第10話 サトミの悪夢
「......えーっと、さ、サトミ、さん?」
サトミちゃんの大噴火に、完全に腰が引けてしまった私は、思わず敬語で話しかけてしまう。サトミちゃんは顔をうずめたまま、「もぉおおおぅ」とうんざりした声を牛のように響かせた。
「なんなんですかぁヨーコさん、マジでがっかりなんですけどぉ」
「面目ないです......」
私が改めてしおしおになって答えると、サトミちゃんは顔を上げて真剣な表情を浮かべた。
「イイですかヨーコさん。そもそもヨーコさんは恋愛を甘く見過ぎています。恋愛って、簡単じゃないんです。恋愛を成就させるには、技術と能力が必要なんですよ」
それから私は、サトミちゃんからの説教交じりの恋愛講義を正座のままみっちりと受けることとなった。
いわく、最初のトキメキが長続きすることはないのだから、そこからどうやって発展、継続させるかが大人の恋愛である。なのにお前の無様な恋愛ゴッコはなんなんだ、と。一目惚れしてはしゃいだ挙句、ホントにしょうもないことで醒めやがって、お前は中学生か、と。
サトミちゃんの話を「ハイ、ハイ」と聞きながら、私はいったい何やってんだろうと、つくづく自分が嫌になってしまった。実際、サトミちゃんのいう通りなのである。年甲斐もなく浮かれて、あっという間に醒めて、みっともないなーホントに。
「ヨーコさん、ちゃんと聞いてます?」
サトミちゃんの話をろくに聞かず、ただただ自己嫌悪の沼にズブズブと潜り込んでいた私を、サトミちゃんがビシッと注意する。年下の女の子にもバカにされちゃって、ホントバカみたい。こんな思いするくらいなら、もう恋愛なんかどうでもいいや。
自分の心が再び、カチコチと固くなっていくのがわかる。でも、もしかしたらそれも悪くないのかもしれない。いっそこのまま凍り付いたら、何事にも感情が揺らぐことがなくなって、こんなみじめな思いをしなくて済むかもしれない――
「ぎゃーーーーー!!!」
突然サトミちゃんの野太い悲鳴が響いた。私がびっくりして顔を上げると、目と歯をひん剥いたサトミちゃんが、私の顔よりやや上を凝視したままフリーズしている。私が後ろを振り返ると、白いクロスが張られた部屋の壁に、栄養をたっぷり蓄えたと思われる巨大な黒い生き物が、ビタッと張り付いていた。
「ひっ!」
私が身をすくませると、その音に反応するように「カサカサ!」と黒い物体が素早く壁を昇る。その身の毛もよだつおぞましさに、私もサトミちゃんも、金縛りにあったように動けなくなってしまった。
そして、ヌメヌメと黒光りするその怪しい物体は、ふいに宙へと羽ばたいたかと思うと、不気味な羽音を立てながら、私の頭上を飛び越えて行き、サトミちゃんのおでこにビタっと、華麗な着陸を決めた。
「ぎゃああああーーーーー!!!」
先ほどと同じ、いや先ほどとは比較にならない絶叫が、部屋を飛び越え近隣一帯に響き渡った。
最初の悲鳴でゴキブリはどこかに行ってしまったのだが、半狂乱となったサトミちゃんは「取って! 取ってぇええ!」とのたうち回る。私はそんな彼女に向かって「もういない! もういないから!」と落ち着かせようと試みながら、しっかりエンガチョ扱いして距離を取る。ゾンビのように両手を突き出し「ヨーコさ~ん」と近づいてこようとするサトミちゃんから逃れるため、私はスマホスタンドやらバッグやらメイクボックスやらテレビのリモコンやら、手に取れるものは片っ端からひっくり返す。お互いこのままバターになってしまうのではと思うほどローテーブルの周りをぐるぐる回りながら、私は機を見てキッチンの方に抜けようと試みる。しかしその視線に気づいたらしいサトミちゃんは、追いかけるのをやめるとキッチンへの動線に立ち塞がった。こいつ、ゴキが潜むこの空間で、私を道連れにしようって魂胆だな!?
「ヨーコさ~ん」
「来ないで!」
オンオンと泣きながら悲痛に助けを求めるサトミちゃんを、私は我ながらヒドイ言いぐさで突き放す。と、騒ぎを聞きつけたらしい同じマンションの住人が、玄関のドアをドンドン叩き、インターホンも連打して「どうしました!? 大丈夫ですか!?」と叫ぶ。
「すみません! 全然大丈夫です!」
私は大声で返事をしたが、サトミちゃんの遠慮のない泣き声が事態をいっそうややこしくする。若い女性が住宅街に響く悲鳴をあげて大泣きしているそばで、「大丈夫です!」と必死に取り繕うとする人間ほど怪しい奴もいない。誰が通報したのか、そのうち遠くからはいよいよパトカーのサイレンも聞こえてくる始末である。もう、ただただひたすらの大混乱となったのだった。
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