青い向日葵
向
第1話
溶けるような夏の夕暮れ。辺り一面に咲いている向日葵。しかしその花びらは青く西日に照らされて、気味が悪い。しかしその青さは幻想的な美しさも兼ね備えている。僕がこの向日葵畑で目を覚ました時、なぜ自分がここに居るのかわからなかった。唯一分かっていることといえば……。そうだ、僕は何かを探している。靄だらけの頭の中でそれだけこがはっきりしているように感じられた。ただ肝心の探し物が思い出せない。ひとまずここから出ようと立ち上がると、向日葵の中に誰かがいるのに気づいた。セーラー服を着た少女のようだ。年は僕と同じくらいだろうか。僕は精一杯声を絞り出して呼びかけようとするがうまく声が出せない。
「……ね、ねえ!」
やっとの思いで絞り出した僕の声は彼女に届いたようだ。彼女が後ろを振り向こうとした瞬間、僕の視界に見慣れた景色が飛び込んだ。
またこの夢だ。今回で四回目くらいだろうか。僕には何度も見る夢がある。初めてこの夢を見たのは中学三年生の時。受験勉強のストレスでおかしな夢でも見たのだと思ったが、高校生になってからも同じ夢を見るので一度何かを意味があるのではないかと思い、ネットで検索したが胡散臭い夢占いサイトしかヒットせず結局何もわからないまま放置していた。しかし今日再びこの夢を見たということは、やはりあの夢に何かあるということなのだろうか。あの少女はいったい誰なのか。そして僕は夢の中でいったいいつも何を探しているのだろうか。
七月五日、月曜日。期末試験が終わりあとは夏休みを待つだけとなった初夏の日に彼女はやってきた。
「朝日渚です。よろしくお願いします。」
彼女は教壇の横でそれだけ言って軽く一礼した。肩くらいの黒髪に端正な顔立ち。その瞳は吸い込まれそうなくらい深くて美しい。
「綺麗な目……」
僕は自然と声に出していた。ハッと気づいてすぐに周りをみたが、よかった、誰にも聞かれていないようだ。どうしてこんなこと声に出したのだろう。僕は恥ずかしくなって、とっさに寝ているふりをした。こんな時期に転校生なんて珍しい。僕は顔を机に突っ伏したまま思った。彼女の席は僕の隣だった。彼女が席に着いたとき、腕の隙間から隣をちらっと見ると、彼女も僕の方を見ていた。いきなり目が合った僕は驚いて体を机から勢いよく離した。緊張して何も言えないまま固まっていると、彼女はニコッと目尻にしわを寄せた笑顔で言った。
「よろしくね。名前なんて言うの?」
「あ、林。林和人です。」
急に話しかけられて戸惑いを隠せず、ものすごく雑な自己紹介になってしまった。
「林和人くん。うん、覚えた。」
ドキッとしてしまった。女の子にフルネームというか下の名前を呼ばれたのなんていつぶりだろう。しかもこんなかわいい女の子に。美人な転校生なんて漫画か映画の中でしか見たことないのに、本当にいるんだなとか思った。
次の瞬間、僕の脳裏に何かが浮かんだ。ありえないはずのその言葉は気づいた時には、すでに口から出ていた。
「僕って前に君とどこかで会ったことある?」
「え、ないと思うけど……。どうして?」
「そ、そうだよね。……ごめん今のなしで。」
なんでこんな質問。彼女の顔を見たのも、声を聴いたのも確かに今が初めてだ。でも、僕は前にどこかで彼女に会ったことがあるような気がした。どこかで……。
休み時間になって彼女の周りにはクラスの女子が集まっていた。彼女は、女子たちの質問攻めにも笑顔で答えていた。そして、一週間たったころにはすっかりクラスに馴染んでいるようだった。
七月二十日。今日は終業式だ。じんわり暑い体育館で生活指導の田中先生が夏休み中のルールについて熱心に話しているようだが、明日から夏休みの僕らの耳には何も入ってこない。みんな、明日からの長いバカンスに胸を躍らせているに違いない。
「やっべえ。俺成績下がってた……」
