【ある日の侯爵家の出来事】ツァニスと若返りの薬③
怪しい『若返りの妙薬』を、一体誰が持ち込んだのか、誰が飲むように勧めたのか、その時の幼児・ツァニスの記憶が酷く曖昧な物であり、犯人は分からずじまい。
取り敢えずサミュエルから、紳士
が。
「実際になっていたとしても、そんな事言えないでしょうね」
マギーからの至極冷静なツッコミにより、それを聞いた全員が『だよね』と思い至る。
『若返りの妙薬』の調査は続行するとして、
幼児化したツァニスを目撃してしまった家人たちに、『どこかの貴族の子が屋敷に潜り込んできた』と言い訳を行ったのはセレーネ。
『こんな小さい子を警らに引き渡したら可哀想です。
と家人たちに伝えると、家人たちは『まぁセレーネならそう言うよな』と、特に疑問に思わず納得した。
取り敢えず頭脳は大人、という事で、なんとか業務は執務室で行った幼児・ツァニス。
バカでかい机に積まれた書類に埋もれるように、一生懸命書類を読んで、自分の手には余りある大きさの万年筆で必死にサインする様子を、セレーネは影から身悶えしながら覗き見ていた。
そして夜。
子供達も寝静まり、家人たちもその日の仕事を終えてそれぞれの部屋へと戻って行った頃。
仕事中、いつの間にか机に突っ伏して昼寝をガッツリしてしまった幼児・ツァニスは、夜眠れずに私室のソファに埋もれて、ジッと、月を見上げていた。
「……いまあるしごとをかたづけるのは、もんだいない。しかし、だれかとのかいごうには……でられないな」
何故こんな事になってしまったのか。
幼児・ツァニスは、自分の昨夜の行動を脳内で振り返っては、『若返りの妙薬』を断るシミュレーションを繰り返す。
しかし、どんなに脳内で上手く断れたとしても、こんな事になってしまった現実に引き戻され、不安が胸中に広がっていくばかりだった。
「会合は、
そんなセレーネの言葉も、ただの慰めなのだとツァニスは気づいていた。
幼児の姿になってしまって以降、セレーネはツァニスを責めるような言葉を一度も使わなかった。それどころか労わる言葉や態度を常に取ってくれている。
マギーやクロエ、サミュエルは、聞き取り調査の時に『なんでそんな怪しい物を口にしたんだ』と呆れたのに。
セレーネは『今だから危険だったと分かるだけで、その時はそんな事思わないでしょう。誰だってそうです』とフォローまでしてくれた。
なんでこんなに優しいのだろうか?
自分が幼児だからか?
そう思い、普段のセレーネの行動を振り返ってみて、ふと気づく。
彼女がキレ散らかすのは、自分が意識無意識関係なく、彼女に対して酷い事や無神経な事をしてしまった時だけだ。
つまり、無礼な事をしなければキツイしっぺ返しを喰らう事はない。
むしろ、彼女はそれ以外の事については、
そんな女性の。
夫でいられなくなってしまった。
もしかしたら、ずっとこのままなのかもしれない。
成長はすれど、同じ速度で彼女も年老いていく。
同じ時間を過ごせない。
その事に気がつき、その恐怖が、ジワジワと幼児・ツァニスの中へと広がって行った。
「……ツァニス様、泣いていらっしゃるのですか?」
何かに気がついたセレーネが、ふと、そんな声をかける。
言われなくても、ツァニスは視界が水で歪み始めた事に気がついていた。
「……ないてない」
悟られたくなくて、涙を引っ込めようと
しかし、その瞬間、ボロリと涙が溢れてしまった。
慌ててグシグシと袖で涙を拭うが、それでは拭い切れない程の涙が、目から溢れ出て止まらなくなってしまった。
泣いてはいけない。
そう思うほど、涙が溢れてくる。
不安になってはいけない。
そう思うほど、胸の中に広がる不安が大きくなる。
段々、自分では制御できないほどの感情が身体中に広がり、ツァニスの口から
その瞬間──
「不安でしょう。泣いてもいいんですよ」
ツァニスをガバリと抱き上げたセレーネは、自分と向かい合うようにして彼の身体を抱きしめた。
そして、その背中をゆるゆるとさする。
「泣いてもいいんです。我慢しなくていいんですよ」
それは、ツァニスがセレーネと出会ってすぐに言われた言葉と同じ意味のものだった。
そんな事を誰かに言われたのは、あの時が初めてだった。
いつだって他人は
泣いてはいけない
泣き言は言ってはならない
強くいなければならない
弱みを見せてはいけない
そう、言ってきたから。
泣いていい、泣いて心から
そんな事を言ってくれたのは、セレーネだけだった。
だからツァニスはあの日、大人になってから初めて、子供のように泣きじゃくった。
他人に声を聞かれないよう、頭から布団を被ったが、頭が痛くなるほど
疲れてそのまま寝こけてしまうまで、ひたすら、泣き続けた。
次の日起きた時、顔は腫れて酷い状態だったが、気持ちは反比例して、恐ろしくスッキリしていたのを、覚えている。
「きっと、記憶や精神は大人でも、身体が子供なので感情の制御が出来なくなってるんですよ。脳がまだ未熟なんです。不安や恐怖を、強く感じるでしょう?
