【ある日の侯爵家の出来事】ツァニスと若返りの薬②

「……わたしも、からだがこんなふうになってしまったからか、だれかにくっついていないと……さむい、きがする」

 セレーネの膝の上に座りながら、幼児・ツァニスは、自分の小さなてのひらをジッと見つめ、グーパーさせていた。


『さむい』


 このワードをきっかけに、セレーネは幼児・ツァニスの脇に両手を差し込み、その体をクルリと前後ひっくり返すと、向かい合わせの状態にして抱っこし、ソファの背もたれに背中を預けた。

「条件反射」

 クロエが一言、そうポツリと呟くと

「ッ!? アレ!? なんで私、今、抱っこしなおしたのッ!?」

 幼児を抱き直した本人が、抱き直した幼児の顔を見ながら驚きの声をあげた。

「……『遺伝子に組み込まれてる』も、若干信憑性しんぴょうせいがでてきましたね……」

 サミュエルが、ゲンナリしながらもそうこぼした。


「せれーねはあたたかいな」

 セレーネの首にぎゅっと抱きつきながら、すこしはにかんだかのような笑顔を零す幼児・ツァニス。

 セレーネは、困惑したかのような、少し嬉しそうな、そんな微妙な表情をして

「……笑い方がアティと同じ……」

 そう言って、自分の首に抱き着く幼児・ツァニスの頭に、スリスリと頬をすりつけた。


「……ツァニス様、お言葉ですが、下心が駄々洩れていらっしゃいます」

 クロエが満面の笑みでそう伝えると、何故かセレーネの方がちょっと肩をビクリとさせる。

「……したごころ……」

 ツァニスは、抱っこするセレーネから少し身体を離し、彼女の顔をマジマジと見つめていた。

「どうなのだろう。だきしめてほしい、とはおもうが、だきしめたい、とはおもわない。

 こうしていると、あんしんする。

 おかしい。わたしはいつもつねひごろから、せれーねをみると、とにかくひたすら、だきしめたい、だきしめてうでのなかにとじこめてしまいたいと、おもっていたはずなのに」

「いつも常日頃から、そんな事思っていらっしゃったんですか……」

 舌っ足らずな幼児・ツァニスの言葉に、若干引くセレーネ。

「だきしめるだけじゃないぞ。だきしめて、こしをひきよせ、すこしじょうきしたかおをすこしうえをむかせて、そのうすくひらいたくちびるをむ──」

「やめてくださいツァニス様。アティによく似た可愛い幼児の顔で、エロ本みたいなワードを吐かないでください。脳みそが混乱する」

 たどたどしく説明する幼児の頬っぺたを、両方から摘まむように挟み込んで、セレーネは言葉を遮った。渋ーーーーーーーーい顔をして、首だけを、幼児・ツァニスから背ける。

 その様子を見たニコラが、ニコニコしながら幼児・ツァニスに両手を差し出した。

 一瞬目をぱちくりさせた幼児・ツァニスだったが、自分が思うままにニコラの方へと両腕を伸ばす。

 幼児・ツァニスの身体をよいしょっと抱き上げたニコラは

「ツァニス様、可愛い。アティみたい」

 ニコニコしながら、その頭に自分の頬っぺたをすりつけていた。

「……最近、ニコラの行動も、誰かさんに似て来ましたね」

 その様子を見たマギーが、ゆるゆると首を横に振った。


「……なるほど。本当に中身は大人のツァニス様のままなのですね。身体だけが、こうなってしまったと」

 マギーは、ふむと頷いてニコラと幼児を、足先から頭まで視線を這わせる。

「いくつぐらいなのだろうか?」

 ニコラにスリスリされながら、すこしだけ顔をキリッとさせる幼児・ツァニス。

「見た所……三・四歳かと思います。アティより少し幼い」

 幼児・ツァニスの無意識の猛攻から解放されたセレーネは、両手で顔を洗うかのような仕草をしながら、そう答えた。

「む。あてぃよりしたなのか」

「おそらく。……あ」

 そこまで答えて、セレーネは何かに気づいたそぶりをする。

「ツァニス様。トイレは?」

 そう問われて、幼児・ツァニスはちょっとムッとした顔をした。

「そこまでおさなくなってないぞ」

 そう反論しつつ、ニコラの首に更に強くギュっと抱き着く幼児・ツァニス。

 しかし、セレーネは首を横に振った。

「ツァニス様。幼児の身体だと、生理現象が上手く感じられないんですよ。したい、と思った時にはもうとっくに限界で、漏らしてしまう事もあるんです。

 行きたくなくても、トイレ、一度行っておきましょう」

 そう言ったセレーネは、ソファから立ち上がって、両手をニコラと幼児・ツァニスの方へと向ける。

 が、幼児・ツァニスは首を横にブンブンと振った。

「……なんでそんな事ご存じなんですか」

 いぶかにそう問いかけたのはサミュエルだった。

「経験則? 幼い頃の妹たちの言動で、そうなんだろうな、と思ったんです。大概、『トイレ』と言い出してものの数分後──場合によっては一分もたずに漏らしたりしてましたから」

