第弐章の伍【セレモニィ】1/4

 大通りの沿道は、新しく即位する教皇を一目見ようと集まった人々で、一杯になっていた。一方、車道には、楽器を打ち鳴らす教会鼓笛隊とささつつを構えた警護隊が行進をしている。そして、その中央に聖皇女リリアンヌを乗せた公用車がゆっくりと走っていた。

 黒塗りの儀礼用車両。ほろは仕舞われ、リリアンヌはその姿を十年ぶりに、人々に見せていた。隣には、シヱパアドのタマヨリが一人、控えているのみ。彼女の父レイガナは、リリアンヌの後ろを走る車に乗っていた。

 リリアンヌは群衆に向けて、笑顔で手を振っていた。時折向きを変えると、その度に歓声が沸いた。リリアンヌがタマヨリに呟く。

「ねえ、体の向きを変えただけでこの騒ぎって……」

「これも皇儀ですので……」

「そうね……でも、あと一時間も手を振り続けるのは、ちょっと長いんじゃないかしら」

 リリアンヌは少し困ったように微笑んだ。

 大通りに並ぶ建物の窓からは人々が手を振り、軒を連ねる色とりどりの屋台は賑わいをみせ、金銀の紙吹雪が途切れることなく空を舞っている。まるでおとぎ話の様な一幕を感じて、リリアンヌは一瞬、現実味を失いそうになる。

 溢れんばかりの光と音のせいだ――リリアンヌはそう考える。だがその一方で、こうも思うのだ。何故、自分が人々の注目を浴びているのか? しかし、そんな物思いは、彼女の視界に入った次の光景によってかき消された。

 

 車はゆっくりと大仰に、通りを大きく曲がった。そしてその瞬間、リリアンヌの瞳には、歩道を埋め尽くす人々ではなく、その向こう側、ビルとビルの間から覗く風景が映っていた。

 それは灰色の世界。瓦礫と廃墟が埋め尽くす世界。そう、戦後復興のままならない、未再開発地域・スラムであった。


 今回のパレエドパレードを行うにあたり、リリアンヌは、父に一つ提言をしていた。

「今回のパレエドにこちらの地区を加えることは出来ないでしょうか?」

 そう言ってリリアンヌは、父の座る樫の木のテエブルに地図を広げる。地図上で彼女の指差す先には、スラムの一角があった。

 レイガナは顔前で指を組んで、小さく溜息をついた。

「ダメだ」

「何故です?」

「では、リリィ。反対に私が質問しよう。何故、ここを通る必要があると思うのだい?」

「……それは、私が教皇になるのですから、この国の隅々までを知ろうとするのは、当然のことかと思いますが」

「うん、確かにそれは素晴らしい心構えだね、リリアンヌ。君の言うことは正しいと思うよ」

「でしたら……」

「ただね、それをこのパレエドでする必要はない」

 レイガナの断定的な口調。リリアンヌは口ごもった。

「もし、お前が本当にこの国のことを知ろうと思うのならば、それはまた別の機会にした方がいい」

「……何故でしょうか」

「この式典で人々に見せるべきものは、新しく正当な教皇が誕生するという希望だからだよ」

「希望……」

「そうだ、希望だよ。ナタァリヱが死んでから、すでに二十年が経つ。この国の歩んできた、いわゆる消失うしなわれた二十年を思えば、人々が教皇に一抹の希望を抱きたくなるのは、必定ひつじょうだろう」

