僕の心は君で出来ている
東雲一
「僕の心は君で出来ている」
僕は、突然、鳴り出した目覚まし時計に起こされ、目を覚ました。一度、目覚ましのボタンを押し損ねた後、二度目でやっと騒がしい音が止んだ。
時間の設定を間違っていた。
今日も、何気ない生活が始まる。なぜだか分からないが、最近、何かがかけてしまった喪失感に日々悩まされている。まるで、何か、大切なことを忘れてしまっているような感覚だ。
いつも通り、僕は学校に行き、いつものように教室の扉を開けた。ごく普通の日常の延長だ。
「●×▲#」
なんだ。今のは......。
教室の中に入った瞬間、頭にノイズのようなものが響き、思わず立ち止まった。耳を澄ましてもう一度聞いてみるが、それから何も聞こえなかったので、耳鳴りかなにかと思い、特に気に止めず、自分の机に座った。
「ああ、今日も空がきれいだな」
僕は、肘を机に起き右手で顔を支えながら、授業中、教室の窓から、青く澄み渡った大空を眺めていた。だけど、なんだろう。大切なことを忘れてしまっている気がする。一体、なんだったかなと、思い出そうとすると、頭に痛みが走った。
ふと、教室の方に視線を移すと、奇妙なことが起こった。先ほどまで、椅子に座って授業を受けていた生徒が全員いなくなっていた。教壇の上にいた、教師でさえも、姿が見えない。
僕だけ置いて、みんな、どこかに行ってしまった。
「おい、みんな、どこにいったんだよ!」
大声を上げて、反応がないか耳を澄ませてみたが、全く返事がない。どうやら、どこかに隠れているというわけでもなさそうだ。
まるで、もともと、彼らは存在していなかったようだ。
僕以外に誰もいなくなってしまった教室の中を見渡していると、どこからか声が聞こえた。
それも、女性らしき声が、頭に直接話しかけてきた。変な感覚だ。
「私を見つけないで。お願い」
私を見つけないで。と言われても、僕は、話しかけてくるこの声の主を思い出すことができなかった。だけど、とても懐かしく、心が暖まるような気持ちにさせられた。きっと僕は、忘れているだけで、声の主が何者かを知っている。
しかし、なぜだろう。思い出そうとすると、体がやめておけと拒絶してくるのだ。声の主の彼女に会えば、欠けてしまった記憶の断片を取り戻すことができるだろう。
僕は、とにかく、無人の教室から出て、学校の中を探した。先ほどいた教室だけではなく、学校のどこにも人の姿が全くなかった。そればかりか、屋上に行き、街中を見渡してみたら、街の人々がいなくなっていることに気づいた。
僕だけ置いて、みんな、どこにいってしまったんだよ......。
人々がいなくなるだけでも、世界は無機質で冷たいものに感じられるとは思わなかった。今までにない孤独感と寂しさが、どっと押し寄せてきて、たまらず、座り込んで、俯いた。
「何してるの?そんなところで」
ふと、そんなことを話しかけられた気がして、僕は顔を上げた。しかし、周りには、誰もいない。
前にも、僕が、うなだれていた時、優しい声で女性が話しかけてくれた覚えがあった。落ち込んでいて、今と同じように孤独感にさいなまれていた時、彼女が話しかけてきてくれて、救われた。
記憶の中の彼女は、もやがかかったみたいになって、どんな顔だったのか思い出すことができない。だが、僕は、確かに彼女、先ほどの声の主と何だかの接点があったはずだ。
体はなぜか拒絶するが、彼女のことを思い出したいという気持ちになった。
この学校にきっと彼女の手がかりがあるはずだ。
屋上から、階段を下りて、図書室に向かった。僕は、昼休み、よく図書室に行き、本を読んでいた。教室の雰囲気に馴染めず、落ち着いて本の中の世界に没頭できる空間が心地良かった。不思議と、人がたくさんいる教室の方が、人の少ない図書室よりも、孤独感を感じた。孤独感から、逃げるために、図書室に行っていたのだと思う。
