第弐章の肆【医師】3/3

「もういいのかい?」

フジサワが尋ねた。彼は立ち上がって、綿のジャケットを手にしていた。

「ええ、ありがとうございました」

 ゴダイは答えながら、席に座った。

 フジサワが棚の扉を開けて、ゴソゴソと何かを探し始めた。ゴダイは残ったスウプをすくいながら、その様子を何気なく見つめる。

「アレよ、アレ。皇女の即位式。アレを見に行くって、年甲斐もなく興奮してるのよ」

 フジサワの妻がゴダイに耳打ちをする。

「いいじゃないか、二十年ぶりの正当後継者なんだぞ。しかも、皇女ときている」

 フジサワが、古いフィルム式のカメラを取り出しながら、答える。

「お姫様とか、そういうの好きよね、あなた……」夫人は、頬杖をつく。「先代皇女の追っかけもしてたじゃない?」

「追っかけなんかしてないさ。先代のナタァリヱナターリエ皇は、ほとんど人前に出てないんだから」

「人前に出てない?」ゴダイが尋ねる。

「そうだよ。ナタァリヱ皇は、即位して亡くなるまで、ほとんどメディアに出演してないんだよ」

「へえ……」

「まあ、とは言っても、彼女が実際に即位していた時期も短いんだけどね……ああ、でもそういえば、一枚だけ即位式のものがあったっけな」そう言って、引き出しを開けて小さなアルバムを取り出し、パラパラとめくり始める。「あれ、おかしいな……ないなぁ」

 フジサワがゴダイに振り向く。

「すまないね、ちょっと見当たらないね」

「ああ、いえ、別にいいですよ」

 そもそも教皇一族にそれほどの興味はない。

「あなた、そろそろ行かないと道が混むんじゃありません?」

 夫人がフジサワに言う。フジサワは、あわててジャケットを着て荷物をまとめた。そしてゴダイに向き直る。

「すまんがちょっと出てしまうけれど、適当にここで休んでいって構わんからね」

「いえ……すみません。本当に何から何までありがとうございました。食事が終わったら、すぐに行きますから……これ以上は、ご迷惑掛けられないので……」

 ゴダイは頭を下げた。

「またいつでも遊びに来なさい、私たちも暇だから。今度はお仲間も連れてくるといい」

 フジサワはニッコリと笑って、勢いよく出ていった。ゴダイは見送った玄関先で、改めて外を見回してから、夫人に尋ねた。

「すみません、ここの住所、教えてもらえませんか?」

 フジサワ夫人の答えを聞いて、ゴダイは気が付いた――自分がスラム側ではなく、都市部の方に迷い込んでいたことに。

 公園から逃げる際に道を誤ったのだろうか、ゴダイは思案しながらテエブルに戻り、夫人が入れた珈琲を飲んだ。初めて飲んだ珈琲は、正直美味しくはなかった。ゴダイが眉間に皺を寄せる様子を見て、夫人はクスリと微笑んだ。


 それからしばらくして、ゴダイは立ち上がり、いとまを告げた。

「あの、この服は……」

 ゴダイは今着ている服の事を気に留めた。

 老婆は杖をつきながら立ち上がり、ゴダイに答えた。

「ああ、それはあげるわ。たまたま古いものを残してただけだから……」

「古いもの?」

「ええ、それ、息子のなの」

 そう言いながら、フジサワ夫人は部屋の片隅から紙袋を持ってきて、それをゴダイに渡した。中にはゴダイの服が一式、綺麗に洗濯されて入れてあった。

「息子さんのものですか……でもそれじゃあ、やっぱり貰うわけにはいきませんよ」

「いいのよ。もうあの子、いないから」

「いない?」

「死んじゃったのよ」夫人はゴダイを見つめた。「この前の戦争で。まあ、この前って言っても、もう十年も昔の話なのよ? そんなものを、もうずっとはね、置いておけないから」

 夫人は小さく笑った。ゴダイは返答に困って、頭をかいた。

「だから、気にしないでちょうだい」

 夫人は、ゴダイを玄関口へと案内した。

 だが、玄関先で別れる間際、ゴダイは、どこからか甲高い金属音が鳴り響いているのに気が付いた。フジサワ夫人にもそれは聞こえているようだった。二人は耳をすませた。それは、寝室からだった。先程ゴダイが触った、あの映信機からだった。

 その時、ゴダイは気が付いた――あの端末にカメラが搭載されていたことに。

 動悸が僅かに激しくなる。今はまだ、あの手のシステムから複写人を割り出す法制度は確立していない。

 だが、それでも自分がすでにやっている事を、教会が出来ない理由はどこにもなかった。

 音は、断続的に、かつ永続的に、鳴り響き続けた。

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