 そうサミュエルに視線を向けて説明しつつ、セレーネは両手だけは幼児・ツァニスに向けたまま。

 クロエはその様子を見て『本当に条件反射なんだなぁ』と実感していた。


「さぁ」

 改めて幼児・ツァニスへと視線を向けるセレーネ。

 しかし、ツァニスは顔を真っ赤にしてフルフルと首を横に振った。

「いやだ」

 口をへの字にして嫌がる幼児・ツァニスだったが、セレーネは大して気にした素振りも見せず、新ためて床に膝をついて両手を差し出す。

「行きたくなくても、行けば出るかもしれません。漏らすよりいいでしょう?」

 幼児にトイレ拒否される事には、妹たちで慣れまくっているセレーネは、特に困った様子もなく両手を幼児に差し出し続ける。

 むぅ~と頬っぺたを膨らませた幼児・ツァニスは

「いく。いくけれどせれーねはいやだ」

 そう憮然ぶぜんとした。

 キョトンとした顔のセレーネに

「せれーねにみられたくない。みられるのは、おとなのときがいい」

 ツァニスがそう吐き捨てた為


 その場にいた、ニコラ以外の大人全員が、何の事なのか気づいてブフッと噴き出した。


 ***


「さて、どうしたものでしょう」

 幼児・ツァニスはニコラにトイレへと誘われ、子供たちがいなくなった談話室に、困惑の空気が流れた。

 ソファに座り直したセレーネ。向かいの椅子に座ったサミュエル、クロエはセレーネのソファの後ろに、マギーは一歩引いた所ですまし顔で立っていた。

「昨夜のツァニス様の行動が影響しているのでしょうか」

 両手で髪を後ろへと撫でつけたサミュエルは、そう言った後に盛大な溜息を洩らした。

「昨日は、ツァニス様は紳士倶楽部クラブに行っていた筈ですが」

 セレーネは、昨日のツァニスの行動を思い出す。

「紳士倶楽部クラブに行った時はいつも帰りが遅いので、出迎えていないのですよね。帰宅した頃は、私はアティと寝ておりました」

 それに、紳士倶楽部クラブ帰りのツァニスは、いつも葉巻の煙の匂いを全身から発しているから嫌なんだよなぁ、とセレーネは思ったが、それは敢えて口にはしなかった。

「家人からの話によると、帰宅した時のツァニス様は、いつもと同じでいらしたとか。いや、少し、酔っていられた、とは言っていたが……」

 でも、紳士倶楽部クラブでは酒も出る。酔っての帰宅もいつもどおりか、とサミュエルは結論付けた。


「ツァニス様の行動は、本人にお伺いすればよろしいのでは?」

 少し離れた所──マギーからそんなツッコミが発せられる。

 その言葉に、セレーネとサミュエルはハッとした顔をした。

「……そうだった。姿はあんな愛くるしくなったけど、中身は大人だった。本人に聞けばいいんじゃん」

 気付かなかった、と、自分に驚くセレーネ。サミュエルも同じような顔をしていた。

「幼児を目の前にすると、本当にセレーネ様はポンコツになられてしまいますわね」

「ポン──」

 クロエの朗らかな声に、セレーネは抗議の声をあげようとして、やめる。

 事実だった。

 彼女はまた、顔を洗うかのように両手で顔をさする。

「脳味噌が混乱してる……ごめん、今回に限っては、私、役立たず……」

 両手の間から、そう苦し気にセレーネは吐き出した。

「今回に限らずいつも比較的役立たずです」

