正しくない選択

 瞳を抱きしめる腕に力が入った。こんなにもか細い体なのに、彼女はまもなく母になる。その事実に違和感と……そして、後悔を覚えていたんだと思う。


「ケンちゃん、満足したから聞くね?」


「……うん」


「どういう風の吹き回し?」


「……ずっと悩んでいたんだ」


 瞳から見ても、おかしいと思ったのだろう。

 学校をサボっていきなり押しかけてきて、俺は今、瞳に自分の気持ちを伝えた。彼女の立場からしたら、俺の行為が奇行に見えてしょうがなかっただろう。


 だから俺は、彼女への好意と……胸に秘める未来への話を切り出した。


「ずっと、さ。学校が辛いんだよ」


「どうして?」


 瞳の声は、今まで聞いたことがないような優しい声だった。


「瞳がいないから」


「……そう」


「俺達、いつも一緒にいたよな」


 死ぬ時、死を覚悟するほどの窮地に立たされた時、人は走馬灯を見ると言う。今俺は、一体どうして走馬灯を見ているのだろう。

 彼女と過ごしてきたこれまでの思い出が、どうして脳裏を過り続けるのだろう。


「小さい頃から、俺の人生の中心にはいつだってお前がいた。お前が微笑むだけで心が安らげたし、お前が泣けばどうしようもなく狼狽えていた。

 だけど、まだまだ未熟者な俺は自分のこの気持ちの正体を中々気付けずにいたんだ。

 それでもほぼ答え合わせのようにお前と一緒に生きてきた。これまでの十八年間、俺の中心にはお前がずっといたんだよ、瞳。


 お前はいつだって、俺の傍にいてくれた。いつも……快活そうな、まるで向日葵のような晴れ晴れとした笑顔で、俺の心を満たしてくれた。お前の笑顔を見る度、俺は心の奥底から自分の気持ちが晴れていくのがわかったんだ。お前の笑顔は、俺にとっては精神安定剤のようなものだったんだ」


「なんだか恥ずかしいね」


「……お前が妊娠したと知った時。誰かと子を成したと知った時、俺は初めてお前への気持ちを理解した」


「うん」


「相手が俺と知った時、驚いたし、ちょっとムカついたし、幸先に不安も覚えた。

 ……だけど、嬉しかったんだ。お前と結ばれたことが、嬉しかったんだ」


 再び、涙が出そうだった。あの日から俺の人生は、一変したように思えた。辛い日々ばかりで、悩む日々ばかりで、それでも進んでいかなければならない。自分の駄目なところを見つめなおして、成長しなければいけない日々は、辛い以外の感情は湧かなかった。

 でも、そんな日々も瞳がいたから……だから、多分乗り越えられたんだ。


 なんとか涙を堪えて、俺は続けた。


「お前のことが好きなんだ」


「うん。ありがとう」


「お前ともっと、いっぱい色んなことをしたいんだ」


「例えば?」


「一緒にデートに行きたい」


「他には?」


「もっと色んな話をしたい」


「……うん」


「……一緒に、学校に通いたい。一緒に高校を卒業したい。卒業までの時間を、一緒に過ごして、もっと色んな思い出を作りたい」


「……それは」


「一度っきりなんだぞっ」


 俺は叫んだ。


「長い人生で高校生活は、たった三年間だけで一度きりなんだぞ。お前と一緒に高校生活を過ごせる機会は、たった一度しかないんだ。一度しかないんだよっ!」


 瞳は俺の言いたいことを悟ったのか、それ以上言葉を投げかけてこようとしなかった。


「……一緒に卒業しようよ」


 俺は、嗚咽交じりに言った。


「一緒に卒業しよう。一緒に学校生活を過ごそう。一緒に……一緒に、もっとたくさん、あそこで思い出を作ろう。今しか出来ないんだよ。学校でお前との思い出を作れる時間は……今しかないんだよ」


 良心の呵責のような物が、警告を鳴らしていた。

 それ以上は言うなと叫んでいた。


 だけど俺は、もう止まらなかった。


 俺は決断すると決めたから。

 正しかろうが正しくなかろうが、決断すると、決めたから。


「……堕ろそう」


 瞳が息を飲み込むのがわかった。


「その子を、堕ろそう。堕ろして、また学校に通おう。まだ間に合う。手続きが済んでいない今なら、まだ間に合う。だから……」


 だから、一緒に卒業しよう。

 多分、楽な道ではないだろう。退学寸前だった現状から、再び通学するように申請するのは楽ではないだろうし、周囲の目もあるだろうし、何より復帰しても、一緒に卒業出来るかなんてわからない。


 でもそれだったら、俺だって一年留年してやる。


 だから……。

 だから、その子を堕ろして、もう一度一緒に……。


「あたしは、責任を取らないといけない」






「責任だったら俺も取るっ!!!」





 彼女を抱きしめながら、俺は声を荒げた。

 いつか、母は責任は自分達が取るから、俺に自由にしろと言ってきた。


 子供は責任から逃れる術がある。

 大人に全てを委ねて、逃げる術が存在する。


 でも、そんなことに頼れない。頼れるはずがない。


 だって、彼女が暴走し、子を成したのは俺のせいでもある。


 それに……。

 それに、それに……!


「その子は……俺の子でもあるんだよっ」


 自分の子のことなのに、判断を委ねる、責任を取らない親がどこにいる。

 母が俺に責任は取るからと言ったように。

 瞳が自分の犯した過ちの責任を取ろうとするように。


 俺が責任を取らない理由が……どこにある。


「俺の子なんだよ……。俺の子なんだよぉ……」


 再び、俺は泣いていた。


 自分の選んだ選択が正しいとは思っていなかった。

 瞳のお腹の子だって、本来であれば喜ばれるべく授かった命。

 そんな尊い命を、自分のエゴのために殺そうとする選択肢が、正しいと思えるはずがなかった。


 だけど、どれだけ辛かろうと、惨かろうと、最低な行いであろうと……。


「俺は、お前と一緒に色んなことをしたいんだっ」


 ……だから。


「だからっ。だからぁ……」


 涙をすすって、続けた。




「その子を堕ろそう。責任は俺だって取る。だから、一緒にいてくれ。一緒に……色んな思い出を築かせてくれ」




 瞳は、困ったように苦笑していた。

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