第1話
傾きを強めていく夕日が差し込み、薄暗い部屋を赤く照らし出している。空間を裂くような光の筋の中心には、据え置かれた介護用ベッドと机しかない簡素な部屋だ。ぼっどの上には男が一人、目を閉じて静かに横たわっている。微かに上下する胸だけが辛うじて男が生きている事を知らせていた。
しかし、差し込む光が細くなり、その赤さが増しても男は身じろぎひとつしない。壁から蜘蛛の糸のように垂れ下がったナースコールを掴むはずの手は、男の両側で力なく置かれたままだ。
ベッドに横たわり、眠ったままの男。けれどその傍らには、同じ男がぼんやりと光を纏った半透明の姿で、真っ直ぐに前を見つめて立っていた。微かに揺らめいて今にも消えてしまいそうな幻影の男。その表情は酷く戸惑った様にも、今にも泣きだしそうな様にも見える。感情がない交ぜになったその目は、この部屋にいるもう一人の顔を写している。
嗚呼、またこの夢か。最早慣れ親しんだ光景に千樹は目を伏せてため息をつく。もう何度見ただろうか、この夕日に染まる部屋と男を。そしてこれから男がどうなるのかも。説明しろと言われれば、その一挙手一投足まで事細かに話してみせられる程に。
こうして夢と認識して酷く落胆出来るのだから、これは所謂明晰夢というものだろう。一般的に明晰夢の中であれば自由に行動できるとされている。しかし、この部屋からは決して出られず、目の前の光景に干渉も出来ないと千樹は長い経験と挑戦の結果から理解していた。
なぜなら、これはただの夢ではなく、過去の記憶の再生でしかないのだから。
一度始まってしまえばもう最後まで見届けるしかない。仕方なしにと、千樹は気だるげに視線を上げて男を見据えた。
目の前で、ゆっくりと開かれていく男の口。静寂に包まれた部屋の中、息を吸う音が聞こえた。
『俺は――――』
男の声は、繰り返されるノックの音にかき消された。
何度も繰り返されるノックの音に、まどろみの中にいた千樹の意識が浮上する。そして、ここは自分が開く個人事務所の中であり、寝転がっているのが来客用のソファであると思い出した。仕事着であるダークスーツのままで寝ていたせいか身体の節々が痛んで仕方ない。その場で大きく伸びをすると、ノックの音がより一層強くなった。
一瞬、大家が家賃の催促に来たのかと思ったが、遅れていた分も合わせて先週大家に支払ったばかりである。となれば、このノックの正体は宗教か何かの勧誘、もしくは仕事の依頼のどちらかしかない。しかしどちらの相手にせよ、夢見が悪かったせいで今はとても気分が乗らなかった。
正直に言えば毎度の事ではあるのだが、それに突っ込む野暮な存在がいないという点は個人事業主の良いところだと思っている。
そんな事を考えている間にもノックの音は途切れずに続き、合間に在中を訪ねる大声が響き渡る。兎にも角にも、こういう時は居留守を決め込むに限る。千樹は事業主として今後の対応を決めると、横たわっていた来客用ソファの上で寝返りを打った。
『すみませーん、お留守ですかー? 』
聞こえてきたのは頭に響く程に張りのある甲高い声。どうやらドアの向こうにいるのは若い女らしいと分かるが、特に対応を変える理由にはならないとそのまま無視を続けた。
―――そして経つこと5分弱。一向に止まないノックの音に、先に痺れを切らせたのは千樹の方だった。
「うるせぇぞ! 出ないなら黙ってとっとと帰るだろ普通! 」
「なんだ、いたなら早く出てくれれば良いじゃない! 」
乱暴に扉を開ければ、そこにいたのはやはり二十代位の若い女だった。身長は千樹の肩程しかなく、怒りに赤らめた顔で真っ直ぐに千樹を見上げている。薄いグレーのワンピースに水色のチュニック、セミロングの髪を軽く巻いた出で立ちと、随分垢抜けた装いだ。
「とにかく今日は店じまいだ。また別の日にしてくれ」
「それが駄目だからこんなに粘ったんじゃない! お願いだから話だけでも聞いてください」
女に頭を下げられ、千樹はぐっと声を詰まらせた。気が乗らない日に働きたくはないが、女に頭を下げさせてまで断るのも癪に障る。暫く唸り、目を泳がせていたが、ややあって頭を掻きむしると詰まらせていた声を吐き出した。
「だあーっ、分かった。話だけなら聞いてやるから、だから頭を上げろ」
「本当? やったぁ! 」
そしてそそくさと脇をすり抜けていく女のしたり顔に、してやられたと思った時にはもう既に後の祭りだった。沸々と湧き立つ苛立ちのやり場に迷った挙句、千樹は乱暴な手つきで扉を閉めた。
都内有数の繁華街に程近い雑居ビルの二階にある六畳のワンルーム、その中央に置かれたテーブルを挟んで千樹は女と向かい合っていた。見るからに不機嫌丸出しの千樹に対し、女もまた顔をしかめながらせわしなく周囲を見回している。
「あんまりじろじろ見るんじゃねぇよ」
「そういうなら少しは片付けたらどうです? 足の踏み場もないじゃない」
広いとは言えないワンルームの床には所狭しと積み上げられた本や写真にファイルの束。それらが大きな波打つ山脈となって二人が座るソファを囲む。まるで熊本の阿蘇にあるカルデラのような光景だが、見た人の多くは恐らくゴミ山の僅かな窪地としか見ないだろう。そう思われても仕方がない光景であり、その事を明け透けに指摘され、千樹には返す言葉が無かった。
こういう気の強い女はどうも苦手だ。大の男相手に臆する素振りすら見せない女の、刺すような目線から顔を逸らしつつ、千樹は本題を切り出す事にした。
「で、あんたは一体誰で、どういう用件でここに来たんだ」
「私は中嶋灯里。城陽女子大の二年生で文学部所属の二十歳。用件は、ここに来たんだから一つしかないじゃないですか」
「言っとくが、うちは個人事務所ではあるが探偵事務所とかじゃないぞ。彼氏の浮気調査とかなら他所をあたれ」
「違います! 」
千樹の言葉を灯里と名乗った女は大声で否定すると、顔を伏せて絞り出すような声で言った。
「私は……私は、お父さんに会わなくちゃいけないの。貴方も幻灯師なんでしょ? お願いです、父に会わせてください」
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