第壱章の陸【教皇】1/2

 アズマ都の中心――八つの教区の中央に位置する第零教区ヒイズル。そこにある第一御皇殿ごこうでんの執務室で、代理教皇レイガナは溜息をついた。

 机の上に無造作に置かれた山済みの電報。それらは三日後に迫った娘の即位を祝うものだった。宗主国・第三ロヲマ帝国サアドエンパヰア教皇のものから、十字共栄圏クロスエリア各国大統領や首相、そして当日式典に参加できない三十三聖貴族の当主たちのものまで。本来であれば、返信の作成など聖皇庁の事務方にでもやらせおけばいいのだろう。だが、庶民の出である彼の信条として、手紙の返信を他人に任せるということはできなかった。

 それで仕方なく、彼は深夜まで時間をかけて手紙を書いていた。小奇麗な便箋に直筆で返事を書き、丁寧に封筒にしまう。それから、西洋机デスクに灯されたろうそくを手に取って、封をした。

「明日送れば届くだろう」

 そう呟いて、彼は手紙の束をごっそりと引き出しに収めた。


 代理教皇レイガナ、洗礼名をアマツビトと言う。彼は極めて特殊な類の教皇であった。そう、彼は、開国の際に派遣された司教の直系親族ではない。彼は、派遣司教の息子、のちの初代極東御十教イヰスタンクロス教皇の孫娘と婚姻の儀を交わし、今の座に就いたのである。もちろん、本来であれば、教皇の座に就くべきは、彼の妻にあたる皇女ナタァリヱナターリエだったが、その彼女は既に崩御していた。だから、彼女が亡くなってからの二十年間は、レイガナが代理教皇として極東御十教の頂きに立っていた。だから、人々の中には、庶民出の彼を平民教皇と呼ぶ者もいた。そして、ついに三日後、派遣司教から数えて五人目、初代極東御十教皇から数えて四人目の、直系の皇女が新たな教皇となる。


 すでに夜ももう遅い。レイガナは、明日の予定を確認するために、机の端を指で二度叩き、情報端末を起動させた。机上空域に明日の日程が表示される。

 午前十時から一つ、打ち合わせの予定が入っていた。相手の一人は貴族院議長、ダイスマン・ウォヱンラヰト。レイガナの神学校時代からの旧知である。だが、明日の会議は楽しいものにはならないだろう。何故ならば、先日殺されたソウジ・アイゼンと民衆院の今後について話し合う予定だったからである。

 レイガナは暗鬱な気持ちで端末を切り、席を立った。部屋を出ると、一人の男が扉の前に立っていた。

「まだいたのかね、タケミカヅチ」

 レイガナが声をかけると、タケミカヅチと呼ばれた男は頭を下げた。

「アマツビト様、私の務めは、あなたの命をお守りすることです」

 聖皇庁警護局警護課の実務部隊長タケミカヅチは、顔を上げて、生真面目な声でそう答えた。レイガナはタケミカヅチの顔を見る。彼はこれまで、この男の笑ったところを見たことがなかった。

「でもねえ、ここは御皇殿内だよ。いくらなんだって、私の命が狙われることなんかあるのかね」

 そう言ってレイガナは笑った。タケミカヅチが反論する。

「アマツビト様、あなたの命はあなただけのものではありません。この国の人々の中心にあなたがおられるのです。ですから、いついかなる時も私はあなたをお守りできなくてはなりません」

「ふむ……でもまあ、今の立場はたまたまだしね。第一、私は教皇一族の直系ではないのだから」

 レイガナは廊下を歩き始める。タケミカヅチがその後を追いかける。

「先日、民衆院議員が暗殺された件もあります。用心に越したことはありません」

「まあ、君の言う事も分かるよ。でも、君だって休みたい時もあるだろう。一体全体いつ寝てるんだい? 私が寝た後にそばを離れ、私が起きるより先に、そばに控えているじゃないか」

