【ある日の侯爵家の出来事】ゼノと彫刻刀と。
ゼノは、どうしたらいいのかと途方に暮れた。
アティが
「ゼノ、ズルイ!」
アティが下唇を突き出して文句を言う。
「アティ、たぶん、『ズルイ』じゃなくて『うらやましい』だと思うよ……」
「ゼノ、うらましい!!」
「……間違ってるけど間違ってないよね、たぶん……」
ホント、こういう時はどうしたらいいんだ。
ゼノは、自分の頭上の高さまで上げた彫刻刀に視線を向け、ハァとため息をついた。
自分の部屋で石鹸にカービングをしているところにアティが遊びに来て、広げられた彫刻刀に手を伸ばしたので、慌てて取り上げたのだ。
危ないから。
多分、大人の監視のない所で、刃物に触らせてはダメだろう。特に、彫刻刀は危ない。
ゼノも過去、手を滑らせて落とし、足にブッ刺した事がある。
足に心臓が出来たのかと思うぐらいドクドクと熱い痛みを感じたのを、ゼノは忘れていない。
でも、アティにはまだ分からないんだろうなぁ。刃物の痛み。痛みが鋭くて熱い。転んで膝を擦りむいた時や、どこかにぶつけた時とは根本的に違う、あの痛み。
可能なら、あんな痛みをアティには知って欲しくない。
でも、知らないから触りたがる。
運悪く、今ここには
なんでこんな時に限って大人がいないんだ。
どうしたいいんだよ全くもう。
ゼノは大きなため息をついた。
コレが弟だったら──
ゼノは、メルクーリの屋敷にいた時の事を思い出す。
あの、傍若無人な弟の顔が、ボンヤリと脳裏に浮かんで来た。
弟とは年子だ。
だからなのかもしれないけれど、弟はゼノと大して身長に違いはない。
ゼノは痩せててチビだ。肋骨も浮いてる。
弟はふっくらしてて全体的に大きい。
そして、弟の方が力がある。
何度、弟に力負けしたことか。
しかも。
何故か、弟はゼノが持っている物を欲しがった。同じ物を持っているのに。いや、時には自分のよりも良い物を持っている事も。
彫刻刀だってそうだ。弟は新品ピカピカ。自分が持っているのは、父がもう使わないからとくれたものだ。手入れが悪かったのか、刃が錆びていたし柄もくすんで色が変わっていた。メルクーリ御用達の鍛冶屋にお願いして、研ぎ直してもらったぐらいだ。滑らないように柄に革や紐を撒いたりして、自分で頑張って使いやすくしたのに。
弟はそれを欲しがった。
他にも。玩具やペンなど様々な物を。
何故か弟は自分のがあるのに僕の物を欲しがるんだろう。
ゼノは、ふと思い出す。
ある時、初めて欲しいと言って買ってもらった羽ペンがあった。
茶色の縞模様で美しかった。
大切に大切に使っていたのに。
弟に取られた。
いや、正確に言うと、使ってみたいと言うので、ゼノが貸したのだ。
……羽を折られて羽毛がボロボロの状態で戻って来た時には、この世の終わりだとゼノは絶望した。
しかも。
何故、物を大切にしないんだと、自分が怒られた。
壊したのは……弟なのに。
でも、ゼノは反論しなかった。
どうせ言ったところで『言い訳するな』とか『男なら我慢しろ』『兄なら我慢しろ』と言われるだけだし。
その事を思い出し──ゼノは肚の底にドンヨリとした気持ちが溜まるのを感じた。
アティも、そうなのだろうか。
アティも、僕のものを欲しがるんだろうか。
アティの方が、たくさん、良い物を持ってるのに。
アティは周りに愛されてる。
セレーネはアティを溺愛してるし、ツァニス侯爵もアティを見る目が優しい。
子守のマギーは甲斐甲斐しくアティの世話をしているし、家庭教師のサミュエルもアティを陰ながらサポートしてくれている。
アティが──羨ましい。
僕は、メルクーリからも両親からも、伯父からも離れて、一人で、こんな所にいるのに。
僕は……やっぱり、いらない子だったのかな……
「あれ? アティ、ゼノの部屋で何しているの?」
そんな声に、ゼノはハッと我に返る。
すると、開け放たれたドアの所に、セレーネが立っていた。
セレーネの存在に気づいたアティは、グルリと身体を翻して、プンスカと声を荒らげる。
「ゼノがズルイの!」
「アティ、たぶん、それ、羨ましい、じゃないの?」
アティの言葉を、即座に言い直すセレーネ。
「ゼノ、うらましいの!」
「惜しい。う・ら・や・ま・し・い」
「うらやましい!」
「正解」
そこまで言うと、セレーネは膝を折ってアティに視線を合わせる。
そういえば、セレーネはアティと話をする時、いつも膝を床について視線を合わせる。
──ああ、そういえば、伯父も自分と話す時はいつもそうしてくれていたなぁ。
「ああ、彫刻刀に触ろうとしたのね」
セレーネが、アティの次に自分へ、そして自分が持つ彫刻刀に視線を向けて、そう笑う。
ゼノはドキリとした。
『アティに貸してあげて』
セレーネの口から、そんな言葉が出てくるのではないかと思って。
ボロボロになって返って来た、
その無残な姿が脳裏に浮かぶ。
アティに貸して、もしアティが怪我をしたら。
自分が怒られる。
ゼノは、ゴクリと喉を鳴らした。
「アレはゼノの物だから、勝手に触ってはいけませんよ」
セレーネの口からこぼれた言葉に、ゼノは目を見開いた。
