第壱章の肆【家出】

 ナナヒト・シュウジが最後に家を出てから、すでに一週間が経っていた。まだ十四歳の彼は、この一週間どこにも行かずに学校を無断欠席し、ただただこの公園にひそんでいた。

 この公園は、逃げ隠れるには実に都合のいい場所だった。屋外劇場や遊歩道が併設された大型の森林公園。人目を避けて、寝泊まりをするくらいの東屋あずまやであれば、そこかしこにあった。そして、今彼がいる東屋は、小高い丘の上、その森の中にある。

 だが、この日の深夜、彼は眠ることなくベンチに寝ころんでいた。辺りは木々に覆われて暗く、唯一の光は東屋の傍にある小さな野外灯だけだった。恐ろしく静かな夜だった。彼の思索を邪魔するものは何一つなかった。


 彼は今、その短い人生の中で、そしてこれからの長い人生の中でさえも、最悪と言える絶望を感じていた。つい先週まで、こんなことはなかった。あの日、父から借りた小説を返そうと、勝手に書斎に入った事が最大の誤りだった。床から天井まで、ぎっしりと本が詰め込まれた書棚。その中の最下段にしまわれた大型本。家族の写真を収めたアルバム。

 ナナヒトは、本当に軽い気持ちで、ずっしりと重いそのアルバムを開いた。若かりし頃の父と母の写真。エゾ州の雪まつりにミヤビみやこの城跡、ニライノノカの白い砂浜。二人の人生の記録が、そこに残されていた。そしてページをめくり、一人の赤ん坊が登場した。

 ナナヒトは微笑んだ。自分が生まれたのだ。少し赤らんだ髪に、奥二重の眼が見て取れた。母に抱かれたナナヒト、その母の肩に手をかける父。そういう理想的な家族写真だった。ナナヒトは頁をめくった。

 ふと、その時、本当に何気なく心に引っかかったものがあって、ナナヒトは前の頁に戻った。先程の写真をもう一度見た。居間で撮られた家族写真。三人の後ろの壁に掛けられたカレンダアカレンダー。盟治一三八年七月のものだった。

 年。

 ナナヒトの心臓が大きく鼓動を打った。巨大な金槌で殴られたようだった。

 年。

 呼吸が荒くなる。息を吸うべきか、吐くべきか、分からない。

 年。

 ナナヒトは、今見たものを綺麗さっぱり忘れるかのように、急いでアルバムを閉じた。そしてそれを書棚にしまい書斎を出た。

 震える足を鼓舞して自室まで戻り、ベッドにもぐりこむ。もうその日は一歩も部屋から出なかった。夜飯などとても食べれたものではなかった。ナナヒトの頭の中は嵐が渦巻くように混乱をしていた。

 何故ならば、ナナヒトが生まれたのは盟治年だったからである。

 ナナヒトが自身の出自に疑念を抱いてから、数日間はごまかしごまかし平静を装ってきた。父も母も、ナナヒトの異変に気が付いた様子だったが、何も言ってこなかった。

 そして一週間前、ナナヒトは疑念に一つのケリをつけるため、役所に行き、デヱタベヰスデータベースの閲覧を行った。母のデスクから盗み出した個人アイディ証を情報端末に挿入し、家族の戸籍情報を呼び出す。画面が展開されるまでの十数秒間が異常に長く感じられる。端末の使用を待つ後ろの客に画面を見られないかと不安になり、ナナヒトは辺りを見渡す。端末が音を立てて、情報が開示された。

 画面を見る。ナナヒトは、自分の生まれ年が間違いなく盟治一三九年である事を認め、安堵した――ああ、あの写真の方が何か間違っていたのだ。きっとそうに違いない。

 だが、次の瞬間、自身の記録の上段にもう一つの記録があることに気が付いた。それは、盟治一三八年に生まれた誰かだった。父と母の記録の下、ナナヒトの記録の上、そこにいた誰か。そしてその誰かは、すでに鬼籍に入っていた。一歳未満での逝去。知らない誰か。胃の腑が落ちる。ナナヒトは確信した。うめき声をあげて、その場に屑折れそうになった。

