第伍章の伍【帰還】1/3

 リリアンヌ教皇が死んでからの一週間、報道機関は事件をけたたましく放送し、教会および政府は国葬の準備に追われながら、混乱に次ぐ混乱をどうにか収めようと必死に舵を取っていた。

 だが、地下にとってはそんな地上の喧噪は、まだ遠い世界の出来事でしかなかった。

「おーい、準備まだかよー」

 ゴダイが階段を上がった踊り場から、ユリアを呼ぶ。ユリアは割れた全身鏡で一通り服装を見直してから、急いで小屋を出た。

 階段を駆け上がり、ゴダイと合流する。

「今日お礼に行く人は、どこら辺に住んでるの?」

 ユリアはゴダイに尋ねる。

「第八教区の公園のその先。中流層が住んでるあたり」

「ふーん」

 ユリアたちは階段を登り、外へと出た。冷たく乾いた風がユリアの頬を撫でる。見上げれば、空は申し分のない晴天だった。


 先日、教皇が訪れた日の夜、ユリアたちは今後の生活について話し合った。その結果、彼らは地下を捨て、近い将来、地上で生活をすることを選択した。だが、ユリアは当初、その選択にあまり乗り気ではなかった。

「もうシヱパアドの保護事業はなくなったんだぜ」

 ゴダイはそう言った。ユリアもそれは理解していた。制度的な脅威はもうすでに地上にはない。だが、だからといって、人々の偏見と差別がなくなったわけではない。ユリアは、上での生活に足踏みする。

「僕たちの方は、多分大丈夫なので、心配しないでください」

 ナナヒトが言った。ハナや双子を含めた彼らは、ここ一ヶ月近くの間、ナナヒトの家にかくまわれていた。ナナヒトの両親は、彼らのことも自身の息子と同様に可愛がってくれていた。これからもし、地上の生活に向かうのであれば、彼らはそっちで生活していくことになるだろう。事実、彼の両親もそれを快く受け入れていた。テイスケが言う。

「そ、それにね、ぼ、僕も、ささ、探すのを手伝おうと、お、思ってるんだ」

「探すって?」ユリアが尋ねる。

 テイスケが笑って、子供たちを見た。ハナが言葉を引き継いだ。

「テオとマオ、あと私の親を探してみようと思ってるの」

「親?」

「うん……ほら、私たちって捨て子でしょう? テオやマオにいたっては、親の顔も覚えてないんだけどさ。でも、もう差別はされないはずじゃん?」

 ハナがユリアを見上げる。ユリアは小さなハナに頷いてみせる。

「だからさ、もう一回家族になれないか、帰れないか、確かめてみたいなって……」

 不安げで、それでいて照れくさそうなハナを見て、ユリアの心は締め付けられた。ユリアは何と言ってあげるべきか、言葉に詰まってしまった。その探索の先に居場所があるのかどうか、ユリアには確信が持てない。

「いいじゃん。探してみなよ」ゴダイが言った。「もしダメだったとしても、テイスケさんもいるし、ナナヒトもいるし、俺らもいるからな。何の心配もない」

 ハナは嬉しそうに笑った。テイスケがそんなハナの頭をなでて、マオとテオが辺りを駆け回った。まぶしい光景だと、ユリアは思った。みんながみんな、前へと進み始めている。ユリアは、隣のゴダイを見る。

「ねえ、ゴダイ。子供たちはいいとして、私たちはどうするつもりなの?」

 そう、子供たちがいなくなった後の三人の生活。

「どうするって?」

「いや……その、住む場所とか……あとお金だって……」

 長老がいなくなった今、これから先の生活費はどうにかして自分たちで稼いでいかなくてはいけない。さすがにナナヒトのところに厄介になるわけにはいかないだろう。

「ああ。それはもう、家を借りて働いていくしかない」

「でも……」

「分かってるさ。それが大変だって事は……でも、いつまでもここにはいられないし、外もそう悪い人ばかりじゃないさ」

 そう言ってゴダイはニッコリと笑った。

 その笑顔にユリアは少し慰められて、小さく頷いた。


「テイスケさん、大丈夫かしら」

 橋を渡り、スラムから離れた住宅街を歩きながら、ユリアは呟いた。

「大丈夫だよ、あの人、俺らより全然年上なんだから」

「でも、テイスケさん……」

「何を心配してんの? 問題ないよ。だってあの人、俺を探すために教会の施設を歩き回ってたんでしょう? それなら家一つ借りるくらい、どうってことないよ」

 テイスケは今、三人の家を借りるために出掛けていた。もちろん、スラムに住んでいた彼らに、家を貸してくれる奇特な業者はそういない。だから、今回は知り合いのを頼り、借りることになったのである。そして、二人はその恩人にお礼を言いに行くところだった。

