第4話


 電車を一本乗り継ぎ、都心から三十分程で辿り着いたのは郊外にある閑静な駅だった。

 改札の外へ一歩踏み出せば、駅ビルをはじめとした大型商業施設は無く、狭いロータリーを挟んで幾つかの商店が軒を連ねるだけの寂れた光景が広がるだけ。下手をすれば一般に田舎と呼ばれている土地の方がまだ栄えていそうな程だ。

 「嘘だろ……これが都内の駅前かよ」

 「まあ観光地とかもないし、所謂ベッドタウンって位置づけよね。買い物とかしたければ都心に出るか数駅先にあるモールにでも行けばいいし。家賃は高いっていうけど、うちはお父さんが買ったマンションあるから何とかやれてるって感じ」

 「なる程な。大したお父さんだ」

 千樹が口にしたのは素直な感想だった。が、灯里はそれに答えず歩き出し、千樹は慌てて後を追った。

 「おい、何がそんなに気に入らなかったんだ。褒めただけじゃないか」

 「別に、そんなんじゃない」

 事務所での勢いはどこへいったのか。やたらと減った口数に戸惑いながらも、風にそよぐ街路樹のさざめきを聞きながら、千樹は灯里の後を歩いていく。まだまだ残暑は厳しいが、時折吹く風は涼しく、灯りの鞄に付いているお守り袋を揺らしていた。

 少し汚れの目立つそれは、ほつれた糸、不均一な縫い目と、どうやらお手製らしい見た目をしている。

 結構手先は不器用なんだなと思っている千樹の傍を、ランドセルを背負った子供達がはしゃぎながら横を通り過ぎて行った。

 「なあ、あんたこの街は長いのか? 」

 「生まれたのはこの街だけど、中学入る頃までは少し離れてた。それでも、もう七年になるけど」

 「で、高校からずっと文芸部で、大学でも文学部か」

 灯里の返事はない。ちらりと見た横顔は、眉間に皺を寄せて口を一文字に結んでいる。その顔に、千樹は内心で空を仰いだ。

 今日中、という難題にばかり目が向いてしまっていたが、考えてみれば妙な事ばかりだ。会いたいと懇願する程の父親の写真が、免許証か何かを引き伸ばしたあれ一枚のみ。そしてやはり、父親の仕事が何なのかすら把握してないのは、妙というよりも淡白すぎるように思えてならない。

 そこまで考えて、千樹は不意に思い出した。


 “当り前の日常のはずなのに、どこかぽっかりと穴が開いたような気がしてならないんです”


 彼女の言う当たり前の日常とは、続いていく平穏な世界といったことではなく、父親が傍にいない事を指していたのではないか。

 聞きたいことだらけだったが、こんな路上で聞く事もないと千樹は言葉を押しとどめる。そして、飯田の言葉に何か思う所でもあったのだろう灯里の様子が気になりながらも、周囲に目を向けながら大通りに沿って歩みを進めた。

 暫く進んで香ばしい匂いの漂うパン屋の角を曲がり、更にその先の丁字路を曲がって数十メートル程を進んだところで千樹は漸く灯里の姿が無い事に気が付いた。

 舌打ちしてきた道を戻ると、パン屋の手前で立ち止まる灯里を見つける。内心うんざりしながら近づくと、その目が道路を挟んだ反対側へ向けられているのが見えた。

 視線の方向へと目をやれば、遊具も多い大きな公園の中で遊ぶ幼い子供と父親の姿。両手を広げて駆け寄る子供を父親が正面から抱き留めている。どこにでもあるような、ありふれた親子の微笑ましい姿だ。

 ただ、千樹にとっては眩しすぎて、痛みすら覚える光景だったが。

 「父親、か」

 口から出た感傷に、視界の端で灯里が勢いよく振り返る。

 「ごめんなさい。行きましょうか」

 公園を見つめる千樹と顔を合わせようとはせず、灯里はすたすたと先へ進んでいく。その様子に何かを訊ねたりはせず、千樹も歩いていく彼女の後を大人しく付いて行った。

 しかし、一つ気になる事もあった。振り返る一瞬に垣間見た彼女の目は、悲痛や哀愁だけではない感情を抱えているように見えたのだ。それは、言うなれば辛苦。悲しみの裏に苦しみを抱えた目を、千樹は良く知っていた。何故ならば、同じだったのだから。

