第8話 興醒めの瞬間

 ほとんどスキップと変わらぬ浮かれ足となった私が、サトミちゃんの待つ階段までたどり着くと、サトミちゃんは私に再び力強いサムズアップを突き出した。


「完ぺきですよヨーコさん! 第一関門見事に突破です!」


「サトミちゃんのおかげだよ! なんなのアンタ、いつああいう小賢しい方法覚えるの!?」


 バックヤードの中に入ったヨシダさんに聞こえぬよう、私たちは声を潜めながら、それでもキャッキャと素晴らしい戦果を共に喜び合った。


「でも、美味しいカレー屋さんって、近所にあるのかな? サトミちゃん知ってる? スパイスカレーって全然わからないんだけど」


 私が正直に打ち明けると、サトミちゃんは堂々と「そんなのテキトーにネットで探して行っとけばいいでしょ」と言ってのけた。


「どこに行ったってたいして外れはないですよ、日本の飲食店はどこもレベル高いんだから。大体、ヨーコさんだって美味しいカレー屋を見つけることが目的じゃないでしょ? カレーはただの口実なんだから。だから心配するのはお店選びじゃなくて、次にどんなカードを切るかですよ!」


 さすがの恋愛ミストレスぶりを見せつけるサトミちゃんに、私は改めて感嘆した。恋愛とはかくも戦略的に進めなければ成就しないのか。そりゃ私に全然恋人できないわけである。私はぶつぶつと一人思案しているサトミちゃんに、次の一手を委ねることとした。


 台車に4つほどの大きな段ボールを載せたヨシダさんが、バックヤードの中からゆっくりと出て来るのが見えた。台車をある程度押し出すと、ドアを閉めるために廊下でいったん立ち止まった。


 そういえば、今日のヨシダさんの格好をちゃんと見るのは初めてな気がする。面と向かって会話していた時、私がヨシダさんの顔ばかり見ていたせいだ。青みがかったダーク系の、しっかりとした生地で仕立てられたスーツの袖元からは、パリッとアイロンのかかった白いワイシャツのカフスがちらりと見え、グレーのネクタイは自然なえくぼを作りながらきゅっと結ばれている。艶やかな黒のビジネスシューズも、おそらく高くはないのだろうけれど、日々の手入れが行き届いているのがはっきりと分かる。


 清潔感溢れるスタイルでピシッとスーツを着こなすヨシダさんは、スーツに着られている感が強い新入社員とも、やたらドレッシーなオラオラ系営業マンとも全然違う、ナチュラルな大人が持つ落ち着いた魅力を漂わせている。


 そう、清潔感なのだ。美意識の高さをアピールするキラキラしたタイプとは違う、自然体なんだけど、でも気を付けないと身につかないタイプの清潔感。髪も眉毛も爪も服も靴も、一つ一つを柔らかく、丁寧に積み上げないと、こういう雰囲気はまとうことはできない。こういう人を「いい男」って呼ぶのよ!


 スーツの内ポケットに手を伸ばし、すらりと伸びた指で薄手の革ケースを取り出すヨシダさんの優美な所作に、私の胸は否応なしにときめく。ケースにはポケットティッシュを入れているらしく、何枚かティッシュを取り出して鼻をかむその姿すら、いっそセクシーだと思ってしまう私は多分どうかしているのだろう。でも、恋ってきっとそういうものだよね。心が変になるって書くんだもの。


 改めて振り返るまでもなく、ものすごくおバカなトリップを決めていることに気づいた私は、さすがに恥ずかしくなって思わずニヤケながら下を向いてしまった。まったく何をやってんだ私は。


 ヨシダさんの咳払いが聞こえて、私はもう一度彼の方を見る。


 ヨシダさんは、ゆっくりと、少しだけ眉間にしわを寄せながら、鼻をかむ。一回ですべてを出し切ろうとして「ずずー!」と粗野な音を立てるオッサンにはできない、音すら感じさせぬ、余裕のある仕草。


 そうやって、優雅に鼻をかんだヨシダさんは、それからじっくりと、ティッシュの中身を確認したのだった。落ち着き払って、しげしげと。


 いや、見るなよ。


 鼻をかんだ後にティッシュを眺めるヨシダさんの姿に、私の小さな胸(Bカップ)の中で生まれ育まれてきたトキメキが、急速に萎えていった。


 まあそりゃね、鼻をかんだ後に中身を確認しちゃう人だっているだろうよ。私だって、覚えてないけど多分何度かやったと思う。でもね、今まさにこれからって時にね、好きな人の、特に「清潔感」をキーワードに好きになった人のふるまいとしては、見たくなかったのよ。っていうかまだムツカシイ顔してじっと見てるし。お前いつまで見てんだよ。


「ヨーコさん?」


 私の異変に気付いたのか、サトミちゃんが私に声をかけてきた。


「うん、まあ、いったんフロアに帰ろっか?」


 そう言って、私が階段をとぼとぼと昇り始めると、サトミちゃんも怪訝そうな顔をしながら、いっしょにオフィスに戻った。

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