我慢しなくていいんです。
それが当たり前なんですから」
幼児、ツァニスを抱いたセレーネは、ゆらゆら揺れながら、抱いたツァニスの背中をポンポンと叩き続ける。
その胸に抱かれながら、ツァニスはそれでもなんとか
「我慢しようとすると喉が締まって余計に苦しくなりますよ。
体の力を抜いて。体の反応のまま、泣けばいいんです。
大丈夫ですから。ここには、私しかいません」
他の女性より、少し低くて落ち着いたセレーネの声。身体を通して振動として感じる彼女の声に、ツァニスの体の力が自然に抜けていく。
「きょうはっ……ずっと、いっ……いっしょに、いて、くれっ……るか……?」
その言葉を聞いて
「当たり前です」
セレーネが、そう微かに微笑む。
その言葉を聞いた瞬間、ツァニスは微睡みを感じ、急に沈んでいく意識と感じる温かさに身を委ねて。
そのまま、意識を失った。
***
「ううん……」
何か、重い物を感じて、それから逃れようとセレーネは無意識に身悶えする。
しかし、その重い物が身体に巻き付いているようで身動きが取れなかった。
「なに……?」
ゆるゆると浮き上がる意識に合わせ、セレーネはゆっくりと目を開いた。
するとそこには──
「うぉあ!!!」
目の前にあった顔に驚き、セレーネはギュルンとその場で身体を回転させる。
そのままの勢いで、ドサリとベッドから転げ落ちた。
「なんだ……どうした……?」
耳元で大きな声を出され、ツァニスは目をこすりながら顔を上げる。
すると、ベッドの端から、顔だけ覗かせているセレーネの焦り顔が目に入った。
「何を騒いでいる……」
二日酔いのような、酷い頭痛と、筋肉痛のような体を痛みを感じながら、ツァニスはなんとか身体を持ち上げる。
ふと、自分の腕が目に入って、瞬間、意識が覚醒した。
「戻っている!!」
見えたのは大人の腕。慌てて自分の顔をペタペタ触り、続いて身体をまさぐる。
昨日までポヨポヨのまん丸のお腹だったものが、今日は割れた腹筋に戻っていた。
そこで、ツァニスはふと気づく。
「……なんで、悲鳴をあげて逃げたんだ……」
しかも、『きゃー』等の可愛い悲鳴ではなく『うぉあ』って。
自分の妻が、夫である自分の姿に驚いてベッドから転げ落ちた事実に、
「そ、そりゃ、隣にいるのが
いたた、と言いながら起き上がるセレーネ。
「まぁでも……戻ったようで、良かったです」
立ち上がったセレーネは、服を整えながらそう笑顔になった。
何故か、
肚の中にモヤモヤとした物を感じたツァニスは、ベッドに座った状態のまま、セレーネに向かって両手を伸ばした。
が。
「え……何ですか? その手は」
「おかしい。昨日はこうしただけで、セレーネは抱き締めてくれたぞ」
「そりゃ昨日は貴方は幼児でしたからね?! 私の条件反射は幼児にしか発動しませんよ?!」
ハァ?! という顔でそう反論するセレーネ。
「しかし、私は私だ。昨日となんら変わっていない」
「変わってる変わってる!」
「どこが?」
「いや全部!! しかも、気づいてて敢えて気にしてないんでしょうけど、貴方今、
「そうかもしれない。が、気にしなくていい」
「するわ!!
しかも、どう見ても下心満載過ぎる顔してる!!」
「下心はない。抱き締めて欲しいだけだ」
「真剣な顔で嘘つかないでもらえます?!」
「嘘ではない。本当に、ただ抱き締めたいだけだ」
「ホラ今『抱き締めて欲しい』じゃなくて『抱き締めたい』って言った!!」
「あ」
「『あ』じゃねぇわ!! 嘘下手か!!!」
最後にそう吐き捨てたセレーネは、バタバタと寝室を出ていく。
そして
「ツァニス様がお戻りになりましたよー!!」
と他の家人たちに聞こえるように声をあげていた。
「……あの薬、どこに行けば手に入るのだろうか……」
ベッドに残されたツァニスは、窓から差し込む朝日を見上げながら、眩しそうに目を細め、そう、ボソリと呟くのだった。
了
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