 眠る度に見る悪夢、そこに現れる男の瞳に写った自分の目と。


 扉を開けた瞬間、少し埃っぽい風と年季の入った紙の臭いが弾けたように広がった。

 折角の南向きの窓は厚いカーテンで閉め切られ、一筋の光すらも入ってこない。昼間だというのに薄暗い部屋の中に電灯を灯せば、本棚と机だけという簡素な内装が露わになった。

 「あの日からそのままにしてあるんです。埃を払う位はしてるけど、物の配置とかはそのまま……」

 父親の部屋へと千樹を招き入れた灯里は、静かな声でそう言った。

 「悪いが、少し見せてもらうぞ」

 「ええ、どうぞ」

 了解を得て部屋に足を踏み入れる。柔らかな絨毯の感触をくすぐったく思いながら、真っ先に千樹が向かったのは窓際の机だった。

 机の上には閉じられたノートパソコンが置かれ、その奥には文庫本サイズの書籍が何冊かブックエンドによって立てかけられている。タイトルを見るに、どれも経済や流通、起業に関するものの様だ。

 デスクライトが置かれている机の端に目を向けると、本棚との隙間に一抱え程の段ボール箱がひっそりと置かれている。蓋の端からビニール袋の結び目がはみ出しているが、父親の遺品でも詰め込まれているのだろうか。

 「なあ、このダンボール箱何が入ってるんだ? 」

 「お父さんが使ってた仕事道具とか、そういうの。大したものは入ってない」

 そっか、とそっけない返事だけ返して千樹は観察を続ける。再度机に目をやると、引き出しが大小二つ備わっているのが分かった。小さい方にはカギ穴が付いているが、鍵がかかっているらしく引っ張っても開く様子はない。

 「なる程な。仕方ない、後にするか」

 先ずは他の所から見てしまおうと、文庫本に手を伸ばす。

 「そういえば、あんた母親はどうした? 姿が見えないが」

 「母は……私を生んで直ぐに亡くなったの。父方の祖父母はいたけど母方のとは会った事も無い」

 灯里の声は無感情に、ただ淡々としていた。

 「母が幼い頃に亡くなってから、父はずっと働き通しだった。私は殆ど父の実家に預けられてて。私が中学に上がる頃に起業して、それからはさらに家に寄りつかなくなったの……正直、父との思い出なんて殆どない」

 灯里は吐き捨てるようにそう言った。初対面からは考えられない程に低く重い声に、脳裏に浮かんだ考えを、気づけば千樹は口にしていた。

 「あんた、父親を恨んでるのか? 」

 「……恨める程一緒に居られたわけじゃない。いないのが当たり前で、普通の日常だったから。ただ、よくわからないだけ。あの人がお父さんだってだけで、何を考えてたのかとか、何をしたかったのかとか、そういうの一切分からないの」

 けどさっき、余計に分からなくなっちゃった。そう言った灯里の声は、泣き出しそうな子供の声に思えた。

 泣きたくもなるだろう。彼女にとって父親は、自分には見向きもしない謎の存在でしかなかった。それが会社では喜々として自分の事を語っていたというのだから。これが物語ならば本当は娘を理解してくれていた素晴らしい父親で片付けられるのだろう。

 だが、実際に自分の知る姿と周囲のそれが異なっていたら、そこにあるのは混乱のみだ。

 ならどうして自分にはその姿を見せてくれなかったのか、そもそもそれは本当に同じ人物だったのだろうか。飯田の語る父親は、灯里にとっては宇宙人のようにしか思えなかったに違いない。まるで異質な、理解の及ばない存在に。


 ――そう、理解が出来ないのだ。同じ血を分けた家族のはずなのに、その家族の事が何もわからず、理解が出来ない。だからこそ、苦しい。


 けれど、苦しいならば、いっそ何も知らずにいた方が良かったのではないか。

 「知らないままが良い事もある、とは考えなかったのか? 」

 しまった、と千樹が思った時にはもう遅く、言葉が口から離れていった後だった。灯里からの返答は無く、気まずい沈黙が部屋を支配する。

 「考えたわよ。考えたに決まってる。けど……時間が経って、もう二度と会えないって実感する程に知りたくなったの。」

 暫くして聞こえたのは、喉の奥から絞り出すような声だった。だからこそ、それが本音なのだろうと千樹は思う。

 思うが故に、開きそうになった口を必死に噤んだ。これは仕事だ、だからそれは余計なお世話だ。そう言い聞かせて。

 『知らない方が良い事もあるんだぞ』そう言おうとした口を。

 「あの朝ね、お父さんが急に話しかけてきたの。何年振りってくらいに久々に聞いた声だった。今日は必ず帰るから、そうしたら話をしようって。けど……結局帰って来なかった。だから、会いたいの。会って、何でもいいから声を聞きたいって思ったの」

