父のカレーライス

雨弓いな

父のカレーライス

 私には、家庭の味の記憶がない。

 私が二歳の時に父親が蒸発してからというもの、母が女手一つで私を育てるため、いくつものパートを掛け持ちしており、家には常に私一人だった。

 幼稚園に通っていた折も、いつもお迎えに来るのは母が最後だった。そんな時私は、いつも一人ぼっちでお絵描きをして母が迎えに来てくれるのを待っていた。いつか、父と同じように母も消えてしまうのではないか、自分に愛想をつかして二度と迎えに来てくれないのではないか、そう考えることも多く、そのたびに泣きわめいては先生を困らせていたという。それでも母は、約束の時間に遅れはするものの、ちゃんと毎日迎えに来てくれた。

 私の毎日の食事は、朝食には賞味期限の切れた食パン一枚、昼食と夕食は、いつも母のパート先のスーパーマーケットで売っている総菜や弁当の売れ残りと決まっていた。だから、総菜の味が、そのまま母の味だった。

 時には幼稚園の先生が、「総菜ばかりでは栄養が偏る」と母を叱ることもあったが、いつまでたっても総菜のままであった。時給八百円のレジのパートだけでは生活することができず、夜にも清掃の仕事をしていたため、食事を作っている時間などなかったのである。


 そんな私にも、ただ一つだけ家庭の味の記憶がある。母が一時期付き合っていた彼氏とともに作った、カレーライスだ。

 その彼氏(名前は忘れてしまった)は、他の男たちとは違い、私とも積極的に仲良くなろうと努力していた。今にして思えば、母との結婚を真剣に考えて付き合っていたのは、きっと彼だけだったのであろう。

 ある日、彼は母の勤めるスーパーマーケットのビニール袋を下げ、嬉しそうに我が家を訪ねてきた。

「美緒ちゃん、材料買ってきたよ。一緒に作ろう」

 そういうと彼は、ニンジンやジャガイモ、玉ねぎ、鶏肉をテーブルの上に並べ始めた。カレールーは市販のものだが、小学二年生の私の好みに合わせてだろう、甘口を買ってきていた。

「美緒ちゃんは、カレーって食べたことある?」

「うん。給食でたまに出てくるよ」

「好き?」

「大好き!」

 私は、この彼氏の優しいところが誰よりも大好きであった。誰よりも母を大切に思い、娘である私のこともとても気にかけてくれていた。土日も母が家にいなくて総菜ばかり食べさせられている私の様子を見て、一緒にカレーを作ろうと持ち掛けてくれたのだ。


 彼は普段全く料理をしないらしく、手つきはおぼつかなかった。

「まずは、野菜を洗って、皮をむくんだよ。あれ、ピーラーがないなあ」

 料理をほとんどしない家庭であるため、調理器具は鍋や包丁、まな板など最低限しかなかった。

「しかたない、包丁で皮をむこう。手を切らないように気を付けないとね」

 そうして二人で試行錯誤しながらカレーを作った。

 完成したカレーは、野菜はところどころ皮が残っていて、子供の私の口には大きすぎるサイズだったし、鶏肉なんか唐揚げ用に売っているサイズそのまま入れたから、やはりこちらも大きすぎた。炊飯器もないので、ご飯はレトルトのものだった。それでも、給食で食べるカレーより、母が買ってくるどんな総菜よりも、そのカレーはおいしかった。


 それからしばらくして、母はその彼氏とは別れてしまったらしく、彼はうちを訪ねてこなくなった。いつまでも結婚に踏み切らない母と、けんか別れをしてしまったらしい。母は、彼のことは忘れなさいといったが、彼と一緒に作ったカレーの味は生涯忘れることはないだろう。


 そして現在、私はカレーライスを自分の子供たちに作っている。私が知る、唯一の家庭の味、父の味だ。私は、きっと当時よりも料理は上達しているだろう。だがしかし、あの時のカレーライスの味を超える料理を作ることはできない。

 あの彼氏は、たった一時、ほんの短い期間の間だけであったが、まぎれもなく家族であった。

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