第壱章の参【散策】2/2
夜の十一時過ぎ、ユリアとゴダイは、地下ホオムの階段を登って地上へと出た。
九月の夜風がユリアの頬をなでる。この時間帯にもなれば、昼のうだるような暑さは随分と和らいでいた。
スラムの街並みは、割れた窓ガラスと外れかかった扉、そしてコンクリイトの瓦礫で、辺り一面灰色に朽ち果てていた。
それでもこの死んだ街の中には、微かなランタンの明かりが点々と輝いていて、はみ出し者たちが小さくまとまってか細く生活を営んでいた。食料や日用品は、川を挟んだ向こうの街から零れてくるものを分け合っていたし、ここにある瓦礫の山々の中にも使えるものが少なからず残っていた。ここには、懸命に生きている人々がいた。
ユリアは、深緑のデカダンス
「ねえ、ゴダイ、その子が公園にいるっていうのは確かなの?」
「まず間違いない。防犯カメラを確認した限りでは、三日連続で公園に寝泊まりしている。彼に帰る場所がなければ、今日もそこにいるはずだ」
ゴダイは歩き続けながら、明瞭な声で答えた。間違っていない自信があるのだろう。ユリアは小さく鼻を鳴らした。昔からこうだった。ゴダイはなんだって適当にこなしてきた。そしてユリアは、ゴダイのそういうところに憧れると同時に、小さな引け目を感じてきた。そう、自分には何もない。
二人は、死んだ街を抜けて川を渡った。ここら辺りから、街灯が道を照らし始める。
段々と繁華街になっていくにつれて、ユリアは徐々に居心地の悪さを感じていく。店先や門戸の前に十字架が飾られていたからだ。十字架は何も言わず、ただそこにああっただけだが、それが自分の存在を否定しているように思えて、ひどい息苦しさを感じた。ユリアは気を紛らわせようと、ゴダイに話を振った。
「知ってる? タチカワのコミュニティ、強制立ち退きさせられたって」
「……テイスケさんに聞いたよ」
「興味なさそうね」
「そんなことはない。どうにかしたいと思ってる」
ゴダイは振り返って答えた。
「……ねえ、ゴダイはさ、どうしたいの?」
「どうしたいって?」
「いやさ……こうやって他の複写人を見つけていってもさ、いつか立ち退きさせられるかもしれないじゃない? 全部無駄になるかもしれないのに、そんなに頑張る理由ってある?」
「うーん……そうだなあ」
その時、ゴダイは一軒の小洒落たレストランを目にして、その前で立ち止まった。すでに夜遅い時間だ。店内は暗く、雨戸も閉まっていたが、その店が決して安くはないことは、ユリアにも一目でわかった。
「例えば、ここで皆で気兼ねなく食事をする、とかかな」
両手を広げて、ゴダイが大真面目に答えた。
「何が?」
「いや、何がしたいか訊かれたからさ、したいことを答えたんじゃん」
ユリアは一瞬黙り込んでから、声を上げた。
「はあ? マジで言ってんの? ここに皆で来るの? 無理だよ。絶対無理」
「何で無理なんだよ」
「えぇ、だってお金は? お金ないじゃん、私たち」
「ここで食事するくらいはわけないよ。長老の運用、手伝ってんの、俺だよ」
「……っ、まあじゃあお金はいいわ。でも、それでも無理よ」
「なんでだよ。いいじゃないか、たまには皆で美味いもの食べたって」
ゴダイが笑いながら言う。
「でも、どう考えたって不釣合いよ。私たち、みすぼらしいもの。髪もボサボサだし、コオトだって穴開いてるし……」ユリアはコオトの裾を持って、ゴダイに背を向ける。当て布を施した、背中に開いた大きな穴。
「それに十字架だって……」
店の扉には大きな十字架が掛けられている。
「十字架がなんだってんだ」
「だって……私たち、複写生命なのよ」
ゴダイが頭をかく。
「ユリア、気にし過ぎだよ。別に複写生命お断り、ってわけじゃない。小奇麗な身なりをして行けば、大丈夫さ。ばれる筈もない」
「そうかな……?」
「大丈夫だよ。それにユリアは食べてみたくないの? こういうとこの料理」
「そりゃあ……まあ、少しは……?」
「俺はさ、俺たちみたいな奴ら全員で、当たり前のことを当たり前にやってやりたいんだよ」
そう言って、ゴダイはまた歩き始める。ユリアもそれについていく。ユリアはゴダイの背中に言った。
「あんたって割と夢想家だよね。うらやましい」
「そんなことないさ。俺だって意外と慎重派なんだぜ?」
「あっそ」
ユリアは小さく肩をすくめる。そしてつい考えてしまう。いつか本当に気兼ねなく外に出掛けられる日がくるのだろうか――。
「ここらへんも、もうセレモニィ一色だな」
二人は、車もすでに通らないひっそりとした夜の大通りに出ていた。通り沿いの至る所に大きな
「さっきの話の続きだけどさ」ゴダイが、ユリアの前を歩きながら言う。「まあ、今すぐに小洒落た店に行くっていうのは難しいかもしれない。だけど、アレだな。出店くらいなら、もうちょっと簡単だろ?」
「出店?」
ゴダイが振り返る。
「いや、皇女の即位式をやったらさ、きっとここらへんにも出店が出ると思うんだよね。タキオスト
ユリアが頷く。
「じゃあ、それを食べに来よう。ハナたちも連れてさ。それくらいなら、長老も怒らないだろう」
ゴダイが子供っぽい笑みをこぼす。
「まあそうね、それくらいなら……いいかもしれない」
そして、ユリアは想像してみた。この通りが多くの人でごった返し、音楽と色が様々に踊り、活気に満ちていく様子を。皇女の即位式という、少しも嬉しくないセレモニィではあったが……確かに、お祭りは悪くない。
「じゃあ、約束だからね。代金はゴダイ持ちで」
ユリアがゴダイに言った。それも少し強めの口調で。
「ああ、もちろん」
そう言ってゴダイは、約束の指切りのつもりか、小指を上げてみせて、笑った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます