未来
瞳が分娩のために産婦人科に入院したのは、丁度GWが終わった頃で、俺の方も大学の授業が再開される頃合いだった。
講義を受けている気分にもならなかったが、瞳から高い授業料払ってもらっているのに、単位落としたらどうするの、と怒られ、悶々としながら講義に耳を傾けているのだった。
ただ、こうしてのんびりと授業を受けている時間は、まもなく始まる瞳と我が子との忙しない生活の前の最後の暇のような気がして、それはそれで惜しい気持ちがあるのは確かだった。
文化祭が終わって、彼女の意思を尊重し、子供を産むと決めたあの日から、もうまもなく七か月が経とうとしている。
決断する辛さを知って、でも決断することで得られる幸福を知って、俺は彼女や親に申し訳ないと思いつつ、大学進学の希望を持ちかけた。
理由は、
『大卒の方が出世しやすく、稼ぎも増える可能性があるから』
そういうものだった。
親も瞳も、特に渋ることなく俺の願いを聞き入れてくれた。
『ケンちゃん、浮気したら、あたし死ぬから』
嘘だった。
俺が瞳の意思を尊重した頃から、瞳は俺を束縛したがった。彼女はとにかく、病みの顔を見せては俺を脅迫してくるのだ。
まったく彼女は、大学と言う場所が学びの場所だということを知らないのだろうか。
時々、そういう不安を覚える。
だけど確かに、この大学の学生もちょいちょいここを学びの場だと思っていない連中もいるから、もしかしたら瞳の言うことは的を射ていたのではと最近では思うようになっていた。
まあとにかく、好いた可愛い彼女に束縛される分には、嫌な気持ちはあまりしなかった。
そんなわけで、今日も元気に講義を受けている中、唐突にスマホが鳴った。
周囲の視線がこちらに向く中、俺は呑気に誰のスマホが鳴っているのだろうとぼんやりと教壇を眺めているのだった。
「……志村君、鳴ってるわよ」
「え」
同じ大学に進学した澪ちゃんに言われた。慌ててポケットに入れたスマホを見れば、電話の相手は親だった。
まさか……!
「行ったら」
「あわわわわ」
「もう、ほら。行きなさい」
慌てている中、澪ちゃんに背中を押され、後部の扉から講義室を飛び出した。
まもなく、思考がまとまった頃に電話を取った。
『もしもし、早く病院来なさい』
母の声は、どこか軽かった。
『瞳ちゃん、ケンちゃんケンちゃーんって泣いているよ』
「あわわわわ」
慌てた俺は、電話を切って大学を飛び出した。駅までの道を、全力疾走で駆けた。まもなく夏を迎える暑い気候の中、汗も気にすることなく走り続けた。
空は、晴れ渡る快晴だった。
いつもなら視界の中にも残らないような天気のことも、今はどうしてか脳裏に鮮明に刻まれた気がした。
愛する我が子を迎えるこの素晴らしき日のこの快晴。
多分、一生忘れられる気がしなかった。
「瞳っ」
分娩室に飛び込むと、苦痛に滲む瞳の声が聞こえてきた。
「瞳……」
「あ、ケンちゃん」
汗いっぱい掻いた瞳が、ベッドの手すりを握りながら踏ん張っていた。こちらに気付くと、そんな中でも懸命な微笑みを見せてくれた。
少しだけ、泣きそうだった。
「はい」
「はい?」
しかし、そんな感傷的になる俺に彼女が手渡したものは、カメラだった。
「視聴者さんに産んでる時の姿絶対見せるって約束したんだけどさ。皆カメラ撮るの下手で」
もしや、それで急がされたのだろうか。
百年の恋も冷めそうな状況に、俺は目を細めた。
「ごめんって。でも、そろそろあたしも初めての分娩で不安なんですってコメントもらったら、応援したくなるじゃない」
「お前は少しは自分の心配をしろ」
「あいたっ」
「ちょっとお父さん、妊婦の頭を小突かないでください」
「……ごめんなさい」
俺、悪いことしていないと思うんだけど。
まあとにかく、彼女のことを日々応援してくれる視聴者さんの応援のためなら仕方ない。俺がカメラを回すと、瞳は再び分娩に集中しだした。
「……気分はどう?」
「すっごい痛いっ!」
最近、彼女の動画配信の手伝いをする機会が増えた。
彼女のチャンネルの登録者数とかは、順調に増えている。一世一代の大勝負を前に、銀の盾を公式さんからもらったくらいだ。
最初は彼女が見世物になっている状況は耐え難かったが……好意的なコメントの多くに胸打たれ、今ではだいぶその界隈への認識も改められた気がする。
決断する怖さを知って。
自分の独りよがりの感情も知って。
偏見渦巻く自分の視界にも、最近俺は気付き始めたのかもしれない。
一つ一つ、自分の凝り固まった視界をほぐしながら、成長を続けている。
無力さに苛まれる時だって少なくない。
悩むことだって、まだまだたくさんある。
だけど、こうして悩み、苦悶し、知っていき、気付いていき。
そうして人は、大人になっていくのだろうと思った。
分娩室の窓から青空が覗けた。
雲が自由に空を泳いでいた。
さっき走っている時から思っていた。
いつも見ているようなこの青空に、今俺は初めて……生まれて初めて、心打たれていた。
愛する人を迎えるこの日の光景に。
自分が選び、決断してきた結果のこの光景に。
祝福してくれているような、あの大空に。
俺は……一足早く、泣きたい気分になっていた。
「ありがとう」
「何改まってるのさー!」
彼女の叫び声がおかしくて、俺は笑った。
これから彼女と……生まれる我が子と、三人で歩んでいく。
両親のフォローもあるが……困難は尽きないだろう。
だけど、多分それだって乗り越えていけるような気がした。
一度きりの三人で歩む人生に……どんな困難だって、立ち向かえる気がしたんだ。
辛い決断を強いられる時もあるかもしれない。
責任を取らなければならない時もあるかもしれない。
いつかは別れなければならないかもしれない。
だけど、きっとそれ以上のかけがえのない何かを掴んでいけるだろう。
……選ぶことは。
時に拍子抜けするような些細なことだってことを知っていた。
だけど、多分目の前に転がる道が、そんな平坦で楽な道であることは滅多にない。
選ぶことは、痛みを伴うんだと言うことを俺は知っていた。
痛くて痛くて……思わず躊躇いそうになるくらい、痛いんだと知った。
でも、それでも選んだ先にあるこの幸福の時間のためなら……何度だって俺は、選んでいけるだろうと思った。
彼女のため。
我が子のため。
もう後悔しないように、選んでいけるだろうと思った。
産声が、分娩室に響き渡った。
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