四階にある図書室の扉を開けた。扉も古くなっているのか、開くとガタガタと音がなった。
中には、カウンターと、いくつもの本棚があり、窓側には、本を読むための机と椅子が置かれていた。
図書室に来ると、いつも、本棚で本を取って、窓側の机で読んでいた。窓からは、日が差し込み、カーテンが外からの風で揺れている。静かで、落ち着ける空間が、ここにはあった。
すると、また、頭に痛みが走った。また、何かを思い出そうとしているのか。
たまらず、頭に手をやり、椅子に座ると、彼女の声が聞こえた。
「あっ、ごめんなさい。本好きなんですね」
その声と共に、右手に、暖かみを感じた。
そうだ。僕は、彼女とここで初めて話をしたのだ。彼女も、よく図書室に来て、本を読んでいた。前から見かけはしていたけれど、お互いに会話したことはなかった。あの日、二人とも、同じ本をとろうとするまでは。
偶然だったけれど、僕たちは、同じ本をとろうとして、思わず手が触れ合ってしまった。突然の出来事に、僕は、顔を赤らめた。彼女の方も、気のせいかもしれないが、なんとなく顔が
赤くなっていたような気がした。その時に、初めて、僕と彼女は、話をしたはずだ。
確か、彼女は......。
再び、頭に痛みが走った。
彼女の名前はカナデ。カナデさんだった。
少しずつだが、僕は、彼女のことを思い出してきていた。彼女は、自ら、名前をカナデと言っていた。ここで、お互いの名前を知ったのだ。だが、思い出すと同時に、強い不安を抱き始めていた。
図書室は、他に何か手がかりとなるものはなさそうだったので、一階まで下りて、誰もいない廊下を歩いた。
緑色の掲示板には、何枚か、生徒が書いた絵が飾られていた。絵は自画像で、書いた生徒の顔が描かれている。絵の下の方には、生徒の名前がそれぞれ書かれており、その中には、カナデの名前もあった。これで、彼女の顔を思い出せると思ったのだが、彼女の顔面は、白く塗りつぶされていて、見ることができなかった。
その横には、僕の自画像もあった。改めて、見ると、僕の表情は、曇っていた。何かこう、温もりを求めて愛に飢えた表情を浮かべている。じっと、見ていると、自画像を書いていた時の記憶が、思い出された。
絵を書いていた当初、何でも、人と比較してしまっていた。それでしか、自分の価値を測ることができなかった。でも、その後、彼女と出会って話をして、変われたのだ。彼女が好きでいてくれるなら、それだけで十分だった。彼女といる時だけは笑っていられた。
僕は、彼女と一緒に廊下を歩いていた。二人とも、似た者同士だった。クラスの雰囲気に馴染めず、二人とも、どこか孤独感を感じていたからこそ、お互いの気持ちを分かり合えたし、惹かれあったのだと思う。一人で歩いていた廊下を、いつの間にか共に歩くようになっていた。
彼女との日々を思い出しながら、廊下を少し進むと、靴箱があった。
この靴箱は.....。
頭に再び痛みが走り、すぐそこまで記憶の断片が見えそうになったが、まだ、思い出すことができなかった。
でも、なんとなく、分かった気がした。僕は、きっと、彼女に告白した。口下手の僕は、おそらく、彼女に対する思いを、手紙に綴って、彼女の靴箱の中に入れただろう。
「もうこれ以上探さないで。新多くんは、こちらに来ないで。お願い」
どこからか、また、彼女の声が聞こえた。どこか寂しそうな声だった。
こちらに来ないで、というのは、どういうことなのだろうか。まず、僕のいる場所は、本当に学校なのだろうか。現実味がなく、学校の見た目はしているが、いつもの学校にはどうしても思えなかった。
彼女は、警告してくれているのだろうが、彼女についての記憶が蘇るにつれて、この先に待っている真相を求めてしまう。