渡された通知表を見て、そう嘆いているのは同じクラスの加藤彰だ。僕とは小学校の時からの幼馴染で、僕の一番の親友だ。おちゃらけた性格をしているが顔はそこそこかっこいい。
「和人は?どうだった、成績」
「んー、まあまあかな。彰と違ってまじめに勉強してたからね」
僕は彰の方を見てニヤッと笑った。
「うわ、こんにゃろう。憎たらしい奴め」
そう言いながら彰がヘッドロックをしてきたので、僕も負けじと応戦する。
「はい、そこ。座れー。まだ配るもんあるからなー」
担任の南野が僕たちの方を見て言うと、僕たちは周りにクスクスと笑われながら席に着いた。
配られたのは進路希望調査用紙だった。
「みんなももう二年生だ。そろそろ進路考えないと駄目だぞー。夏休み中に第三希望まで書いて提出すること。この夏休みにいっぱい悩んで考えるんだぞ。分かったなー」
言い方こそ緩かったが、先生の顔は真剣だった。僕たちの学校は一応県内では進学校の部類に入るので、ほぼ全員が大学に進学する。そのため、今のうちからしっかり考えておかないと大学受験は戦えないのだ、というようなことを学年集会のたびに進路担当教諭が口を酸っぱくして言っている。
「彰は行きたい大学とかあるの?」
帰り道、サイダーを飲みながら聞いてみた。
「んー、俺はやっぱりK大かな。あそこの法学部有名だし」
「将来検察官になりたいんだっけ」
「まあなー。なりたいっていうか、それ以外に大してキョーミあることがないっていうか……」
彰の父親は検察官で、はっきりとは言わないけど彰は父親に少なからず憧れているのだと思う。
「いいなあ。僕なんか文理すら決まってないのに」
「まあいいんじゃないの。夏休み中に考えればさ。ほら、先生も言ってたじゃん」
「それはそうだけどさあ……」
僕は正直焦っていた。これと言って得意なことも、時間を忘れて熱中できることもない。彰はもう将来やりたいことがはっきりしていて、僕なんかよりもずっと先を歩いているみたいだ。僕にはまだ五年後や十年後の自分がどうなっているのか、どうなっていて欲しいのか、想像がつかない。行きたい大学だって決まってないのに。大人になんてならずに、このままずっと高校生でいられたらどんなに楽だろうな、と、時々考えてしまう。まあ、こんなこと思うだけ無駄なのだけど。
夏休みのある日、僕はアイスを買いにコンビニに出かけた。コンビニに着いたとき、入口隣のベンチに見覚えのある顔が見えた。形のくっきりした横顔。そして、綺麗な黒髪の間からその大きな黒目が覗いている。間違いない。朝日渚だ。彼女は夏休みだというのに制服姿で汗をかきながらアイスをほおばっている。僕は正直家に引き返そうかと思った。こういうなんとなく気まずい状況は苦手だ。でも、僕がUターンするより先に彼女が僕に気づいてしまった。
「林くん……?やっぱり!林くん――!」
彼女は僕に大きく手を振っている。僕はめんどくさいと思いつつも少し嬉しい気持ちのまま彼女に話しかけた。
「朝日さん。久しぶり……。てか、なんで制服?」
「あー、今日面談でさ。今帰り。林くんは?もしかして林くんもアイス?」
「え、まあ、そんなところ」
「あ、ほんとに?じゃあ一緒に食べようよ」
「えっ、ああ、いいよ」
僕がそう言うと、彼女は嬉しそうににっこり笑った。その笑顔に不意にもどきっとする。僕は急いでコンビニに入った。
二人でアイスを食べながら途切れ途切れの会話を続けた。そもそも僕たちにこれといった共通の話題はない。アイスを食べ終わったとき、急に彼女が改まった口調で言った。
「実はちょっと相談したいことがあるの」
僕は静かにうなずいた。いったい何の話だろうと思っていると、彼女は僕の目をまっすぐに見て言った。
「私と一緒に家出してください!」
「え?」