「でも! アティもやりたい!」
それでもアティは
すると、セレーネはクシャリと顔を歪ませた。
「アティ。石鹸が素晴らしい形になるのは、彫刻刀のおかげではなく、ゼノが彫っているからだよ」
続くセレーネの言葉に、ゼノは言葉を失った。
「……そうなの?」
アティは振り向いて、ゼノと彫刻刀、そして床に置いた彫り途中の石鹸に順々に視線を向ける。
「ゼノがほると、せっけん、かわいくなるの?」
アティが小首を傾げて、ゼノにそう質問してきた。
ゼノは何と答えたらいいのか分からず、曖昧に笑う。
しかし、サポートを入れてくるかと思ったセレーネは、口を閉じてニコニコして自分を見ているだけだと気づいた。
アティも、
「……そうだよ」
そう答えたものの、自分でもなんだか気恥ずかしくなってしまい、顔が熱くなるのを感じた。
「そっかぁ」
ゼノの返事を聞いて、アティはさっきまでのブッチャイクさを微塵も感じさせない、朗らかで可愛らしい笑みを顔に浮かべた。
「すごいねぇ」
何故、アティが嬉しそうにするのか、ゼノには分からなかった。
「本当にね。ゼノはとっても器用だよね。何でも素晴らしい物にしてしまう。凄い才能ね」
セレーネもニコニコとしてそう言った。
──その瞬間。
ゼノの脳内で、何かがパチリとハマった気がした。
そうか。
弟が欲しがったのは……物そのものじゃないんだ。
自分が作り出すモノが欲しかったのか。
羽ペンもそう、彫刻刀もそう。
ゼノが生み出す物を自分も作り出したくて、弟はゼノの使っている道具を欲しがったのか。
だから、同じ物やもっと素晴らしい物を持っているのに、ゼノの道具を欲しがったのか。
物を生み出しているのは、道具ではなく、使用者自身なのに。
つまり。
弟が欲しがっていたのは、物ではなく、ゼノが持つ才能──
それに気づいた瞬間、ゼノの目の前が明るく開けたような気がした。
「アティにもできる?」
アティは、再度小首を傾げてゼノの事を見上げて尋ねて来た。
ゼノはどう応えたものかと思い、セレーネの方を見る。
しかし、セレーネはニコニコしたままで何も言わなかった。
「……たぶん。練習すれば」
ゼノはたどたどしく、そう答えた。その瞬間、アティの顔が、まるで花が花弁を広げたかのように綻んだ。嬉しそうな笑顔。
「どうやってれんしゅうすればいいの?」
ニッコニコのアティ。そう問われて、ゼノは彫刻刀を使い始めた時の事を思い出す。
……何度指を削ったか分からない。
そんな危険な練習を、まだ四・五歳のアティにさせるワケにはいかない。
どうしたものか。
ゼノは困ってしまい、アティと彫刻刀を交互に見つめた。
「ふむ。まずは、粘土とヘラを使うといいかもしれないですね」
そんな助け船が、セレーネから出される。
「固い物を彫るので、彫刻刀のような鋭さが必要になるんですよね。柔らかい物からやっていけば、使い方を学べそうではないですか?」
そう言うセレーネの目は、アティではなくゼノへと向けられていた。
あ、これは、もしかして、尋ねられてる?
ゼノはコックリと頷いた。
「うん。僕もそう思う」
そう答えると、アティはちょっと飛び上がった。え、なんで? ゼノはアティの動きに驚いた。
「ねんどほしい!」
アティはその場で小さく屈伸運動しながら、ゼノの事を見上げてくる。
いや、自分にそう言われても困るよ。粘土、持ってないし。
ゼノは困って再度セレーネを見た。
すると、立ち上がったセレーネがアティの頭を優しく撫でる。
「それでは、サミュエルに聞いてみましょうか」
こう答えたセレーネに、アティはまたちょっと飛び上がった。
そしてクルリと身体を返すと
「サミュエルー!」
そう家庭教師の名前を呼びながら、パタパタという足音を立てて部屋を出て行ってしまった。
地団駄踏んであんなに怒っていたアティが。
すぐに笑顔になった。
ゼノは彫刻刀を机の上に置きながら、ふと思う。
セレーネ様は凄い。アティをすぐに説得できてしまう。
僕にはできない。
僕には──
「ありがとうございます、ゼノ」
そんな声が頭上から降って来て、ゼノは驚いて顔を上げた。
すると、腰を少し折って視線を合わせに来ていたセレーネの顔がすぐ近くにあった。
セレーネの顔が近くにあったこと、そして、何故お礼を言われたのか分からず、ゼノは目を白黒させた。
「な……なにが……?」
なんとか絞り出せたゼノの言葉に、セレーネはニッコリとほほ笑んだ。
「アティが色々な事に興味を持ってくれるのは、ゼノがいてくれるからですよ」
答えたセレーネの言葉の意味がすぐには分からず、固まってしまった。
「ゼノが沢山、色々な事ができるので、アティはそれが羨ましくって、自分でも色々したくなるんです。ウチへ来てくれて、本当にありがとう。ゼノ」
そう言うセレーネの手が、自分の髪へと伸びてくる。
優しい手がゼノの頭をサワリと撫でた。
その瞬間。
その言葉を聞いた瞬間。
ゼノは、肚の底に溜まった淀みが、ふと消えて、全身が軽くなったのを感じた。
了
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