 ズバッと一刀両断にするマギーの言葉に、セレーネは完全に肩を落としてしまった。


「では、今から考える必要があるのは、今後どうするか、ですね」

 少し頭を振って気を取り直したサミュエルが、役に立たないセレーネではなく、信頼感しかないマギー、そしてクロエの方へと視線を向けた。

 が。

「……」

「……」

 二人は──マギーは鉄仮面を貼り付けた無表情、クロエはニコニコとした上品な笑顔を顔に貼り付けたまま、何も言わなかった。

 え、なんで?

 サミュエルがそう疑問に思って、二人の顔を交互に見ると、

 マギーは

「アティ様の事以外、どうでもいいです」

 クロエは

「私はセレーネ様の手足にございます」

 と、サラリとそう返答してきた。


 マジか……今回の事を収束させるのは、俺の役目なのかよ……

 その事実に気づいてしまったサミュエルは、頭を抱えてローテーブルへと突っ伏してしまった。


「……幼児化の原因が分からない事には、どうすれば元に戻るのかの調査も出来ないので、まずはツァニス様が戻ってから話を聞き、そこから解決策を考えるのがいいんじゃないでしょうか」

 自分の頬っぺたをパシパシと叩いたセレーネが、少し顔をキリリとさせてそう口火を切る。

 彼女のその言葉に『それな!』という顔をしたサミュエル。と同時に、頭の中に『やっぱりセレーネの判断に乗っかれば』という考えがよぎった。

 その次の瞬間

「ただいまー」

 そんな楽し気な声を上げたニコラと幼児・ツァニスが、談話室の入り口に姿を現した。

「おかえりー!」

 途端に顔が溶けるセレーネ。


 あ、ダメじゃん。


 サミュエルは淡く芽吹いた期待を速攻で握り潰した。


 ***


「ずっと、このままなのだろうか……」

 自室のソファに埋もれつつ、窓の向こうの闇夜──そして、薄い雲を照らす月を見上げた幼児・ツァニスが、ポツリとそんな言葉を漏らす。

 隣に座ったセレーネが、そんな彼を複雑な表情で見つめていた。


 幼児・ツァニスから、辿々たどたどしい発音による解説が行われた。

 聞き取りは酷く難しく、物事が整理されるのに恐ろしく時間がかかった。


 どうやら、紳士倶楽部クラブで出された、『若返りの妙薬』という、変な飲み物を飲んだせいではないか、という結論に至った。

 紳士倶楽部クラブでは、時々そういう出自の怪しいシロモノが出てくる。名前的に精力剤ではないか、とツァニスはその時に思った。

 自分にはそんな物は必要ないとは思ったが、皆んなが口にしている物を自分だけが辞退するのも角が立つと思い、少し口にした。

 ドロリとした液体で甘苦く、口触りは最悪で後味も最悪。鼻をガッと突き抜けるような強烈な匂いを感じ、他人に見えないようにハンカチの中に少し吐き出したが、少し飲んでしまったようだ、と幼児・ツァニスはゲンナリした顔で述べた。


 たった一口、舐めただけの筈が、その後酷い安酒を飲んでしまったかのように悪酔い状態になり、やっとの思いで帰宅して、上着だけを脱いでそのままベッドに倒れ込むようにして寝てしまった。

 そして、目覚めたら、困惑顔のセレーネとサミュエルが見えた。

 幼児・ツァニスから語られたのは、それだけだった。

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