第弐章の肆【医師】2/3

 診察室を部屋を出ると、日差しに溢れたきれいな居間があった。老人――名前をフジサワと言った――は、中央の丸テエブルにゴダイを案内する。すぐ隣のキッチンから、一人の老婆が顔を出した。左足が少し不自由な様で、左腕に杖を装着している。

「あら、起きたのね!」

 老婆は嬉しそうに、甲高い声を上げた。フジサワの妻だった。フジサワに声をかけられて、彼女はすぐに昼食の準備をしにキッチンに戻った。

 数分後、着席したゴダイの前に、料理が並べられた。ハムやチイズチーズを挟んだライ麦のサンドイッチと野菜を煮込んだスウプスープだった。

 ゴダイは老夫婦に頭を下げた。サンドイッチを一口かじり、ゴダイは眉間に皺を寄せた。不味かったのではない。その逆だ。

 料理はとてもおいしかった。

 それは、これまで彼が食べてきたどの食事よりもおいしかった。

 ただそれだけのことだった。

 そしてそれと同時に、こんな平凡な食事を前にして、ゴダイは、少なくない惨めな気持ちを抱いた――自分たちはこういう食事ですら、これまで満足に出来ていなかったのだ。

 ゴダイはスウプをすすった。そして惨めさの一方で、申し訳ない気持ちにもなった。コミュニティのみんなのことを考える――自分だけ良い食事をしている、そういう罪悪感にも似た感情を覚えた。

 黙りこんで食事を続けるゴダイを見て、フジサワが訊いた。

「どうだい、旨いかい?」

 ゴダイは顔を上げて、頷いた。そこに嘘偽りはない。フジサワとその妻は微笑む。

「君は、その、スラムの出身なのかい?」

 フジサワが軽い口調で尋ねる。ゴダイは手を止めて、フジサワの顔を見る。馬鹿にしているようには見えない。ゴダイは、そうです、と答えた。

「一昨日は、何か厄介事に巻き込まれた?」

 ゴダイは、少し考え込んでから、自分の右足を指差した。親指の付け根に刻まれた生体符号。老人は少し目を見開いて、それから神妙に頷いた。おおよそのところ、察しが付いたようだった。

「その左腕は……戦争で?」

「……いえ……」

 ゴダイはそれしか答えられない。そして話題を変えるように、言葉を継ぐ。

「俺、これを食べたらすぐに出ていきますから」

「あら、そんな。ゆっくりしていって大丈夫なのに」

 フジサワの妻が珈琲を入れながら言う。ゴダイは、居間のタンスの上に置かれた十字架に気が付いている。

「でも、二人は御十教徒ごづきょうとでしょう……そんなところに俺がいるのも……」

 老夫婦が顔を見合わせた。

「まあ、君が、何だ……少し変わっているのは気付いているけれども……なあ?」とフジサワ。

「ええ……でも、すぐにってはいうのは寂しいわ。別に私たち、そんなこと全然気にやしないわよ」

 そう言って、老婦はカラカラと笑い声を上げた。

「いや、でも……」

「そもそも、御十教の教えには、そんなことに関する直接の記述はないんだよ」ゴダイが話そうとするのを、フジサワが遮る。「まあ、確かに、複写生命はここ数十年の技術ではあるからね、記述がないのももっともなんだけれども。それでも教会が取り締まりを始めたのは、本当にここ十年もないんじゃないかなあ」

「ここ十年……?」ゴダイが呟く。

「そうさ、こないだの戦争の最中だって、普通に複写生命に関する報道はされていたんだよ。それにも関わらず、その時は誰も何も言ってなかったんだから」

 ゴダイは何も答えない。

「まあ、教えの解釈なんか、時代によって変わってしまうものなのかもしれないけどね。でもだからこそ、逆に言えば、そんなことを気にする必要なんかどこにもないんだよ」

 フジサワがゴダイを見てニッコリと微笑む。ゴダイは少しばかり逡巡してから、言った。

「……でも、みんなが心配していると思うので……」

「ああ、他にもいるんだね。そりゃあ、そうか。一人で生きていくわけにはいかないものなあ」フジサワが、一人納得したように頷く。

 ゴダイは、人のいい彼らから少し目を伏せた。いくらこの老夫婦がいい人に見えたとしても、極東御十教イヰスタンクロスの信者であることに変わりない。

「じゃあ、まあ、あまり遅いのもな」

 ゴダイは小さく頷いた。そしてふと、ここに居過ぎではないかと不安になった。ゴダイはつい口をついた。

「すみません、映信を借りられませんか?」

 もし可能であれば、ユリアたちに一言、自分が今無事である事を伝えた方がいい。

「映信? ああ、電話ね、いいよ。こっちにあるから」

 フジサワは立ち上がり、隣の寝室に案内した。ゴダイが礼を言うと、フジサワは居間に戻った。寝室に一人、ゴダイは残される。信用はされているようだった。老夫婦の映信機を待機状態から立ち上げて、起動させる。

 ゴダイは一瞬固まった。空域出力されたホログラフに認証アイディが求められる。しかし、問題はそこではない。〝神の御加護〟が起動していた。

 ゴダイはとっさに考えた。少なくとも普段、ゴダイは自分のアイディを使わない――そもそも自分のアイディが存在するかも知らない。だからこれまでは、長老のアイディを代用してきた。しかも通常、地下ホオムから超高度情報網に接続する際は〝神の御加護〟を通さない。教会が作ったソフトウヱアを使う危険を、わざわざ冒す理由はなかった。

 今ここで、映信機の電源を切って、そもそもの始めから基匣きこう登録し直せば、〝神の御加護〟を通さずに、情報に接続することは可能だろう。だが、それでは時間がかかりすぎる。フジサワたちにあらぬ疑いを抱かせるかもしれない。

 ゴダイは頭をかいた。考えてみれば、コミュニティ側の端末が起動していない可能性もあった。それでは結局意味がない。ゴダイは、三日前の夜、つまりナナヒトと接触をしたその夜に、基匣の電源を切ったかどうか思い出そうとしたが、ハッキリとは分からなかった。

 ゴダイは仕方なく、端末を待機状態に戻した。それから小さく溜息をついて、居間に引き返した。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る