学校の外に出た。学校の中に人がいる気配がなかった。
外になら、誰かがいるかもしれない。
そう思って外に出たのだが、門を出たところで、雲行きが怪しくなり、ぽろぽろと雨が降り始めた。
僕は、あわてて、学校付近の建物に隠れて雨をしのいだ。前にもこうして、この建物の下で、雨が止むのを待っていた気がする。
ふと、目線を下にすると、一本の傘が傘置きに置かれていた。
傘......そうだ。あの日、雨が降った日に、僕は、この場所で、帰宅中、雨宿りをしていた。雨が止むのを待っていたのだが、雨の勢いは収まるどころか増すばかりで一向に、家に帰れそうになかった。
そんな時、傘を持った彼女が、建物の下、雨宿りをしているのを見て、傘の下に入れてもらった。彼女との距離が近くて、今まで二人で一緒に帰ることがなかったから、心臓が張り裂けそうなくらいとても緊張した。だけど、とても幸せだったし、ずっと、この時間が続いてくれたらいいのにと思った。
彼女との記憶が、鮮明になってきた、その時だった。
今までにないくらいの頭痛が走った。意識が朦朧とする。かなり、彼女との記憶を取り戻しているが、まだ、大事な記憶を取り戻してはいない。それは、おそらく、きっと僕にとって、とてもつらく悲しい記憶なのだろう。その記憶を思い出そうとすれば、全身が、思い出すのを拒絶してくるのが分かった。
思い出さないほうが幸せなことなのかもしれない。だけど、もっと彼女のことが知りたい。
僕は、傘置きから、傘をとってさすと、雨の中を気の向くままに歩き始めた。次第に頭の痛みが、強くなっていく。なんとなくだが、歩いている先に真実が、あるように感じた。
人のいなくなった街をひたすら歩いた。
そして、雨が止み、車のブレーキ音が急にした直後、ようやく、彼女を見つけたーー。
僕は、目の前の光景を見て、立ち止まると、持っていた傘を地面に落とした。自ずと、涙が頬を伝った。
頭痛はすでに、収まっていた。僕は、彼女のことを思い出した。彼女の笑顔も、彼女との幸せな日々も、そして、ここで起こった悲しみも。
知らなければ、良かった。こんなにも胸が苦しく、底知れない悲しみと孤独感に襲われるならば、知らなければ良かったのだ。
彼女は、瞳を閉じて、ベッドの上で安らかに眠っているかのように血みどろになった地面に倒れていた。
僕は、地面に倒れている彼女のところまで行くと、優しく抱き締めた。彼女の暖かった肌の温もりは、感じられず、息はしていない。
思い出した。彼女は、雨の中、僕と下校していた。急に車のブレーキ音がしたかと思うと、気づいた時には、彼女は出血し、倒れていた。雨で濡れた地面を走っていた車が、制御を失って、理不尽にも彼女と衝突したのだった。彼女は、サイレンが鳴り響き、病院にすぐさま運ばれたが、時はすでに遅かった。
彼女ともっと幸せな時間を過ごしたかった。色褪せた世界のなかで、彼女といた時間だけが特別で、かけがえのないものだった。
彼女の死を聞いた時、誰もいないところで思いっきり、泣いた。涙が枯れ果てるまで泣いたと思っていたけれど、思い出すと、今でも涙がこぼれてしまう。
僕が優しく抱き締めた彼女は、次第に消えていき、まるで最初からいなかったように消えてしまった。ここは、きっと、僕の記憶のなかの世界。現実ではないのだろう。
なら、頭の中に話しかけてきた彼女の声も、僕が作り出した妄想なのだろうか。
「新多くん、私に出会わないほうが良かった?」
彼女の声が聞こえて、僕は、さっと顔を上げてみると、歩いている彼女の後ろ姿が見えた。
「そんな訳がないよ。いくら今が辛くても悲しくても、君と出会えて幸せだった。君と話した時間、日々は何よりも幸せだったし、僕に生きる意味を与えてくれた」
