第伍章の肆【法案】

 議事堂の廊下を、貴族院議長ダイスマン・ウォヱンラヰトが足早に歩いていく。

 眉間には、いつにも増して険しい皺が刻まれていた。元来、歳よりも若く見られていた彼だったが、ここ数週間のいざこざで急速に歳を喰ってしまったようだった。その理由は主に二つある。

 一つは、あのじゃじゃ馬のリリアンヌのせいだった。レイガナが第三ロヲマ帝国に召喚され、彼女が一人になったとたんに、これだ。彼女は持てるだけの権限を最大限に活用し、自身の要望を次々に叶えていった。根回しは拙いし、事の進め方は性急に過ぎた。だがそれは、ダイスマンが考えるこの国の支配体制を揺るがしかねないほどの勢いだった。そして、それに加えて気に入らないのは、この彼女の横暴ぶりを国民が大いに歓迎していることだった。〝リリアンヌの告白〟や教皇の統一中華チャイナストラクチャー訪問など、これまでこの国を支配してきた極東御十教イヰスタンクロスの根幹そのものを覆す極めて危険な行為ではないか。仮にも彼女は、極東御十教、その思想の頂きに立つ者なのだ。それにも関わらず、何故このような矛盾した行動に賛同する者たちが現れるのか、ダイスマンには理解出来ない。

 そして彼を悩ませる二つ目の原因が、この先の執務室で待っていた。彼は、乱暴に扉を開けて執務室へ入った。

 訪問客がソファから立ち上がった。国民党党首かつ総理大臣のイトウであった。

「呼び出した割には、ずいぶんと待たせますな」

 イトウが皮肉を言った。ダイスマンはそれを無視し、ソファを指し示した。イトウは肩をすくめ、再び腰を下ろした。

「で、何の御用でしょうか?」

 イトウが尋ねる。ダイスマンは自身の椅子に座り、葉巻を切ってマッチで火を付けた。それから煙を吸い込んで吐き出す。

「あの法案は何だ?」

「あの法案?」

 イトウはとぼけた。ダイスマンは声を張り上げた。

「明日採択を予定している、この法案だ。御聖廟の解体を目的にしたこれのことだ!」

 ダイスマンは机上の書類の束を強く叩いた。

 〝御聖廟の解体とそれに伴う高度情報演算処理基匣の利活用に関する法律〟

 それがその法案の正式名称だった。イトウがここ数週間の間に各党と調整をし、成立を目指してきた法案である。そして、明日の臨時国会でこの法案は採決がなされ、近日中に施行される予定だった。

「ああ、アレですか。何か説明がいりますか。そこに書いてある通りですよ」

「書いてある通り、だと? そんな事は百も承知だ。この法案を読んだ上で尋ねているんだ。お前はどういうつもりで御聖廟の解体なんかを……」

「あなたに、お前呼ばわりされる云われはない」

 ダイスマンの言葉を遮るように、イトウが口を挟んだ。ダイスマンは驚いた。イトウが真っすぐに自身を見返している。そしてその眼つきに苛立ちを覚えた。そこには、これまでに見てきた弱者の諦念がなかった。ダイスマンが口を開こうとした。だがイトウが語気強くそれを遮った。

「いいですか? 今この国は感染拡大の未曾有の危機にあるんです。そして我々はその危機を脱する手段を未だに確保出来ていない。我々民衆院は、この国の民を救うためならば手段を選ばない。そして、その第一手がその法案です」

 イトウがダイスマンの持つ書類の束を指差す。

「この国の持つ超高度情演算処理基匣。ミヤビ都の匣も相当に立派なものではありますが、それでもくだんの細菌兵器に対抗する治療薬を創るには、まだ心許ないと言っていいでしょう。そこで、この法案が現状を打開するというわけです」

 イトウが言葉を切り、試すようにダイスマンを見た。ダイスマンは言葉を返す。

「それで? 御聖廟を解体し、そこに接続された匣を創薬に回すのか?」

「そうです。それしかないでしょう、この国を救う手立ては」

「はっ! そんなことが許されるものか。第一、海外から匣を借りられればこんな法案、そもそも必要が……」

「あなたは、リリアンヌ教皇の非十字共栄圏への接触を厳しく非難されていませんでしたか? そんなあなたが今さら何をおっしゃっているんです?」

「……っ、だとしてもだ。こんな馬鹿げた法案は許されない。例え何かの間違いで民衆院を通過したとしても、我々貴族院がこれを認めない」

「反対するならご自由にどうぞ。ですが本件は、民衆院の全会一致で採択をする予定なのであしからず」

「全会……一致? 出来るかどうかも定かじゃないが、それが出来たとして何が問題だと言うんだ」

「分かりませんか?」

「……?」ダイスマンはイトウの不敵な笑みを見て、うすら寒いものを覚える。そして相手の考えを理解した。「但し書き、条項……」

「そうです。民衆院で全会一致の採択は、貴族院でも覆すことが出来ない。これは、憲法条文に記載してある確固たるものです。もちろん、これをあなた方貴族が、無下に反故にするのであれば話は別ですが……出来ますか、そんなこと? もしもそんな暴挙に出るようでしたら、覚悟してください。こちらもあらゆる手段でもって徹底的に戦いますので――」

 イトウの煽るような声。ダイスマンは、今目の前にいる人物が、過去の彼とは全く違うことに恐怖した。飼い犬が飼い主の手を噛んだ。もしくはネズミが猫を追いつめたか。そういうたぐいの恐怖だった。ダイスマンの額に、汗が流れる。

「さて、お話が以上なら、私はこれで失礼いたしますが」

 そう言って、イトウは勢いよく立ち上がった。ハンケチで額を拭い、ダイスマンは去り際の総理大臣に声をかけた。

「お前たち、分かっているんだな? この法案の意味するところを……アレは、御聖廟は、過去の英知だ。お前らは、それを破棄すると言っているんだぞ」

 精一杯の虚勢だった。彼は今、一人であることを悟った。知己ちきであるレイガナは去り、教会の大半はリリアンヌ教皇を支持している。そして現在、飼い犬にすら牙を向けられている。

「……要りますか、そんなもの? この二十年間、アレは動かされなかった。それでも、この国は曲がりなりにもどうにか回ってきた。過去にすがるのも結構ですが、もうこの国はいい加減、親離れをした方がいいと思いますよ。それに自然の摂理に照らすなら、死者はやはり黄泉の国に返すべきでしょう」

 イトウはそう言い残して、部屋を出ていった。ダイスマンは、力いっぱいに机を叩いた。


 翌日、民衆院の臨時国会にて特別法案が可決。御聖廟の解体が決定され、治療薬の開発に弾みがつくだろうと思われた。

 だが、運命はそれを許さなかった。

 あまりにも唐突で誰にも予想できないことが起こった。

 可決の日の翌日、リリアンヌ教皇が殺されたのである。慰問先のスラムの一角で、一本のナイフに刺され、命を失った。犯人は、歪な鉄の腕でもなければ、過激派のシヱパアドでもなかった。スラムに住む一人の子供だった。その少女は教皇のことを全く知らなかった。そこに政治的な思想は一切なかった。ただ彼女は、リリアンヌの持つ艶やかな赤い髪が、何故だか気に入らなかったのである。

 こうして、道は大きく閉ざされた。諸外国との交渉も、御聖廟の解体も暗礁に乗り上げた。そして誰もがこう思った。

 もうこの国は助からない、と。

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