僕は最初、聞き間違えたのだと思った。家出?一緒に?なんで僕と?あまりに聞きなれない言葉だったので僕はそれを脳みそで消化するのにしばらくの時間を要した。僕の何も理解していないまま固まった様子もお構いなしに彼女はもう一度はっきりと言った。
「一緒に来てほしい。林くんしかいないの。ダメかな……?」
「……い、いいよ」
彼女のまっすぐで深い瞳と、僕しかいないという言葉に半ば強制されて僕は断ることができなかった。
「ほんとに?じゃあ、行こ!」
「え!?家出って……今から?」
「家出って突発的にするものでしょう?」
「それは確かに……」
妙に納得してしまった。
「ほら、行くよ!」
そう言って彼女は僕の腕をつかんで走り出した。
「お、ちょ、本気!?」
「ほんき!!」
彼女は走りながら僕に振り向いて笑顔で言った。その笑顔を見て僕は不思議と安心してしまった。彼女とならどこへ行っても平気だと。なんとなくそう思った。
僕たちは駅まで走った。駅に着くころには二人とも汗だくで、息を切らしながら二人で笑った。
「実はね、目的地は決まってるの。林くん、電車賃ある?」
「うん、財布にsuica入ってるから」
「ならよかった。少しだけ遠いところに行くから」
僕は正直これから始まる冒険にワクワクしていた。家出なんて僕とは(というかほとんどの高校生にとって)無縁だと思っていたけど、まさか十七歳になって体験することになるとは。でも、どうして彼女は家出しようなんて思ったのだろうか。クラスでは明るくて普通の女の子って感じだし、学校のことで悩んでいるとは考えにくい。だとしたら、家で何か悩み事があるのだろうか……。ここまで考えて、これ以上考えるのは彼女にとても失礼なことのような気がして僕は考えるのをやめた。
電車を乗り継いで約一時間半。僕たちは海の見える小さな駅で降りた。日差しは電車に乗る前よりさらに強くなっていて、太陽の夏に対する強すぎるやる気が感じられるくらいだった。僕たちは二人ともお腹がペコペコだったので、まずは近くのファストフード店で昼食にすることにした。彼女はピクルス抜きのチーズバーガー、僕は普通のハンバーガーを注文した。食事中何を話したらいいのかわからなくて困ったが、彼女がとてもおいしそうにチーズバーガーを食べるのでどうでもよくなってつい笑ってしまった。
「なあに。人が食べてるところ見て笑って」
「いや、朝日さんがあまりにそうおいしそうに食べるから」
「ふーん。ならいいけど。あと、渚でいいよ」
そう言いながら彼女はコーラのストローをくわえて僕をじっと見た。意外と長い下まつげが彼女の大きな瞳をさらに強調している。
「ご、ごめん。じゃあ、渚ちゃんで……。あ、僕のことも下の名前でいいよ」
彼女は思ったよりもかなり強気な女の子なのかもしれない。あまりの展開の速さに忘れていたが、彼女は今日たまたま会っただけの僕を家出に誘って、実際に連れてきているのだ。学校ではまだ見たことのない彼女の一面に、驚きつつも、この非日常な状況に興奮している自分がいることも確かだった。
店を出た後、僕たちは海岸まで歩いた。夏休みシーズンだが、海水浴場としては利用されていないようで、僕たち以外には若いカップルが何組かいるだけだった。海は太陽の光を反射してキラキラと輝いている。まるで、宝石をちりばめた絨毯のように見えた。
「ここ?ついてきてほしかった場所って」
「うん、前に一度来たことがあってね」
そう言った彼女の瞳はどこか儚げで、どこか寂しそうな感じがした。僕たちは潮風を体の右側で感じながら海岸線沿いに歩いた。彼女が座ろうと言ったので、僕たちは道路につながる階段の部分で休むことにした。さっきまで近くにいたカップルはすっかり遠くに行ってしまって、ただ波が寄せては返す音だけが僕と彼女を包んでいた。映画とかでよく見る『世界で二人だけみたい』ってこういう時に言うのだろうか、とかどうでもいいことを考えた。
「暑いね。今にも溶けちゃいそう」
彼女はタオルで汗を拭きながら言った。