僕は、そう答えたが、彼女は、こちらに振り向くこともせず、僕から次第に離れていく。僕は、このままでは、どこかに行ってしまい、二度と話すことはできないような気がして、たまらず、彼女のもとへ駆け出した。
だけど、僕は、見えない壁に阻まれて、彼女に近づくことすらできなかった。
「なんだ、この壁は......」
このままだと、彼女が向こう側に行ってしまう。僕は、見えない壁を、必死に何度も叩いて、彼女のもとへ行こうとするが、どうしても行くことができなかった。そうしてる間も、彼女との距離は離れていく。
「待ってくれ、カナデ!もっと、話をしよう。ああ、そうだ。学校の帰りに、お店で、クレープを頼んで一緒に食べた時の話をしよう」
「ごめんね。それは、できないの」
彼女は、立ち止まると、そう言った。
「どうして、どうしてだよ。カナデは、僕と話したくはないの?」
僕の問いかけに、彼女は、こちらを振り向いた。振り向いた彼女は、寂しげな表情を浮かべ泣いていた。
「話したいよ!ずっと、あなたと話していたいし、一緒に同じ時を過ごしていたいよ!でも、無理なの。できないの。過ぎ去った時間は、取り戻すことはできないし、変えることはできないから」
過ぎ去ってしまった時間。そうだ。彼女は、もう、この世にはいないのだ。改めて、ろくでもない現実を突きつけられた。過ぎ去ってしまったことは、変えられない。それが、この世の理だ。抗っても、覆しようもない現実だった。
目の前にいる彼女は、僕が作り出した幻想にすぎないのかもしれない。だけど、それでもかまわないから、彼女にそばにいてほしい。
「そんなの嫌だ。僕は......僕は、君のいない世界で、これから、どう生きればいいんだよ。何を頼りにして、生きていけばいいのか分からないんだ、だから......」
僕は、僕の唇に、温かく優しい感触がして、思わず目を閉じて、途中で話すのをやめた。目を開けると、目の前には、彼女の明るい笑顔があった。この瞬間、僕の心臓は、一瞬、止まった。死んでしまってもいいくらい幸せだった。できることなら、ずっとこのまま、時間が止まってくれたならいいのに。
「行って。もう少しで、暗闇がやってくる。暗闇に飲まれる前に、光に向かって、走って。ここじゃない変わり行く世界へ」
彼女の言葉を、聞いた直後、世界が崩壊していく音が聞こえた。周りの建物、空が、音をたてて、崩れ始めた。そして、奥の方から、こちらに向かって、ものすごい勢いで暗闇が押し寄せて来るのが見えた。暗闇とは、正反対の方には、朝日が差し込むように燦然と輝く光が現れ、崩れ行く世界を照らす。
彼女の目は、真剣そのものだった。彼女と別れるのは嫌だ。ずっと、このまま、そばにいたい。だけど、ずっとこのままではいらないから、前に進み続けるしかないんだよな。
「分かったよ。だけど......最後にこれだけ言わせてほしい。ありがとう。君と会えて本当に幸せだった」
「うれしい。私もあなたに出会えて、本当に幸せでした」
彼女は、とびっきりの笑顔を浮かべて、一言言った。
僕は、彼女の言うように、光に向かってひたすらに走り出した。ただ、光の方を見て、再び、彼女のことを見てしまうと足を止めて暗闇に飲まれてしまうと思った。前に進むしかないのだ。時間は、止まってはくれないし、情けをかけてはくれないから。僕の気持ちなんか無視して、踏みつけにしてくる。
崩れ行く世界の中で、光に向かって行く途中、今までの出来事が走馬灯のように思い出された。
学校の入学式。桜が、ちょうど、咲き乱れていた頃。周りは、みんな、すでに話し相手がいて、楽しそうに会話を弾ませていた。僕は話し相手がおらず、教室の片隅で沈黙し、ただ窓から空を眺めていた。クラスに馴染めずにいるのは、僕だけかと思ったけれど、自分のほかにも馴染めずに、一人、本を読んでいる女性がいた。
