第壱章の陸【教皇】2/2

 御聖廟ごせいびょう――この国にある意思決定機関の一つ。

 もちろん、この国の憲法は、その主権を国民と定め、国会が唯一の意思決定機関である事を謳っている。

 だが、その国民の意思は、近代化の中で〝御十教ごづきょう〟を忠実になぞるように変化してきた。結果、人々の「思考」と「生活」と「文化」は、御十教にかたどられることになった。戦国の時代、海を渡り、地下で密かに蒔かれた密教の種は、開国を迎え、大戦を越えて、遂に大樹となった。派遣司教は、与えられた強大な権威を使って、人々を導き、人々の意思となった。

 だが、司教も人である。第一次十字防衛を指揮し、この国に勝利を与えた後、落命した。国民は嘆き悲しんだ。船頭を失い、人々は路頭に迷い始めた。形ばかりの国会は機能しなくなった。統一中華チャイナストラクチャー東亜細亜群国帯ひがしあじあぐんこくたいなど――御十教に仇なす者たちはすぐそばにいた。だから、人々は新しい精神的支柱を求めた。そして、派遣司教をことにしたのである。

 御聖廟――そこには派遣司教が眠る。死の直前に取り出された脳が、幾つもの電極を差し込まれ、超高度情報演算処理基匣きこう〝タカノアマハラ〟に繋がれている。あまりに巨大な処理基匣なので、それは一つの教会を成していた。この国の持つ技術の全てをつぎ込んで、消えゆく寸前の僅かな意識が、そこに押しとどめられていた。人々は、派遣司教を生かした――この国のとして、彼を死なせなかったのだ。

 そして、教皇の息子がこの装置を引き継ぎ、この国での御十教を、極東御十教イヰスタンクロスとその名を改めて、初代教皇を名乗った。彼は残忍で、姑息だった。しかし、彼は父親ほどの知性もカリスマ性も備えていなかった。だから、父親の助言を仰ぐことで、教皇としての役割を全うした。彼は、事あるごとに御聖廟への接続を行い、父の意識と交流し、人々を導いてきたのである。結果、この国は二度の大戦を乗り越えて、高度経済成長をすることが出来た。そして初代極東御十教教皇は、この稀有な装置を自身の直系親族のみが接続出来るよう改造を施し、自らの死後、父親を追う形でそこに入った。


 × × ×


 御聖廟には今、派遣司教とその息子の初代教皇、その後を継いだリリアンヌの祖父、そして母が眠っている。リリアンヌは寝間着を着せてもらいながら、その事を改めて考える。リリアンヌの母、ナタァリヱは、彼女を生んだのち急逝していた。だから、リリアンヌは母の事を全く知らない。

「ねえ、タマヨリ。あなたは、母の付き人もしていたのよね?」とリリアンヌ。

 タマヨリは主人の寝間着をうしろで結びながら、答えた。

「ええ。ただ、亡くなる直前に数カ月だけですけど……」

「それって、あなたがまだ二十歳くらいの事じゃないの?」

「そうですね……でも、あの頃は戦時下で、人員が足りませんでしたから。私みたいな新米でも徴用されたのだと思います」

「ふーん……ねえ、母はどういう人だったの?」

「とても理知的で聡明な方でした。あと、誰にでもとても親切でしたね。貧民街出身の私にも、すごく良くしていただきましたし……」

「へえ、理知的で聡明。そして慈愛に溢れていると」

 リリアンヌはベッドに腰掛ける。

「嫌だなあ……私、そんな風になれる自信ない」

 タマヨリはそれを聞いて、くすりと笑った。

「笑わないでよ」皇女が眉間に皺を寄せる。

「失礼しました。でもリリアンヌ様、大丈夫ですよ。あなたなら素敵な教皇になれます」

「そう?」

「ええ」

 タマヨリは主人が脱いだ服をハンガァにかけて、西洋机デスク脇の柱にかけた。それから、机の上に置かれた書きかけの原稿を見て、言った。

「この原稿、とっても良いと思いますよ。誰にでも親切だったナタァリヱ様のお考えにとてもよく似ております」

「ちょっと理想主義に過ぎないかしら?」

 ベッドにもぐりこみながら、リリアンヌが尋ねる。

「そうですね……でも、終戦から八年が経っても、そこら中に困っている人たちがいる現状をみるに、これくらいの理想は語られるべきだと思いますけどね。それに、この国は不具者や弱者に対しての批判も根強いですし……」

 雄弁に語るタマヨリを見て、リリアンヌが意地悪な笑みを浮かべた。タマヨリは急いで頭を下げた。

「失礼しました。はしたなく、話過ぎました」

「全然。むしろ、タマヨリが色々話してくれた方が、私、嬉しいもの」

 タマヨリは恥ずかしそうに顔を上げて、リリアンヌを見る。

「いえ……それでは、リリアンヌ様、おやすみなさい。向かいの部屋におりますので、何かありましたらお声かけ下さい」

「色々ありがとうね。それではまた明日」

 扉が閉まり、室内が暗くなる。

 リリアンヌは目をつむり、思い返す。

 昔、父に連れていかれた大きな研究所。薬品の匂いが充満した部屋にいた隻腕の少年。握手をしようと手を差し出して、初めてそのことに気が付いた自分。リリアンヌの持っている弱者への眼差しは、この出来事がきっかけだった。だが、彼女は、自身のその眼差しに、いくらかのおごりが混じっていることに、まだ気が付いていない。

 リリアンヌはベッドの中で、小さく十字を切った。寝る前にするいつもの習慣だった。そしてそれは常に次のような祈りの言葉を伴った。

「世界が平和でありますように――」

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