彼蓮

茅野あした

第1話

 爽やかな朝の光は、紗幕を通して甘やかに霞んでみえた。ゆったりと身体を起こせば蔦のようにからまっていた髪が、枯れたそれのようにばらばらと宙をかすめた。持ち上げられた棺の蓋から差し込むような一筋に目をすがめて、ひんやりとしたフローリングに足を下ろす。

 枕元の一輪挿しから蓮を抜き取る。茎には露が光のようにゆれている。一輪挿しはこの花のためだけのものだ。一輪挿しの僕の心も、人ひとり分の孔が開いている。それをうずめるための花はとっくに散らしたから、僕の心は埋葬されることがない。

 雫がしたたって、床に灰色の円を描いた。

 蓮は豪奢で、そして可憐だった。

 キッチンの戸棚から、手頃な器を見つくろう。並んでいた小瓶のひとつに水を注ぐ。それを手にしてふたたび寝室の扉を開けた。蓮の花の匂いが鼻をかすめた。はっきりと清しいのにどこかこの世のものでないような、夢の匂い。新鮮な水に蓮を挿し直す。

 仄かに青白い光を放つかんばせを思い出す。

 石膏の胸像トルソーのように動かなくなった、灰色の。

 夢だったのかもしれない、と思う。あの日々は夢で、この蓮は夢から持ち帰った唯一の形見だと。ならば、とんだ悪夢だ。

 握った一輪挿しをみる。その中身を、一息に呷った。毒を呑むように。

 若い娘の頬みたくうっすらと朱に染まった液体からは、鉄錆の苦い味がした。

 手から空になった杯が滑りおちる。硬質な尾を引いて床に触れた一輪挿しは、軽やかな金属音をたてて砕けた。粉々になって銀色の火花のようにぴかりと閃くそのうちのひとつに手を伸ばす。

 それを右手に持ち、十重二十重に連なった層の、牡丹の花弁のような手首に薄く切り込みを入れれば、蓮より赤い花が咲いた。蓮を活けたばかりの水にそれを一滴垂らせば、絵具がとけるのと同じはやさで厚い瓶底に沈んでいった。

 木目模様の床に散りばめられた星のような破片がゆがんだ僕の顔をうつす。黒い瞳が、呪いの虚像を結ぶ。

 一度目を閉じて、目蓋の裏に、蓮をみた。ぼんやりとした視界のなかで、蓮の茎だけが、まぶしくあざやかな瞳のように目を射った。

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彼蓮 茅野あした @tomorrowchino

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