幻灯師
彼方
プロローグ
九月も半ばを過ぎたその日は、関東一帯に停滞する低気圧の影響で朝から雨が降っていた。薄暗い空の下、行きかう人々の頭上には色鮮やかな傘の花が咲き乱れる。色とりどりの布が街の灯りに照らされて、まるで映画館の薄明りのような光景を生み出し人々を楽しませていた。
けれど、それは小雨程度だった午前中までの話だ。午後に入っても増していく雨の勢力に、景色を楽しむ余裕など持ち続けられる人は少なかった。そして必然的にバスやタクシーへの需要が増加した結果、帰宅ラッシュの時間帯において数多の渋滞を生み出すに至っていた。
都内を横断する主要な幹線道路においても、多数の車両が数珠のように列をなして立ち往生。それを避けるべく入った脇道でも細々とした渋滞が発生している様な有様だった。
その脇道の一つを埋める車の中で、ひと際苛立ちを隠せない男の姿があった。ハンドルを人差し指でトントンと叩きつつ、動く気配の無い前方車両ににらみを利かせている。睨んだところで動き出すはずもないのだが。
気晴らしに付けたラジオからは似たような音楽番組が延々と続き、男の苛立ちを更に煽る。終いには何年も前から入れっぱなしだった古い煙草をシートボックスから取り出して、ライターが無い事に気づき自分で苛立ちを煽る始末。
全く、なんて日だ。社用も兼ねた軽自動車の運転席で男が小さく吐き捨てた。細い一般道まで埋める渋滞に挟まれて、車は一向に動く気配がない。
まだ動かないのか。男はルームミラーの下で僅かに揺れる『お守り』に視線を移す。ほつれた糸、不均一な縫い目と明らかに手製と分かるそれを見て、苦々しく舌打ちをした。
こっちは急いでるんだと、男の焦りは募っていく。時折ラジオから流れる渋滞情報は、あと数時間の拘束が確実であると伝えてきていた。
それでも一センチ、いや一ミリでもいいから動いてくれと男は祈る。でないと、間に合わなくなってしまう。約束したんだ、絶対に守らなければならない約束を。
後部座席に目を向けた男の視界に入る二つの箱。一つは両手で抱える程に大きく、もう一つはそれよりも二回りは小さい。そしてどちらも綺麗にラッピングが施されている。だが大きい箱はともかく、小さい箱の中身はあと数時間なんて持たないだろう。中に入っている保冷剤も、恐らくはほぼ溶けてしまっている筈だ。急がなければ。
男には、この二つの箱を何としても今日中に持ち帰らなければならない理由があった。それは、男の全てを賭けてでも守りたい約束。何にも変えられない、かけがえのない人との。
その時、雨音の向こうから届いた微かな揺れとクラクションの輪唱に、男はハッと顔を上げる。そして、迫りくる乗用車のフロント部を男は見た。
何が起こっているかわからず、ただただ困惑していた運転手の最期の顔も。
男の意識はそこで途切れた。
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