「だね。でも、潮風が気持ちいいよ」
「そうだね。私、海のにおい好きだなー」
彼女の黒髪が潮風になびく。さっきより少しだけ、彼女に元気がなさそうに見えた。
「……和人君はさ、聞かないの?私が家出した理由」
「気にならないって言ったらうそになるけど、僕から聞くのはなんか違う気がして」
「そっか……。やさしいね、和人くんは」
「え?そうでもないよ……」
「ううん。優しいよ君は」
二人の間に沈黙が流れた。僕は、この沈黙が嫌いではなかった。
「実はね……」
彼女は波音に合わせるように静かに話し始めた。
「私の両親離婚したの。転校してきたのもそれが理由。でも、私、お父さんとお母さんが離婚することなんとなく分かってた。分かっていたのに、止められなかった。子供の私が言うのも変だけど、私の両親ほんっとに仲良しだったんだ。私や弟の前ではいつも通り普通のお父さんとお母さんでいてくれたけど、そんなの気づかないわけないよ。でも、子供っていやだよね、本当のことを分かっていても、それを受け入れたくないから知らないフリしちゃうんだ。結局『家族』っていう劇団の一員になっちゃうんだね。私、ずっと後悔してる。どうしてあの時離婚してほしくないってひとこと言えなかったのかな」
「そうだったんだ……」
彼女の津波のような告白は僕に彼女へ対する一切の感情を持つ余裕を与えなかった。
「ごめん、急にこんな話。驚いたよね」
普段あんなに明るい彼女にこんな事情があったなんて驚きだが、僕はそれよりも彼女の話をもっと聞く必要があると思った。
「ううん、続けて」
「うん。それでね、どうして家出したかって言うと、明日お母さんに会うからなんだ。この海岸、前に一度だけ家族できたことがあってね、その時に四人で見た海がとってもきれいで。会う前にもう一度見ておきたかったの。そうしたら、素直な私でお母さんに会えるかなって。……でも、今になってなんだか怖くなってきちゃった」
そう言い終わった彼女の瞳からは静かに涙があふれていた。僕はとっさに彼女の手を握っていた。僕はただ海を見つめながら彼女の冷たい左手を握りしめた。なんだか僕まで泣きそうだった。彼女は僕の手を強く握り返して、ただ、静かに泣いた。このとき、彼女がどんな顔をしていたのかは分からなかったけど、少しだけ、分かるような気がした。彼女はありがとうと一言だけ言って涙をぬぐった。
僕たちは黙って海を後にした。夏の暑さにリタイアしかけていた僕はどこかで休もうと彼女に提案した。彼女が前にここへ来たとき、近くに駄菓子屋があったはずだと言うので僕たちはそこへ向かうことにした。小さな駄菓子屋で僕たちは懐かしい雰囲気のアイスバーを買った。アイスを食べながら僕は考えた。彼女がここに来るまで考えていたこと、彼女がここにきて考えたこと、そして、彼女が僕を誘った理由――。やはりこれだけが謎だった。でもそれを聞くのは今ではないような、もうすぐ分かるような、僕には不思議とそんな風に感じられた。アイスを食べ終わった後、駄菓子屋のおばあちゃんに道を教えてもらい、僕たちは再び歩き出した。
少し歩いて僕たちは道路の向こうに向日葵畑があるのに気付いた。僕は思わず足を止めた。
「行ってみる?」
ぼくが向日葵畑を見つめたまま突っ立っていると彼女がそう言ってくれた。
そこは静かな場所だった。辺り一面の向日葵という夏を体現した風景であるにもかかわらず、そこにはいやな暑苦しさはなく、むしろ妙な肌寒さが漂っているくらいであった。
「うわあ、綺麗だね」
太陽に向かってまっすぐ伸びる向日葵を見て彼女は目を輝かせて言った。彼女は走り出してどんどん向日葵畑の奥の方に入って行ってしまった。
僕は視界いっぱいに咲いたそれらを見てまるで大きな合唱団のようだと思った。太陽という指揮者にリードされて華やかなメロディーを精一杯歌っている。僕は彼らの歌を独り占めしている気分になった。