 しばらく歩いていると、二人は小奇麗な住宅街に入っていった。少し開けた通りの歩道を歩いていく。道すがら通り過ぎる人々を、ユリアは改めて見る。母親と手を繋ぐ子供。大声で騒いでいる学生。ベンチで日向ぼっこをする老夫婦。この数カ月間であれだけの事が起こり、近い将来未知なる感染病が広まるかもしれない、そういう世界において、それらはあまりにも日常的過ぎる風景ではないかと、ユリアの目には映った。不思議な光景だった。新鮮な何かを感じた。だが、それが何なのかハッキリと掴みとる前に、彼女は目的地に辿り着いていた。

 レンガ造りの四角い二階建ての建物だった。一階の大きなガラス戸は閉じられて、かつてそこで何かが営まれていたことを匂わせる。

 ゴダイは、ガラス戸の横を通り過ぎ、少し奥まった先の裏口へと向かう。鐘を鳴らし、ドアが開く。

「やあ、待っていたよ」

「フジサワさん、お久しぶりです」

 齢七十を過ぎた老人が、ユリアたちを出迎えた。ユリアは頭を下げた。ゴダイから話は聞いていた。この老人が負傷したゴダイを看病したこと、そしてゴダイがこの老人を襲撃事件で救出したこと、そういった話である。

「怪我の具合は大丈夫ですか?」

 足を引きずるように歩くフジサワに、ゴダイが尋ねる。フジサワは笑って答える。

「松葉杖は外せたけどね。歳だから治りが遅いな。でもまあ、妻の気持ちがよく分かるようになったよ」

 廊下を進み、奥の部屋に入ると、歳の女性が昼食の準備をしていた。フジサワの妻だった。ユリアたちが挨拶をすると、席に座るよう促された。

「すみません……こんな立派な食事まで……」

 ユリアはお礼を言った。フジサワの妻は笑い声を上げる。

「何言ってんの、こんな食事で申し訳ないくらいよ」

 そう言って、ユリアの肩を軽く叩いた。ユリアは、彼女の足を見て、先程フジサワが言ったことの意味を理解した。彼女は、夫の席の前に皿を並べながら、彼と楽しそうに笑い合っている。

 目の前に敷かれたランチョンマットとその上に並べられた皿、そして料理。ゴダイを見れば、フジサワと熱心に話し込んでいる。恐らく借家のつてのことだろう。ユリアは戸惑った。ここは陽の当たる場所だった。それは、必ずしもこの部屋の間取りだけの話ではない。ゴダイはいつの間にか、ユリアの知らない地上のものを知っていた。

 スウプを掬い、口を付ける。濾した野菜のスウプ。ユリアは、おいしいと思った。脇に置かれたパンを手に取る。砕いた胡桃が入っていた。それもおいしかった。テエブルの真ん中に置かれた焼いた鶏にナイフを入れる。焦げた黒い皮、滑らかな白い身、赤茶色のシロップ。感動的だった。

 それから二時間近く、ユリアは会話と食事を楽しんだ。

 老夫婦は気さくで、ユリアたちの知らない話を沢山してくれた。ユリアは、悪くないと思った。これまでユリアが知っていた複写生命でない人間は、長老たちだけだった。だから、地上の多くの人間は、怖いものだと思っていた。でも、多分、そんなことはない。良い人も、中にはいるのかもしれない。ゴダイは地上にいる間、それを知ったのだろう――ユリアは少し、それをうらやましく思った。

「珈琲、いる?」

 フジサワの妻が、優しくユリアに問いかけた。ユリアはぎこちなく頷く。食後に出された珈琲は、ひどく苦かった。ゴダイがそんなユリアを見て、笑った。ユリアは少し怒ったふりをして、それから恥ずかしそうに小さくはにかんだ。

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