僕のほかにも、僕みたいな人がいるんだ。心の優しそうな人だ。彼女を見ていると、なんとなく落ち着くんだよな。
そう思い、彼女のことを見ていると、僕の視線に気づき、こちらを振り向いた。お互いの目線と目線があった。僕は、恥ずかしくなって、顔を赤らめると、あわてて、空を見た。
本が落ちる音がして、もう一度、彼女を見ると、少し顔が赤くなっていて、持っていた本が上下逆さまになっていた。
あの時は、教室の狭い空間の中、僕たちだけが、取り残された感じがして、分かり合えた気がした。話はせずとも、何かお互い通じ合うものがあった。
それから、図書館で僕たちは、偶然、本を取ろうとして手と手が触れあって、一緒にいる時間が増えたんだ。
一人で歩いていた廊下も、いつの間にか、彼女と二人で窓から美しく咲き乱れる桜の花を見ながら、歩いていた。さりげなく、彼女の手を握ると、彼女も僕の手を握り返してくれた。彼女のぬくもりとともに、もう一人じゃないと思えた。
学校の帰りに、よくお店によって、何か食べ物を買い、近くにある公園のベンチに座って、夢の話をした。
僕は、小説家になるのが夢だった。教室で一人でいる時間が、多かった僕は、よく頭の中で物語を空想して書くことに没頭した。いつからか小説家になって、多くの人の心を突き動かすような作品を書きたいと思うようになった。
「何を言ってるんだ。なれるわけがないだろ。現実を見ろ」
ある日、僕は、親に小説家の夢の話をすると、そんなことを言われた。収入が安定しない小説家などにならず、無難な道を進めとのことだ。親からは、夢を受け入れてもらえるどころか、否定されてしまった。
だけど、僕の話を聞いた彼女は違った。
「すごいよ。自分の好きなことがあって、それに向かって、突き進むことができるなんて」
彼女は、否定するのではなく、僕の夢を応援してくれた。周りに否定され、馬鹿にされ、落ち込んだこともあったけれど、彼女が応援してくれたから、前に進むことができた。
「カナデには、何か夢があるの?」
今度は、僕が彼女の夢について聞いた。
「う~ん、私は、人の命を救う仕事がしたいかな」
彼女らしい答えだった。彼女なら、将来、人の命を助ける仕事についてたくさんの人を救うだろうと確信していた。
光に向かうにつれて、どんどん、彼女との思い出が、溢れ出る。走馬灯のように駆け抜ける彼女との思い出は、どれも輝かしく、僕の心をあたたかく照らしてくれる。その記憶を思い出せば思い出すほど、彼女との思い出が、凶器となって、僕の心奥深くまで突き刺さる。
どれもが、もう過ぎ去ってしまった過去の記憶だ。もう取り戻すことは、できない。だから、先の見えない未来に進むしかないのだ。自分の進むべき道を迷っていたけれど、彼女に背中を押してもらって前に進む覚悟ができた。
僕は彼女との思い出を置き去りにして、先の方で輝く光に手を伸ばして、ひたすらに走った。
そして、光に到達すると、僕の全身はあたたかな光に包まれたーー。
※※※
「おはよう。目を覚ましたのね」
僕は、目を覚ますと、病院の部屋のベッドで寝ていた。ベッドの横には、椅子に座った母親の姿があった。窓からは、心地よい朝日が差し込んでいた。母親は、ずっと看病してくれていたらしく、疲れた顔をしていた。
僕は、病院にいる経緯を覚えていない。一体、僕の身に何が起こったのだろう。今の状況を理解できていない。ただ、先ほどまで見ていた幸せで悲しい出来事は夢であることは分かった。
彼女と出会い、話したことも、すべて僕の妄想に過ぎなかったのだろうか。僕は、彼女に本当に出会えた気がしていたから、途端に悲しくなった。
「おはよう。お母さん、僕は、どうして病院にいるの?全然、覚えてなくて」
「学校の通学途中で、一哉が倒れているところを近くにいた人が見つけて、救急車を呼んでくれたの。お医者さんによると、心臓の病気が原因で倒れたみたいよ」
