第壱章の漆【襲撃】
ムドウと名乗った
「さあ、行きましょう」
男の語調には、反駁を許さない強靭な響きが含まれていた。
「……っ」
ナナヒトは何も言い返せない。
「その手をどけろよ」
ゴダイが立ち上がった。ムドウはゴダイの言葉を完全に無視した。そして、ナナヒトを立ち上がらせようとする。
「おい、聞こえないのかよ。その手をどけろって言ったんだ」
二人のもとへ回り込んで、ゴダイがムドウの右腕を掴んだ。
「痛いじゃないですか……何ですか、あなたは?」
ムドウの義眼が、ゴダイをジッと見つめて、赤く点滅する――まるで何かを警告するかのように。そしてムドウの口元に大きな笑みが広がった。笑い声が、堰を切ったようにあふれ出す。
「……ふふ、ふふふ、ふあっ、あははははっ! そうか、そうなんだな、お前も複写生命なんだな!」
先ほどまでの丁寧な口調は消え去り、迷える羊を導く聖職者の仮面はすでになくなっていた。それは、下卑た笑みを浮かべた鬼、子を喰らう鬼の姿そのものだった。
ムドウが掴まれた右腕を払った。ゴダイを見下ろして、それからを掌を天に向けて、空を仰ぐ。目をつむり、そっと開く。そして、大声。
「今日は、今日は、なんて恵まれた日なんだ! 似て非なる者が、何人もいる! 神に感謝しなくてはいけない!」
「こっちへ」
ユリアがナナヒトのそばに駆け寄って、引き寄せる。
「神に仇なす者たちよ、お仕置きの時間だ!」
事態が動いた。
ムドウが地面を踏み込む。その体躯からは考えられないほどの速さで、ゴダイの左腕を掴む。
「まず、一匹っ!」
「ゴダイ!」ユリアの叫び声。
だが、次の瞬間、鈍い音が響く。
歪な笑顔のムドウの顔面に、ゴダイの右拳がめり込む。
「ぐふっ……っ!」
ムドウがのけ反る。その隙にゴダイは左腕を引き抜き、距離を取った。敵から目を離さずに、ゴダイは叫んだ。
「ユリア! ナナヒトを連れて行け!」
うめき声をあげ、ムドウは向きを変えた。ナナヒトの方へと突進する。
「待てっ!」ゴダイが地面を駆けて、ムドウの前に回りこむ。
鼻と口から血を噴き出しながら、ムドウが喚く。
「お前、その力、その体技……強化人間か!」
「知らないよ、そんなこと」
「許されない……複写人でありながら、遺伝子改造まで……許されない……絶対に許されない! お前は絶対に許されない存在だ!」
ムドウが両腕を振り上げて、ゴダイの頭上に力いっぱいに振り下ろす。
ゴダイは真正面から、その重たい一撃を受け止めた。
受け止めた両腕の骨が軋む。
恐ろしく重たい。
足が砕けそうになる。
よろめく。
その隙は見逃されない。
ムドウは腕を引き、ゴダイの左脇腹に右拳を打ち込む。
ゴダイは素早く引き下ろした左腕で防御する。だが、身体が背骨ごと折られるかのような壊滅的な
東屋から四
急ぎ、両手両足を地面にかけ、体勢を整える。
口の中に砂の味がする。一瞬間、視野が明滅する。
顔を上げる。シヱパアドが、ゴダイの投げ出された方向とは反対、ユリアとナナヒトの方へと向かい始めている。二人はまだ、そこにいた。
「早く逃げろ!」
少しぬかるんだ地面を、ゴダイは転びそうになりながら駆け上がった。
持てる力を余すところなく駆動させ、左足で踏み込み、地面を蹴る。
跳躍、最大の力、決定的なタイミング。
ゴダイは身体をひねり、舞い、振り上げた右足を上方からムドウの頭めがけて、振り下ろした。
狙うは鬼の角! 高度情報ジャックイン‐デバヰス!
敵は、背中を向けていた。
ゴダイは敵の後ろを、確実に取っていた。
ゴダイが繰り出した最速の上背回し蹴り。それは最短距離で敵頭上に迫った――だが、掴まれた。
敵の手が、まるでそれを見越していたかのように、振り下ろされた右足を掴んだ。
三十センチはある、強大な手。
ムドウがゴダイに振り向く。右足を掴まれたゴダイは宙に吊られる。敵の生身の右眼に浮かんだ邪悪。
その瞬間、恐れを感じたゴダイは、左足を振りあげて、一直線に振り下ろした。宙で囚われた自分が、地面に叩きつけられるよりも早く!
