 相変わらず言葉のキャッチボールがうまくいかないアイは、唇に手を当てると開いた口がふさがらないような動作を大げさに取った。三文芝居を見せつけられているようで少し腹が立つ。


「気にするな。それよりなんで私服のアイが俺を待ち伏せているんだ? もしかして俺が家から出てくるまでずっと待っていたのか?」

「気になりますー。隠されると余計に気になりますー!」


 質問には一切気にしてくれないアイは心配そうな視線を頬に送る。

小さく肩を落とす俺はアイをとりあえず無視して再び学校へと歩き出した。元気なアイと絡むほど今の俺には元気がなかったという理由もある。

 「待ってくださいよー」と少しだけ拗ねた声を出したアイは後を追ってくる。

 二人並んで住宅街を歩きながらアイの頬の赤みの追求をすべて無視していた。ここまで徹底すればさすがに雰囲気を読み取ったアイは当初の質問に回答する。


「今日は中学校が休みなんでアユトさんに会いに来たんですよ。ちょうど私も早朝に出かける用事があったので……タイミングよく出会えてよかったです」


 無視され続けてショックなのか声に元気はなかった。


「そうなのか」


 さすがに可哀想になった俺は仕方なくマユミとの一件をアイに話した。ただしビンタされたのはさっきの事ではなく昨日の夜という事にしておいた。

 朝にマユミが俺の部屋にいたという事実は変な誤解を生み出しそうで恐かったからだ。

 客観的な意見も聞いてみたかったので俺はアイに感想を求めた。

物語の指揮を取る俺は俺なりに頑張ったが結局なにも結果を残せなかった。結果がすでに出ているのであれば早く諦めた方が出演する演者達の為ではないかと考えている。

 つまらない物語を演じるのは脇役だって苦痛なのだ。


「アイ。お前はどう思う?」

「私はあのむっつり女を許せません!」


 やはりアイは俺の味方だ。俺がこんなに努力しているのにマユミは何も手伝おうともせずに好き勝手やっている。助言も何もしてくれないのに俺に向かって諦めたら殺すなんて言うのは無責任だろう。

 どうやらアイは俺の決心が正しいと思ってくれているようだ。

 情けなさが込み上げるが気持ちを分かってくれるのはありがたかった。


「お前はそう思うか?」

「はい。アユトさんのかっこいい顔に翌日まで残るような傷を負わせた事が許せません。あっでも、アユトさんのすべすべの頬を触れたことは正直うらやましいですっ」


 アイは怒った表情から悔しそうな表情へ変換させる。


「ちょっと待て。俺が聞いているのはビンタの話じゃない。もう諦めてランクAの権限をフウキさんに譲り渡す件をどう思うか聞いているんだ!」

「あっ、そっちですか!」


 アイは本当に気がつかなかったのか口を大きく開けて驚いた表情を見せる。

 普通なら気づくだろうと俺はアイの独特な思考にため息を吐いた。まあそれも個性の一部ではある。

 会話の軌道修正が済むとアイは少し考え込んだ。恐らく自分の考えをまとめているのだろう。

 アイがうーんと考えている間、きっとアイは俺を弁護してくれるだろうと期待していた。アユトさんは頑張っているのに努力が評価に繋がらないなんておかしい、アユトさんの実力はこんなもんじゃないなどの励ましの言葉をきっとかけてくれる。

 だが、俺の期待は見事に裏切られた。


「アユトさんが責任から逃げているだけだと思います!」


 期待と真逆の答えに心臓の鼓動がドクンと身体を震わせた。

 言葉が出ない。俺はアイの大きな瞳を覗き込む。


「むっつり女の言っている事が正しいです。私は任せられた仕事を途中で放棄するような無責任な人は信頼できません。実力や経歴以前に心構えから鍛えなおした方がいいですね」