「おーい!和人くんもこっち来なよー!」
彼女がそう言って僕に大きく手を振ったとき、いきなり強風が吹いた。思わず彼女が後ろを向いたとき、僕の脳内は何かで覆いつくされた。これまでに何度も見たあの夢の中の景色と、今僕の脳みそが認識しているこの景色が一致した瞬間だった。このとき、僕の脳みそはその偶然の産物によって溶かされたに違いない。不思議なことに、僕の溶けた脳みそは黄色いはずのそれらを『青く』認識していた。次の瞬間生温かい何かが頬を伝った。どうやら僕はそのとき泣いていたらしい。彼女が再びこちらを向いたと同時に僕の視界は閉ざされた。
――なんだ、また夢か。でも今回はあの子の顔、見られたな。綺麗だったなあ。
「……くん!……和人くん!」
目を開けた瞬間、彼女の顔が目の前にあったので僕はびっくりしてしまった。
「うわあ!……あれ、なんで僕……」
「はあ、よかった。心配したのよ、和人くん急に倒れちゃって。熱中症かと思って焦ったけど、ただ寝ちゃっただけみたいだったから表の道にいた人に頼んでここまで運んでもらったの」
「そっか……。心配かけてごめん」
「なんで君が謝るのよ。とにかく無事でよかった」
「ありがとう。じゃあ、行こうか。大分遅くなっちゃったし」
「大丈夫?まだ少し休んでいてもいいよ」
「ううん、もう大丈夫。ほら、この通り」
僕は立ち上がって彼女に満面の笑みを向けた。
ふと、シャツの胸ポケットに何か入っていることに気が付いた。取り出してみると向日葵の花びらだった。その色は夢で見たのとまったく同じ青色だった。その青は海のように深く、少し彼女の瞳の奥の色に似ていた。
夢じゃなかったのか。じゃあ、あの少女はやっぱり……。
彼女に気づかれる前に僕はそれをポケットに戻し、僕たちは再び歩き出した。
彼女は僕が泣いていたことに気づいていたのだろうか。でも何も言ってこない。いや、たとえ気づいていたとしても彼女は何も言わないだろう。彼女はそういう人だ。今日一緒に過ごして、彼女の人間性というものに強く触れたからよくわかる。ちょっとおこがましいかもしれないけど、そう思った。
歩きながら、僕は夢のことについて彼女に話すべきかどうか迷っていた。夢に出てきた少女が君にそっくりなんだ、なんて言ったら普通の人は普通にドン引きするだろう。でも彼女には自分が思っていることを全部言いたいと思った。また、彼女なら受け止めてくれるような気もした。
「あのさ、僕、何回も見る夢があったんだよね」
「夢?……うん?」
「で、その夢にいつも同じ女の子が出てくるんだ。気持ち悪いこと言っているっていうのは分かっているのだけれど、その女の子、君に、渚ちゃんにそっくりなんだ。夢の中で顔は見えなかったし、なんの確証もないけど、さっき僕が倒れる前、風が吹いたときに、ああ、あの子は君だったのかもしれないって強く思った」
彼女は一瞬困ったような顔をした後、すぐに何かを思い出したように笑った。
「ふうん、だから私に初めて会ったときあんなこと聞いたのね」
「あんなこと……はっ、そういえば」
「和人くんって意外とロマンチストなんだね。あっ、作家とか向いてるかも」
そう言って彼女は最初に会った時と同じように目尻にしわを寄せて笑った。その笑顔を見て僕は心の内側が暖かくなった。作家か……。考えたこともなかったな。
「……僕、毎日不安なんだ。夢とか目標とか何にもなくて、周りに置いて行かれないように、自分も早く何か見つけなきゃ、っていつも焦って。僕はこのまま何もない人間になっちゃうのかな。……ちょっと怖い」
「君は何もない人間なんかじゃない!」
彼女は大きな瞳をまっすぐこちらに向けて言った。
「私、今日コンビニに来た和人くんを見た時、運命だって思ったの。……ふふ、私の方がよっぽどロマンチストみたいだね。和人くんは、和人くんだけのやさしさと温かさを持ってる。私、きっと一人じゃ家出なんてできなかった。一人ってみんなが思うよりずっと淋しくて、辛いものだと思うから。だから、ぜんぶ君のおかげだよ」