「そうだったのか。通学中に、そんなことがあったなんて。前兆みたいなのもなかったから、突然の出来事だったんだね」
「本当に大変だったのよ。助かったのは奇跡だってお医者さんは言ってたわ。かなり重度の心臓病だったみたいで、一時は心臓が止まって危険な状況だったみたいよ」
「そうなんだ......」
「かなり重度の心臓病だったから、心臓移植が必要だったんだって。普通は適合するドナーの心臓が、なかなか見つからないみたいなんだけど、たまたま、今回見つかったらしいの。確か、ドナーの子は、清野カナデさんだったかしら......あれ、どうしたの、一哉。泣いてるの?」
「そうか、そうだったのか......」
僕は、母親の話を聞いて、目頭が熱くなり、涙が零れた。彼女は、夢の中に現れて僕が死にそうになっているところを救ってくれたんだ。僕の空想ではなかった。彼女は、確かに僕の夢の中にいた。人の命を救うことを夢見た彼女は、見事に僕の命を救って、自分の夢を叶えたんだ。
僕は、ちょうど心臓のある辺りに手をやると、心臓が鼓動するのが伝わった。鼓動するたびに、全身に、温かい血液が全身に駆け巡って行き、彼女を感じることができた。
ああ、この気持ちを愛していると言う言葉で言い表せていいものだろうか。
「一哉、大丈夫?」
母親が、心配そうな表情で、声をかけた。
「もう大丈夫だよ。なんでもないんだ。心配しなくてもいいよ」
「そう.....ならいいんだけれど。あ、そうだ。お父さんに連絡するの忘れてた。一哉が目を覚ましたら、すぐに連絡するように言われたの。今日、仕事だから。実は、仕事がない時は、ずっと一哉のこと看病してたのよ」
母親は、電話を取り出すと、父親に連絡し始めた。
「お父さんが」
「そうよ。元気な声を聞かせてあげて」
母親は、そう言うと、父親に繋がった電話を渡した。そして、僕は、電話を受け取ると、元気な声で一言こう言った。
おはよう。
※※※
目を覚ましてから、幾数年か経った。
僕は、部屋の窓から、変わり行く街と人々、それと、どこまでも広がる青空を眺めながら、カナデと付き合い始める前のあの日のことを思い出した。
今日みたいに空が青く澄み渡っていた日。彼女の靴箱に、ラブレターを入れた僕は、自分の靴箱に何か入っていることに気づいた。それは、一通の手紙だった。
まさか!?そんなことが。まじかよ......。
僕はもしやと思い、堰を切ったかのように、手紙の中身を確認すると、カナデからのラブレターだった。
僕たちは、両思いだったのだ。偶然、その日、お互いのラブレターを出すタイミングが重なっていた。
どうしよう、僕のラブレター......。
僕は、もう一度、彼女の靴箱を見た。
やっぱりそのままにしていこう。この胸に広がる恋が花咲くことを願って。
そうやって、カナデと付き合い始めることになったのだ。ここから始まった恋は、思わぬ形で、なんの前触れもなく、終わってしまった。恋が実るのに、時間がかかったのに、終わるのはほんの一瞬だ。
カナデとお別れしてから、数年が経ち、彼女に対する思いは、当初よりだいぶ薄れてきていた。
残酷にも、時の流れは、物体だけでなく過去に感じた悲しみや愛しいという人の感情をも洗い流してしまう。
だから、いつまでも、あの時の悲しみや愛しいという気持ちを思い出せるように、あの時のことを書き留めておきたい。
ふと机に置かれた原稿用紙に目線を移した。
「そうだ、彼女との思い出を綴った物語を書こう」
僕は、今日も。
かつて、抱いた夢を描き続けているーー。
僕の心は君で出来ている 東雲一 @sharpen12
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