 ――間違いない。自分は複写生命だ。いや、だがまだしかし、これだけでは言い切れない。言い切れない。

 ナナヒトは端末から離れ、ふらつく足を引きずって地下階の暗いトイレへと向かった。倒れこむように、空いた個室に入る。

 呼吸が乱れる。

 鼓動が収まらない。

 落ち着け、落ち着け、落ち着け。

 自分に何度も何度も言い聞かせ、胸に手を当て、空気を吸う。

 一、二、三。

 数字を数える。

 一、二、三。

 しんしんと遠いところから落ち着きがゆっくりと帰ってくる。

 ナナヒトは、ゆっくりと床に座り込み、震える手で靴を脱いだ。自分の足裏など、今の今まで意識して見たことがなかった。左足の裏を見る。何もない、綺麗さっぱりとした足だった。右足も同様にして見る。こちらも何もない。ナナヒトは安堵で失笑しそうになる。だが、見つけてしまった。右足の親指の付け根。そこに数字が記されてあった。それは半透明な印字だった。手でその個所を強く押すと、赤らんだ数字がハッキリと現れた。

 五七二一九九。

 ナナヒトの顔に、歪な笑みが浮かんだ。それから堪え切れないうめき声を零して、泣き始めた。泣き声は個室の外にも漏れたであろうが、そんなことは構わなかった。泣きながら、何度も何度も親指の付け根をこすった。だが、その刻印は消えない。その番号は、残酷なほど確固としてそこに印字されていた。

 三十分後、ナナヒトの涙は収まった。落ちついて物事を考え始めるだけの余裕が出てきた。そして突然、大きな不安が彼を襲った。自身の足裏を、この番号を、誰かに見られたことはないか――ナナヒトは考えてみた。学校の水泳の時。修学旅行の入浴の時。自分が複写生命であることは、すでに周知の事実なのではないのかと、恐怖を覚え始める。

 これまでナナヒトは、複写生命を気持ちの悪いものだと感じてきた。

 複写生命――それは自然の摂理に収まらず、明確な出自を持たない、神が禁忌とした、〝似て非なる者〟。

 ナナヒトは自身が抱える〝存在の矛盾〟を処理しきれない。

 そしてその一方で、自分の父と母に嫌悪の情を抱いた。御十教に背く、汚らわしい奴ら。許されない行いだ。もうあそこには帰れない。いや、帰らない、絶対に。もう両親の顔も見たくない。

 その日から、ナナヒトは家に帰らず、街をさまよい始めた。だがそのうちに、人の目が気になり始めた。自分が許されない存在なような気がして、ナナヒトは動く事が出来なくなった――十字架はそこら中にあった。どこかに逃げ込まなければならない。誰にも見られない場所に――だが、しかし、どこに?

 そしてこの東屋にナナヒトは辿り着いた。


 手入れのされていない汚いベンチに横になり、ここが人生の終着駅になるかもしれないと、ナナヒトは自嘲気味に考えた。右のポケットの中を何気なくまさぐる。中から幾らかの小銭が出てきた。家からくすねたお金はほぼ全て使い切っていた。だから、これがナナヒトの全財産だった。左のポケットには、既に充電が切れた情報端末が入っていた。一昨日までは母からの着信が何回もあった。だが今はそれももう無い。世界から隔絶された安心感が、ナナヒトを仮初の幸福に誘っていた。ここで死ぬのも悪くない。

 だが、ナナヒトの平穏は破られた。東屋に続く石畳の道を上がってくる足音のせいだった。ナナヒトは身体を起こした。そして、二人の男女が現れた。二人組はナナヒトを見つめた。短い時間だった。ナナヒトは立ち上がり、その場を離れようとした。

「待って」

 女性が声をかけた。ナナヒトは無視するように、二人が来た方向とは反対に歩き始めた。

「待って。私たち、怪しい者ではないの」

 ナナヒトは立ち止まり、それからゆっくりと振り返った。

 男が言った。

「俺は、ゴダイ。こっちはユリア。俺たちも、君と同じ複写生命なんだ」

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