 淡々と自分の主張を語るアイの意見はもっともだった。俺は反す言葉が見つからず黙るしか出来なかった。アイはさらに続ける。


「今のアユトさんは辛い仕事や責任から早く解放されたくて必死なんだと思います。弱音を吐くのはいいですが完全に諦めるのはどうかと思いますよ」


 仕事や責任から早く解放されたい。アイの指摘が俺の心に重くのしかかる。


「アユトさん。まだ諦めるのは早いですよ!」


 アイの言っている事は正しいのだと頭では分かる。俺だって馬鹿じゃない。しかし分かっているけど負の感情を抑えられずにいた。


「まだランクBのお前に何が分かるんだ。ランクAの責任の重さを知らないくせに……」

「はい。私はランクBですので分かりません!」


 アイに好き放題言われると不満が急速に浮かび上がった。

 同時に後輩にこんなにも好き放題言われて悔しくないのかと言う自問自答から忘れかけていた闘志の炎が点火する。怒鳴りたい気持ちはあったが理性でなんとか堪えた。


「本当に好き放題言ってくれる……お前に俺の何が分かるんだ!」


 俺は学校のすぐそばの交差点で立ち止まったアイを睨み続ける。真剣な表情のアイは俺の目から決して視線を外さない。


「アユトさんの気持ちは私には分かりません! でもアユトさんの気持ちを分かろうと必死で努力はしています! たしかに少し失礼な事を申し上げましたが私の紛れもない意見です。私はアユトさんに諦めてほしくないんです。アユトさん。何を恐れているんですか? ランクAの剥奪ですか? 演者達から嫌われてしまう事ですか? それとも世間の評価が悪くなる事ですか? そんなの関係ありませんよ! アユトさんの信念を貫けばそれでいいじゃないですか!」

「信念……」

「私は困難に立ち向かうアユトさんが大好きなんですっ!」


 たたみ掛けるアイは瞳に涙を溜めていた。アイは俺の事を心配しているという気持ちが伝わってくる。どうやら本日も俺が心配で様子を見に来てくれたのだとやっと理解した。

 アイの優しさも分からなくなるほどに自分自身を追い詰められていたらしい。

 俺は馬鹿だ。自分の事ばかりしか考えていなかった大馬鹿だ。俺に期待してくれる人だってまだいるじゃないか。

 アイの強い思いが俺の心を響かせる。自分に絡み付いていたプライドや仕事に対する固執した義務感が剥ぎ取られていくような感覚だった。 

 この仕事を始める前はランクAとしての意気込みや期待感が湧き出ていた。いや始める前ではない。子供の時からだ。

 この脇役の世界に入った時に誓っていた。どんな仕事でも決して諦めずに仕事を終わらせるという決意を思い出す。

 俺は何を恐れていたのだろうか。数ヶ月前の俺が今の俺を見ればなんと言うだろう。確実に情けない俺を罵倒するだろう。

 アイの言う通り悪評や仕事が無くなるなんて気にしなくていいじゃないか。自分の信念を貫く。それだけで満足だろう。

仮に駄目だったとしても全ての責任を取ればいい。もう覚悟を決めろ。


「アユトさんがもし脇役の仕事が出来なくなっても……私が、やっ、養って差し上げますよ……」


 自分を奮い立たせているとアイは突拍子もないことを言い出した。俺はなぜか笑いが込み上げてくる。

 心の中で焦りや不安や葛藤が吹っ切れた。そうだ。何も難しく考える必要なんてない。俺が実力不足なのは分かっていたはずだ。

 まだランクAになったばかり。始めから何もかも上手くいくわけなんてない。実力がないからこそ、がむしゃらに考えて必死で闘ってきた。

 駄目だとしてもやれるだけやって何が悪い。


「ふっ……はははっ。それもいいかもな」


 アイは脇役業界の重鎮の孫。つまりお嬢様だ。そうすれば俺は働かなくても、衣、食、住には困る事がないだろう。

 俺はありえない未来を少しだけ想像すると時計に目を落とす。そろそろ登校しなければならない時間を指していた。


「それってもしかして、こっ、婚約の約束で……」

「ありがとうアイ。なんだか気持ちが軽くなったよ。それじゃまたな」


 まだ驚いたようにぶつぶつと呟いていたアイを置き去りに軽くなった身体を校門へと走らせた。

 見上げると快晴の空が自分の気持ちを表すように、雲ひとつない空を継続してくれていた。

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