第弐章の参【過日】1/5

 十字共栄圏と統一中華の戦争が終わった翌年、ユリア十歳の物語。ダイスマンに捨てられたその日からの物語。


 高いレンガの塀と鋼鉄の扉に閉ざされた教会の施設。それはユリアを固くそこに閉じ込めた。彼女の父親は、すでに彼女の声が届かないところまで行ってしまった。そして、幼い彼女には、自分がどうしてここに入れられたのか、全く理解できなかった。扉の前でぐずるユリアを、施設長の老婆が手を引いて導いた。十字架を掲げた教会の施設。壁面を覆う緑のツタ。嵌められた窓の鉄格子。これまでユリアが住んでいた、山の手の高級住宅街とは全く様相が異なっていた。

 施設に入ると、ユリアと同じ年ごろの子供が大勢いた。ユリアは特に誰に紹介される事もなく、大広間のテエブルに着座させられた。目の前に朝食が置かれている。周りの子供たちが食するように、ユリアもそれに手を付けた。半分以上を残して、食器を片づける。その後、施設の職員に、自分の部屋を案内され、施設での過ごし方を聞かされた。起床時間、食事の時間、風呂の時間、就寝時間、そういったものである。案内された部屋には、すでに三人の少女がいて、二段ベッドが二つ置いてあった。


 その施設は実に静かなところだった。子供たちのほとんどは会話をしなかった。例え、したとしても、か細い声で少し話すだけだった。誰もが誰とも親しくなかった。施設の職員は皆、熱心な御十教徒ごずきょうとで、食事の前に必ず神への祈りを捧げていた。日曜日には施設内でミサも行われた。だが、子供たちは祈りなど絶対に捧げなかったし、ミサにも参加しなかった。そんな御十教徒の様子を見て、一人の子供がこう言ったのを、ユリアはよく覚えている。

「気持ち悪い」


 そこでの生活は、味気なく過ぎていった。ユリアは暇を持て余した。日々、するべきことは何もなかった。時々、自室で貸し出しの本を読む事もあれば、外に出て、施設を囲む塀を見上げることもあった。塀の外からは、工事の音が聞こえ、教会の街宣車がけたたましく声を上げていた。時には、塀の外から石が投げられる事もあった。石には大抵悪口の書かれた紙が巻かれてあった。ほとんどの日々は、食べて寝る、それだけを繰り返して、ユリアは、ここに自分が捨てられた事の理不尽さを、段々と忘れ始めた。


 ある日、ユリアは気が付いた。時々、いなくなる子供がいる。どこからか連れてこられる子供がいることは、施設に入った頃、すぐに理解した。だが、いなくなる子がいることには気が付かなかった。以前、職員に「気持ち悪い」と言っていた、その少女の姿も、いつの間にか消えていた。けれども、それはそれ以上の事ではなかった。

 そうやって、約二年の月日が経った。こよみを見たわけではない。庭先にあるささやかな花木の彩や、外の気温の変化から、恐らくそれくらいが経っただろうと、ユリアは推測した。そして、ここが静かな理由に唐突に思い至った。ここには――もちろん自分も含めて――死んだ子供たちしかいなかった。人が人足るゆえんが、ここでは全て排除されていた。


「食料が足りていない」

 冬が過ぎ去り、春が訪れた頃、二人の職員がそう話すのをユリアは聞いた。敷地にはどこからか舞い込んできた桜の花びらが薄く積もっている。

 食料が足りていない理由を、ユリアは何となく知っていた。ルウムメートルームメイトたちも同様だった。それは、真夜中に子供たちが勝手に調理場に忍び込み、盗み食いをしていたからである。日中の食事では飽き足らず、子供たちは盗みを覚え始めていた。

 ある晩の二時過ぎのことである。ユリアは空腹で目が覚めた。同室の他の子供はぐっすりと眠りこんでいる。ユリアはベッドから起きて、調理室へ向かった。

 非常灯で緑に染まる廊下を抜けて、調理室の扉を開ける。中央に配置された大きな配膳台を回り込み、食料棚の方へと進んでいく。そしてふと、ユリアはおかしなことに気が付いた。暗いはずの室内に一筋の光が走っている。銀色の大きな冷蔵庫から漏れる光だった。ユリアは一瞬、強張って、それから冷蔵庫へと近づいた。

 そこに人影があった。ユリアは声をかけた。

「だ、誰?」

 人影は振り向くと同時に、跳ねるように立ち上がって、ユリアから遠のいた。

「……ここの、子供なの?」

 ユリアは恐る恐る尋ねる。

「……何だ、お前も子供かよ」

 人影は、相手が子供だと分かったからか、ユリアに一歩近づいた。冷蔵庫から漏れる光が彼を照らした。彼は、ユリアと同じ年ごろの男の子だった。みすぼらしいボロ布を何枚も着込んで、手にはいましがた盗んだであろう腸詰肉を持っている。

