【ある日の侯爵家の出来事】ベルナともモチモチさんと。

 ベルナはヌイグルミを抱き締めながら、自分に視線を合わせる女性──セレーネをめ上げた。

 分かってる。セレーネが自分を真っ直ぐに見つめる理由を。

 このヌイグルミの事だ。


 それは遡る事少し前のこと。


 庭を散策していたら、日向に置かれたこのヌイグルミを見つけた。

 ヌイグルミは茶色で可愛らしかった。ボタンで表現されたお目々はピカピカでツヤツヤで綺麗だったし、垂れ下がった長いお耳はホワホワで可愛らしく、手触りはフンワリしていて体も柔らかくって、抱きしめると気持ちが良かった。

 すぐにお気に入りとなって、ベルナはそれを自分の部屋に持ち帰ろうと思った。

 一緒に寝たらさぞかし楽しいだろうと思って。

 ヌイグルミを抱き締めて歩いていたら、向かいから歩いてきたアティが驚いた顔をしたのち、バタバタっと走り寄ってきてヌイグルミの腕を引っ張った。

 だからベルナは拒否した。

 最初っから抱っこしていたのは自分だったのだから。この子を見つけたのはベルナだったのだから。

「それアティの! ダメ!!」

 顔を真っ赤にしたアティが、グイグイとヌイグルミの腕を引っ張る。

 負けじとベルナも引っ張り返した。

 アティは物凄い力だったが、ベルナも負けなかった。頑張ってアティに取られないようにした。


 すると──


 ビリィィィ!


 そんな音がして、急に引っ張られていた力がなくなった。

 突然の事過ぎて、ベルナはそのまま後ろにコロリと転がってしまった。

 どうしたんだろう、突然。

 びっくりしたベルナは、目をパチクリとさせたあと、ゆっくりと起き上がる。

 自分の向かいには、アティが目をまん丸にして廊下にヘタり込んでいた。

 その彼女の手には……白い綿がハミ出す茶色の物が握られていた。

 それが何なのか、ベルナは最初気づかなかったが、アティの視線を追って自分の腕の中に目をやると──


 ヌイグルミの片腕がなくなっていた。


「あーーーーー!!!」

 その余りのショッキングな姿に、ベルナは思わず悲鳴をあげた。

 アティは口をあんぐりさせて固まっている。

 無惨な姿となってしまったヌイグルミを抱き締め、ベルナは声を上げるしかできなかった。


 どれぐらいそうしていたか。


「どうしましたっ?!」

 そんな声と共に、バタバタと走り寄ってきたのはセレーネだった。

 彼女はベルナとアティを交互に見た後、一瞬口をへの字に曲げる。しかしそんな表情は一瞬で消して、慌てた様子を顔に浮かべた。

「大変です! モチモチさんが怪我をしてしまいました!」

 モチモチさん?

 モチモチさんとは、何のことだろう?

「ベルナ! 早くモチモチさんの手当てを!」

 あ、もしかして、このヌイグルミの事だろうか?

 ヌイグルミが怪我?

 セレーネは何を言ってるんだろうか?

 ヌイグルミは生き物ではない。

 だから怪我もしない。

 このヌイグルミは、確かに腕が取れてしまったが、人間と違って血も出ない。生きてないから痛くもない。

「ケガじゃない。こわれただけ」

 ベルナは何だかムカムカしてきてしまって、セレーネにそう返す。

「ケガしたのっ!!!」

 そう反論してきたのは、セレーネではなくアティだった。

 顔を真っ赤にし、自分が引きちぎったヌイグルミの腕を抱き締めてブルブルと震えていた。

「ケガじゃないよ! ヌイグルミはケガしない!!」

 アティまで何を言ってるんだろうか?

 ベルナも必死に反論する。

 ……は?!

 もしかして?!

「アティ、ヌイグルミはイキモノじゃないよ? だからいたくないしケガもしないよ」

 アティは、このヌイグルミが生き物だと思って心配してるのか。

 アティは子供なんだな。

 ベルナはもう子供ではないので、ヌイグルミが生きてない事は知ってるが。アティはそうじゃないんだな。

 そう言うと、アティは溢れんばかりに菫色の瞳を見開く。

「わからないよっ!!!」

 そう叫んだ後、アティはその場でドンドンと地団駄を踏む。そして首を横にブンブンと振り

「いたいかもしれないよっ!!!」

 再度、そう叫んだ。

 アティは何を言ってるんだろうか?

「いたいハズないよ」

 ヌイグルミなのに。ヌイグルミが痛みを感じるハズないのに。なんでアティはそれが分からないのだろうか?

 ベルナはどうアティに説明しようか悩んで、首を捻ってしまった。


 その時

「ベルナ」

 セレーネが、その場に膝をついて、ベルナに視線を合わせてきた。

 ──怒られる。

 咄嗟にベルナは身構え、ヌイグルミの柔らかい身体を抱き締めて、セレーネを睨み返した。


「……確かにヌイグルミは生き物ではありません。血も通っていません。自分で動く事もありません。たぶん。……私は、見た事ないので、そうだと思っています」

 セレーネの前半の言葉は理解できたのに、後半は出来なかった。ヌイグルミが自分で動く? そんなワケないのに。セレーネまで何を言ってるんだろうか?