「アマツビト様、我々警護隊員は皆、強化人間です。遺伝子的に調整された我々には、睡眠は一日数時間で十分なのです」

「強化人間ね」

「そうです、この身を御身のお役に立てられるよう、神の御意志に応えられるよう、日々精進をしているのです」

「分かっているよ、タケミカヅチ。ありがとう」

「もったいないお言葉です」タケミカヅチは深々と頭を下げた。

「あれ? 向こうの部屋にまだ明かりが付いているね」

 そう言ってレイガナは立ち止まった。

 二人が今いる廊下の窓から、中庭の枯山水の向こうが見通せた。そこには天井まで伸びる羽目格子の窓があった。そこが皇女の私室だった。

「まだ起きているのか、あの子は」レイガナは再び歩き出す。「三日後だよ、式典は。もう子供じゃないのだから、皇女としての自覚を持ってもらいたいよ、ねえ?」

 レイガナが後ろに控えるタケミカヅチに振り返る。従者は何も答えない。

 真紅の絨毯に、壁に灯されたガス灯、絢爛な廊下を曲がり、レイガナは娘の部屋に向かった。樫の木に美しく鳳凰が彫刻された金縁の扉をノックする。

「はい、どうぞ」

 中から返事が聞こえ、レイガナは扉を開けた。

「あら、お父様、どうなさったの?」

 付き人に髪をとかせながら、机に座って書き物をする少女が、成人を迎えるにしては幾らかのあどけなさを残す笑顔で、父とタケミカヅチを迎えた。部屋の中は、天上から吊るされた小さな飾り灯で淡い橙色に照らされている。

「どうなさったじゃないよ、リリィ。随分な夜更かしだね。もうすぐ式典だというのに」

 レイガナが壁に寄りかかって言う。聖皇女リリアンヌは座ったまま二人に向いて答えた。

「そうかしら、もうそんな時間なの?」

 後ろでブラシを持つ付き人に声をかける。皇女の母親ほどの年齢の彼女は、くすりと微笑んだだけで何も答えない。彼女もまた、皇女の警護を任されたシヱパアドの一人だった。

「タケミカヅチも、こんばんは。いつも父をありがとうね」

 リリアンヌが仰々しく頭を下げた。タケミカヅチもそれに応える。父親が溜息をつく。

「リリィ、聞いているのかい? こんな遅くまで何をしているんだね?」

 リリアンヌは肩をすくめて、手に持ったガラスペンを置く。

「原稿をね、直していたの」

「原稿? 今度の演説のかい?」

「ええ」リリアンヌは、ペンの先を絹のハンケチで拭きながら答える。

「それなら事務方が用意したものがあるだろう? それじゃあいけないのかい?」

「お父様、アレじゃダメよ。だって、私の想っていること、何にも書かれてないのだもの」

 レイガナは、直筆の手紙を書いているわが身を思い返して、頭を掻いた。

「まあ……お前の言う事も分かるけどね……けれども、こんなに夜遅くまで無理にやることはないんじゃないか」

 リリアンヌは、少し考えてから言った。

「ねえ、お父様。冷静に考えてごらんになって? 私、三日後には成人を迎えて、正式にお父様の役割を引き継ぐことになるのよ。そんな時に悠長に寝てられて? 私、言われたことしか出来ないお人形さんにはなりたくないの」

「……リリイが心配する気持ちはよく分かるよ。確かに今はまだ、お前に出来ることは多くはない。けれどもね、何もかもをいきなり全部やれってわけでもないんだ。公務に関しては、私も手伝っていくつもりだし、ここにいるタケミカヅチや彼女だって、力になってくれるよ。だから、あせる必要はない。少しずつ成長していけば大丈夫さ」

 レイガナは娘を安心させるように両手を広げて答えた。リリアンヌは父親をジッと見つめる。

「……そうね、ありがとう。でもね、お父様、私、御聖廟ごせいびょうを開くのよ」

 御聖廟――その単語を聞いて、レイガナは弱々しく微笑む。

「御聖廟……そうだね。確かに、それは、リリアンヌ、君にしか出来ない。直系親族ではない私が、力になってあげることは難しい。そこは謝らないといけないね」

「……ごめんなさい、お父様。別にお父様の気を悪くさせるつもりはなかったの」

「分かっているさ」

 娘がそれきり黙りこんだのを見て、レイガナは続ける。

「二十年ぶりに開かれるんだ。間違いなく、多くの国民が注目をするだろう。だけども、別に気にすることはない。リリアンヌ、お前はお母さんに会いに行くつもりで繋がればいいんだ」

「……そうね。そう言ってもらえると、少しだけ気が楽になるわ」

「そうさ、きっと大丈夫だよ。式典の準備も滞りなく進んでいるんだ。問題はない」

「ありがとう」

 リリアンヌは小さな笑みを浮かべる。

「だから、今日はもう寝なさい」

「はい……それでは、お父様、それにタケミカヅチも、お休みなさい」

 そしてレイガナとタケミカヅチは、リリアンヌの部屋をあとにした。夜の帳が降りたひと気のない廊下に、僅かに灯されたガス灯がチラつき、二人の男の黒い影が足音を響かせながら去っていった。

 この日から三日ののち、極東御十教教皇の正当な後継者が誕生する。

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