「あ、あなた、ここの子じゃないわよね……」

「ここの子供に見える? 俺が?」

 少年が突き離すように言う。

「じゃ、じゃあ、誰なの? ど、泥棒なの?」

 少年が腕を組んで考え込む。

「……まあ、そうだな。でも、仕方ないさ。おなかが空いて空いて、死にそうだったんだから」

「……なんか、変なの」ユリアが呟く。

「何が変なんだよ。いいか、お前。このことは誰にも言うなよ」

 少年が指を突き出して、ユリアに言う。

「い、言わないよ……」

「何だよ、言わないのか。お前、いい奴だな」

「別に……私には関係ない事だし……」

「ふーん……」

 少年は配膳台の端に腰掛けて、手に持った腸詰肉を食べ始める。

「……あなた、塀の外から来たの?」

「そうだよ」

「どうやって入ったのよ」

「塀はロオプロープで乗り越えてきたし、建物は便所の窓が空いてたから」

「そう……」

 ユリアは少年をジロジロと見た。そして、目の前の彼に少なくない関心を抱き始めていた。この施設に入って感じた、久しぶりの好奇心だった。

「ねえ、あなた、名前は?」

「……名前?」少年が聞き返す。

「そうよ。私、ユリア。ユリア・ウォヱンラヰトウォーエンライト

「なんだか、変な名前だな。俺の名前は……ゴダイ」

「ゴダイ。名字は?」

「……名字はない。ただのゴダイ」

「ふーん……ねえ、外の世界ってどんな感じなの?」

「何でそんな事聞くんだよ?」

 ゴダイはユリアをまじまじと見る。

「だって、ここに入ってから、ずっと外に出てないから……」

「……まあ、酷いところだぜ。みんな貧乏だし、食うものも寝る場所もないし、喧嘩してばっかりだし。ハッキリ言って、ろくなところじゃないよ」

 ゴダイがケラケラと笑う。ユリアはそんなゴダイをジッと見つめて、しばらく考えてから、そっと言ってみた。

「ねえ、私、外の世界に行ってみたいんだけど……」

 ゴダイが腸詰肉を噛みながら、ユリアを見る。ユリアは続ける。

「私を、ここから連れ出してくれない?」

「はあ? お前をここから連れ出す?」ゴダイが声を上げる。「嫌だよ、何でそんな面倒くさいことしなきゃいけないんだよ」

「お願い!」ユリアは手を合わせる。

「嫌だよ! 絶対に嫌だ。第一、お前じゃ多分、外でやってけないぜ。こんな所にいる子供がやってけるわけないじゃん」

「あなただって、子供じゃない」

「外は喧嘩ばっかりなんだぜ? 年上には逆らえないし、飯だってろくに食べれないし……悪い事言わないから、止めておけよ」

 ゴダイはそう言って、配膳台の縁から立ち上がる。

「俺はもう行くからな」

 ゴダイは出口の方へと歩き始めた。

「ここだって、ろくな場所じゃないよ」

 ユリアがゴダイの背に声をかける。

「朝から晩までずっとここに閉じ込められて……か、勝手に捨てられて……わけ分かんないよ……」

 ユリアが俯く。ゴダイが振り返って言う。

「……お前さ、ここが何の施設か分かってる?」

 ユリアが首を横に振る。ゴダイが、小さく溜息をつく。

「……もしかして、自分が偽者だって事も知らないのか?」

「偽者?」

 ゴダイが頭をかく。それから居心地悪そうに黙りこんでしまう。

「ねえ、偽者って何?」

「何でもねえよ……」

 ゴダイはそう言い捨てたきり、やっぱり何も答えない。ようやく顔を少し上げて、ユリアをジッと見つめた。縮こまるユリア。ゴダイがゆっくりと口を開く。

「分かったよ……明日も同じ時間にここに来るから、その時に連れ出してやるよ」

 ユリアが弾けるようにゴダイに駆け寄って、その両手を取った。

「ありがとう!」

 ゴダイは少し赤らんで、急いで手を離した。

「手に、触るなっ!」

「……っ、ごめん」

 ゴダイの左手が包帯で巻かれている事にユリアは気が付く。

「じゃ、じゃあ、また明日な」

 ゴダイはそう言い残して、急ぎ去っていった。


 翌日、ユリアが約束の時間に調理室に行くと、ゴダイが待っていた。

 彼の案内で二人は施設を抜け出した。トイレの窓をくぐり、ロオプで高い塀を越えて――。

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