 生き物じゃないものが、勝手に動くハズもない。

「ヌイグルミが痛くないと、ベルナはどうしてそう思うんですか?」

 そう問われても、ベルナはセレーネの問いの意味が分からなかった。

「……? だってヌイグルミだもん。イキモノじゃないから」

 ベルナは、思ったままを返答する。

 すると

「……生き物じゃないものが、痛みを感じないと、何故そう思ったのですか?」

 え。

 問われて、ベルナは返答に困った。

 生き物じゃないから痛くない。

 それは当たり前だ。

 なのに、なんでセレーネはそんな事を聞くんだ?

 ええと。

 ベルナは一生懸命に言葉を探す。

「だって……」

 どうしてそう思うか? なんて答えたらいいのだろうか。

「……痛がらないから……」

 そうだ。ベルナは怪我をしたら、痛くて普通に歩けなくなったり、物が持てなくなる。つまりそういう事だ。

「でも、ヌイグルミは動かないですよね? 動かないから痛みを感じていないと、言い切れますか?」

 セレーネにそう言い募られ、ハッとした。

 確かに。

 ヌイグルミは動かない。

 動かないんだから、痛がらない。

 痛がらないんだから、痛くない。

 ……本当に?

 待てよ。

 動かないだけで、痛いと思ってないとは、限らない。ベルナも、時々、お腹が痛くても我慢する事がある。だって、お腹が痛いと言うと、大人たちが嫌な顔をする事があったから。特に父は。父はベルナがそういう事を言うと、酷く面倒臭そうな顔をする。

 ベルナはその顔を見るのが嫌だった。

 だから、ベルナは父には、お腹が痛くても痛いと言わなくなった。言えなかった。嫌な顔をされたくないから。

 本当は、痛かったのに。


 もしかして、それと同じだとしたら?


 ヌイグルミは動かない。喋れない。だから、痛くても痛がれないだけなのでは?

 もしかして、セレーネはそういう意味で言ってる?


 その事に気づき、ベルナは地面が揺れる程のショックを受けた。

 考えた事もなかった。ヌイグルミが痛みを感じてるなんて。

「……ヌイグルミも、いたいの……?」

 ヌイグルミを抱き締める腕が震える。我慢したくても震えは止まるどころか、更に強くなる。

 不安になってセレーネを見上げると、セレーネは眉毛を下げてベルナを見ていた。

「分かりません。モチモチさんはヌイグルミなので、動けないし喋れませんので。

 痛くないかもしれないですが、もしかしたら、痛いかもしれない。

 そう思いませんか?」

 セレーネにそうゆっくりと問われ、ベルナはコクンと頷いた。ベルナには分からない、このモチモチさんと呼ばれているヌイグルミが痛いかどうか。それは事実だ。

 もしかしたら、セレーネの言うとおり、ヌイグルミは痛みを感じているかもしれない。

 不安になってセレーネを見上げると、セレーネは笑顔だった。

 その横で、顔を涙と鼻水でベタベタグチャグチャにしたアティが、ブンブンと首を縦に振っている。


「痛くなかったら『痛くなかったなら良かった』で済みますが、もし痛いなら手当てしてあげないと。私はそう思うのですが、ベルナはどう思いますか?」

 セレーネが、そう言いながらヌイグルミの頭を優しく撫でる。

「ベルナも……ケガ、なおして、あげたい……」

 そうだ。

 痛くないならいいとしても、もし痛みを感じてるとしたら。腕が取れたら大問題だ。ヌイグルミ──モチモチさんは、ただ痛い痛いと叫べないだけなのかもしれないし。

 でも……

「でも、ヌイグルミ、ケガ、なおらない……」

 どうしよう。

 生き物なら、傷はそのうちカサブタになって、それが剥がれると傷が消えるが、ヌイグルミはそうはいかない。

 傷が消えない限り痛みを感じてるとしたら、ヌイグルミには痛みが永遠に続く事になる。

 そんなの可哀想。どうしたいいのだろうか?

 その事が途端に怖くなり、ベルナはお腹がギュウッと痛くなった。

「……多分、ですが。元のように綺麗に縫い合わせてあげたら、もしかしたらそれで痛みが消えるかもしれません。

 ヌイグルミには、それが『手当て』になると、私はそう思っています」

 セレーネが、サワリと頭を優しく撫でる。

 すると、何故かベルナのお腹の痛みが溶けるように消えた。


 セレーネは立ち上がると、フンスと得意げに胸を張る。

「そしてウチには、モチモチさんを綺麗に治せる人がいます!」

「ニコラ!!!」

 セレーネの言葉に、若干被せ気味にアティがそう叫んだ。

 ニコラ? ああ、アティのそばにいる、あの女の子だ。いや、男の子だったか? 忘れた。優しくって、時々ちょっと乱暴な言葉遣いになる、あの子の事だ。


 アティはハンカチで顔をグシグシ拭いた後、それをポッケに押し込む。

 そして、その手をベルナに向かって腕を突き出してきた。もう片方の腕には、しっかりとモチモチさんの腕を抱き締めて。

「いこう! ニコラになおしてもらおう!」

 突き出されたアティの手を、恐る恐る掴む。

 すると、グンっと凄い力で引っ張られた。

 凄い力だ。そりゃモチモチさんの腕も取れるわ。

 ベルナはアティと一緒に走りながら、ふとそんな事を思った。


「アティ! ベルナ! 廊下は歩きましょう! ニコラは逃げませんから!」

 そんなセレーネの声が後ろから聞こえたが、ベルナは止まらなかった。

 だって、モチモチさんは、腕をもがれて痛いかもしれない! なら早く治してあげないと!!


 ベルナは、モチモチさんを落とさないようにしっかりと腕に抱き締めて、アティと二人でニコラを探して廊下をひた走るのだった。

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