「遅い!」
ムドウが叫び、左腕で蹴りを受け止める。掴んでいた右腕を離す。
宙に浮いた数秒間、その刹那、激しい一閃がゴダイを貫く。
「がはっ……!」
腹部に打ち込まれた強打。
嗚咽を漏らし、ゴダイは地面にたたきつけられた。全身を襲う信じがたい衝撃。
「ぐふっ……」
ゴダイの口から血が溢れ出た。歯を食いしばろうとするも、痛みのせいでガチガチと打ち鳴らすことしか出来ない。そして、口元に満面の笑みを称えたムドウが近づいて、うずくまるゴダイのそばに屈みこんだ。ゴダイの髪を掴んで、その頭を持ち上げた。
「痛いだろう? だが、俺を殴った罰はまだ終わらない」
その時突如、夜の
拳銃が、ユリアの手に握られていた。
「な、なな、何してくれてんだあああああああ!」
ムドウが大声を上げて立ち上がり、ユリアを振り返った。鼻骨を折られ血で汚れたムドウの顔面は、驚愕と怒りに満ち満ちていた。鬼は撃たれた右腕を抑え、ユリアたちの方へ駆け出した。
「ユリアさん!」
ナナヒトが叫び、ユリアの腕を引く。ユリアはひるんだ。その場から動けない。だが、ムドウの動きが止まった。ムドウの足が何かに囚われた。いや違う。何かが足を掴んだのである。ムドウが足もとを振り返った。ムドウは眉をしかめた。這いつくばったゴダイの左腕が、ムドウの足を掴んでいた。
「あれだけの暴力を受けて……まだ、動けるのか」
右手を地面につき、身体を起こそうとするゴダイ。敵の足を掴んだ左腕に力を入れる。どこからか、金属が軋むような音が響き始める。
ムドウは音の発生源を探ろうと辺りを見渡した――そして次の瞬間、ムドウの掴まれた左足の骨が砕けた。
悲痛な叫び声が、夜の闇を駆けた。
痛みに打ち震えながらムドウは屈みこんだ。
ゴダイは腹を抑えながら立ち上がり、苦しそうに声を上げた。
「ユリア! 行け! ナナヒトを連れて、行け!」
ユリアは弾かれたように動き出した。
「ナナヒト君!」
ナナヒトを引いて、東屋を出た。丘を全速力で駆け下りて、雑木林の中へと走りこむ。振り返らない二人の後姿を見ながら、ゴダイは口元の血を袖で拭った。それから、足元でうずくまるムドウを見下ろした。ムドウが痛みで蒼白になった顔で睨み返す。
「お前、な、何なんだ! その力は……一体何なんだ!」
ゴダイは、冷たい目で相手を一瞥した。それから、フラフラとムドウの傍を離れて、去り際の一言を告げた。
「俺ももう行くから。保護法だか何だか知らないけど、いい加減放っといてくれ……」
ムドウは屈辱的だと思った。複写人に逃げられる。しかもそれだけじゃない。こんな大怪我も負わされて……それも自分よりもずっと若いやつに――ムドウはわなわなと震えた。
ゴダイが東屋を抜けて、坂を下ろうとした。
「ふ、ふざけるなっ! 絶対に、お前だけは許さない!」
ムドウの咆哮を聞き、ゴダイは振り返った。ムドウはひしゃげた左足をものともせず、ゴダイに飛びかかってきた。
虚を突かれた――ゴダイは対応できない。
二人はもみ合う形で、坂を転がり落ちた。ムドウがゴダイの上に馬乗りになり、殴る。
「もう、保護なんかじゃ生ぬるい! ぶっ殺してやる!」
二発、三発、四発。そして五発目、その瞬間、ゴダイは力を振り絞り、ムドウの両手を掴んだ。
ムドウが止められた腕を押そうとするも、それはピクリとも動かなかった。
ゴダイが息を切らしながら言った。
「意味が、分からない……俺らが、お前らに何かしたのか……?」
ムドウの目に微かな怯えの色が差す。ゴダイが続ける。
「勝手しくさって保護だ何だって……ふざけんなよ。力があれば何やったっていいのかよ……」
「き、貴様らは、御十教に背いた許されない存在だ!」
ゴダイは顔をゆがめて、吐き捨てるように言った。
「……もういい。それが答えなら、もういい……とにかく、俺らの生活の邪魔だけはすんな」
再び、金属の軋むような音が鳴り始めた。それはゴダイの左腕からだった。ムドウは怯えた。組んでいた手を急いで振りほどき、ゴダイから飛びのいた。破壊されたムドウの左足が赤く血に染まっている。
ゴダイは身体を起こした。満身創痍だった。よろめきそうになりながら、どうにか立ち上がった。それから、左手に嵌めた
ムドウは生きた右眼を見開いた。
「何だ? 貴様……その腕は……?」
雑木林の中は真っ暗だった。そこら中の枝々が、走り抜けていくユリアとナナヒトをかすめていった。二人は途中、何度も木の根に躓き、転んだ。それでも振り返ることはしなかった。
「ユリアさん、さっきのそれ……」
息を切らしながら、ナナヒトが尋ねた。手に持ったままの拳銃に気が付き、ユリアはコオトのポケットに突っ込んだ。
「これは長老から貰ったの」
「長老?」
ユリアは一旦、走るのをやめた。いつまでも雑木林の中にいるわけにはいかない――そう考えて、辺りを見回す。街灯の微かな明かりを認めた。そちらに向かってユリアは再び走り出した。ナナヒトもそれに着いていく。
「長老は、うちのコミュニティの爺さん。ねえ、ナナヒト君、悪いんだけど、一旦私たちのコミュニティまで来てもらってもいい?」
ナナヒトは、少し黙ってから、答えた。
「分かりました」
二人は、整備された舗装路に出た。土にまみれた泥ネズミのようになっていた。ユリアたちはコミュニティを目指して走った。どこでもいい――どこかの地下鉄の入り口さえ見つけられれば、そこから帰ることが出来る。
その時、東屋があった丘の方角から、耳を覆いたくなるような激しい断末魔が響いてきた。二人は立ち止まって、後ろを振り返った。男の咆哮が虚空に消えていく。そして静寂。ナナヒトが、不安そうに尋ねた。
「ゴダイさんは……」
ユリアは断固たる口調で、ハッキリと答えた。
「大丈夫。ゴダイなら、絶対に大丈夫。今は無事逃げ切ることだけを考えましょう。そうしないと、ゴダイに怒られるから」
ユリアは弱々しく微笑んだ。それから再び走り出す。
二人の複写人は、夜の暗闇に消えた。
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