 千樹には漸く、灯里が今日という日に拘っていた本当の理由が分かった。果たされなかった約束が、今も心の中で燻り続けているのだろう。

 燻り続けて尾を引く心の煙、それを人は未練と呼ぶのだ。

 その時、机の上を見ていた千樹の目を引いたものがあった。それはノートパソコンの上に置かれた手帳らしきものだ。所々土か何かで汚れていて、一度濡れたのか大分皺とよれが目立っている。

 手帳を手に取ると、背後から小さく「あ……」という声が聞こえた。

 「それ、お父さんの手帳。大分くっついちゃってるから私も中身は見てないんです」

 「へぇ。中身が見れればよかったんだが、けどまあ仕方ないな」

 「手帳の中身が幻灯とどういう関係があるの? 」

 きょとんとしているだろう灯里の声に、目線は手帳に向けたままで千樹は口を開く。

 「この手帳の中身には親父さんの思いが詰まってる。それをスキャンしてAIに学習させれば、より生前の本人を反映した写し身を作り出すことが出来るんだよ」

 「……なら、それってこれも役に立つ? 」

 傍に近づいてきた灯里が手に持っていた鍵を引き出しの鍵穴へ差し込んで回す。カチャっと軽い音がした後、引き出しを開けた灯里が取り出したのは一冊の日記帳だった。

 「お父さん日記書いてたみたいなの。鍵屋さんに鍵だけ作ってもらって開けたら入ってた。けど中は読んでない」

 そう言うと、灯里は両手に持った日記帳を千樹の胸に押し付けてきた。顔は伏せられ、表情を伺うことは出来ない。

 「読んでない? 気にならなかったのか? 」

 本人がこの世にいない今、その真意を知るにはこれを読むしかないだろう。知りたいと思ったのなら、真っ先に手を伸ばしそうな物である。

 だが、灯里にそう言いながらも千樹はそれは難しくもあったと分かっていた。すぐそこに求め続けた答えがあっても、いざ知ろうとした時に生じる感情は、決して喜びばかりではない。

 「読もうと思ったけど、読めなかった。なんか、怖くて……使うなら手帳と一緒に使っていいです。私には見られそうにないから」

 「幻灯に使うなら結局知る事になる。今からでも止めたって誰も責めはしない、止めとくか? 」

 その言葉で、灯里は伏せていた顔を上げた。迷いを纏わせた目が、けれど真正面から千樹の顔を写している。

 「どうせ知るなら、お父さんの口からちゃんと聞きたい。聞ければ、どんなことでも受け止められる気がするから」

 そう言って笑った灯里の目から、一滴の雫が頬を伝って流れ落ちた。

 「そうか……分かった。親父さんには、ちゃんと会わせてやる。日記も手帳も後でちゃんと返すから。読めなくてもいい、会えたら取っておいてやってくれ」

 千樹は、灯里の目を真っ直ぐに見て頷いた。

 いなくなった後の事など死者にはどうする事も出来ない。遺していったもの、それが全てだ。そして残された者達にもそれを修正したりすることなど出来はしない。遺されたものがどんなに信じ難い、受け止め難いものであっても。知ってしまったら、ただ受け入れるしかないのだ。

 だからこそ、知らなくていい事実もあると千樹は知っている。

 知らなければ良かったと藻掻く苦痛を知った”あの日“から、千樹の中で繰り返される諦念。知ってしまう事が本当にいい事なのか。知らなければ、あるかもしれない苦しみに耐える必要もないのにと。

 それでも、依頼人が耐えると決めたのなら、幻灯師は自らの役割を持ってその意思に応える。再会のひと時を心穏やかに迎えられるように。

 そして、残される悲嘆や苦痛に寄り添い、少しでも和らげられるように。それが、幻灯師の役割なのだから。

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