「必定……でも、希望と言われても、私に出来ることなんて……」

「分かっている。確かに、教皇は、政治的な役割で言えば聖皇庁の長というだけで、出来ることはホントにごくわずかだろう」

「じゃあ……」

「それでもね、人々ってのは、リリィが即位することで、何かこう、国がもっと良くなるんじゃないかと、考えてしまうもんなんだ」

 リリアンヌは、父をジッと見つめた。父もまた娘を見つめ返した。だが、その瞳の奥の真意をリリアンヌは読み取ることが出来ない。レイガナは言った。

「我々はね、教会の権威なんだ。実際にそれは、政治的な役割よりもずっと大きなものだと思わないかね?」

 リリアンヌは小さくため息をつく。

「……分かりました。確かにお父様の言うことにも一理あります。けれども、それがどうしてスラムを回ることへの反対になるのでしょう」

「反対はしていないよ。ただ、単純にこのパレエドはお祝いなんだよ。わざわざそんな日に、そこに行かなくてもいいじゃないか」

 リリアンヌは、腰に巻いた絹のリボンの結び目をいじりながら、逡巡してみた。

 確かに、この即位式でスラムを訪問するのは、いささか無粋かもしれない。それに、彼女自身がスラムに行く機会はこれから何回でも用意することが可能だろう。加えて、皇女自らがスラムの実態を、戦後の復興がままならない世界の実情を知って、果たしてどうなるというのだろう。

 レイガナの言う通り、教皇に政治的な役割は何もない。実際の立法には何の権限もない。結局この国の法律を作れるのは、唯一、民衆院だけであったし、その民衆院から総理大臣が選出されているだから、この国の主権は、曲がりなりにも国民にあった。

 だが、それはつまり言いかえれば、国民の意識が変われば、政治も変えられることを意味していた。だから、リリアンヌは、人々にこの国の負の側面も見てほしいと願ったのである。もし彼女がスラムへと車を回せば、人々は嫌でもその事を考えざるを得ない――そう考えたのだ。

 そして、彼女はこうも思っていた――自分が、人々の眼を開くきっかけになれるかもしれないと。しかしそれはきっと、市井いちいの人々の営む生活を知らない、年端のいかない少女の甘い理想に過ぎないのだろう。

「それにね、あっちの方面は治安もよくないしね」

 黙りこんでしまったリリアンヌに、レイガナは優しく声をかけた。

「まあ、今回はひとまず、こちらで用意した経路を通りなさい。いいね、リリィ」

 レイガナがリリアンヌの顔を覗き込む。リリアンヌはこぼれた髪の一房を耳にかけて、小さく頷いた。


 歓声は、途切れることを知らないようだった。人々は、リリアンヌが通り過ぎるまで、手を振り続けている。

 リリアンヌは思う。彼らは、この車が過ぎ去ったあと、一体何をするのだろう。通りに並ぶ屋台で買い物をするのだろうか。それともまっすぐ帰って、式典の中継を見るのだろうか。目の前を流れていく人々を見て、リリアンヌは、彼らが別に彼女自身を見ているわけではないことに気が付いた。

 ああ、彼らは、皇女という、そういう教会の入れ物を見に来ているのだ。この国に、百五十年の昔から根付いてきた〝御十教〟。その教えを象徴するもの、それが教皇。

 そして今、彼らはそれが現実に確固たるものとしてある事を確認し、自分たちの心の拠り所を見て安心している。

 リリアンヌは、父が自らを〝教会の権威〟と呼んだことを、今ハッキリと理解した。リリアンヌは、誰にも聞かれない程度に小さく溜息をついた。けれども、隣に控えるタマヨリだけは気が付いたようで、そっと彼女の膝に手を添えた。


 そのうちに、パレエドは終盤に近づき、車は御聖廟が控える第主雅蘭大教殿だいすがらんだいきょうでんに入っていく。リリアンヌはそこで、父と数名の枢機卿と共に戴冠の儀を執り行い、人々の前で演説をする手はずになっていた。

 演説の原稿は、レイガナとも相談をし、ある程度リリアンヌの意に沿うものになっていた。だが、とリリアンヌは思う――多分、誰も中身など真面目に聞いてはくれないだろう。

 そんなリリアンヌの暗い気持ちも関係なく、公用車は教殿の中へと進んでいく。そして、人々の歓声が、鉄製の黒い門扉の向こう側に消えていった。

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