「そんな風に言われるとなんか照れるな……。でも、どうして僕だったの?偶然会ったとは言え、めったに話さないクラスメイトの男子なんか誘わないでしょ」
「うーんと、それはね、知ってたからだよ」
「え?何を?」
「和人くんが信用できる人だってこと。初めて教室で話した時、きっと優しい人なんだろうなって思った。ほらね、私の読みは外れてなかったでしょ?」
彼女のいたずらな笑顔が僕に向けられる。僕は世界で一番美しいものを見たような気持になった。いや、間違いなくあれは世界で一番だったのだ。僕は嬉しさと気恥ずかしさを隠すように、少し早歩きした。そして、彼女の一歩前で立ち止まった。
「あのさ、僕、帰ったら日記に書くよ、今日の僕たちのこと。渚ちゃんが強くなったこと、僕がちゃんと覚えておくから。だから、自信持ってほしい。明日、きっとうまくいくよ」
「……ありがとう。明日、絶対後悔しないようにするから。……日記かあ、それいいね。和人くんの書く文章、いつか読んでみたいな。なんてったってロマンチストな作家の卵だもんね」
「ねえ、からかってる?」
僕は笑いながら言う。
「ううん、本気だよ。私、和人くんはなにかを成し遂げる人だと思うな。今は夢とか目標とかないかもしれないけど、いつかそれが見つかった時、きっとそれに向かって真っすぐ頑張れる力を持っている人だと思うから」
彼女は確かに本気だった。僕はその時、何か大きなものに背中を押されてスタートを切ったような気持ちになった。今まで感じたことがないくらい胸がいっぱいになって、今すぐにでもこの気持ちを言葉に表したかった。
その日の夜、僕はずっと止まっていた日記帳を取り出して、今日の出来事含め今出せる自分のすべてをそこに書き出した。全部書き終わって読み返したら、自分でも気づいてなかった気持ちが分かって結構すっきりした。ポケットに入っていた花びらをもう一度取り出した。不思議なくらいに青いその花びらは、僕にこれから何をするのか教えてくれている気がした。僕はそれをそっと日記帳に挟んだ。
結局、あの夢は何だったのだろうか。予知夢のようなものだったのかもしれない。はっきりしたことはわからずじまいだが、今ではもうあの夢を見ない。ある意味、彼女が僕の夢に終止符を打ってくれたのかもしれない。
あれから数日後、僕は学校にいた。下駄箱で靴を履き替える時、スマホに一件のメッセージが届いた。彼女からだった。そこには彼女と彼女の母親と思われる女性が一緒に笑顔で写っている写真に『次は和人くんの番だね。応援してるよ!』という言葉が添えられていた。それを見て僕は決意を固めた。
僕たち二人だけの、ちっぽけで偉大な家出という名の冒険は、彼女だけでなく僕にもある種の勇気を与えたらしかった。あの日、僕は彼女の背中を押したつもりでいたけど、彼女もまた、僕の背中を押してくれていたのだ。今思い返せば、そのように感じられる。
結局、あの夢は何だったのだろうか。予知夢のようなものだったのかもしれない。はっきりしたことはわからずじまいだが、今ではもうあの夢を見ない。ある意味、彼女が僕の夢に終止符を打ってくれたのかもしれない。今の僕の夢は、あの夢の向日葵のようにまだ、青い。それでもいつか太陽に照らされて金色に輝けるように、今はただ前を向いて歩き続けるだけだ。
僕は職員室の前で一度深呼吸して、扉を開けた。左手に握った原稿用紙が少し汗を吸う。僕はまっすぐに歩いた。担任の南野が驚いた顔で目の前に立った僕を見ている。
「先生、僕、小説家になりたいです」
終
青い向日葵 向 @tameiki_com
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